エーデルワイス〜尊い記憶〜
璃夜には兄が一人いた。
その名前は、璃久。
容姿端麗、頭脳明晰、おまけに優しい。
まさに欠落のない、完璧な存在だった。
渡の家は、そこそこ大きな財閥だった。
璃久は、そこを継ぐことになっていた。
ただ、璃夜は…
無自覚の容姿端麗ではあるが、勉強も運動もまるで駄目だった。
更に表情に乏しく、人と接するのが大の苦手だった。
そんな彼女を、両親は憂さ晴らしの道具として扱った。
自分の部屋に監禁され、暴力の嵐に耐え続ける毎日。
そんな生活でも、癒しはあった。
璃久だ。
璃久は両親の目を盗み、璃夜に逢いに行った。
碌な食べ物も与えられない璃夜に、自分の分を与えていた。
泣きじゃくる璃夜の頭を、黙って撫でていた。
もう死にたいという璃夜の体を、優しく抱き締めた。
「僕には、これしか出来ないから」
そう淋しく微笑む璃久。
「ううん、充分だよ。ありがとう、お兄ちゃん」
璃夜は、兄が大好きだった。
頭を撫でる優しい手も、自分を気遣う哀しげな声も、全て。
頰に殴られた跡を付けて来た時は、璃夜は悲鳴を挙げそうになった。
「テスト、白紙で出して0点取ったんだ」
心配する妹に、大丈夫だよと笑いかける。
“僕にはこれしか出来ないから”
いつも、璃久はそう言って微笑んだ。
妹を抱き締めて慰めることしか出来ない自分を、いつしか兄は責めていた。
“何故、僕には力が無いんだ。璃夜を、泣かせることしか出来ない”
璃久は妹にバレぬよう、密かに涙した。
ある日のこと。璃夜は、いつも通り暴力を振るわれていた。
でもいつもと違ったのは、母親が血走った目で、包丁を握っていたこと。
殺される、と璃夜は目を瞑った。
しかし次の瞬間に感じたのは、痛みではなく生温かい液体の感触。
目を開くと、倒れた璃久が見えた。
「兄様っ!?兄、様…」
口を懸命に開き、璃久は璃夜に伝えた。
その鼓動が消えているのを確認すると、璃夜は璃久に刺さった包丁を抜き、一息に母親を殺した。
父親も、使用人も、皆殺しにした。
「兄様っ、兄様ぁぁぁぁ!!、」
璃夜は泣き崩れた。
喉が裂ける程叫んだ。
その時だ。
電話が鳴った。
徐にその受話器を取ると、「やあ」と声がした。
「小鳥遊だけど…って、あれ?」
男性の、陽気な声。
震える声で、応答する。
「渡、です。もう、殺しちゃったんで、私以外はいません、よ」
途切れながらも言った。
何故言ったのか。その質問に答えるなら、《その時の璃夜の精神状態が異常だった》としか言えない。
「ほぅ、間違い電話だったようだ。でも、いいことを聞いた。君、殺し屋にならないかい?そしたら、警察に捕まらなくて済む」
璃久の言葉がフラッシュバックする。
【生きて、璃夜】
璃久の最期の言葉。
「お願い、します。殺し屋をさせてください」
その後に璃夜は、黒猫として名を馳せることになる。
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「と、まあこんな感じよ」
「割と衝撃なんだけど」
黒瑠はそう言って開いた目を戻した。
「殺す、以外の、選択肢が…無かった、だけ…」
ノアは、悲しみの色を含んだ目で璃夜を見た。
「君は、何を思って、生きてる、の?…辛く、ないの?」
璃夜は、淡々と冷めた口調で答えた。
「辛いわ、当たり前でしょ」
何処までも深く暗い、漆黒の瞳。
「少なくとも私は、今もなお苦しいんだと思う。でもね、殺し屋を辞めたら、私の存在意義が無くなるの。辞める気は毛頭ない」
「存在、意義…」
黒瑠だけは、璃夜に同情を抱いていなかった。
「へえ。“生きる=殺す”ってこと?おー、怖っ!」
ヘラヘラと、薄っぺらい笑みを貼り付けたまま。
でも、璃夜にとってはそれで良かった。
そのくらいの扱いが、心地良かった。
「私としては貴方の方が怖いわよ、便利屋」
暗い話をした後とは思えない程、二人の会話は冷めていた。
側から見れば、基本無表情なノアも含めて微笑ましくしか見えないだろう。
「ていうか帰して」
「メリー、だっけ。璃夜と住んでるルシアって奴の妹。そいつを殺ったんだってねぇ」
はあ、と璃夜は溜息を吐いた。
帰れなかったら、ルシアさん心配するかな、なんて簡単に考えながら。
でも不思議と、そこまで強く帰りたいとは思っていなかった。
「で?」
「ちょっとお喋りしよ、三人で」
ニコリ、と黒瑠。
ゾクリ、と璃夜。
「先ずさ、“ルシアを恋愛対象として見てはいけないと思ってる”って、どういうこと?」
「ん…僕も、気になる…」
「…あの人、ちょっと変わってるのよ。わざとらしいのよ。まあ、気のせいと言われてしまえばそれまでだけど。よくよく考えて漸く辿り着いたことだし。そう思うと…ちょっと苦手なのよね」
ルシアは、不安定だ。それが璃夜の結論だった。
悪い人──例えば黒瑠──にかかれば、簡単に騙されてしまう。
いいように利用されてしまう。
わざと、分かっていながら利用される。
そんな人。
「ふぅん…ていうかルシアなんて人、闇社会では聞いたことないなぁ。情報通のこの僕が」
「うわ、偉そ」
口をついて本音が出た。璃夜は別段気にしなかったが。
「僕も、聞いたこと、ない」
ノアは通常運転だ。
「ていうか拘束を解いて」
「逃げないって約束して。てか逃げたら妹殺しをバラす」
仕方なく頷いて、約束する。
ノアが慣れた手つきで拘束を解いた。
「やけに慣れてるわね」
「探偵の、仕事。人質を…助け、ることが、沢山あった…から」
「あ、そう」
素っ気なく返す璃夜に気分を害された風も無く、ノアは近くの椅子に腰かけた。
「やけに従順な仔猫ちゃんだね?璃夜」
黒瑠は、嫌いだ。璃夜に取っては嫌いという感情しか抱いてない相手。
「そのよく回る舌を切ってあげましょうか?」
「前言撤回」
降参だ、と黒瑠は両手を挙げた。
「でも武器はまだ返さないよ?信用しきってないのでね」
璃夜は、それもそうかと割り切った。
「ルシアのこと、変わってるなんていってたけど、僕に言わせれば君も変わってるよ?黒猫ちゃん」
「そう?」
手首を少し摩りながら相槌を打つ。
まだ少し跡が残っている。
すぐに消えるだろう。
癒えない傷は、既に心にあるのだから。
紅い血が見たくなった。
出来るだけ早めに次の仕事をしよう。
璃夜はそう決めたが、このままではそれも何時になるか、という状況だ。
黒瑠は笑わない璃夜を見て、ちょっとだけ笑顔を見てみたいなんて思った。