おまけ:神も奇跡もある……んだよね?
日ノ本のとある場所に存在するぼろアパート、『高草荘』。
そこには現代の霊子力学では存在しないといわれる、とある存在が住んでいた。
「は~。ただいま~シン」
そんなアパートの二階にある角部屋201号室。
そこで胡坐をかいて座っていた青年――世界三大宗教の一つに数えられる真教の頂点にして、生前に人でありながら悟りを開くことにより、世界の真理へと到達した神《真教宗主》シン・アルダータは突如部屋の中に出現した少女の声に眼を開き、ゆったりとしたアルカイックスマイルを浮かべる。
そんな彼の眼前には、突如部屋の天井から差し込んだ七色の光に包まれながら、天使たちを伴い部屋の中に降臨する一人の少女の姿があった。
「おや、お帰りなさいイリス。久しぶりの里帰りはどうでしたか?」
「どうも何も、特に何もなかったわよ。こっちに帰る際はずいぶんと引き留められたけれど……人間が私たちを《神》と認識できなくなってからは、仕事もかなり減っちゃったしねぇ。やれることがない以上、実家――天界が荒れることもまたないわけで」
「いいことなのか、悪いことなのか。判断に困るところではありますね」
七色の光が収まると同時に床に着地した少女は、身にまとっていた体に巻きつけるようにして着用している真白な服を天使たちに預け、普段のジーパンにTシャツというだらしない恰好に変貌した。
そんな少女の姿に、服を預けられた天使たちは微妙な顔をしているのだが、今の彼女は休暇中。私服についてとやかく言われる筋合いはないと、少女は天使たちの視線を黙殺する。
そして、
「ところでシン?」
「はい?」
「あなた……今回はいったい何日食べてないの?」
「イリスがいる間は心配するから、断食の苦行はできないですからね。イリスがいなくなってから即はじめましたが?」
「それって……一か月間何も食べてないじゃないのぉおおおおおおおおおおおお!! あなたはホントにもうっ!! 私の心臓を何度潰せば気が済むのぉおおおおおお!!」
骨と皮だけになった、ルームシェアをしている青年の言葉に、少女は怒号を上げながら、天界土産の《ラブアンドピース鳩サブレー》を、青年の口の中に叩き込む。
少女を送り届けると業務を終え、展開に戻っていく天使たちはそっとため息をつきながら内心でこんなことを考えた。
――知ってるか? あれ世界三大宗教の一つである《イリス教》の主神様なんだぜ? と。
◆ ◆
休暇の続きを満喫するために、再び下界に降臨したイリス教主神の少女――イリス・救世主は、人類の救済の前にまずは隣人の餓死を防ぐために近所のスーパーに直行。小さな体で四苦八苦しながら大量の食糧を部屋の中へと運び込み、シンのために料理を作ってはその口の中に押し込むという行為を続けることになった。
「あの、イリス。そんなに急いで詰め込まれると消化が……」
「やかましい。文句があるなら定期的に食糧食らいとりなさい! この体は下界の人間と全く同じものを霊力で作り上げて、私たちの魂の入れ物としているのですから、餓死もすれば他殺されることもあるんですよっ!」
――まぁ、と言っても神の権能である《奇跡》の力が振るえないわけではないし、死んだとしても天界に帰るだけなので、再ど同じ方法で下界にこようと思えばできないわけではないのですが……。と、昔の天界離れの時代に比べると、ずいぶんとましになった現状を思い描きながら、イリスは自分の体を見下ろしてみる。
十二歳程度の体つきのまま固定されてしまっている、つるぺたな自分の体を……。
「くっ。奇跡の使用が許容されるよりも前に、私の身体構造を変えていいようにしてほしかった……」
「イリス。諦めも悟りを得るためには重要なものです。神の時ですらできなかったことを望むのは、いい加減やめなさい」
「やかましい。黙って食え」
自身のコンプレックスを情け容赦なく指摘し、すべてを受け入れるのです。と、もっともらしいことを言ってくるシンに、イリスはいばらの冠と、波打った金髪に隠された額に大きな青筋を浮かべながら、おかゆが乗ったスプーンをシンの口へと突っ込んだ。
「もう。もぐもぐ。仮にも慈悲と救済の神であるあなたが、もぐもぐ、そんな調子でどうしますか? もぐもぐ。天界にいる大天使の方々も、もぐもぐ、さぞお嘆きになられていることでしょう、もぐもぐ」
「喋るか食べるかどちらかにしたらどう、シン。あと大天使はむしろ私にもっと厳しくするべきだと思うけどね。今回も散々甘やかされてきましたよ、えぇ。さながら親戚の集まりに呼ばれた幼女のごとく」
「おやおや。それで帰宅早々機嫌が悪かったのですね」
――八つ当たりは良くありませんよ~。あなたが歳相応な、大人の女性に対する対応を求めていたことは理解していますが。と、まるで自身の内面を見抜いているかのような言葉を発するシンを黙らせるため、イリスは再びスプーンでおかゆをすくい、間髪入れずに真の口へと突っ込んだ。
そんなイリスの不機嫌そうな態度に、シンは苦笑いを浮かべながら、断食中は迷走していたためあまり見ていなかったテレビをつけてみる。
こうして彼らが下界でバカンスを楽しんでいる間にも、凄惨な事件は起こっている。
いくら人々の《神がいない》という信仰によって、下界に神の力を届けられないからと言って……神の身では人々の救済がかなわなくなったからと言って、人々の不幸から目をそらすことは人類救済を教義とする宗教神としてできないのだ。
そんなわけでテレビのチャンネルをニュースに合わせたシンは、そこで妙なニュースを発見した。
「ん? 《新聖女誕生! ロマウス法皇直々に来日し、聖人認定証を発行!》。この時代に聖人が生まれるとは、珍しいですね?」
《聖人》とは、イリス教の最高権力が認めた《イリスから大いなる祝福を受けた人物》に与えられる称号である。その中でも女性は《聖女》と呼称され、死後は確実にイリスのもとへと送られ、彼女の手伝いをする地位を得ることができる――日ノ本で言うところの、《神になる》ことが約束された称号なのだ。
とはいえ、いまのご時世は科学的に『神がいない』と、証明されてしまった……ということになっているため、イリス教の総本山である《聖教都市国家ロマリウス》も、聖人・聖女認定は近代に入ってからほとんどしていない。シンがざっと記憶をあさってみても、最後に聖人認定された人物がいたのは200年ほど前に一人いたくらいであった。
――これはとんでもない快挙ですね。と、シンが驚いていると、同じようにテレビを見ていたイリスが、
「あ、あの娘。もう聖人認定されたの? レスポンス早いわね今代法皇……。てっきり仕事なんてしていないものだと思っていたのだけれど」
「……ナニカしたんですか?」
明らかに、テレビの向こう側で困惑している様子を見せる少女――刑部まりなという女の子を見て、感心した様子を見せるイリスにシンは思わず半眼になった。
現代では神々の下界への干渉はほぼ不可能だと言っていい。相当無理をすれば、できるという話も聞くが、それだって成功率はあまり高くはなく、神自身も何らかの代償を支払わなければならない。
たとえば、神霊そのものの命と言っても過言ではない、霊格・自身の肉多を構成する霊力などを……。
ある神は自身の右腕をささげて何とか下界に力を通した聞く。まさかとは思うが、イリスもそれと似たようなまねを? と、シンはイリスの体を心配しているのだ。
「そんな顔しないでよ、シン。そんな大げさなことしていないから。ちょっと私の権能を、神聖術の術式にして、あの子が願えば発動するように細工して与えてあげただけだから」
「あぁ、それなら確かにそんな無理をしなくても、神の加護を与えることができますね」
もとよりこの時代の神の定義は《神話をベースにした術式を貯蔵する術式サーバー》だ。それゆえに神々本人が自身の意志で放つ《権能》《奇跡》の類はほぼ使えないが、自身の権能を術式にして敬虔な信者に与えることは、現代の理論的には十分可能なのだ。
「それにしても、いったい何の術式を与えたらあんな普通そうな少女が聖人認定を受けるほどになるんです?」
「普通そうって……いまどき珍しいくらい私の教えを守ってくれている、敬虔な信徒なのよ」
あんまり失礼なこと言わないで。と、イリスは真の言葉に憤りながら、テレビのリポーターにいろいろな質問を受け、アワアワ言いながらなんとか答えを返しているまりなに苦笑いを浮かべる。
「なに、本当にちょっとした術式なんですよ? 私が死んだときに、十二使徒のことが不安で与えた加護を術式化したもので……」
「十二使徒の加護というと……あぁ《教説の加護》ですか。なるほど、確かにあの加護を術式化したとなると、聖人認定も当然ですかね」
――あの加護は、他宗教から見れば天敵以外の何物でもありませんし。神はそう言った後、
「ん? それ結構不味くありませんか? あれは『イリスの教えを人の心に直接教え込み、改宗させる』というものでしょう。下手をしたらロマウスがまたよからぬ陰謀をたくらむのでは?」
「ちょっと、私の『宣教の奇跡』をたちの悪い洗脳術式みたいに言うのはやめてよ。あくまで自発的改宗を促すためにしか使っていないからね? それに、今回与えたのはあくまで『悪人の改心』を目的としたもの。人の罪悪感を媒介にしたものだから、宣教による宗教的信仰変化には使えないわよ」
「というと?」
「たとえば今回あの子がかかわった事件には二人の悪党がいたわけなんだけど、そいつらはちゃんと『自分は悪いことをしている』という自覚を持っていたわ。そして、そういった認識をしている人間は、たいてい『こんなことをしてはいけない』っていう気持ちを心のどこかで持っているわけ。ここまでは良いわね?」
「あなた風に言うならば『原罪』に含まれる苦悩ですよね。真教風にいうならば『この世の苦』ですよね。いわゆる罪悪感と呼ばれる最悪の苦悩の一つ。人の欲望が引き起こしてしまう可能性がある罪に対する、自己罰」
――嘆かわしいことです。悟りさえすれば、そのような苦悩を抱かずに済むのに。と、シンは悲しげに目を伏せながら、ひとりでも多くの人間が悟れるようにと深く祈りをささげる。
そんなシンをしり目に、イリスは空になったおかゆの器を流しに放り込み、新しい料理を作り始めた。
料理を作るのも随分久し振りな彼女。普段は体格的にキッチンに立つのがつらくないシンが料理をしているので、腕を振るう機会はあまりなかったが、これでも西暦が始まったころより生きる大神格だ。料理を練習する機会はいくらでもあったし、とある神に惚れてからは花嫁修業として本格的に料理を学んだ経験もある。
――台座さえあれば、わたしだってシンに負けない程度の料理は作れるんだから。見てなさいよっ! と、だれに聞かせるわけでもない宣戦布告をしながら、イリスは鼻歌交じりに料理を続ける。
元々ガリガリになるまで断食をしていたせいか、シンの栄養吸収率が非常に高い。まるで水を吸ったスポンジのように料理を消化し、その体が徐々に一般的なものに近づいていく。
それにひとまず安どの息をつきながら、まだアバラが浮いているとイリスは新しい料理を作りつつ、この後どの料理を作るか頭を巡らせる。
ここまで急激に栄養を吸収したら、逆に体に悪いのではと思わなくもなかったが、所詮は下界で暮らすための仮初の体なので、それに関しては無視しておく。
一応神様だし、過剰栄養摂取で死んだりはしないだろうと……。
「何やら私の命が軽く扱われた気がするのですが?」
「気のせいよ。で、今回私が与えた《教説》の術式は、その《罪悪感》を本人の心の中で明確なものにし、弟子たちが聖書にしるした私の言葉を教え解くことによって、改心させるというもの。洗脳術式とは似て非なる、悪人を改心させることに特化した非常に世のため人のためになる術式なのですよ!」
何やら胸を張ってそんな主張を繰り広げるイリスに、なるほどなるほどと、シンは頷きながら、
「でもそれ、あくまで現状の術式では悪用できないというだけであって、本格的に研究されて術式を変えられたら、洗脳にも使える術式に変わらないですか? ロマウスとかそのあたりの《都合のいい神聖術の解釈改変》が結構得意だと言いますし」
「ははは、何を言っているのシン。そんなことをする奴がいたら……私が直々に説教に行くにきまっているじゃない」
――なるほど。本家本元が説教に行ったら、それはそれは敬虔な信徒さんになるんでしょうね。と、ククク不気味に笑うイリスに、シンはそう言うしかなかった。
《宗教戦争》やら《魔女狩り》やら、何かと信者に裏切られる機会が多かったイリス。そういった、悪行を進んでやる自分の信徒にはいろいろ思うところがあるのか、その目は完全に笑っていなかった。
――今後は、できるだけ彼女の逆鱗に触れる人物が出ないように祈っておきますか……。と、シンがそんなことを考えていた時だった。
「はい、シン。ごはんで来たわよ。もうそろそろ消化不良も治っただろうから、今度は鶏肉各種と卵の親子丼……」
「あ、スイマセン。私生きものは食せないので、できれば精進系の料理にかえてもらえます?」
「……………………」
シレッとシンが言い放ったその言葉に、手間暇かけて作り上げた親子丼を持ってきたイリスは数秒ほど固まり、
「それを先にいいえぇええええええええ!!」
ブチギレたイリスの怒号に、シンが最初に考えたことは、
普段から料理を私に任せているから、私が肉を口にしないように気づかないんですよ。という愚痴でも、
最近ちょっと短気すぎますよ? 毎日牛乳飲んで無駄な抵抗をしているのに、全然カルシウムが足りてないじゃないですか。まずは、リラックスですよリラックス。という諭す言葉でもなく、
「あぁ、先に逆鱗に触れたのはわたしでしたね……」
と考えながら、投げ捨てられた親子丼を素早く空中キャッチしたシンは、部屋の隅からかさかさと出てきた黒い脂ぎった虫にそれを差し出す。
それは台所に現れては、人間を恐怖のどん底に突き落とす、俊敏なあの病原菌の塊……
「さぁおたべ。ともにわが部屋で過ごすものよ」
「あんた、それを飼うのはやめろって前から言ってんでしょうがぁああああ!! というか、私が手間暇かけて作った料理をGの餌にしてんじゃないわよっ!?」
「なにを! 同じ命ではありませんかっ!! 他では生きづらいからと私を縋ってきてくれたのです。見捨てることなどできません!」
ギャーギャー喚きあう聖人二人の怒号が、ぼろアパートの壁を貫通して高草量全体に響き渡る。
そして、その喧嘩は彼らの真下に住んでいる大家兼日ノ本最高の宝石神が、
「うるせぇえええええええええ! 休日ぐらい静かにしろこのバカたれどもぉおおおお!!」
そんな怒号を上げて、奥さんと一緒に殴り込みに来るまで続いたという……。
◆ ◆
ちなみにその十数年後。ひょんなことからイリスにあってしまったまりなはその光景を見て、
「あ、あれ? い、イリス様? な、なんか思ってたのとちが……」
「諦めろ。神様ってのはだいたいこんな感じだ……」
ベオウルフとそんな会話を交わすことになるのだが、それは知らない方がいい事実であっただろう。




