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時間交差  作者: 乙葉 蒼
2/2

人と魔導士の間で

 自分の世界を形造るのは、『主』、カーラナさま。

 自分の世界は、彼女と過ごした館と、そのほんの周辺。

 ただ、それだけだった。



 街に入ってから、金髪の小柄な少年は、大きな紅い瞳をきょろきょろと動かして、ずっと周囲を眺めていた。正確には、街に入る前から。

 ずっと続いた、代わり映えのしない荒野でさえも、物珍しげに見つめている。見るもの全てが、少年──テトラには珍しかった。

「そんなにそわそわしていると、危ないわよ」

 すると、先を歩いていた少女が、そう言って呆れたように振り返ってくる。

「リアル」

 揺れた明茶の短い髪が、太陽の光に透けて、蜂蜜色に煌めいた。硝子のように、透き通った翠緑の瞳が、こちらを見つめている。

 時折こうして、その色合いを目にするたびに、綺麗な人だと認識した。それは、彼女が黙っている間に、限定されるけれど。

「まあ私は、テトラが例え、転びそうになったのを避けようとして、よろめいた先で他人にぶつかりかけ、それも何とか避けたまではよかったけど、そこで足をもつれさせて、最後には結局転ぶような真似をしても、全く構わないんだけど」

「う゛……」

 さっき起こしたばかりの出来事を、言葉でなぞらえられる。そこには嘘も、誇張も存在しなかった。自分が、ふらふらしていた自覚もある。

 だけど改めて耳で聞くと、自分自身のことでありながら、あんまりだと思う内容に、少しだけ泣きたい気分になった。

「物珍しいのは分かるけど、もう少し、気をつけて歩きなさい?」

「……はい」

 大人しく返事をして、先を歩く背中を見つめる。その左足の靴は、先日の件で、まだボロボロのままだった。

「……リアル、その靴」

「ああ、後で買うわよ。流石に歩きにくいし」

 その言葉に、密かに胸を撫で下ろす。傷を負ったときに、怪我はたいしたことないとは言っていたけれど。その見た目は、どうしても痛々しかった。

 それにそれが、自分のせいだと思うと、更に胸が痛む。

「だけどその前に、協会に寄るから」

「協会?」

「そう。『魔導技術技士協会』」

「……?」

 聞き慣れない言葉に、首を傾げると、リアルは前方に向かって指を指した。

「あの看板が見える? 魔術式陣を基にした……」

 小さな店が建ち並ぶ通りに、一回り大きな店が見える。その店先に、それは吊してあった。店の外観は落ち着いた佇まいなのに、醸し出している雰囲気からか、妙な威圧感を感じる。

「……あれって、基礎の魔術式の一つだよね。魔力の安定させるやつ」

「そう、あらゆるのものの基盤とされる術式。……そんなものを協会章にするなんて、嫌らしいわよね」

 リアルの声に、僅かな嫌悪が滲むのを感じて、彼女を見上げる。だけど予想していたほど、リアルの表情には変化がなかった。

「今の世界には、魔導士はいない。それは、話したでしょう?」

「うん」

 『主』もいない。それが現実。

「だけど魔導士が残した魔導具──『遺産』は残ってる。それを研究して、現代に生かしているのが、『魔導技術学』。その根幹が『王立魔導技術研究機関』、そして『魔導技術技師協会』よ」

「現代に生かすって……」

 魔導士は基本的に、他人との繋がりを持たない。そのせいか魔導具は、制作した魔導士の特性を、色濃く継いでいた。

 魔力には、波長がある。属性によって、大まかに分類は出来るものの、個人の有する波長までみると、全く同じものは存在しない。

 その波長が同じ魔力でないと、魔導具は発動しないはずだった。それ以前に、余りある魔力を体内に蓄積する魔導士とは違って、人間には魔力がない。魔導具に組み込まれた魔術式を、どうやって発動させるのか、予想も出来なかった。

 するとリアルが、左腕を持ち上げてみせる。その手首には、金の輪が揺れていた。リアルが所有しているそれは、魔力の生成具だった。

「こういった技術も、研究されてるもの。『遺産』と比べれば、玩具とも呼べないくらいの、ちっぽけな出力しかないけれど。……まあ、便利よ」

「便利?」

 ますます訳が分からなくて、疑問符を浮かべてリアルを見つめる。すると彼女が、僅かに笑ったように見えた。

「何もなくても火を起こせたり、冷めた料理を温めたり……。便利でしょう? 正しく、生活の基盤を支えているわね」

「……そう」

 リアルの、声の調子は変わらないけれど。これは凄い嫌みなのだろう。すごく楽しそうに聞こえるのは、多分気のせいじゃない。

 その一方でカーラナ様が、そんな風に魔術式を使うところは、見たことがないなぁと、ぼんやりと考えたていた。

「それで……そこに、何の用事があるの?」

 そこまで毛嫌いをするのなら、近寄りたくないのではないか。疑問に思って問うと、リアルは空中を見つめて、ぽそりと呟いた。

「背に腹は、代えられないもの。外のルートの方が、換金の効率は良いんだけど。使うと五月蠅いし」

「?」

「まあ、行けば分かるわ」

 感情の乗らない表情で、そう言ったリアルは、そのまま協会に向かって歩いて行った。



「……ねえ、リアル。それって」

「壊れた『人形』の部品、よ」

 鞄から取り出した『部品』を、受付の台に並べながら、リアルはにべもなく応えた。

「協会で買い取ってもらえるの。良い研究材料だったら、高額で取引してくれるわ」

 その事実に、頭を殴られたような衝撃を覚える。人間にとって『人形』は、恐怖の対象である筈で、そんな風に取り扱われるとは、思いもよらなかった。

「別に、こんなことばかりしている訳じゃないけど」

 そう言って、リアルは壁を指し示す。そこには大きな掲示板が据えられていた。

「基本的には、ああやって張り出された依頼をこなして、懐の足しにするわ」

「だから、背に腹、かぁ……」

 カーラナ様と過ごしていたときは、ほぼ自給自足の生活だった。魔導士は、その力の強さ故に、ひとりで在ることが常になる。だからこんな『人間』の街や、人間同士が、お互いに協力するような暮らしが、物珍しくてたまらなかった。

「……掲示板、見てくる?」

「えっ」

 余程、興味をそそられたように見えたのだろうか。実際、興味が沸いていたから、頷いて、その場を離れる。そして掲示板を眺めながら、リアルの様子を横目で伺った。

 カウンターを挟んで、協会の人なのだろう、女性と話し込んでいる。その台に乗せられた『部品』に目が留まって、視線を逸らした。そして、自分の手を見つめる。

 これは、悲しいんだろうか。あれが、動かなくなった『人形』の、末路の一端。その果てでも、部品のたった一欠片でさえも、『人形』に、安らぎは与えられないのだろうか。

 自分の存在を確かめるように、手をきつく握りしめる。リアルの出していた部品からは、魔力の残滓すら感じなかった。あれはもう、『人形』ではなく、只の物でしかない。

 そう考え直して、目の前の掲示板に向き直った。

「特定の部品の募集……、魔導具の機動試験、協力者求む……。うん? 屋根の修理なんて依頼もあるんだ?」

 意外な依頼内容に、思わず声を上げる。

 よく見れば、協会らしいと思える依頼内容は、ほんの一部で。大部分は、雑用のような依頼で、掲示板は満たされていた。すると。

「ああ、魔導具所有の協会所属者は、何でも屋みたいなものだからね。そのせいで、結構依頼は、多岐に渡るんだ」

「うわぁっ」

 不意に耳元から声がして、恐る恐る振り返った。すると背後に、眼鏡をかけた青年が立っている。自分が小さいせいか、完全に見下ろされていた。

 そのせいか、青年は穏やかな笑みを浮かべているのに、妙な威圧感がある。

「……どうかしたのかい? 君みたいな子が」

「え、と。俺は……別に……」

 どうやら青年は、親切に声をかけてくれたようだった。だけど何となく、居心地の悪さを感じて、助けを求めるようにリアルの姿を探す。その視線を、彼も追いかけたのだろう。

 リアルが気がついて、こちらを振り向いた瞬間。青年は唐突に、声を上げた。

「あれ? リアル!」

 彼は嬉しそうな笑顔で、彼女に向かい、片手を上げてひらりと振った。

「久し振り。偶然だねぇ」

 まさか、リアルと知り合いだとは思わなくて、彼女と目の前の青年を交互に見る。失礼極まりないけれど、リアルに知り合いがいることに、驚いてしまった。

 リアルが常に独りだと、そう思い込んでしまったのは、彼女が纏う、独特な雰囲気のせいだろうか。周囲に何も寄せ付けないような存在感が、リアルにはあった。

 だけど青年は、そんな空気をものともせずに、にこにことリアルに話しかけている。そんな青年に、掲示板と板挟みにされて、いつの間にか動けなくなっていた。

 リアルへ、助けを求めるように、視線を投げる。すると彼女は、なぜか苦虫を噛み潰したように、顔をしかめていた。

 どす黒いオーラまで、その背後に醸し出している気がするのは、思い過ごしだろうか。

「……偶然? 白々しいわね」

 するとリアルから、刺々しい声が発せられた。

「今回は。本当に偶然だよ」

 最初の一部分を、強調する青年の言葉に、リアルの表情が、ますますしかめられていく。彼女がここまで感情を体現するのを、初めて見た。

 そのことに軽く困惑している間、青年の方は、ずっと穏やかに笑っていた。向かい合うふたりがどうするのかと、はらはらしながら見つめていると、リアルの方が先に動いた。

「行くわよ、テトラ」

「え、ちょ」

 自分を遮っている青年を、あからさまに無視して、リアルはその隣を通り抜けようとする。だけど青年は、それを許さなかった。腕を掴まれて、リアルの足が止まる。

 睨みあげる彼女の視線に、青年は、笑みを浮かべ続けていた。

「つれないなぁ、少しは話そうよ。マスター、上の部屋借りるね」

 そう言って青年は、リアルをずるずると連れて行ってしまう。リアルも踏ん張ってはいるけれど、流石に体格差ではかなわないらしい。

「ちょっと、放しなさい。ジィーニーク!」

「駄目だよ。放したら、逃げちゃうでしょ?」

 意地でも、掴まれた手を剥がして、彼から離れようとするリアルを、青年はひょいと肩へ担ぎ上げた。そのまま彼は、こちらへと振り返る。

「君も、おいで。僕はジィーニーク・イドゥ。怪しいものじゃないよ」

 少女を担ぎ上げた青年が、にっこり笑ってそんな台詞を口にしても、怪しさしか倍増しない。それが顔に出ていたのか、ジィーニークは面白がるように笑った。

「おいで、『人形』の子。悪いようにはしないから」

「!」

 一瞬、身体が強張った。それを確認しただろうジィーニークは、相変わらず穏やかに笑っている。

 この時代で起きてから、リアル以外に『人形』だと認識されたのは、初めてだった。世界から、魔導士がいなくなっていたことを思い出す。

 『人間』の脅威である『魔導士』。彼らが創り出した、『人間』を狩るための『人形』。そして、その恐怖を覆すために、『人間』は弱い魔導士を捕まえて、使役した。

 じっと、ジィーニークを見つめる。すると彼の肩に担がれていたリアルが、肘でジィーニークの後頭部を小突いた。

「早く、行ったらどうなの?」

「……そうだね、行こうか」

 リアルに向かって、ジィーニークは人の悪そうな笑顔で答える。それに憮然とした表情を浮かべながら、リアルはジィーニークに運ばれていた。

 ずっと、明後日を見つめていたリアルの瞳が、不意にこちらに向けられる。

 それは一瞬だったけれど、彼女に呼ばれたような気がして、慌てて、ふたりの後についていった。


 ジィーニークは馴れているのか、二階の部屋に、勝手を知った様子で入っていく。そして、丁寧に使い込まれた、骨董調の卓の前でリアルを下ろすと、椅子を勧めた。

「お茶でも用意しようか、お姫様」

「いらない」

 椅子をひくジィーニークに、とてつもなく不機嫌に返しながら、それでもリアルは、大人しく腰をかける。思わずその一連の所作を、じっと凝視してしまった。

「……何?」

 睨み付けてくる視線に、慌てて頭を振る。

「う、ううん、なんでもないっ」

「そう」

 溜め息をついて、リアルは椅子に背を預けた。

 彼女が嫌がるだろうと思って、口にはしなかったけれど。足を組んだ、少しぞんざいな座り方と、その口調が、『お姫様』と称されるのに、少し似合っていると思ってしまった。

 嫌々な様子を伺わせながらも、大人しく椅子に座っているあたりは、ジィーニークの話を、聞く気になったらしい。苦笑しているジィーニークを横目で見ながら、リアルに倣って、自分も席に座った。

「しばらく逢ってなかったけど、元気にしてたかな?」

「出来れば私は、二度と逢いたくなかったけれど」

「それは、無理な問題だねぇ」

 棘のあるリアルの言葉を、ジィーニークは笑顔でかわして、彼自身も席に着く。それをぼんやりと眺めていると、こちらを向いたジィーニークと眼があった。

 だけどすぐに、その視線は、リアルの方へ向かっていく。

「それにしても、君が、そういうものに興味をもっているだなんて、知らなかったな」

「どんな邪推をしているのよ」

「『人形』遊びは、趣味じゃないと、思ってたんだけど」

 興味深そうに、ジィーニークは笑う。するとリアルの、周囲の温度が、急速に下がったように感じた。

「……そんな趣味、持った覚えはないけれど」

「へぇ?」

 するとジィーニークの視線が、再びこちらに向けられた。楽しげな様なのに、その奥では笑ってはいない。

 見定めているような眼に、身動きできなくなる。するとリアルが、こつりと指先で、卓上を叩いた。

「それで、話って何?」

「いやぁ、特にないけれど?」

 それを聞いた瞬間に、リアルの瞳が険を帯びる。その場にいるだけでも、生きた心地がしないのに、ジィーニークは飄々として、それに相対した。

「こうも何の連絡も、してくれないんじゃ、寂しいだろう? これでも、君の後見な訳なんだし」

「あなたが、勝手にしていることでしょう」

「まぁ、そうなんだけどね」

 間延びした返答をしながら、ジィーニークは横目でこちらを見る。

「君に危険が及ぶようなら、放ってはおけないからね」

「危険なんて、ないわ」

「これは、君の主観による話じゃないよ」

 不意に、ジィーニークの声音が低くなった。それに気圧されたかのように、リアルが息を詰める。その直後、彼女は我に返ると、卓上を手のひらで叩いて立ち上がった。

「馬鹿にしてるの? これに私が、遅れを取るとでも?」

「……君は、君が思っているほど、自分自身を分かってないよねぇ」

 呆れたように、ジィーニークが呟く。

「『人形』、しかも『遺産』に手を出すなんて。下らない幻想を手にするために、馬鹿になる輩が、この世にはわんさといることを、知っているのにも関わらず」

「相変わらず、目は良いのね。この場合、悪癖と呼ぶべき?」

「君のおかげ、だよ?」

 喧嘩腰に、不穏な言葉が飛び交って、思わず青ざめる。自分を見て、ジィーニークは『遺産』だと言った。

 不安から、リアルを見る。すると、それに気がついた彼女が、応えてくれた。

「ジィーニークは、魔力を目で捉えることができるのよ。魔力自体を扱うことは、全くできないけれど。だから色々なものを、その目で視てる」

 そう言って、リアルは小さく息を吐き出した。

「昔と違って、今ならある程度の制御が、出来ているはずなんだけど」

「必要だと判断すれば、視るよ。今はそれが、仕事な訳だしねぇ」

「しごと?」

 魔力を視る仕事なんて、想像が出来なかった。リアルは、それを知っているのだろう。興味なさそうに、明後日の方を見ている。

 するとジィーニークは懐から、自身の名刺を取り出してくれた。卓上に乗せられたそれを、覗き込むようにして眺める。

「……王立魔導技術研究機関、魔力制御部、副部長、ジィーニーク・イドゥ」

 ひと通り読み上げてみたものの、よく分からない。リアルが、つまらさそうに呟いた。

「つまり、それなりに偉い人ってこと」

 大雑把に説明をしてくれたけれど、『偉い』という言葉が、どうにもぴんとこない。純粋な、『力』の強さのことではないらしいことは、何となく分かった。

「ふーん……?」

 とりあえず相づちを打って、名刺を色々な角度から、しげしげと眺める。なんとなく名刺自体が、近寄りがたく感じて、遠巻きにしていると、ジィーニークが苦笑した。

「まあ、ある程度羽目を外しても、何とか許される人ってところかな」

 そんな事を、涼しげに口にする姿に、流石にそれはどうだろうと、顔をしかめて彼を見上げる。するとジィーニークは、一度目を瞬いた後、小さく声を上げて笑った。

 何の含みもなく、肩をふるわせて笑う様子が、年相応に似合っている。今更ながら、この人はまだ若いのだと思った。

 ジィーニークは、まだ続く笑いを堪えながら、卓上の名刺を手に取る。そして今度は、それを手渡してくれた。

「一応、持っててくれると、嬉しいなぁ。役に立てようと思えば、それなりに役立つと思うよ。ねえ、リアル?」

 呼ばれたリアルは、無言のまま、あからさまに視線をそらした。彼女の様子に、少し逡巡したものの、貰った名刺は貰っておくことにした。懐にしまい込む。リアルも咎めることをしなかった。

 ジィーニークが、もう一度リアルに呼びかける。

「リアル。これを機に、戻って来る気にはならない? そうすれば君も、その子だって、守ってあげられるのに」

 席から立ち上がったジィーニークは、リアルに向かって手を差し出す。彼女はそれを、一瞥しただけだった。

「……守られたいなんて、言った覚えはないわ。それに貴方たちを、信用できるなんて思ってるの」

「こんな外で、四方八方へと警戒し続けるよりは、マシだと思うんだけど」

「だから大人しく、貴方たちに飼われろと?」

 言い捨てるのと同時に、リアルは、ジィーニークが差し伸ばしていた、手のひらを打ち払った。思いの外おおきく、乾いた音が部屋に響き渡る。

 いつもは透き通っている、綺麗なリアルの瞳が、凍てつくように冷たかった。

「……私は絶対に、貴方たちを許せはしないわ」

 冷たく棘のあるリアルの声に、動じることなく、ジィーニークはへらりと笑う。

「そうだろうね」

 そう言ってジィーニークは、彼女の前で肩をすくめる。その仕草で、リアルの醸し出す空気は、一層温度を下げた。

 そのまま彼女は、ジィーニークに背を向ける。

「……言いたいことがそれだけなら、失礼するわ」

 そう言ってリアルは、扉に向かって歩き出した。その背中に、再びジィーニークは呼びかける。

「リアル。利用できるものは、利用すべきだ。君は、それが許される」

 その言葉に、彼女の足をが止まった。だけどそのまま、リアルは振り向くこともなく、再び無言で歩き出してしまう。

 二人の間で右往左往していると、それに気が付いたジィーニークが、ひらりと手を振った。行けと、いうことだろう。

 彼に応えるために頭を下げると、足早に出て行ってしまったリアルを、慌てて追いかけた。



 窓にもたれ掛かって、ジィーニークは、窓の下を覗くように見ていた。そこから、店を離れていくリアルと、それを追いかけていくテトラの姿が見える。

 その距離でも、リアルの不機嫌が見て取れて、テトラには悪いと思いつつ、口の端が上がるのを感じた。

「あんなにも、分かりやすくなるなんてね」

 あの『人形』の、影響なのだろうか。テトラの酷く純粋で、まっすぐな性格に加えて、あどけなく柔らかな表情は、彼女の心を揺さぶるのに、十分な条件だと思えた。

 二人の姿が、見えなくなるまで見送って、カーテンを閉めると、眼を閉じる。そして、玩具のお人形のように、何の反応も示さず、日々をただ生き長らえていた、少女の姿を思い出した。

 リアル。

 それと比べれば、名前を呼べば視線を向けてきて、昔ほどではないにしても、表情を変化させる。そんなリアルの姿に、心の底から安堵する。

 例え、自分に向けられる感情は、憎悪だけになってしまったとしても。

「……僕は君を、見失ったりしない。どんなことをしても」

 その為の、魔導技術研究機関所属であり、今の地位なのだから。

 定まっている自分の心を再確認して、ゆっくりと目を開く。薄暗い室内に僅かに残る、リアルの魔力を感じ取ることで、彼女がこの世界で生きていることを実感した。

 そして、自分の胸の上に、手のひらを当てる。

「……もう二度と、忘れさせたりなんてさせない。絶対に」

 胸に当てた手を握りしめて、ジィーニークは、声を絞り出すように呟いた。




 不機嫌を露わにして、リアルは街中を歩いていく。それでも速度は出していないため、後ろについて歩きながら、テトラは珍しいものを見る目で、その背中を眺めていた。

 彼女は基本的に、何事にも無関心でいる。こんな風に感情を出して、しかもそれを引きずっていることは、珍しかった。

 どうやら、ジィーニークとは知り合いらしい。まだリアルとは、短い付き合いだ けれど、彼女を見知った誰かがいるというのは、不思議な気分だった。

 カーラナ様は、ずっとひとりで。そしてリアルも、そんな素振りは見せなかったから。そういうものなのだと、何となく思っていた。

 リアルの速度が少し落ちてきたところで、横に並び、下から表情を覗き込む。彼女は難問にぶつかったかのように、顔をしかめて、眉間に皺を寄せていた。

「……ねえ。リアルは、あの人のことが嫌いなの?」

「なによ、急に」

 心なしか受け答えも、いつもよりぶっきらぼうに聞こえる。

「なんだかジィーニークに、かじりつきそうな勢いだったから」

「かじりつくって、アンタねぇ……。どういう眼で、私を見てるの」

 思ったままを答えると、リアルはいつもの様に、呆れた表情を浮かべて、深く息を吐き出した。その仕草は、いつもの調子を取り戻したように見える。

 今だったら、変な意地にこだわらない、リアルの言葉が聞ける気がして、口を開いた。

「でもリアルのことを、凄く心配していたよ?」

 そう言うと、リアルはその場で立ち止まってしまった。それ以上動く気配がないことを察すると、横に並んで、そっと彼女の様子を伺う。

 するとリアルは、どこか困惑したような風情で、僅かに口を開いては、すぐに引き結んでしまうことを、繰り返す。 

 しばらくして彼女は、ぽつりと呟いた。

 「……知ってる」

 リアルがこんな風になるなんて、珍しいと思った。リアルにとって、ジィーニークとは、どんな人なんだろうと思いながら、彼のことを考える。

 ジィーニークが自分に向けてくるのは、『警戒』だったように思った。軽い言動で接しながらも、彼がリアルを大切に思っているのは、端から見ていても分かる。

 だからこそ、自分に対して、隙のない視線を投げかけてきた。

 ジィーニークが、リアルを大事に思う心。それは、俺がカーラナ様を大切に思う感情と、似ているのだろうか。それとも、違うものなんだろうか。

 そもそも、自分の感情とは、一体──

 そこでふと、我に返った。何となしに顔を上げると、いつの間にか、こちらを見ていたリアルと目が合う。

 その、思いのほか強い視線に射貫かれて、目を見開く。その一部始終を見つめられた後、ゆっくりとリアルは口を開いた。

「……テトラは、彼をどう思う?」

 まさか問い返されるとは思っていなくて、思考が追いつかないまま、目を瞬く。翠緑のガラス玉みたいに透き通ったリアルの瞳は、その間、ずっとこちらを見つめていた。

 その、全てを見透かすような視線に、胸を掴まれる。

「おれ、は……」

 きっとそれは、何かリアルの考えに、必要なことなのだろうと、必死に考える。

 そして。

「……変な人だと、思ったよ」

 そんな答えしか、出なかった。

 リアルのことを思っていること以外、何を考えているのかよく分からない。視線は、あんなにあからさまなのに、行動はそうでもない。

 改めて考えると、ちぐはぐな印象が強かった。

「そう」

 リアルは表情を変えないまま、相づちを打って、考え込んでしまう。その真剣な表情に、しばらく黙って見守っていると。

「そうよ」

 彼女は、ぽつりと呟いた。

「あいつは、変な人よ」

「え」

「変で、上から目線で、知ったかぶりで、いやな奴なのよ」

「……そこまでは、言ってないけど」

 珍しく、少し感情を含んだ言い方で、リアルが悪態をつく。そして、小さく息を吐き出すと、またぽつりと呟いた。

「でも、悪い奴じゃないわ」

 向けられたリアルの視線からでは、何を伝えたいのか、よく分からない。困惑していると、目線を外したリアルは、また歩き出してしまった。

 そして一言。

「……困ったことが起きたら、彼を頼るといいわ。性格はどうあれ、そういうことは、ちゃんとしてくれるから」

 『困ったこと』。そして『彼』、ジィーニーク。そのふたつの単語が、頭の中で酷く響いた。先を歩くリアルの表情は、今はもう、見ることが出来ない。

 いま何か、大切なことを言われた気がした。だけどリアルの伝え方は、あまりにも呆気ない。聞き流れてしまうなら、それでもいいと、思ってるのかもしれない。

 それは、ひとりでも生きていくことが出来る、リアルの強さだろうか。だけどなぜか、その彼女の後ろ姿が、酷く儚げに見えた。

 指を伸ばしたのは、無意識だった。自分の手が、リアルの上着の裾を掴んでいる。足を止めて振り向いた、翠緑の瞳が軽く見開いていた。

 考える前に、口から言葉が出てくる。

「……そのときは、リアルがいるんじゃないの?」

 思った以上に切羽詰まった声が出て、自分自身でも驚いた。それでも、この手は離したらいけないと、直感で感じて、強く掴み直す。

 それを見て彼女は、呆れるでもなく、困惑するでもなく、ただ静かに瞳を伏せた。

「私は……」

 リアルが言い淀みながら、口を開く。消え入りそうな言葉に、耳を傾けた、その瞬間。街がわっと湧き上がった。

 それは、街の入口の方から、伝わり広がってくる。人々の慌てる様子から、奇妙な不安が沸き上がった。

「……何かあったのかな」

 服の裾を掴んだまま、リアルを見上げる。彼女は黙って、街の入り口の方を凝視していた。その沈黙に、焦燥が募る。

 じゃり、と肩幅に開いたリアルの足が、地面を擦る。その呼吸で、何かの間合いを、計っているのが分かった。高まる緊張に、指の先ほども動けなくなる。

 すると彼女の視線の先に、人影が現れた。

「ま、『魔獣』が……!」

 体格の良い男性が、叫び向かってくるのを皮切りに、リアルが動く。細い指が天に伸ばされて、ついと前へ下ろされた。

 その動きと同時に、駆けてくる男性のその向こう側に、不可視の壁が現れる。そして壁に何かが衝突して、その表面に大きな波紋が浮かび上がった。

 遅れて耳に響く、虫の羽音のような音。それは常人には聞こえない、魔力の波動だった。テトラには、いま何が起こっているのか、全く分からない。

「リアル。もしかして、あんな向こうまで見えてるの?」

 自分は、魔力を聞くだけだけど。リアルには、魔力が視えている。その『理』を、識っている。だけど。

「見える訳ないでしょ。でもあれだけ主張していたら、嫌でも分かるわよ」

 前を見据えたまま、リアルは呆れたように言った。だけど次の瞬間、前に突き出していたリアルの手が、見えない何かに弾き飛ばされる。不可視の壁はたわむと、その姿を消してしまう。

「……っ、来るわ」

 呟くのと同時に、リアルは前へと駆けだしていた。腰に下げた鞄から、刃の付いていない剣の柄を取り出す。そして向こうから逃げてきた男性の、横を通り過ぎると柄を振り上げた。

 掲げられた柄に、光が宿る。その光はすぐに、無かったはずの刃を形成した。練り上げられた魔力が、世界の全てを切り裂く剣へと変化する。

 リアルはその剣を、男性のすぐ側へ突き刺した。高圧縮の魔力が見せる、刃の煌めきに、男性が声なき悲鳴を上げる。同時に何かが弾けるように、男性から離れた。

 一抱えもあるような、太い毛糸の束のようなものが、勢いよく後ろへと下がっていく。

「リアル……っ」

 それを追い掛けていく、リアルの背中に声をかける。彼女は僅かに振り返って、唇を動かした。

『それ』

 音のないその動きが、目の前の男性を指しているのだと分かる。確かにこんな腰の抜けた状態の男性を、放って置くことは出来ない。

「……あの、大丈夫ですか?」

 恐る恐る男性に声をかけると、彼は恐慌していて、言葉もろくに話せなくなっていた。

 震えて、ガチガチと歯が鳴らしている男性に、少しでも落ち着くようにと、背をさする。そうしている間に、リアルの姿は遠く離れていた。

「……リアル」

 先を行くリアルは、振り返らない。その背中を見つめながら、彼女の無事を、心の中で祈っていた。



 リアルが閃かせる刃が、毛束を切り裂き、次々と跳ね飛ばしていく。最後に切り跳ねられた毛束は、ひときわ遠くに飛ばされた。

 驚いたように、毛束の先が、リアルとの距離を取る。その毛束の元には、彼女の倍ほどもある、大きな毛玉があった。

 その左右から伸びた毛束が、苛立ちを表わすように、地面に繰り返し叩きつけられている。その毛玉の中央には、少しとぼけた眼が据わっていた。

 その外見は、少しは愛らしい部類に入るのだろう。だけどリアルには、到底可愛いとは、思えそうになかった。

 それは目の前の存在が、人間を狩る、恐ろしい『魔獣』だからではなく。

 『魔獣』から、おずおずと、濁った澱のような気配が漂ってくる。

 それに浸食されるような感覚は、自分の性質のせいなのだろう。滲み出るような、相手の邪念に、身体が感応している。

【……くい、ニクイ、ニクイ、憎い……】

 一度、認識してしまうと、沢山の声が重なって聞こえてきた。わんわんと響くその声が、あまりに不快で、思わず眼をすがめる。

 相変わらず毛束の先は、バシバシと地面に叩きつけられていた。

【……たい、イタイ、イタイ、痛い……】

 両足に力を込めて、地面をしっかりと捉える。じくりと痛む左足が、燃えるように熱い。

 痛むのは自分の身体だと、強く認識する。そして、相手と自分の境界線を、はっきりと引いた。

 前へ伸ばした指を、その境目を辿るように滑らせる。相手には、引きずられない。『理』に、飲まれたりはしない。

 気を引き締めて、ゆっくりと息を吸う。少し腰を落としてから、相手に向かって地を蹴りつけた。一気に跳んで、出来るだけ『魔獣』との距離を詰めたい。

 だけどその間に、振り上げられた魔獣の毛束が視界に入った。跳んでいた足を、無理にでも下ろして、勢いを殺す。

 それを好機と捉えたのか、上から叩き潰すように落とされた『魔獣』の毛束を、身体を捻りながらかわして、手にしていた剣で斬りつけた。

 その切り口を横目で眺めながら、もう一度跳んで、今度こそ魔獣の懐へと入り込んだ。

 体の割に小さな瞳が、見開かれている。その瞳の、濁った色を見詰めながら、大きな毛玉の中心へと、剣を突き付けた。

 ず、と刀身を、その身に沈める。一気に貫いたりはしない。目指すのは身体の中心。

 そこに在る、かつて『人形』であった身体に、遺されているはずの『魔術式核』。それと剣先が触れ合う感触を、全神経で感じ取る。

 そこから剣の魔力と、相手の魔力の波長を、同調させた。

 この『人形』は、数人の魔導士が、共同で行った複合力魔術なのだろう。力の弱い魔導士が、人間に強制的に使役された際に、よく行われる術式だった。

 だからこそ、核に術式を刻みつける際、その怨嗟も強く焼き付いていく。

【……ツライ、カナシイ、ヒドイ、クルシイ……】

 複数の声が、不快に響いた。剣を掴む手に、力を込める。

 煌めく刀身は、集束した魔力。それを一筋残して、拡散させた。散り散りになった魔力が、『魔獣』の身体の内側から、瞬きながら舞いひらめいていく。

 『魔獣』の濁った瞳にも、無数の星に似た輝きが映っていた。

 十分に、魔力が散らばったことを感じ取って、それを再び、自分自身と同調させる。

 無作為に散らばる魔力に、意味を与えれば、瞬く欠片は文字や線となり、整然と、形を作り始めた。そうして浮立体の魔術式陣が完成し、浮かび上がれば、それはさらに、輝きを増していく。

 その様を、終始見つめていた『魔獣』は、警戒する動物のように、身体中の毛を逆立たせる。それを見て、思わず口の端が上がるのを感じた。

 目の前の存在が感じているのは、恐怖か、それとも。

「あなたを殺すのは、簡単なことだわ」

そう呟くと、見るからに『魔獣』の眼が、左右に踊った。今すぐにこの剣を、深く沈めれば、それで済む。

 つまり、いま展開している魔術式陣は、相手の機能を停止させるものではなかった。

 正確には、魔術式陣とは、呼べないもの。

「……全ての現象は、『理』の定めのままに、あるべき姿へ」

 『魔獣』が、身体を震わせる。

【……カナシイ、サミシイ……カエリタイ……】

 そして、一粒の涙を零す。

【カエリタイ……還リタイ……、……帰リタイ】

 それを目にしながら、その声を聞きながら、一筋の光のみになった刀身を、深く差し入んでいく。そして、『魔獣』の、『魔術式核』を貫いた。

 そこに刻まれた術式を読み取り、分解する。すると、もう一つの魔術式が、空中に浮かび上がった。

 そこへ、先程作り上げておいた魔術式を、重ねて書き込む。より複雑になった、新たな魔術式が、光を放った。

 『魔獣』の逆立てていた毛が、ぴんと伸びる。そのせいで、身体が一回り大きく見えた。

 その体内で、渦巻く魔力がぶつかり合う。弾ける力は、『魔獣』の瞳の奥で、光となって明滅していた。

 吸い込まれる様に、その光を目にした途端。自分の視界も、眩い光で覆われていた。



 全ての感覚が消えていく。突然の浮遊感に、リアルはゆっくりと瞳を開いた。

 剣で貫いた『魔術式核』を中心にして、術式が眩く輝いている。周囲は漆黒の闇。その光と闇の間に、いくつかの影が揺らめいていた。

【……カナシイ……サミシイ……ツライ……】

 呟く声が、闇に消えていく。今にも闇に溶けてしまいそうな影は、『魔術式核』から伸びた、光の鎖に繋がれていた。

 それは、『表面世界』で、不可視とされるもの。

「『理』の世界……」

 正確には、『理』と『表面世界』の狭間。人の身で、『理』なんて大層なものを、理解なんて出来るはずがなかった。

 だけど狭間でなら、自分の認識できる範囲で、こうして見ることが出来る。

 『理』の可視化。ただそれだけのことなのに。それを出来ることが、恐れられる。人ではないと、罵られる。

 皆が皆、出来ることではないと、理解はしているけれど。

(……私は)

 眼を閉じる。浮遊感に身を任せていると、また『魔獣』の呟きが聞こえてきた。

【カエリタイ……還リタイ……帰リタイ……】

 ゆっくりと目を開く。影が、踊るように揺らめいている。

「私は、時空を操る術を持たないけれど」

 その証拠に、この場所ででも、時間軸は視えない。だから、せめて。

「貴方達の、心だけでも」

 あるべき場所へ、帰るところへ、還れるように。祈り、刻み込む。

 剣の柄を握り直すと、魔術式陣が一層輝いた。そして貫いていた『魔術式核』を、剣を振り抜いて、打ち砕く。砕けた『魔術式核』から、焼け付くような、閃光が放たれた。

 その瞬間に。

【……アリガトウ……】

 囁くような声と共に、やさしい指の感覚が、背中をさするように触れていく。そして同時に、影を繋げていた、光の鎖が砕け散るのを、確かに見た。

 優しい指の正体を、確かめようと、振り返る。だけどそれは、全て閃光の中に溶け消えて、世界は静かに暗転した。


 最初に戻ってきた感覚は、音だった。風の音がする。そして、頬を撫でていくその感触に、リアルは目を開いた。

 握りしめている剣の柄に、刃は欠片も残っていない。魔力は全て魔術式に注ぎ、費やしてしまった。目の前には、弾けた風船のように潰れた、『魔獣』の姿がある。

 その姿を見下ろしていると、ざわりと周囲に、人の気配が増える。とっさに後ろを振り返ると、すぐ後ろに細身の女性が立っていた。

 女性は、魔導技術研究機関の制服を纏っていた。気が付けば周りにも数人、野次馬を制する職員や、『魔獣』を運び出すであろう準備をしている職員がいる。

 不覚にも、動揺した心内を落ち着けるために、密かに息を吐き出す。

 隙を作りすぎたかと思っていたけれど、なんて事はなく。ただ感覚が、『表面世界』へ戻りきっていないだけだった。少し『理』に、深入りをし過ぎたらしい。

 目の前の女性職員は、地面に潰れた『魔獣』を一別すると、無表情のまま、問いかけてきた。

「すみません、これは、貴方が?」

「……見れば、分かるでしょう」

 状況に少し苛立って、蔑ろに答える。それでも女性は、顔色ひとつ変えずに、次の質問を投げてきた。

「では、魔導技術技士協会に所属ですか?」

 事務処理などそういうものだと、自分に言い聞かせて、左の腕を差し出す。

 付けていた腕輪をずらして、内側の手首を晒すと、職員は手にしていた大きな鞄から、魔導具を取り出した。その魔導具に付いている、大きなレンズが手首へとかざされると、表面に光の文字が浮かび上がった。

「照会、リアル・シェルグ」

 左の手首には、協会に所属する際に、魔術式を埋め込まれていて、それをレンズで読み取っている。魔導技術研究機関直属ならではの、証書代わりだった。

「……手続きを、お願い出来ますか」

 だけど、どれだけ技術を取り入れても、こういった手続きが、面倒で、時間がかかることには変わりがない。

「そういうのは、全部ジィーニーク・デュースに回して。……書いてあるでしょ」

 そこで女性職員は、軽く目を見開く。そして魔導具に視線を向けた。その視線が、レンズの上を走る文字を、追いかけていく。

 どんな風に記されているかは知らないけれど、示してあるはずだった。『リアル・シェルグの全権と責任を、ジィーニーク・デュースが負う』、と。

 女性職員の目が止まったのを見て、返事を待たずに、背中を向ける。咎められないのなら大丈夫だろうと、街中へと足を向けた。

 遠巻きに、野次馬の人垣が出来ている。その中に、ふと馴染んだ気配がして、なんともいえない気持ちになった。

 じっと待つことを、あの子は出来ないのだろうか。だけどその反面、少しだけギスギスした気分が、凪いでいくのを感じた。

 足早に野次馬を抜けていく。そしてまだ、人垣の後ろでうろちょろとしている、後ろ姿に声をかけた。

「テトラ、そんなところで何してるの」


 突然、背後から声をかけられて、テトラは飛び上がった。

「な、ななな、なんでリアルが!」

 制服の職員に隔てられた、向こう側に居るはずだと、思わず挙動不審になる。対してリアルは、少し据わった眼で、さらりと答えた。

「あんなところに、長居は無用だからよ。それより」

「ち、違うよ!」

 まだ何も聞かれてないのに、否定してしまう。ますます彼女の眼が据わって、慌てて、次の言葉を付け加えた。

「あの人は制服の人が、引き取ってくれたんだ。様子を見てから、詳しい話を聞きたいからだって。だからおれば、リアルの方に行こうと思って。……別にあの人を、放ってきた訳じゃないよ!」

 必死の説明を見ていたリアルは、呆れたように溜め息をついた。

「そんなことを、気にするつもりはなかったけど」

「……ジィーニークに云われたことも、少し考えたよ?」

 自分が『人形』であるということ。ジィーニークの言葉から察するに、あの職員の前に出るのは、避けた方がいいのだと思う。だからすぐには、リアルの元へ、駆けつけられなかった。

「……そうね。そこは評価しても、いいかもしれないけれど」

 珍しく、褒めるようなリアルの言葉に、思わず顔が緩む。だけど。

「アンタに、大人しく待っているという選択肢は、ない訳?」

 リアルの指に、耳を摘ままれて、そのまま上へと引っ張られた。

「ちょ、いたい、痛い! リアル!」

 痛みを訴えると、すぐに指が放される。自由になった耳を、庇うように両手で押さえて、警戒しながらリアルを見上げると、彼女は悪い顔で微笑した。

 その顔に身構える。だけどそのまま、彼女は街中に向かって、歩いていってしまう。てっきり、弄ってくるのかと思っていたから、少し拍子抜けしてしまった。

 先に歩く姿を見つめながら、後ろについていく。背筋を伸ばして、真っ直ぐに歩く様子は、いつもと変りがなかった。

「……ねえ、リアル」

「なに?」

 応えはあるものの、リアルは振り返らない。いつも通りといえば、いつも通りだと思う。だけど。

「……あの『魔獣』、壊したの?」

 内容が内容だけに、躊躇しながら問いかける。するとリアルは、普段と変わらない声で、「そうよ」と答えた。

「魔術式陣に手を加えると同時に、魔力を逆流させたから。あの子の魔力回路は、ズタズタでしょうね。どの部品も、もう使い物になりはしないわ」

 思わずその様子を、自分の身体で想像してしまい、全身の毛が逆立つ。だけど落ち着いてくると、ふと制服を着た職員の姿が、脳裏によぎった。

 彼らの手に、自分の部品が、身体の一部が、渡るということを考える。───そして『魔獣』の、使い物にならなくなった部品のことを。

「もしかして、静かに眠らせてあげたの?」

「……ただ、気に入らなかった。それだけよ」

 彼女は背中で、そう答えた。

「そっか」

「そうよ」

 淡々としたやりとりを交わしながら、背後の様子を、そっと窺う。野次馬の人垣で、制服の人たちも、『魔獣』の姿も、見えない。それでも、最初に感じた『魔獣』の禍々しさが、すっかり消えていることは、感じ取ることは出来た。

 余り後ろを向きながら歩いていると、危ないし、リアルにおいて行かれてしまう。

 そう思って、前に向き直ろうとしたとき、不意にどさりと物音がした。嫌な予感がする。

 前を向くと、少し先で、少女が倒れていた。


 体内の魔力が、急に不安定になったような感覚がする。視界が揺らいで、全身の力が抜けていくようだった。だけど、そんなのは気のせいだと、テトラは頭を振る。

 自立型の自分は、その稼働状況に、周りからの影響を受けない筈だった。だけどそうなら、どうしてこんなにも、世界が曖昧に感じるのか。

「……っ」

 どうにか気力を振り絞って、すぐに少女の傍らへと駆け寄る。倒れた身体を抱き寄せて、名前を呼んだ。呼ぼうと、した。だけど。

「───」

 名前が、出てこない。

「な、んで……」

 声自体が、出ない訳ではなかった。名前だって、知っている筈なのに。だけどこの世界から、少女の名前が消え去ってしまったかのように、記憶の中にも、呼び掛けようとする声のなかにも、少女の名前は形をな成さなかった。

 この状態には、覚えがある。

 ───カーラナ様。

 自分の『主』も時折、こんな風になるときがあった。

 名前だけではなく、その記憶もなくなって、何とも結びつかなくなって。違和感も薄らいで、独りで過ごしているのが、当たり前のように感じ始める頃。

 ふとした瞬間に、カーラナ様は戻ってきた。また『眠って』しまったと、彼女が苦笑すると、次の瞬間、全てが元通りになった。


 『理』に近づき過ぎて、『眠って』しまったのだと、カーラナ様は言っていた。

 何度『眠って』も、カーラナ様は戻ってきたけれど。『理』に完全に同調してしまえば、その存在は『世界』そのものと、何も変わりがなくなってしまう。『その人』は『世界』に溶けて、見えなくなってしまう。

 いつか本当に、溶けてしまわないか。カーラナ様が『眠り』から覚めて、再びその存在を認識する度に、焦燥は募っていった。


 嘆息するように、ふと納得した。こんなに周りを曖昧に感じるのは、彼女が、自分の中から零れ始めているからだと。

 『眠って』しまう時に感じる、自分が欠けていくような感覚。目の前の彼女も、カーラナさまみたいに、なってしまうのだろうか。

 だけど、こんなにも具合が悪そうなのに、そのまま『眠って』しまうのは、大丈夫なんだろうか。考えても、答えは出ない。その間も少女は、真っ白な顔をしたまま、ぴくりとも動かなかった。

 昔感じた焦燥が、再び募る。すると零れ落ちていく記憶のなかから、水面に弾けた泡のような、微かな少女の声を、思い出した。


 『何かあったら、あの人を───……』


「……っ。確か……」

 懐に入れておいた名刺を取り出す。だけどそこから、困窮してしまった。

 彼女を運んで移動するだけの力が、自分にはない。だけどこのまま、置いていくことなんて、出来なかった。助けを呼びに行くことが、出来ない。

 その身体を、抱き留めているからこそ、なんとか彼女に意識を向けていられた。離れたら多分、すぐに『世界』に溶けて、消えてしまう。

 消えてしまうのを恐れて、強く少女の身体をかき抱く。必死に、どうすればいいか悩んでいると。

「あれぇ、テトラ?」

 聞き慣れた声が聞こえてきた。意識する前に、反射で顔を上げる。そこには、望んでいた人物の姿があった。

「ジィーニーク……」

 安堵から、情けなくも泣きそうになる。それを堪えていると、彼は陽気に近づいてきた。

「『魔獣』が出たと聞いて、出発直前だったけど、こっちに顔を出しにきたんだ。……君たちも、いるとは思ったけれど」

 周囲を眺めながらジィーニークは、悠長に話を続ける。そんな彼の様子に、焦る気持ちが、今まで感じたことがないくらい、酷い苛立ちに変わった。

「そんなことより、ジィーニーク! 助けて、───が」

 それなのに、彼女の名前が、相変わらず出てこない。何度叫ぼうとしても、どれだけ声を絞り出そうとしても。それが悔しくて、何度も繰り返すうちに、胸がつかえるようになって、苦しくなってきた。

 せめてと彼女を抱えなおして、俯いて耐える。すると頭上に、大きな手のひらが乗せられた。そのままゆっくりと、頭を揺らされる。

「驚いたな。それだけ耐えられれば、大したもんだよ」

 そう言ってジィーニークは、テトラが抱えていた少女を、自らの腕に移した。そして難なく、横抱きで抱き上げる。すると彼女に関して霞んでいた意識が、急に晴れた。

 ジィーニークに抱きかかえられた少女を、眺める。 

「……リアル」

 すると今度は、すんなりと名前が出てきた。

「そう。リアル、だよ」

 そんなテトラを面白がるように、ジィーニークは含み笑いをする。それがなんだか、とても面白くなかった。

 憮然とした表情を作ってみせたものの、彼にはそれも楽しいらしい。悔し紛れに、そのまま彼を睨みあげた。

「どうして、リアルのことが……?」

「うん、説明してあげる。だけど今は、場所を移動しようか」

 確かに周囲は、魔獣が暴れた跡の片付けに、職員の人たちが奔走していて騒がしい。それに加えて、リアルの顔色が良くなかった。

「リアルは大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。残念だけど、いつものことだから」

 そう言ってジィーニークは、リアルを抱いたまま歩き始める。

 成すがままのリアルは、眼を閉じたまま、ぴくりとも動かない。気を失っているせいか、表情は精彩に欠けるものの、逆に整った顔立ちが、際立っていた。その姿はまるで、丹精を込めて作られた、人形のように見えた。

  それに加えて、目を覚ます気配が全くないリアルに、気を揉む。そして彼女の華奢な身体を、難なく持ち続ける彼に対して、悔しさが込み上げてきてきた。

 そんな気持ちを、胸の内で渦巻かせたまま、彼の後ろについて、歩いていった。


 そのままジィーニークは、宿屋の一室に向う。皆、魔獣への興味で、野次馬になっているのか、宿はがらんとしていた。

「ああ、そこに鍵が入っているから、開けてくれる?」

 両手の塞がっているジィーニークに代わって、シャツのポケットに入っている鍵を取り出す。そして、示された扉を開けた。

 一言礼を述べて、ジィーニークは部屋に入っていく。

「ここは今、僕が借りてる部屋だから、気にせずにくつろいでね」

 そんな風に言われても、くつろげる筈がない。寝台に横たえられるリアルを、すぐ傍で見守っていると、密やかに笑う気配がした。

「……なに?」

 自分でも、顔をしかめている自覚がある。その顔を取り繕うことなく、笑っているジィーニークを見上げた。

「いや、よく懐いているなと思って」

 それはまるで、犬猫を見るような言い方だった。だけど言い返すことは出来ずに、口をつぐむ。

 犬猫ほど、役に立てているとは思えなかった。

「ん……」

 するとリアルが、僅かに身じろぐ。 でもまだ目は覚まさずに、深く眠るように、また動かなくなった。

「……予想以上だったな」

 すると傍らで、ジィーニークがそんな風に呟く。彼に視線を戻すと、なにを考えているのか掴みにくい表情で、笑みを浮かべていた。

「僕の『錨』じゃ、彼女をの認識を、自分に留めておくのが限界だから」

「……『錨』?」

 聞き慣れない言葉に、疑問符が浮かぶ。それがリアルを、『表面世界』に連れ戻した力だろうか。するとジィーニークは、ゆっくりと、己の胸に手を当てた。

「僕の中には、彼女の力の一部が入っているんだ。この欠片が、『理』に呑まれるリアルを、ギリギリで引き留めている」

「だから『錨』……?」

「だけど君の繋ぎ止め方は……どちらかというと、『枷』だな」

 そう言って、彼は笑った。

「力尽くではないんだろうけど。リアルに、『理』へ逃げることを許さない」

「……え?」

「僕にとっては幸運だけど。彼女にとっては、どうかな」

 リアルを眺めてジィーニークは、彼女の額に貼り付いている、前髪を払った。その指の感触にか、リアルは目蓋を、僅かに震えさせる。そしてゆっくりと、翠緑の瞳が開かれた。

 次いでリアルは、気怠そうに上体を起こす。

「リ……」

「大丈夫かい、リアル」

 具合の悪そうなリアルは、声を出すのも億劫そうで。声をかけ辛く思っていると、ジィーニークに先を越されてしまった。

 少し虚ろなリアルの眼が、ジィーニークに向けられる。すると突然、乾いた音が部屋に響き渡った。

 リアルが、ジィーニークの手を払い飛ばしている。それが無意識の行動だったのか、リアルは我に返った顔をすると、周囲に目を向けた。

 ジィーニークは大袈裟なくらいに、払い飛ばされた手を、左右に振っている。

「そんなに構えなくても、大丈夫だよ。今回は、『理』に呑み込まれてない」

 彼の言葉に、リアルの肩が微かに動く。それを見てジィーニークは、満足そうな笑顔を浮かべた。

「いい『枷』だ。そんなに、この子が心配なのかい?」

 その瞬間、音をたてる勢いで、リアルの顔色が変わる。そんな彼女の表情を、覗き込むように、ジィーニークは自分の顔を近づけた。リアルが睨みつけても、彼は飄々としたまま、意味深に告げる。

「昔の君に、そっくりだから?」

「ジィーニ!」

 勢いに任せて、リアルが立ち上がろうとする。だけど怪我をした足に、体重を乗せたせいで、痛みに蹲ってしまった。

 その様子を、ジィーニークが呆れて見ている。

「無理するものじゃないよ。懐かしい呼び方は、嬉しいけどね」

「……これくらい、大したことじゃないもの」

 恨みがましく、リアルが呟く。

「まあ。君にとっては、そうだろうね」

 肩を竦めるジィーニークには構わず、リアルは左の手のひらを、怪我をしている部分に当てた。仄かに手のひらが輝くと、その場に小さな魔術式陣が浮かび上がる。

 すると怪我は瞬く間に、何事もなかったかのように消えてしまった。

「……治った? まさか」

 目の前で繰り広げられた光景に、思わず目を見開く。治癒力を高める魔術はあっても、治療する魔術式なんて、見たことも聞いたこともなかった。

 治癒する為に、細胞へと働きかける魔術式は、身体に負担がかかりすぎて、実用的ではないと聞いたことがある。だけどリアルは、すっかり傷のなくなった足を、ひょいと動かすと、目の前で組んでみせた。

「これは単なる、魔力干渉の結果だもの。術式を打ち消せば、症状もなくなるわ」

「打ち消し続けて、魔力を消費しているところで、派手に他の術式を放ったんだ。今回のことは、当然の結果だね」

 ジィーニークの追い打ちに、リアルが舌打ちする。だけどジィーニークの口は、それだけでは止まらなかった。

「もういい加減、『理』に逃げるのは止めなよ。リアル・シェルグ」

 寝台に座るリアルを、ジィーニークは見下ろす。

「そんなんだから、魔導技術技士協会所属、等級Aでも、要注意人物としてリストに載るんだよ?」

「要注意人物!?」

 ジィーニークから放たれた、物騒な言葉を、思わず復唱してしまう。だけどリアルは、冷めた口調で反論した。

「そのリストは、あなた達のモルモット一覧でしょう」

「モルモットだなんて。彼らが良く暮らせるように、我々は常に、考えているだけだよ」

 どこか嘘臭い笑顔で、ジィーニークが応える。

「そうやって誤魔化すのね。他人を、そして自分もを」

 すると今度はジィーニークが、目を見開いて押し黙った。その表情を捉えて、リアルが溜め息を吐く。

「馬鹿」

「……これでも誤魔化し方が、上手くなったと思ったんだけどな」

 肩をすくめるジィーニークを、リアルの視線が捕らえる。

「それがあなたの、大人になるということなの?」

 ガラス玉のように透き通った瞳が、ジィーニークにへ向けられた。しばらく、そうして見つめた後。

「つまらないわね」

 本当につまらなさそうに呟いて、リアルは視線を背けた。

「リアル」

 それではジィーニークがあんまりだと、彼女の名前を呼んで咎めると、彼女の表情に険がはしった。それがなぜか、ふと引っかかった。

 そのままリアルは、憮然として告げる。

「皆、馬鹿よ。この程度の保有魔力で、等級Aだなんて、笑っちゃう」

 笑うと口にした割には、表情を固くしたまま、リアルは頬杖をついた。そんな彼女を見て、ジィーニークは、困ったような、それでいて安堵したような、複雑な顔で、苦笑する。

「それは君が、自分の保有魔力値を、測定不能にしたからだろう? 術式を叩きつけて、測定機を壊したって聞いたけど」

「術式で壊した訳じゃないわ。魔力を見せろと言うから、そのまま叩きつけただけよ」

 吐き捨てるように言ってから、リアルは驚いたように顔を上げた。

「そんな事、よく知ってるわね」

「魔技研では、有名な話だよ」

「……そう」

 少し不服そうに、リアルが相槌を打つ。その表情を見て、さっきから引っ掛かっていた何かに、思い至った。

 いつものリアルなら、あまり感情を、表情に出さない。それは、喜怒哀楽に繋がらないほど、周りに関心がないからみたいだった。

 だけどジィーニークの前では、それが嘘みたいに、感情を吐露している。

 ふたりは昔馴染みみたいだし、気安さもあるのだろう。そう分かっていても、胸の奥が、ちりちりとした。

 どうして、こんな風になるのだろう。どこかが、壊れているのかもしれない。一回リアルに、ちゃんと診てもらった方がいいだろうか。

 そんなことを考えていると、いつの間にやら、こちらを見ていたジィーニークと、目が合った。リアルは、居心地が悪そうに、足を組み替えている。

「何にせよ、魔戦時代に魅入ってる人間がどう言ったところで、説得力がないわね」

 リアルの言葉に、ジィーニークはにっこりと笑った。

「けど、君はこうして、こんなものを保有してる。魔技研が承認していない魔導具の、所有は禁じられているよね?」

 その直後、突然ジィーニークに、手首を捕まれる。引っ張られて、彼の前に立たされると、今度は両腕を掴まれて、上に持ち上げられた。

 身長差のせいか、まるで万歳をしているような格好になる。突然の事態に呆けていたら、されるがままになってしまった。

「まあ、そういう訳だから」

 頭の上から、ジィーニークの声が聞こえてくる。上を窺うために少し仰け反ると、腕の拘束を解かれて、彼の右手で顎を持ち上げられた。

 ジィーニークが、すぐ近くで、顔をのぞき込んでいる。

「君、僕のところに来ないかい?」

 そして彼の左腕で、身体を抱き寄せられた。どうしてこんなに、密着しているのか。

「ちょ、え、なぁっ?」

「あなたの方が、そんな趣味だったの」

 リアルの視線が、冷たい。

「そーんなーんじゃ、ないけどぉ」

 ジィーニークが、楽しそうに抱きついてくる。自分だけが、状況を把握出来てない。趣味って一体なんだ。

 思考が散らばって、全くまとまろうとしない。まとまらなければ、動くことも出来ない。

 硬直したまま、瞬きを繰り返していると、ジィーニークは、小動物を可愛がる子供のように笑った。

「この子は、可愛いよねぇ」

 ジィーニークが頬を撫でる感触に、妙な悪寒を感じて、身体がますます固まった。

「そんなに気に入ったのなら、好きにすればいいわ。……と、言いたいところだれど」

「リアル!」

 本気かそうでないのか、分かりにくいリアルの声に、ぴゃっと身体が跳ねた。お願いだから、見捨てないで欲しい。出来るなら、助けて欲しい。必死に彼女を見つめると。

「それは、私のものじゃないから、駄目よ」

 静かな声で、リアルはそう告げた。

「へえ?」

 ジィーニークは、リアルを一瞥してから、今度はまじまじと、こちらを見てくる。

「むしろ君のものでないのなら、僕のところに来ても、問題ないんじゃないの?」

 にっこりと笑うその顔に、また違和感を感じる。その正体が、今なら分かる気がした。

「……それは、俺がリアルのものじゃないと、意味がないんじゃないの?」

 ジィーニークは自分を誤魔化していると、リアルは言った。そして彼が、その嘘くさい笑顔を崩すときは、いつだってリアルと向かい合ってるときだった。

 そして、先の一瞬に、その笑顔が戻ってきていた。ジィーニークが欲しがっているのは、自分ではなくて、リアルだと、そう思っての言葉に、彼は目を見開く。そして。

 突然、盛大に笑い出した。

 それは、どこか幼く感じる、少年のような笑い方だった。だけど、笑われる理由が分からない。再び硬直していると、ジィーニークに、強く両肩を叩かれた。

「なるほどね。リアルが側に置く訳だ」

 そう言うとジィーニークは、大きな縫いぐるみを抱えるかのように、強く抱き締めなおしてきた。何となくこちらの方が、彼らしいのではないかと思う。

 どちらにしても身動きが取れなくて、どうにかジィーニークの腕の中から逃れられないかと、もがく。そしてふと、リアルの視線が、こちらに向けられていることに気がついた。

「それは、拾い猫のようなものよ。そのうちひとりで、どこへでも行くようになるわ」

 ガラス玉のような、透き通った翠緑の瞳で、そんなことを言う。

「……リ、ア……」

 彼女の名前を呼ぼうとして、声が掠れた。リアルの傍に行きたい。でも、ジィーニークの腕に拘束されていて、動けない。

 そもそも、彼女の傍にいても、いいものなのか。拘束する腕のせいだけじゃなく、自分の思考で、さらに動けなくなっていく。

『やりたいことが、ないの?』

 そう聞いたのは、リアル。

 俺は───

「そんな顔、しないでよ」

「え?」

 不意に、腕の拘束が弛む。そのまま身体をよじって上を見上げると、ジィーニークが苦笑していた。

「無理強いを、するつもりはないよ?」

 そう言うと、彼は完全に腕を解いて、今度はからりと笑う。

「君にも、リアルにも、振られちゃったぁ」

「は?」

 あまりにも明るく言うものだから、一瞬、何を言われたのか分からなかった。しばらく考えても、よく分からなかった。

 ぽかんと惚けていると、くすくすと、ジィーニークが笑い声を立てる。それはどこか、親しみを感じる笑い方だった。

「ねえ、テトラ。君が、リアルの傍を選ぶのなら、気をつけてあげてね」

「う、うん?」

「ジィーニ!」

 戸惑うままに返事をすると、リアルが怒気を含ませた声で、彼の名前を呼んだ。

 そのただならぬ様子に驚いていると、そこから気を反らさせるように、ジィーニークがゆっくりと頬を撫であげる。

「ひゃっ?」

 悪寒で意識が、一瞬でジィーニークに向うと、彼はこっそりと耳打ちしてきた。

「リアルは、痛みを感じなくなってるから」

「え?」

 顔を放したジィーニークは、今までで一番、優しげ笑みを浮かべていた。その柔らかさに戸惑っていると、彼にトンと、背中を押し出すように叩かれる。思わずリアルの方へ、数歩よろめいた。

「じゃあね。あ、あとこの部屋は、延長して借りてあるから。ゆっくり休んでいくと良いよ」

 振り返ると、ジィーニークはそう言いながら、ひらひらと手を振って、部屋を出て行った。


 途端に部屋の中が、嵐の去った後のように静かになる。

 静まり返った部屋で、ジィーニークの足音が、遠ざかっていくのを聞いていた。

「なんか、読めない人だったなぁ……」

 呟くと、寝台の上に座り込んでいるリアルが、機嫌を悪くする。

 そんな彼女の対処が出来なくて、居心地が悪いまま、やる事もなくて、その場に立ち尽くす。すると。

「……本当に、よかったの?」

「?」

 リアルの方から、声をかけられた。

 いつの間にか、こちらに向けられている、透き通った翠緑の瞳。その、射抜かれそうな視線が痛かった。

「見たでしょう? 王立魔導技術研究機関を。それに彼の肩書きも、申し分ないわ」

 平淡に聞こえる声のなかに、僅かな苦味みたいなものを感じ取る。すると不意に、リアルは視線を逸らした。

「私のところにいるよりも、余程……」

「リアル」

 無理矢理吐き出しているような、彼女の声を遮るように、名前を呼んだ。

「俺を起こしてくれたのは、リアルだよ」

 リアルが起こしてくれなければ、きっとあのまま、朽ち果てていた。リアルじゃなければ、きっとこんな風に、今のようには、居られなかったと思う。

 リアルだったから。俺は、俺のままで、ここに居られる。

 だけどリアルは、相変わらず、こちらを見ようとしない。

「それじゃあ、ただの刷り込みよ。いつも、もっと考えなさいと言ってるでしょう」

 そのまま呟く姿が、とても彼女らしくないと思った。

 窓から入ってきた風が、僅かに俯く彼女の髪を揺らしていく。光に透かすと、蜂蜜色になる明茶の髪が、繊細な飴細工のように見えた。

 些細なことで、簡単に壊れてしまいそうに見える。ふと、触ってみたいと思ったら、いつの間にか指を伸ばしていた。

 予想外に柔らかい、猫っ毛の感触がする。急に触れたからか、僅かに肩を揺らしたリアルは、緩慢な動作で見上げてきた。

 どことなく揺らめく、翠緑の瞳が陰っている。やっぱり、彼女らしくないと思った。

「やっと、こっち見た」

「……何?」

 不機嫌に、リアルが呟く。少し調子が戻ってきたように思えて、頬が緩んだ。それでますます、リアルは機嫌を損ねてしまったけれど。

 雑で、乱暴でも、いつものリアルが良いと思った。

「……俺はリアルだから、一緒にいきたいって思うよ」

 リアルが時折見せる、透き通ったガラス球のような、翠緑の瞳。全てを暴くような、その透明度は、怖くも感じるけれど。それ以上に、安堵した。

 自分を、見ていてくれるということ。

 彼女の視界に、何がどう映っているのかは、想像もつかないけれど。

「リアルがいいんだ。リアルだから、大丈夫だと思えるんだ」

 今だけこの気持ちが、余すことなく伝わればいいと、願いながら喋る。するとリアルは、深くため息をついた。

「馬鹿ね」

 それはすっかり、いつものリアルの調子だった。ほっとするものの、いつもと変わらない、その容赦のない物言いに、少し凹んだ。

「……そんな風に、言わなくったって」

「馬鹿よ」

 だけど心なしか、その声が、少し楽しそうに聞こえた。だからすぐに、顔の緩みが戻ってくる。

 リアルの言うとおりに、色んなことを考えられるようになったら。彼女のように、色々なことが分かるようになるだろうか。そしたら。

「……馬鹿じゃなくなったら、カーラナ様に会えるかな?」

「それこそ、馬鹿の考えよ」

 その考えを、すぐさまリアルに一蹴されて、再び凹んだ。

「……でも、そうね」

 だけど続くリアルの言葉に、懲りずに期待して、顔をあげる。

「もっと色々、考えるといいわ。馬鹿なりに」

 期待もむなしく、凹まされた。

「あんまり馬鹿馬鹿言わないでよ……」

 だけど、ここまで言われたら。いつもだったら。リアルの手が、ひとつは出ていそうな気がするけれど。リアルは寝台の上から、一歩も動かないでいる。

 遠慮のない口に、忘れさせられていたけれど。リアルの左足が、酷いことになっていたことを思い出した。

 もしかしたら、動くに動けないのかもしれないと、恐る恐る声をかけた。

「リアル。その……、足の具合は?」

「見ての通りでしょ」

 さらりと、リアルは答える。確かに彼女の左足は、怪我をしたのが、嘘のだったかのように、何の痕さえも残っていなかった。リアル自身も、そんな様子は、微塵も見せない。

 だけど、ジィーニークが言っていたことが、気に掛かった。

「……リアルが痛みを感じないって、本当?」

 気になって尋ねると、彼女は盛大に舌打ちをする。そして小さな声で、余計なことを、と毒づいた。

「リアル?」

「……そういう訳だから。怪我は平気よ」

 一通り、毒は吐き出してしまったのか。今度は、何でもないことように、リアルは言うけれど。そんな筈、あるわけがない。

「平気じゃないよ」

 リアルの、今は無い怪我を見つめる。

「痛いのは、嫌だけど。痛くないのも、駄目だよ」

「テトラ?」

「分かるんだ。カーラナ様が、痛みを分かるようにしてくれる前は、俺も痛みを感じなかったから」

「痛みが、分かるの?」

 リアルが驚く。その理由は、よくわからなかったけれど。

「わかる、よ」

 そう頷くと、リアルは視線を遠くに向けて、何か考え始めた。そして、しばらく経ってから。

「……ああ。別のファイルに、そんなことが載ってたような」

 ぼそりと、呟く。その内容に、今度はテトラが驚いた。

「もしかして、あれを全部覚えてるの?」

 自分の仕様書や、記録、カーラナ様による追記のファイルは、住んでいた屋敷の、書庫の壁棚に、ぎっしりと詰まっていた。それに目を通していたことは、知っているけれど。まさか、暗記しているなんて。

「だって、必要でしょ。必要にならなかったら、忘れればいいんだし」

 しれっと、さも当然のように、リアルは言う。その考え方は、流石に理解出来なかった。

 戸惑っていると、リアルの腕が伸びてきて、指先でトンと、胸元を小突かれる。胸元にある赤い水晶体の、少し左側。そこは、感覚を司る部品の在るところだった。

「……これは、カーラナが考えたの?」

「うん」

 カーラナ様は、自分の主だけれど、制作者ではない。その辺りについては、詳しく知らないけれど。

 カーラナ様は膨大な資料の中から、この部品の、書きかけの設計図を見つけると、完成させて組み込んでくれた。

 最初の頃、自分はよく無理をして、部品を故障させていたから。


「痛ければ、無茶はしないだろうって」

 痛むようになってから、ようやく分かった。痛いのは、嫌なこと、怖いこと。怪我をするのは、辛いこと。それは、自分自身のことだけではなくて。

「それから、自分の怪我だけじゃなくて、カーラナ様の怪我も嫌になったんだ。……カーラナ様も、結構怪我をしてたから」

「……それは、ちょっと意外かも。資料を読む限り、かなりの『理』を識るひとでしょう?」

「『理』で識ることが出来ても、自分の身体はついてこないからだって言ってた」

「ああ……」

 納得したように、リアルが相槌を打つ。

 この人も、カーラナ様と同じ。視えるのではなく、聴こえるのでもなく、『理』を識るひとなのだと、急に実感が湧いた。

「リアル、も?」

「私は、識ろうとは思わない。必要なものを、必要とするだけしか、識り得ないわ」

「でもさっき、『理』に引きずられたんじゃ」

「向こうから、勝手に入ってくる分は、範疇外よ」

 リアルは、不服そうに言う。そして。

「……分かった」

 唐突に、そう呟いた。

「怪我には、気をつける。私も」

「うん」

「アンタも、よ」

「うん」

 痛いのは、嫌なこと、怖いことだから。それと

「……あと、お願いだから、カーラナ様みたいに、急に居なくなったりはしないでね」

 ひとりになるのは、寂しいことだから。

 そう思って言うと、リアルが手招きをした。訝しく思いながらも、その距離を縮めていく。

 すると、べしりと、額を叩かれた。

「痛い!」

 反射的に、額を抑える。涙目になりながらも、恨みがましくリアルを睨むと、彼女はそれを一蹴して、ぞんざいに構えていた。

「その為に、どうすればいいのか、自分で考えなさいって言ったでしょう。それにね」

 あからさまに機嫌の悪い声が発せられて、思わず姿勢を正す。

「私だってね、何でもほいほいと、拾って歩いてるんじゃないのよ」

「……?」

 その言葉に要領を得ないでいると、今度は舌打ちをされた。……本当に、態度が悪い。

「アンタを起こしたときから、それなりの覚悟はしてるって言ったの! 責任の持てないものを、拾ったりなんてしないわ」

 ふいとリアルは、顔を背けた。思わずその横顔を、食い入るように見つめる。彼女の上着の裾を、軽く掴んで引っ張った。

「リアルがいい」

 呟くと、リアルの視線が向けられる。

「俺は、リアルがいいよ」

「……やっぱり、馬鹿ね」

 呆れたように、リアルがそんなことを言う。

「馬鹿でいいよ」

 よくわからないけど、楽しくなってきて、笑うと。

「……ムカつくわ、その顔」

 むず痒そうな顔で、リアルがそう言うものだから。思わず、吹き出してしまった。



 全てがカーラナ様だけだった、自分だけど。

 カーラナ様に会いに行く道すがら。

 今は、色々なものを見てみたいと、思っていた。

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