倉庫に漂う硝煙の香り
硝煙の匂いが立ち込める倉庫。
少女は一人、佇んでいた。
少女の名は、璃夜。
拳銃を手に、頭から血を流す男を冷たく見据えて、
「ふぅ…」
璃夜は溜息をつく。
爪先で、男の頭を軽く蹴った。
艶やかな黒髪を、慣れた仕草で払いのける。
「私に敵うと思ったのかしら」
死体となった男に、そう告げた。
その表情は、少しも変わらず冷たかった。笑いもせず、悲しみもしない。
ゆっくりと瞬きしてから、璃夜は倉庫を後にした。
外は暗闇。
暗闇の中を黒猫のように、璃夜は駆けていった。
硝煙は、暫くその場に留まってから消え去った。
残ったのは静寂。それと、血の色だった。
『───市の倉庫で今日、身元不明の男性の遺体が見つかりました。遺体は死後約三日が経過しており、警察は殺人事件として調査を進めています。また────』
ニュースはこの話題で持ち切り。
何せ証拠が一つも出ず、遺体の身元も分からない。
その事件の犯人である璃夜は、変わることのない表情で、ニュースを見ていた。
このご時世、殺人事件は珍しくない。
だが、大抵はすぐに犯人が捕まってしまうのだ。
日本の警察は優秀だ、と思い知らされる。
「こんなに騒ぎになるとは、ね」
璃夜は、眠そうな瞳で、テレビを消した。
その声は、少し鬱だ。
璃夜の携帯から、メヌエットのメロディーが流れた。
電話だ。
表示された番号は、何処か聞き覚えのあるような…?
「はい、どちら様?」
「黒猫ちゃん、お仕事お疲れ様。報酬は君の言った通りの口座に、振り込んでおいたよ」
今回の仕事の依頼人。名前は確か、小鳥遊氏。
黒猫は、殺し屋としての璃夜の名前だ。
璃夜は、殺し屋だった。
「どうも。ではこれで」
早々に電話を切ろうとする璃夜。
「ち、ちょっと!まだ話があるんだよ!」
はぁ、と溜息を吐いて、要件を伺う。
「君に仕事があるそうなんだ。僕の知人から」
仕事。殺しの仕事。
別に璃夜は、殺人が好きな訳では無かった。
当時14歳だった少女には、これしか出来なかったのだ。
人を殺すだけの、簡単な仕事。
殺人は生きる為。殺さなきゃ、今は16歳の璃夜は生きれない。
黒猫という殺し屋になってから、もう2年経つ。
その間に、黒猫の名はその殺し屋としての腕前と共に、有名になった。
最初に殺した人?そんなの、覚えていない。罪悪感も、自己嫌悪もない。
殺人に躊躇がない。
「人を殺すのは、簡単でいいわ」
璃夜は、ボソッと呟いた。
「何か言ったかい?」
「いいえ、何も」
電話の向こうでは、紙をめくる音がする。
忘れん坊な彼のことだ、メモをしておいたのだろう。
「えっとね、明日の午後八時、駅前で君に会いたいそうだ。その時に仕事内容は言ってくれると思う」
それだけのことも忘れるのか。
それに、アバウト。
言ってくれると思うってなんだ。詳しく聞いていないのか、と璃夜は怒りを通り越し、呆れた。
全く、この男は。
「それだけだ。おやすみ、黒猫ちゃん」
璃夜は、何も返さずに通話を終了した。
それからふと気づく。
その人の特徴をきかなければ、待ち合わせの意味がない。
しかし璃夜は睡魔に負け、まあいいかとソファに寝転ぶ。
そしてそのまま、眠りについた。
璃夜は闇の中にいた。
何も見えない不安が、璃夜を襲う。
「ここは何処!?」
そう叫ぶけれど、答えてくれる声はない。
不安の中でも、璃夜の表情は崩れなかった。
こんな不安、こんな孤独、あの時に比べれば…
すっ、と。
暗闇に、一筋の光が射した。
気付けば璃夜は、その光を辿っていた。
だが、すぐに首を振る。
私はこの光の先に、行ってはならない。そう、思い立って。
その瞳に、光はない。
あるのは底知れぬ孤独と、闇黒。
紅い紅い血を浴びて、ただ無情に死体を見下ろす。
目を開くと見えたのは、いつもの天井。
ソファで寝た為か、体が重い。
時計の針は、午前10時を指していた。
まだ眠い目をこすり、璃夜は起き上がる。
インスタントのコーヒーを淹れ、一気に飲むと、少しは眠気が紛れた。
約束の時刻、午後八時まで、まだ時間がある。
璃夜は外へ出ることにした。
「んー」
大きく伸びをして、家から一歩踏み出す。
心地よい風が、璃夜の頰を撫でた。
特に行く当てもなくふらふらしていると。
「ひったくりーっ!」
「誰か其奴を捕まえろっ!」
背後からだ。
振り向くと、灰色のニット帽を被った男が、高級そうな鞄を持って走ってくる。
「ど、どけっ!」
男は汗をびっしょりかいて、動かない璃夜に向かっていく。
その男に、璃夜は足をかけた。
情け無い悲鳴を挙げて、ひったくり男は見事に転ぶ。
男が走ってきたほうから、誰かが走ってくる。
くるりと踵を返し、璃夜はその場を立ち去った。
この街の治安はどうなってる。
ひったくりなんて、今時殆どないのに。
そんなことを考えながら、璃夜は歩く。
そして小洒落たレストランで食事。
石窯ピザを食べた。
丸ごと一枚をものの1分で食べきると、帰路を歩んだ。
家に着くなり、玄関に倒れこむ。
「…寝よ」
ふらふらとした足取りで、ソファに倒れこんだ。
この所、自分のベッドで寝ていないな。
そんなことを考えながら、眠りについた。
お兄ちゃん、だ。
璃夜の兄は、笑顔で璃夜を見ていた。
璃夜は兄に向かっていく。
「お兄ちゃんっ!」
あと少しで伸ばした手が触れる。
そう思った時には、兄の姿は消えていた。
璃夜は、絶望的な気分に襲われた。
「お兄、ちゃん…?」
蔑まれ、虐められていた璃夜に優しくしてくれた、たった一人の人。
泣きじゃくる璃夜を、黙って抱き締めてくれた兄。
璃夜が、この世で一番敬愛する人。
そして…もうこの世にはいない人。
分かっていても、反応してしまう。
起きると、頰には涙の跡があった。
「お兄ちゃん…」
何故、一人旅立ってしまったの?
そんな疑問が浮かぶ。
ふるふると首を振り、時計を見た。
午後八時まであと3分。
急いで外へ。
駅前までならまだ間に合うかもしれない。
バイクのキーを回す。
間に合いますように、と願いながら、ノーヘルでスピードを飛ばした。
警察にみつからなかったのは奇跡。
駅前に来たものの、その人の名前すら聞いていない。
どうしたものかと首を傾げていると、背後から声が掛けられる。
「お前が黒猫か…?」
璃夜もとい黒猫は、振り向いて相手を視認する。
「小さいんだな…」
璃夜の身長は149㎝。
……小さい。
璃夜がその人を見上げる。
ダークブルーの双眸が、璃夜を見ていた。
「悪かったわね」
「いや、可愛いと思うぜ?」
無表情で、其奴は言った。
「サイズが、でしょ。貴方、名前は?」
璃夜もいつもの無表情であしらう。
「俺は…まあ、ワイトと呼べ」
随分とまあ、大雑把な返事。
言い方からすると、本名では無いのだろう。
そして、本名を言うのに抵抗でも感じたのか口ごもったことから推測するに彼は殺し屋とかじゃ、ない。
殺し屋なら黒猫のような通り名がある筈。
「それで、仕事は?」
「ああ、ちょっと来てくれ」
思えばこれが、人生の分岐点だったのかもしれない。
璃夜は、何の疑いもなくワイトの後に続いた。
少し歩くと、目の前には黒いリムジンが止まっていた。
人気の少ないこの道路では、とても目立っている。
ワイトはリムジンのドアを開ける。
入れ、ということだろう。
璃夜は、何の躊躇いも無く入る。
ドアが閉まった。中は甘ったるい匂いがした。
いつまで経ってもワイトは車に乗り込まない。
「ワイ…」
ト、まで続かなかった。
ふらり、と倒れこむ。
しまった、この甘ったるい匂いは罠だ。
そう思ったときには遅かった。
全身に力が入らず、意識が遠のいていく。
窓の外で、ワイトは笑っていた。
卑下た、笑顔。璃夜は、自分を嵌めたワイトを殺したい、と思った。
意識は闇に、落ちていった。
目を覚ませば、璃夜は暗闇の中だった。
手足が縛られ、身動きが取れない。
「んーっ!んーっ!」
猿轡のせいで、声が出せない。
軽率な行動だった、と今更後悔。
「さーあ、最後は本日の目玉商品!」
そんな声が聞こえた後、璃夜の視界がクリアになった。
ドレスや背広なんかを着た人たちが、感嘆の声をあげている。
「なんと、この可愛らしい少女は殺し屋!愛玩するもよし、ボディーガードにも使えるでしょう!」
マイクを持った男が、そんなことを言っている。
ここは闇オークション。
人間を奴隷として売り出すオークションのようだ。
騙された、と舌打ちしたいが出来ない。
「スタートは30万ヨルドから!」
璃夜はもう、諦めていた。
ゆっくりと目を閉じ、眠りに落ちていった。
「───いっ、おいっ!」
肩を揺さぶられ、起きた。
この人は、誰だろう。璃夜はぼんやりとした意識で、そんな疑問を覚えた。
漆黒。そう、漆黒。
その人は、一語で表すとしたらそんな感じだった。
服装も、瞳も、髪も、漆黒。
無表情に璃夜を見下ろしていた。
整った顔が、少し歪んだ。
「生きてんのか?」
まだ目覚めきらないが、微かに頷く。
「行くぞ」
この人が、璃夜を買ったのだろう。
見慣れない街並みを、手を引かれ進んでいく。
路地裏に連れ込まれた。
「逃げたいなら逃げろ」
その一言に、璃夜は思わず目を見開いた。
「でも」
「いいから、早く」
急かされるが、逃げても行く当てなどない。
そもそも、ここがどこなのかですらわからないのだ。
そのことを、璃夜は話した。
「それもそうか…」
漆黒の男は顎に手を当て、考えた。
「提案、なんだが…嫌なら断っても構わない」
そう前置きする。
「俺の家に来るか?」
それは璃夜にとっては予想外で。
目を大きく見開いた。
「いいんですか?」
思わずそう聞き返した。
「俺は構わない」
そう聞いた途端、璃夜は思い切り頷いた。
「よし、決まりだ。俺はルシアだ」
男はルシアというらしい。
璃夜も同じように名乗った。
「わ、私は…璃夜、です。日本で殺し屋をやってました」
言うべきか迷ったが、隠し事はないほうが過ごしやすい。
「その若さで…!?あ、いや、年齢は?」
ただの童顔とでも思ったのか、ルシアはそう質問する。
「16、ですけど…」
思いの外食いついたルシアに若干引きつつ…璃夜は答えた。
「見た目より若いな…」
そんなことを、ルシアは誰にともなく呟いた。
「………」
「………」
「じゃ、行くか」
気まずい沈黙の後に、ルシアはそう促した。
璃夜は言葉を出さず、頷いて答えた。
キョロキョロと辺りを見回しながら、璃夜はルシアに着いて行く。
ここは市場。たくさんの店の前では、人が行き交う。
店の林檎をジッと見ている璃夜に、ルシアは買い与えた。
礼を言う璃夜に、少し照れてルシアはそっぽを向いた。
シャリ
丸齧り。甘くていい林檎だ。
たべながら、ルシアの後を着いていく。
三分の一程度食べると、レトロな趣のある家に辿り着く。
璃夜の住んでいたマンションよりは少し広い。
キィ、と音を立てて空いたドアの奥に、ルシアは消えた。
慌てて璃夜も中へ。
生活感のあまり感じられない部屋。
そこに固定電話を見つけた璃夜は、ルシアに申し出た。
「あの…電話を貸して頂けませんか?」
「ん?…ああ」
ぺこりと頭を下げ、ダイヤルを回す。
電話までもがレトロ。
電話の相手は直ぐにでた。
「もしもし、小鳥遊ですが」
ワイトを紹介したあの男だ。
本名は小鳥遊広樹。
「黒猫です。ワイト氏のことですが」
小鳥遊氏の差し金なのか。
璃夜が確かめたいのはそれだった。
小鳥遊氏はお得意様。
あり得ないとは思うが、念の為の確認。
「ああ、どうだった?」
「最悪でした」
取り敢えずは簡潔に、そう言い放った。
「ワイト氏とはどういう知り合いなんです?」
「会ったこともない他人だよ。どうしても黒猫ちゃんに会いたいと言うから、ね」
探らなくては。
「何処で知り合ったんです?」
声を鋭くして、璃夜は尋ねた。
「怒ってるのかい?」
その質問にムッとした璃夜は、黙秘する。
早く吐け、という意味で、だ。
「やれやれ…僕は有名だからね。いきなり掛かってきた電話の相手も知人と数えるのさ」
「…私はワイト氏に拉致られました。そこで人身売買のオークションに出され、買われました」
素直に話す。
「だ、大丈夫なのかい!?怪我は!?」
大声に思わず受話器を耳から離す。
「…大丈夫です」
白だ。
璃夜はそう確信した。
となるとワイトは単独犯。
何故狙ったのが私だったのかは分からないが。
「今は何処に!?」
言われて気付く。
受話器を抑えて璃夜はルシアに尋ねた。
「フランスのパリだ」
そう簡潔に、ルシアは答えた。
ルシアは新聞を広げ、ソファに座っている。
「フランスのパリだそうです」
予想以上に遠い場所だったので、璃夜はもちろん、小鳥遊氏も驚く。
だが声に出さない分、璃夜はマシな反応だった。
「ぱ、パリ!?遠いな…僕がジェット機を手配…」
「結構です。暫くここに滞在するので」
全て言い終わる前に言葉を遮り、璃夜は受話器を置いた。
「…私の殺し屋としての通り名は、黒猫。フランスにまで噂が届いてるかは、分かりませんが」
黒いプリーツスカートの裾をつまみ、優雅に一礼。
ルシアは新聞を落とす程に驚いた。
「ま、まさか…あの!?あの、黒猫なのか!?」
璃夜は顔を上げ、ええ、と肯定した。
「ほかにも黒猫という殺し屋が?」
いるなら是非見てみたい、と言わんばかりに肩を竦めた。
どうやら噂は、世界中に広まっているらしい。
「ルシアはその筋の人、なんですか?」
彼は少しだけ口を開きかけ、やめた。
「…んー、まあ…そうとも言えるし、そうでないとも言える」
曖昧な答え方に、苦笑した。