神のいないこの世界で
『怪物が潜む沼地についた騎士フェイルズは、あまりに不気味過ぎる沼の様子に涙を流しながらベオウルフに剣を投げつけた。
「こ、こんなところにいられるかっ!! 怪物退治なんて馬鹿げたまねっ!! お前たち二人だけでやれっ!!」
そういって脱兎のごとく逃げ出すフェイルズに、唖然とするベオウルフと彼の従者ウィラーフ。
だが、ベオウルフは投げつけられた剣を黙って拾いあげる。
「よろしいのですか? あのような腰抜け男の剣など使って怪物退治など……」
「彼とて、本来は勇敢な騎士の一人だ。怪物退治という今まで経験したことのない戦いに、ほんの少しおびえただけなのだ」
「ですが……」
「それに、剣に罪はない」
そういってベオウルフは、自身の手に握られた魔剣を掲げる。
「来られなかった主の代わりに戦いたいと、この剣が言っているのだ。連れて行ってやらねば、騎士の名が廃るだろう?」
そういって笑ったベオウルフの手の中で、血をまとった魔剣が紅の輝きを放った。
このときに、魔剣フルンティングはベオウルフを持ち主として認めたのだ。
魔力を宿した血装の剣は、ようやく主たりえる存在を見つけることができたのだ。』
語り部レイヴィアが記す、『ベオウルフ叙事詩』より抜粋。
「ブランシュタウナー家がそんなことを……」
アルトリウスから一通りの事情を聴いたまりなは、世界有数の降霊魔術師一族が抱えていたとんでもない秘密に、顔を青ざめさせていた。
英雄霊の虐待・奴隷化。これが事実だとしたら大変なことになる。アルトリウスなんて有名人の英雄霊にそんなことをしていたとなると、国際問題になることは確実だ。すくなくとも、彼の故国であるブルティングが激怒することは確実だろう。
ブランシュタウナー家も社会的・物理的に潰されるだろうが、話を聞く限りあちらは無数の英雄霊を抱えて奴隷化している可能性すらある。そうなれば、日ノ本はシャレや冗談ではなく戦場になる。
第二次世界大戦以降、もろもろの事情で国際社会から軍隊を持つことを禁じられた日ノ本が無数の英雄霊相手にどの程度被害を抑えられるのか……。
――町一つが焦土になるかもしれないですぅ。と割と不穏なことを考えながら、まりなは周囲を見回した。
「あ、あの……ところで」
「なんだ?」
「い、一騎打ちの前にわたしたち死にませんかね?」
「心配するな。大した敵ではない」
草原にてベオウルフたちを待っているアルトリウスは、ダラダラ冷や汗を流しているまりなの問いかけに、半眼になりながら周囲を見回す。
現在アルトリウスたちの周囲には、体毛の代わりに鱗を纏った不気味な狼たちが、どう猛な唸り声をあげて輪を作っていた。
守護者――スケイルウルフ。そう呼ばれるこの狼たちは、単体ではたいした強さを持っていないが、一度群れると人間すら上回る高度な連携と、狼特有の俊敏さを生かした、連続波状攻撃を仕掛けてくる厄介な守護者だ。
数が増えるとまさしく軍隊のような規則正しい行動をとり、初めて神階迷宮に入り込んだ人々に対して、戦争をするかのような頭数を集めて襲い掛かり、迷宮調査隊を半壊させた事件はあまりに有名である。
現在アルトリウスの脅威度を本能的に感じ取ったと思われる彼らは、その時と同じ……いや、それ以上の数の仲間を集めて草原に居座るアルトリウスに戦いを挑もうとしていた。
だが、
「うせろ、野良犬共。貴様らの相手をしてやっている気分ではない」
アルトリウスは腰かけている岩から立ち上がる様子も見せず、片手で器用に構えた聖剣を、
「《敗北切り裂く栄光の剣》」
掌の上で回して一回転。それによって剣先から放たれた黄金の斬撃が、津波のように草原をなぎはらい、アルトリウスたちを包囲していたスケイルウルフたちを跡形もなく消し飛ばした。
ふたたび静寂に満ちるあたりに、今度は違う意味で冷や汗を流し始めたまりな。
そんな周囲の様子に、アルトリウスが鼻を一つ鳴らし。
「言った通りだろう?」
「そ、そうみたいですぅ……。流石は名高き聖剣の王。伊達に侵略者から自らの国を守りきったわけではないんですね」
「あたりまえだ。防衛戦は生前死ぬほどやったからな。あの程度の俄か軍隊など、薙ぎ払うことは造作もない」
「そうですか……」
まりなはそう言って胸を張るアルトリウスをもう一度観察した。
片腕を失い、一見満身創痍に見えるアルトリウス。だが、その体はからは突き刺さらんばかりの覇気と、清澄な闘志が感じられた。これからやってくるであろうベオウルフたちと戦う準備をしているのだろう。その立ち姿はとても堂々としていて、騎士の中の騎士と謳われるのも納得な立ち居振る舞いだった。
少なくとも、人質の少女を足元に転がしていているような、そんな下衆な人物にはどうしても見えなかった。だから、まりなはつい自分の立場を忘れて、
「アルトリウスさん……」
「ん?」
気安くアルトリウスに話しかけてしまう。
しまった!? と、思い慌ててアルトリウスの様子をうかがうが、あちらは心にたまっていた憎しみのヘドロを、まりなに事情説明することである程度払しょくできたのか、今は比較的おとなしい態度になっていた。
まりなの気安い言葉遣いにも、特に目くじらを立てた様子はない。
だったらと、まりなはそのまま言葉を続けた。
「もっと、他にやりようはなかったんですか? 確かに今回の一件は大きな問題でしたけど、警察に訴えるなりなんなりすれば、契約解除の魔術師がきちんと政府から送られたはずです。あなたたち英雄霊の人権は、国際条例上でもきちんと守られているのですから」
「うむ。知っている。召喚される前にそのあたりの知識もきちんと《世界》から授かっているさ」
英雄霊の人権保護は、とある英雄霊が怨霊となり、町一つを消し飛ばした事件以降叫ばれるようになったものだ。
今では英雄霊には一般人と変わらぬ人権が保障されており、万一望まぬ相手と契約を結んだというのならば、政府が責任をもってその契約を解除するよう取り決めが国連でなされているのだ。
「だがそれではだめだ」
「なぜなんです!」
「落とし前が付けられない。我をここまで虚仮にした奴らに対する落とし前だ」
「ブランシュタウナー家は確実に解体されますし、一族の皆さんもきちんと刑務所に入るはずです。それが落とし前ではだめなんですか?」
「ダメだな」
離している間に、憎しみがぶり返してきたのか見る見るうちにアルトリウスの声が硬質になっていく。
不穏な空気を放ち始めたアルトリウスに、まりなはびくびくと震えながら、それでも彼女はアルトリウスの説得を試みた。
捕まった時はただただ不思議だった。話を聞いた後は単純に興味本位だった。でも、考えがまとまった今は、
「あなたは、間違っています」
アルトリウスが間違っていると、まりなは確信を持ったからだ。間違えて、道を外れようとする人物がいるのならば、それを導きただしい道へと戻すのが聖職者の役目。
シスターになることを目指しているまりなにとって、今のアルトリウスは看過できなかった。
「なぜ?」
「主はおっしゃられました『復讐はあなたがすべきではない。復讐は私がしよう』。主は我々を必ず見守っておられます。そして我々に降りかかる理不尽に必ず涙し、憤ってくださいます。そして我等に復讐という……憎しみを覚えるという罪を抱かせないために、主は必ず代わりに復讐を成してくださいます。その恩に報いるためにも、我等はけしって憎しみにとらわれ、誰かを殺そうなどと考えてはならないのです」
「……敬虔な信徒ならではの言葉だな。だが、お前たちの《科学》とやらが言うには、その《主》――神という存在は、実在しないのであろう?」
「っ! そ、それは……」
「《霊子力学》だったか? その学問では確か『有史以来、神の恩寵と言われていた魔術・神聖術の類は決して神という天上に住まう強大な存在から与えられた施しではない。自身に宿る魔力を代償に、《神話》というシステムによって形作られた、《神》という名の術式サーバーから、術式をダウンロードすることによって発動する、きわめてシステマティックな、人類の手によって作り出された霊力制御技術なのである』と言われているのだろう? 魔術が呼吸するようにあたりまえに存在していて、神々なんて連中もひょっこり顔を出す時代に生きていた我からすれば、いまいち実感にかける理論だが……少なくともこの時代に神はいない。それは我にもわかる。ならば……お前が言うその主とやらは、いつになったら私の代わりにあの屑どもに復讐してくれるというのだ?」
「そ、それは……」
「そんなことは起こりえない。それは今まで学校で蔑まれていたお前が一番よく知っているはずだ。術式構築速度の遅さに加え、神聖術式の根幹――《強化加護》の適性がないゆえに、落ちこぼれと学生たちに蔑まれ続けた《落ちこぼれシスター》よ」
「――っ!」
アルトリウスに告げられたその呼び名に、まりなは思わず唇をかみしめた。
そう。まりなが目指すイリス教シスターには、習得が必須といわれる魔術が存在する。
《強化加護》。イリス教勃興の時代より、イリス教を支え続けた『自身・または他者を強化する神の加護』を操る術式だ。
イリス教の神父やシスターはこれを使い様々な奇跡を起こしてきた。
人並み外れた身体能力を自身に与え、悪竜と戦い、
他者の回復力を底上げし、病を癒し、
神とのつながりを強化し、その恩寵を人々に与え続けた。
だが、まりなにはその魔術を使う適正がなかった。
魔力量も低く、才能もない。家は魔術の名家でもなければ、何か特別なスキルを持っているわけでもない。才能のない《強化加護》にすがったところでその恩恵は微々たるものでしかなく、その結果があの授業での醜態だ。
そんなまりなの姿を、周りの学生たちはただ嘲笑うだけだった。
――身の程知らずの愚か者。
――田舎出身の世間知らず。
――才能も資質も少ないくせに、いったい何になるつもりだ? と。
そんな彼らの心無い言葉に、まりなが一度も傷付いたことがないかといわれるとウソになる。いや、それどころかその陰口の主犯であったシンドーを心配してしまうまりなは、人一倍に気遣いができて……そして感受性の強い娘であった。
人の嘲りといったマイナス面の感情の発露は、彼女の敏感な心には耐えがたく、彼女の心はいつもボロボロであった。
だが、彼女をそんな目に合わせた連中に、神からの復讐が――天罰が下ったことなど一度たりともなかった。
まりなはただ黙って人々の悪意に耐えるしかなく、ベオウルフが来るまでは、ずっと一人で……生徒たちの悪意の刃を、受け止め続けることしかできなかった。
「この世界に神はいない。神の復讐など起こらない。ならばもう……自分たちで復讐を成すしかないだろうが!!」
「……それでも、私は」
何かに迷い、だがそれでもアルトリウスは止めなければと、まりなが口を開いたときだった。
「ん? ふん。ようやくお出ましか」
「え?」
誰もいない森の奥を眺めて、アルトリウスがそんなつぶやきを漏らした時、
『英雄器――《殺戮の丘》』
どこからともなく聞こえてきた平坦な声と同時に、見渡す限りの草原だった大地が、瞬く間に吹雪に閉ざされた真っ白な丘陵地へと姿を変えた。
「こ、これはっ!?」
「結界型の英雄器か。我を閉じ込めて逃げてしまったほかの生徒に被害が出ないよう配慮したのだろう。この細かい気づかいはあの大雑把なベオウルフの仕業ではない。だとすると奴め……予想通りあの女軍人に援護を」
アルトリウスがブツブツと考察をしていた時、彼の側頭部に音速をこえた鉛玉が飛来した!
実際にあった怪物退治直前の出来事
投げ捨てられた魔剣を見たベオウルフは、まるで地面に落ちた金を見つけたがごとく俊敏な動きで、速攻で剣を拾い上げた。
「ひゃっほー! あのばか、とうとう魔剣手放しやがった!!」
「あの、ベオウルフ様。それ単純に投げ捨てただけであって、あなたに渡したわけではないかと……」
「はぁ!? 知らねェよそんなこと。剣捨てるなんて騎士の風上にも置けんマネしやがったんだ。剣パクられても文句なんて言えねェよ!」
「万一訴えられたらどうするつもりです?」
「領主様に『あいつ怪物退治直前にビビって逃げましたよ?』をチクる。そうすりゃあいつの首は物理的に飛ぶだろうから、訴えるなんてできねェはず……ん? どうした? そんな従者登用のチラシなんか眺めて?」
「いえ、新しい転職先探そうかと」
この主本当にクズだな。とウィラーフは思いつつ、もし彼が歴史に名前を残すようだったら、偽名つかってでも自分は無関係だったと主張しよう。と、心に固く誓うのだった。