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時間交差  作者: 乙葉 蒼
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貴方と僕を繋ぐ、現在

 窓外に広がる荒野で、大きな太陽がゆっくりと、地平へ沈んでいく。夕日が窓から差し込んで、小さな室内は、朱に染められていた。

 窓際に据えられた小さな寝台に、柔らかそうな金髪を散らして、少年が寝そべっている。少女がその様子を、寝台の縁に腰をかけて、のぞき込んでいた。

 部屋を照らしていた朱い光は、あっという間に消えていく。代わって薄闇に覆われた室内で、少年の瞼が僅かに震えたのを、少女はじっと見つめていた。


 寝そべった少年の金糸の長い睫が、僅かな光を弾いて持ち上がる。ゆっくりと、紅玉を思わせる瞳が開いた。寝起きのせいか、ぼんやりとした表情で、その瞳が彷徨う。

 そして、傍らに座る人影を、視界に捉えた。


 部屋が薄暗くて、姿がよく見えない。それでも、この屋敷に居るのは、彼女だけだから。横たわったまま少年は、在るべき名前を呼んだ。

「カ、……ナさま?」

 喉が引きつって、うまく声が出ない。続いて体を起こそうとすると、今度は指先が、僅かに動いただけだった。まるで身体が、自分のものでなくなってしまったようで、縋るように傍らの人影を見つめた。

「カーラナは、居ないわ」

 その言葉に、目を見開く。聞き覚えの無い、少女の声だった。ようやく闇に馴れてきた目で、その姿を捉える。そこに、『主』──カーラナの姿はなかった。

 寝台の縁に腰をかけて、自分を見ている瞳は、黒曜石ではなく。翠緑のそれは、きらきら光る、ガラス球のようだった。

 肩まで伸びた、闇に溶けそうな黒髪は、そこにはなく。柔らかそうな短い髪は、闇の中でも分かる、明茶色をしている。

 そこに居たのは、カーラナさまより少し幼く見える、十代後半と思われる少女だった。

 

 表情なく、少女は自分を、じっと見つめてくる。ガラス玉のようなその瞳に、全てを見透かされてしまいそうで、思わず畏縮した。

 強張る身体に力を入れて、彼女から距離を取るように、ゆっくりと上体を起こす。関節が軋んだものの、身体は動くようになっていた。

「私は、リアル。あなたは?」

「えと、テトラ、です。……リアル、さん?」

 少女の問いに答えると、彼女は小さく肩をすくめた。

「リアル、でいいわ。さん付けなんて、むず痒いし」

「あの……カーラナさまが、いないって……どうして?」

 問いかけると、翠緑の瞳が、まっすぐに向けられる。その冷ややかさを感じる透明度に、酷く緊張して息を飲んだ。少女はは沈黙したまま、何も話さない。


 少女の名前に、覚えはなかった。主の知り合いかとも考えたけれど、これまでカーラナさまの知人というものに、ひとりとして会ったことがない。この屋敷はずっと、自分とカーラナさまの、二人だけだった。

 初めての状況に動揺して、身体の軋みが、一層ひどくなる。

「……カーラナさまは、どこかへ行ったの?」

 掠れる声で、再びリアルに問う。彼女の瞳は相変わらず、人形の眼に埋められたガラス球みたいだった。その視線が落ち着かなくて、次第に胸が苦しくなってくる。

「カーラナさまは、どこ?」

 声が震えた。はやく主を目にしたいと、それだけを思う。だけど彼女は、無情に応えた。

「どこにもいないわ」

 淡々としたリアルの声が、遠くに感じる。足元が、崩れ落ちたような感覚に襲われた。

「……どうして。だって、昨日、寝る前まで一緒に……!」

「それは、昨日じゃないもの」

 とうとうと話す彼女の言葉に、一瞬思考が停止する。

「……どういう、こと?」

 リアルの紡ぐ言葉の意味が、理解できない。そのまま硬直していると、彼女はゆっくりと喋り始めた。

「あなたが眠っている間に、五百年が過ぎてる。あなたが言う昨日は、既に遠い、遥か昔よ」

「そんな……、本当に?」

 俄かには信じられなくて、部屋を見渡す。内装も、物の位置も、なに一つ、変わったことなどない。ただ、カーラナさまが居ない。それだけなのに。

 前日も、いつもと変わらない日常を過ごして。いつもと同じように、おやすみの挨拶を交わして眠りについた。それなのに、どうして。

「まあ、まずは」

 悶々と考えていると、リアルが、抑揚の無い声で告げた。

「とりあえず夕食にしない? 朝からこれに取り掛かって、何も食べてないの」


 独特の調子で、彼女は何もかもを、何でもないように話す。自分の調子は狂わされるけれど、なぜかそのことに不満を感じたり、憤ったりはしなかった。むしろ、どこか人形のようだと思わせる少女が、生活観のある台詞を吐いたことを、意外に思う。

 呆然としている間に、リアルは寝台から降りた。そのまま、部屋を出て行こうとしている。

彼女を追いかける為に、慌てて身体を動かした瞬間、酷く関節が軋んだ。

「い……っ」

 その痛みに耐えかねて、寝台の上にうずくまる。きつく閉じていた目を、薄く開くと、ふと自分の腕が視界に入った。

 袖のない服から伸びる、腕の表皮には、質朴な文様が刻んである。よく見れば、その文様を流れるように、僅かな光が瞬いているのが見て取れた。

 それは、体内を流れる魔力の光。この体が、魔力で動いている証。

 リアルを人形のようだと、評した自分が、少し可笑しくなった。

 魔導士カーラナが所有する、自立型魔導具。『人形』であるのは、自分自身なのに。


「何やってるの」

 寝台にうずくまっていると、声が聞こえた。声が聞こえた方向に、ゆっくりと顔を上げると、リアルがすぐ傍で、自分を覗き込んでいた。

「ずっと眠っていた身体を、急に動かそうとするからよ」

 そう口にする彼女に腕を捕まれて、身体を引き起こされる。寝台の上に座ると、腕を伸ばされることから始まって、リアルは全身をくまなく触り始めた。

 腕の関節、手首の関節、手、指の関節と、順番に手に取って、彼女は見ていく。両腕を見たら、今度は足へ。足を確認したら、頭、首を辿って、胸元へ、彼女の指が伸びていく。そして、そこにある紅い水晶の飾りに、リアルはそっと触れた。

 紅い水晶は、身体に直接繋がっている、全身の制御装置だった。触れたリアルの指先から、魔力で練られた、魔術式を感じ取る。そして紅い水晶は、その表面に光の文字を浮き上がらせた。簡易な診断機能が働いている。

「……部品を傷めては、いないみたいね。魔力の残量が少ないみたいだけど、今の状態なら、今夜にでも解消出来ると思うわ。無理はしないことね」

 確かに『人形』である自分は、日中を動いて過ごすための魔力を、夜に『睡眠』という形で生成している。だから夜の決まった時間になると、自動で休眠状態に入るようになっていた。そして、今度は決まった時間に『起床』する。

「リアル……」

「何?」

「貴方は、何者なの?」

 唐突に現れて、何もかもを把握しているように、彼女は行動する。まるで、この屋敷の主のように。本当の『主』の姿を思い浮かべると、何もかもに困惑した。

 どうして、こんなことになっているのか。必死に考えても、今の自分には、答えを導き出せるだけの情報が無い。目の前の彼女は、知ってるだろうかと、縋るような思いで、その姿を見つめる。

 すると彼女は、ただ一つだけ、答えをくれた。

「……私は、ただの人間よ」


 歩き出すリアルに続いて、部屋を出る。そのまま歩いて行った先は、厨房だった。

 そういえば、夕食にしようと言っていたことを思い出す。リアルは馴れた動作で、焜炉に向かっていた。

 自分はどうすればいいだろうと、戸惑う。カーラナさまとだったら、どうしていただろうと、思いだしていると。

「テトラ」

 名前を呼ばれて、一瞬、言葉を失った。その名前の呼び方が、思わずカーラナさまの、姿を重ねてしまうほどに、よく似ていた。

 しかしそんな驚きも、リアルの手にしていたものによって、どこかへ飛んでいってしまう。

 彼女が持っているのは、玉葱だった。なんの変哲もない、玉葱だけど。

「……その玉葱、自分で持ってきたんですか?」

「ううん、ここにあったやつ」

 そう言ってリアルは、躊躇無く、玉葱を刻み始める。華奢に見える姿に反して、その包丁さばきは、意外と豪快だった。

 だけど問題は、そこではない。

「さっき、おれが眠ってから、五百年が経ってるって、言いませんでしたか?」

「言った」

「その間、誰かが居た訳じゃないですよね? 嘘じゃないならそれ、五百年前の玉葱ですよね?」

 普通の玉葱だけど。見た目は、普通の玉葱だけど。

「大丈夫よ。変な匂いしないし、見た目にも痛んでないじゃない」

 そう言いながらリアルは、刻んだ玉葱を、鍋の中へ放り込んでいく。そして、他の野菜も手に取ると、先刻と同様に、豪快に刻んでいった。

 その姿を眺めながら、いっそ全部が、夢でいてくれないかなぁと、ぼんやりと考えた。


 リアルが作っていたのは、野菜とパスタを煮込んだスープだった。

「まあ、簡単でおなかが膨れれば、何よりよね」

  そんなことを言いながら、出来上がったスープの鍋を、テーブルの上に運んで、皿に盛り始めている。大皿に一杯。そして、小さな皿にもう一杯。

「リアル?」

 彼女が食事をするにして、皿の数が多い。そう思っていると、けろりと彼女が応えた。

「食べられるんでしょ。なら食べなさいよ。テトラが目の前に居て、ひとりだけで食事をするなんて、嫌よ」

「あ、じゃあ、おれは席を外してるから……」

「ちゃんと話を聞いてた? ひとりが嫌だって言ったの」

 そう言って、小さな皿を押し付けてくる。思わず受け取ると、リアルは僅かに、満足そうな笑みを浮かべた。

「……そんな顔もできるんだ」

「? なに」

「ううん、なんでもない」

 頭を横に振って誤魔化せば、すぐにリアルの顔から、表情が消えてしまう。それでも手にしたスープの温かさが、最初に彼女に感じた冷たく尖った印象を、少しずつ溶かしていくようだった。


 机に、二人で向かい合って座ると、食事を前にして、手を合わせる。

「いただきます」

「いただきます」

 それから大きな匙を手にとって、小さな皿の中をかき混ぜた。カーラナさまもよくこういうのを作っていたけれど、リアルの作ったものは、とにかく野菜が大きい。そして大きさが、不揃いだった。

 皿と匙の大きさが、ちぐはぐだけれど、そうじゃないと中身が掬えない。匙に掬いあげて、口に運ぶまでに苦戦しする。リアルはというと、軽快に平らげていた。

「なによ?」

「な、なんでもない、よ?」

「いいじゃない。おなか空いてるんだもの」

 視線の意味を感じ取ったのか、リアルが拗ねたような声を出す。相変わらず、表情にはそれらが出てこない。

 そこでふと、彼女が食事をとっていないと言っていたことを思い出した。

「そういえば、朝から何も食べてないって?」

「そうよ」

 それだけを告げて、リアルは片腕で頬杖をつくと、もの言いたげに、こちらを見つめてくる。思わず、行儀が悪いと思ったけれど、その視線の居心地の悪さに、口に出すのは憚られた。

「……そ、そんなにお腹が空いてるなら、どうして?」

 だけど気まずい空気にも耐えきれず、口を開く。すると彼女は、大きな匙を指で弄んだ。

「まずはこの家の、外側の結界」

 次いで、長い溜め息を吐く。

「それから、テトラが寝ていた部屋と、整備室。それに貴方自身の封印解除。それがすべて連動していて、ひとつでも間違えると……」

 リアルの眼が据わる。思わず、息を飲み込んで見守っていると、リアルはしばらく沈黙した後。

「……ホンと、悪趣味だわ」

 そう、小さく呟いた。

 魔導知識に詳しくなくても、その仕掛けが難儀なものであることは、彼女の様子から、容易に想像がついた。加えて、仕掛けた相手はあの、カーラナさまなのだから。

「……どうして?」

「だって途中でやめても、解除が出来くなる……」

「えと、そっちじゃなくて」

「……ああ、どうして手をつけたかって事?」

 うまく言葉に出来なかった部分を、リアルが汲み取ってくれて、頭を縦に振る。

 ここはカーラナさまが、人、そして魔導士からも、身を隠すための屋敷だった。普通なら、外の結界にも気が付かない。ましてや、それを破ろうとするなんて。

「半分は、興味本位。あとの半分は……」

 リアルが手のひらを上にして、人差し指と親指で円を作る。その意味がわからなくて、首を傾げると、ポツリと彼女が呟いた。

「お金、よ」

「……」

 その意味について、必死で考えを巡らせる。

「……強盗、なの?」

 出した結論を口にすると、リアルは盛大に眉をひそめた。その表情の変化に、眼を見張ると、次の瞬間、彼女は机の上に突っ伏していた。

「どうしてそうなるの……」

「だって、お金って」

「ああ……。そう、そうね……」

 リアルは頭を、重そうに持ち上げると、そのまま考え込む仕草をした。そして匙を、目に突き出してくる。

「……ここに、カーラナは居ないって言ったけど。この時代には、魔導士自体が、存在しないのよ」

「え」

「理由は定かじゃない。もともと、その存在自体が少ないものだし。だけど五百年前位から、姿を見せなくなった」

 俄かには、信じられなかった。

 人が恐れていたものが。カーラナさまが恐れていたものが。この世界で、盛大な威力を放っていたものが、もういない。

 しかしリアルの眼差しには、嘘を言っている様子はなかった。

「自分に向けられる強い力は、怖いものだわ。でもそれが、自分でも扱えるものだとしたら?」

 僅かな心当たりに、目を見張る。彼女の瞳が、すっと細められた。

「魔導具」

 言いながらリアルは、手にしていた匙を置いた。


 魔導具は、魔導士が開発した魔術式を、簡略する為に開発された道具だった。大きい術になればなるほど、必要になる複雑で大掛かりな術式を、道具の中に凝縮している。

 それは、人と魔導士の争いが、激化することで発達した、戦争のための技術だった。

「現存するものは少ないけれど、壊れていても研究資料として、高額で引き取ってくれるのよ。所持することが、金持ち連中の、ステータスになってるところもあるしね」

 彼女自身が振った話なのに、言い終えたリアルは、興味なさげに食事を再開する。だけど、同じように食事をする気には、到底なれなかった。


 手の震えが止められない。だって自分は、彼女の言うところの、魔導具の塊だった。

 リアルはどうするつもりなのだろうと、不安を募らせていると、何の感情も浮かべずに、ただ見つめてくる、彼女の瞳に気がついた。

「テトラ」

 名前を呼ばれて、身体が硬直する。

「そんなに怯えなくてもいいわよ。あんたみたいな役立たず、二束三文にもならないんだから」

 それは、衝撃的な言葉だった。

「……ひどい」

「じゃあ、なにか出来るの」

「うう……」

 唸って考えてみるものの、反論できる要素がなくて、項垂れた。そのまま、止まっていた手を動かして、匙を口に運ぶ。大きな野菜を、何度も租借した。

「……。どう?」

 流石にリアルも、それ以上の追い打ちをかける気はないらしい。話題を変えるように、彼女に問われるものの、口の中に入れた野菜のせいで、応えられなかった。

「……」

 租借を繰り返しているものの、なかなか飲み込めない。

「……、……っ」

 早く応えなければと、必死で租借していると、リアルが片手を上げて制してきた。

「私が悪かったわ。ゆっくり食べればいいから」

 むぐ、と口の動きを止める。やっと、口の中の野菜が細かくなって、そろそろ飲み込めそうだと思った。こくりと飲み込んで、感想を口にする。

「野菜の味がします」

「え?」

 思いついたままを口にすると、リアルが目を瞬かせた。

「……や、そうじゃなくてね」

 戸惑いを隠せないまま、リアルが顔の前で手をパタパタと振っている。首を傾げて、他の感想を考えてみた。

「塩胡椒がきいてます?」

「まあ、それはまだ。というか、塩胡椒しかいれてないし……。って、それでもなくて」

 再びのため息の後、リアルは少し呆れた表情を浮かべた。

「もっとこう……美味しいとかイマイチとか、好きとか嫌いとか。そういうのはないの?」

「えっと……」

 リアルの言う意味を、考える。

「……」

 カーラナさまとも、よくこうして、一緒に食事をした。あの人が、望んだから。

 どんな味がするかと問われたから、答えた。今みたいに。カーラナさまはいつも、微笑んで聞いてくれた。

 たまに、違う味のものを、ふたつ用意されて、どちらがいいか問われた。選べなかったから、いつも半分こすると答えた。

 カーラナさまは、困ったように、それでも楽しそうに、笑ってくれていた。だから、いつも半分こを選んだ。

 好きとか、嫌いとかは、考えなかった。


「あの、……よく、わからなくて」

「そう」

 俯いて答えると、リアルが立ち上がった。視界から消えていく大きな皿は、すでに空になっている。

 その声の調子だけでは、リアルが何を考えているのか、わからなかった。呆れたのか、興味を失ったのか。……それとも最初から、興味なんてなかったのかもしれない。

「じゃあ、先に失礼するから」

 自分の皿には、まだ中身が残っているから、同じように立つ訳にはいかない。

 食事を続けていると、食器を片付ける音が聞こえてくる。そしてその後、足音が遠ざかっていく音が聞こえた。

 残された皿から、野菜を掬って、口に運ぶ。租借して、飲み込んで、また口に運ぶ。

 あまり大きいまま飲み込んでしまうと、消化機関に負担がかかってしまうから、よく噛まないといけない。それに一日一食、小皿の量を食べることが、限界だった。

 時間がかかる食事。カーラさまは、ゆっくりと食べる方だったから、今まで気にしたことはなかったけれど。

 何度も租借して、飲み込む。

 さっきまでは、確かに野菜の味がしていたのに。今は何故か、どんな味も、感じることが出来なかった。



 なんとか食事は終われたけれど、今度は、手持ち無沙汰になってしまった。どうしようかと、考えを巡らせる。

 夜も更けていて、休眠に入る前に、部屋に戻ってこられないのも困る。しかし、このまま寝てしまうのも、リアルに対してよくないだろうと思った。けれどその彼女が、どこに居るのか分からない。

 ここに来るとき、廊下の明かりは、一部分しか付いていなかった。それを目印にすれば、リアルに辿り着けるだろうか。

 そう思って、部屋を出た。


 何となく、カーラナさまの部屋の前で、立ち止まる。

 リアルが、どこにいるだろうと考えたとき、最初に思い浮かんだのが、この部屋だった。カーラナさまが、いつもこの部屋にいたからって、リアルがいるとは限らないのだけど。

 だけど扉を目の前にして、ノックするのを躊躇した。だけど、どうしても、この部屋から確認したい。

 思い切ってノックをする。返事はなかった。なんだか、肩すかしを食らった気分で、そっと扉を開く。

「いない……よね」

 カーラナさまの部屋も、なにひとつ変わっていない。そのことに安堵する。

「カーラナさま……」

 吐息でささやくように、その名前を呼ぶ。だけど、応えてくれる人はいない。

 もう一度、息を吐き出して顔を上げると、机の上に、紙が散らばっている事に、気が付いた。近づいて、その紙を手に取る。見慣れない文字が並んでいた。

「リアル……かな」

 どうやら書いてあるのは、魔術式のようだった。どんな魔術式なのかは、自分には分からないけれど。

 書き連ねられた、少し右上がりの、癖のある字を見つめる。

「……書庫にいるかも」

 この屋敷の中で、魔導と関連がある場所として思い浮かぶのは、自分の部屋、カーラナさまの部屋。そして整備室と、書庫。

 書庫だったら、魔術書や、カーラナさまの研究記録など、沢山の書籍が保管してある。思い立ったら何とやら。急いで、書庫へと向かった。


 書庫の扉を開くと、目的の人物の後ろ姿が見えた。本棚の前に立って、物色している。

「……いた」

「なに?」

 振り向く事もしないで問われて、飛び上がる。気が付いていても、可笑しくはないけれど、彼女に何の反応もなかったから、気が付いていないのだと思っていた。

「なにか用事があって来たんじゃないの?」

 そう問われると、大した用事ではないことが、気まずいと思った。

「あの……その、お、お休みを言おうと思って」

「そう」

 そう言うと、素っ気ない返事が返ってくる。リアルの視線は、本を見つめたまま、離れなかった。

「ねえ」

「はい」

 リアルから声をかけられるとは思わなくて、思わず姿勢を正して返事をする。

「この中に、手を付けちゃ駄目なものとかって、ある?」

「えっと……」

 自分には、意味が分からない本ばかりだから、リアルの言う善し悪しが分からない。それでもカーラナさまだったら、そういうものを、目のつく場所には置いておかないだろうと思った。

「多分、ないと思います」

「そう」

 そして再び返ってきたのは、前と同じ素っ気ない返事だけ。なんだか言葉を交わしているのに、すれ違っているように感じて、胸の中が空いてしまったような気分になる。

 こんな気分になるだけなら、自分の部屋に戻ってしまおうと、リアルに声をかけた。

「あ、あの。お休みなさい」

 返事は期待しないで、背を向ける。そうして歩き出すと、名前を呼ばれた。

「テトラ」

 足を止めて振り返る。すると、透き通った翠緑の色と、視線が合った。

「お休み、テトラ。良い夢を」

 そんな時だけ、リアルはちゃんと、眼を合わせて話す。その表情に、変化はなかったけれど。

 静かな瞳と、なぜか柔らかく感じた声音は、いつもカーラナさまと交わしていた、お休みのキスを思い出させた。



 目を覚ますと、窓の外が明るかった。時計を確認すると、いつもの起床時間を示している。なんだか昨日の出来事が、夢でも見ていたように思えた。

 だけど自動で行われる、起床時の診断機能で、右足に僅かな警告が出る。魔力の回路が、少しだけ痛んでいた。

 カーラナさまがいたときには、こんなことは起こらなかった。カーラナさまは、自分でも気がつかないような傷みにも、すぐに気が付いて直してくれていたから。

 カーラナさまが、居ないから。その事実に、胸が塞ぐ。

 だけど頭を振って、重たい気持ちを振り払うと、今日を始めるべく、部屋を後にした。


 朝食の準備は、した方が良いかな。

 廊下を歩きながら、ぼんやりと考える。カーラナさまとの習慣は、そのままリアルに対して、行っていいんだろうか。

 カーラナ様は、自分と一緒に取る夕食以外は、割と手を抜く癖があった。だから仕度を手伝って、ちゃんと食べてもらうようと、気を付けていた。

 その度にカーラナさまは、ひとりの食事はおいしくないと、よくぼやいていた。そういえば、リアルも昨日、同じようなことを言っていた。

 今までは、ひとりで食事なんてしたことがなかったから、その言葉の意味が、よく分からなかった。でも。

 昨日の、味のしない夕食。ひとりで食事をすると、いつもあんな味になるのだろうか。

 ふと、カーラナ様の寂しそうな横顔が、思い浮かんだ。


 厨房まで行くつもりだったけれど、その途中で、僅かに開いた扉から零れる、書庫の明かりに気がついた。灯りを消し忘れたんだろうかと、部屋を覗く。

 すると、まだ朝だというのに、机の上に本の山を作って、リアルが読書に没頭していた。

読み終わった本を左側に置くと、すぐに右側の山から、本を手にしていく。本の虫、という言葉が、頭のなかに浮かんだ。

 あまりの没頭振りに、声をかけ辛く思っていると、ふいに顔を上げた翠緑の瞳と、目が合った。

「ああ、おはよう。テトラ」

「おはようございます……」

 挨拶を交わすと、リアルはすぐに、本の世界に引き込まれてしまう。邪魔をしないようにと近づいて、躊躇いがちに声をかけた。

「あの……リアル。朝食は食べますか?」

「んー」

 その声が生返事過ぎて、どちらなのかよく分からない。もしかして、声に反応しているだけで、話は聞いていないのかもしれない。

 この様子だと、リアルはここから、離れなさそうだった。ふと、ある思いつきが、頭のなかをよぎる。

「……用意して、こっちまで持ってきますか?」

「うん」

 提案すると、今度は、はっきりとした返事が返ってきた。聞いてはいる、らしい。

 本に没頭するリアルの姿を眺めてから、ひとまず朝食の準備をしようと、そろりと部屋を後にした。


 書庫の扉をノックする。返事はなかった。

 それでも、部屋の中から人の気配を感じて、書庫の中を覗き込むと、出て行ったときと、寸分違わぬリアルの姿があった。

「スープで良かったですか」

「ええ。置いておいてくれる?」

 問うと、そう言われる。だけどリアルは、あまり周りを見ないで、本に手を伸ばしている節があって、どこに置いても危ない気がして困ってしまった。

 彼女を眺めながら、もう少し、胃に収まるものを作ればよかったと考える。でもパンはなかったし、あったとしても、使うには躊躇しただろう。そうなると、作れるものは限られていると、思い直した。

 つらつらと考えながら、リアルの左側に積まれている、本の小山を見る。さっき見たときよりも、数冊増えていた。読む速度が、早い。本棚に納められた本すべてを、読みつくす勢いだと思った。

「テトラ」

「は、はいっ」

 不意に名前を呼ばれて、背筋を伸ばす。リアルが手を伸ばしてきた。

「頂戴」

「あ、はい」

 スープを零してしまわないように、慎重に手渡す。飲みやすいようにと、カップに入れたスープを、リアルは両手で包むと、靴を脱いだ両足を、椅子の上へ上げて擦り合わせた。

「寒いですか? それなら……」

 何か用意しようかと考えると。

「んー、平気。本を読んでる間は、気にならないし、邪魔になるから」

 足をこすり合わせながら、そんなことを言う。本当に、本の虫なんだと思った。


 その後もずっと、リアルは足をこすり合わせていた。自分が起きる前から、ここに居たみたいだし、体が冷えているのかもしれない。

「何?」

 視線が気になったのか、スープに目をやったまま、リアルが問いかけてきた。

「え、と。いつから、ここにいるんですか?」

「その丁寧な物言いやめてくれる? 昨日は平気だったじゃない」

 そう言って彼女は、吹きかける息でスープを冷ましながら、一口啜る。

「だ、だって……」

 昨日は、状況についていくだけで、やっとだった。今だって、十分に受け入れられた訳でもない。ぐるぐると考え込んでいると、リアルがカップから口を離して、顔を上げた。

「別に、大丈夫なんでしょ。そういうの」

「……う、ん」

 少し言い篭って、返事をする。『人形』は、それぞれに枷があって、そういうことが出来ない『人形』も、存在するらしい。他の『人形』のことは、よく知らないけれど。

 それでも『人形』が、道具だというのは、よく分かっていた。与えられた役割を果たすために、必要な枷がある。

 だけど自分には、驚くほど、その枷がなかった。そしてその意味を、未だに理解できないでいる。

「あ、の。リアルは、いつから?」

 それでも、砕けた物言いは慣れなくて、少し緊張しながら問う。反対にリアルは、のんびりと、スープを再び口にしていた。ゆっくりと半分ほど飲み下してから、口を開く。

「あなたが、再起動する前から」

 そう言ってリアルは、本棚を眺めた。

「あなたの本、ここにあるでしょ」

 リアルが言葉で示したものが、すぐに分かった。棚には、自分の整備記録、研究資料、設計書などが収まっている。難しいことが細かく書き連ねられているその本を、解読できるなんて、正直凄いと思う。

 どんな朝早くから、書庫に籠もっているのだろうと、疑問に思ったけれど。答えから考えるに、むしろ書庫から、ずっと離れていないのかもしれない。

 ずず、とスープをすする音が聞こえてきた。椅子の上に足を上げる姿といい、彼女はあまり行儀がよくない。カーラナさまは、そういうことには厳しかったと、少しそわそわする。

「ご馳走様」

 空になったカップを受け取ると、リアルは何事もなかったかのように、再び本に没頭し始めた。

 その邪魔をしないように退室する。この調子だと、やっぱりここを離れないのだろう。

 昼食用にパンでも焼こうかな。そう考えながら、空のカップを持って、再び厨房に向かった。


 昼食も、読書の邪魔にならないようにと、パンの間に具を挟んだ軽食を用意してみた。書庫を覗くと、リアルは相変わらず、黙々と本を読み進めている。 

 あまりの没頭振りに、声をかけるのが躊躇われて、そっとトレーを机の端へ置いた。

 気がつくだろうか、と心配していると、すでにリアルの手が伸びていた。彼女は何も見ていないようで、意外と目聡い。

 それ以上は、特にすることもなくて、彼女の両側に積まれた、本の山に目をやる。

 読み終わった本なら、片付けてもいいだろうと考えて、本に手を伸ばすと、不意に声をかけられた。

「声、かけてくれればいいのに」

 昼食を平らげたリアルが、こっちを見ている。本に夢中になっていると思っていたのに、本当に目聡い。その声に驚いて、やましいことは何もないのに、不自然な動きで、彼女に向かって振り向いてしまった。

「……あ、の。こっちの本は、片付けても……いいの?」

「うん」

 恐る恐る問うと、元々こちらへの興味は薄かったのか、リアルの視線は、本へと戻っている。その姿に、気まぐれな猫を連想した。

 片付けても良いと言われた、本を抱えると、本棚に戻していく。そうしていると、本棚に並んでいる本の順番が、乱れていることに気がついた。

 カーラナさまは、行儀や礼節を大切にする。だけど自分の身の回りに関しては、意外と大雑把だった。自分が分かればいいのだと言って。

 だけどカーラナさまに、持ってきて欲しいと頼まれたとき、自分が酷く困ったのを覚えている。その時から、整頓するのは自分の仕事になっていた。

 抱えていた本を置いて、棚の本を並べ替える。すると今度は、リアルが読んでいる本の続きが、そこにあることに気がついた。

 続きを抱えて、リアルの元に戻ると、出来るだけ分かりやすそうな場所に、置いておく。そして今度は、読み終わった本を再び抱えて、本棚に戻していった。

 黙々と作業するのは、苦にならない。カーラナさまも、それほど口数が多い人ではなかった。そうしてしばらくすると、ふと、リアルの小さな声が聞こえてきた。

「ここにいなくても、好きなことをして過ごせばいいのに」

 その声に振り返る。だけどリアルの視線は、本に向き合ったままだった。話しかけられたのか、独り言なのか、よく分からない声の響きに、困惑する。

「リアルは……困る?」

 思い切って、問う。情けなく、声が震えていた。

「別に。かまわないけど」

 リアルから返ってきたのは、いても、いなくても、困らないと思わせる、そんな返事だった。少しでも彼女の、役に立ちたいと思うことは、間違っているだろうか。

「……じゃあ、ここにいる」

 それでも他に、何をして過せばいいかなんて、思い付かなかったから。

 今出来ることに、すがっていたかった。



 書庫の窓から見える空に、赤が僅かに混じりだした。そのことに気がついて、そっと書庫を後にする。朝のリアルの様子を思い出して、夕食は暖かいものがいいだろうかと考えながら、厨房に向かった。

 夕食の支度を進めていると、やがてリアルが、そこへのそっと顔を出した。

「おなかすいた……」

 リアルはそう言うと、そのまま机の上に突っ伏してしまう。彼女は意外と、行動での表現は豊かだった。現に今も、おなかを押さえている。恐らく、本を読んでいる間は、空腹に気が付かなかったのだろう。

 空腹に耐えているリアルの為に、食事の仕度を急ぐ。

「ねぇ、テトラ」

 すると突然、リアルに呼びかけられた。机に突っ伏したまま見上げてくる瞳が、怒気をはらんでいるように見えるのは、多分気のせいじゃない。

 冷や汗を流しながら、次の言葉を待っていると、彼女は地の底を這うような声を出した。

「何で、一人分なの」

「え、と……。書庫まで、持っていこうと思ってたし」

 リアルが、何に対して怒っているのか、よく分からない。それを察したのだろう、彼女の視線は、鋭さを増していた。

「昨日の話を聞いてた? ひとりで食べるの、嫌だって言ったじゃない」

「え、だって。おれは食べなくても構わないんだし」

 自分が食事を取る必要性は、どこにも存在しない。それに朝食も昼食も、リアルは普通にひとりでとっていた。だからこそ、大丈夫なのだと思っていたのに。

 するとリアルは、右手の人差し指を立てた。

「一食は、食べられるでしょ?」

 そう言われて、リアルが、自分の仕様書に目を通していたことを思い出す。そして昨日、用意された食事が、丁度自分が、食べきれる量であったことも。

 するとリアルは、腰に下げた鞄の中を探ると、目の前に手を差し出してきた。

「それなら、これだけ食べなさい」

 その指には、小さなスコーンのようなものが、摘まれている。その物体自体も気になるものの、この状況に対して、リアルの表情はとても物騒だった。

 どうすれば良いのかと焦っていると、リアルはさらに、それを口元に近づけてくる。

「ほら、口を開けて」

「え、ええっ?」

「早く」

 リアルに急かせれて、仕方がなしに口を開ける。口の中に放り込まれて、その物体を、そのまま噛み砕いた。

「……っ」

 想像もしなかったひどい味で、その場にうずくまる。すると上から、楽しそうなリアルの声が聞こえてきた。

「どう?」

「リア、んぐ……っ」

 味が広がることを抑えるために、口を動かすこともままならない。上を向くと、リアルは微笑を浮かべていた。その顔は恐らく、物凄く楽しんでいる。

「飲み込まなきゃ、駄目よ?」

「うううぅぅ」

 その一言が、拷問かと思った。なんとか飲み下すと、リアルがもう一度、問いかけてくる。

「どう?」

「……おいしく、ない」

「これは嫌い?」

「きらい、です」

 まだ口の中に、味が残っている。何も考えられなくて、鸚鵡返しのように答えると、リアルが満足そうに笑った。

「やっぱり、おいしい食生活の為には、不味いものも経験しておくべきね」

「ひどいよ、リアル……」

 ぼやいていると、リアルは鞄から、円筒の入れ物を手にする。そして、その中から同じものを、もうひとつ指で摘んで取り出した。

「これ、栄養だけはあるんだけど」

「それ、なんなの?」

 指で摘んでいるリアルに、警戒しながら問いかける。

「携帯食料。持ち歩くには、便利」

 答えるとリアルは、それを自分の口の中へと放り込んだ。噛み砕いて飲み込む際に、彼女の眉根が、少しだけ寄る。

 そんな僅かな表情の変化だけで、それを食べられることが、信じられなかった。


 気を取り直すと、二人で向かい合って、席に座った。机の上の食事は、用意していた一人分。よそい分けようとするリアルを、何とか止めた結果だった。

 代わりに、携帯食料を食べるかと聞いてくるリアルに、あれはもう嫌だと訴えたら、彼女は楽しそうに笑っていた。

 そんなこんなで、食事をするのはリアルだけ。その様子を眺めながら、気になっていたことを、聞いてみることにした。

「リアルはずっと本を読んでるけど、本が好きなの?」

「……色々な事を知るのは、重要な事よ」

 少し難しい顔をして、彼女はそんな風に答える。見るからに本の虫なのに、好きだとは答えないのが、不思議だった。

「時間がないもの。ここにあるもの、出来るだけ読んでおきたい。それよりテトラには、やりたいことがないの?」

「……どうして?」

「ずっと、本の整理してたじゃない。私のことなら、気にしなくてよかったのに」

「そういうつもりじゃ、ないけど……」

 思わず、こちらを見つめてくるリアルから、視線をそらした。それでも、リアルの視線が、突き刺さるようだった。

「したいこと……」

「好きなこととか、でもいいけど」

 重ねて問われて、考える。なにも出てこなかった。

 カーラナさまの傍で過ごすことが、当たり前で。カーラナさまの役に立とうと思って、その他に、何かをやろうだなんて、考えたこともなかった。

 何も、答えることが出来ない。リアルの視線が、とても痛かった。

「……じゃあ、起こさなければ良かった?」

「え?」

 リアルの声は、呆れる様子を見せず、責める調子でもなく、ただ静かに響いた。

 思わず、リアルを見る。すると彼女の、ガラス球のように透き通った瞳に、自分が映っているのが分かった。そのことに、酷く落ち着かない気分になる。

「何もしないで、ただ時間を過ごすのなら、起きていても眠っていても変わらないでしょ」

 リアルの、静かな言葉が胸に堪えた。なにも、返すことが出来ない。

 起こしたのは、彼女なのに。そんなことを言うなんて、酷いと思う。その一方で、リアルの言う通りだとも、思っていた。

 沈黙が流れる。しばらくして、リアルが小さくため息をついた。

 その音に、指先が震える。だけど、彼女の視線が外されたことに、安堵もしていた。

「……食事は、よく作るの?」

「え?」

「慣れてると、思って」

 リアルの表情は、それほど豊かではない。だから今も、無表情に近かった。だけど、彼女のまとう雰囲気が、和らいだように感じて、一息に空気が軽くなった。

「あ、はい。カーラナ様と一緒に」

「ふうん」

 彼女の方から尋ねてきた筈なのに、素っ気無い返事が返ってくる。だけど。

「……私、好きな味よ」

 ぽそりと付け加えられた言葉を、嬉しく感じた。

「あ、ありがとうございます」

「ご馳走様」

 気が付くとリアルは、すでに料理を平らげていた。

「……明日は私の所へ来なくていいわ。あと二日のうちに、自分がどうしたいのか、しっかり考えて」

 立ち上がって、リアルが告げる。

「二日?」

 急に与えられた期限に、どんな意味があるのか。そういえばさっきも、リアルは時間がないと言っていた。

「こっちの事情、よ」

 そう言って、リアルは皿を片付け始めた。

 考えてと、彼女は言う。自分がしたいこと。自分の好きなこと。どうして、そんなことを聞くのだろうと、疑問に思った。

 彼女は、カーラナさまじゃないのに。

 よくカーラナさまは、ふたつのものを用意して、どちらがいいかと、よく訪ねた。

 そんなことをするのは、あの人が、特別だからだと思った。特別優しい人だから、そんな風に、自分を扱ってくれるのだと、思っていた。

 だけどリアルも、考えろという。

 おれは『人形』なのに。彼女のものにして、彼女の良いように、役目を、枷を、与えればいいのに。

 その反面で、カーラナ様の姿を思い出す。酷く切ない気持ちになった。

「……テトラ」

 リアルに名前を呼ばれて、無意識に俯いていた、顔を上げる。部屋の入り口で、リアルが振り返っていた。

「逃げちゃ、駄目よ」

 そう言って、リアルは部屋を出ていく。恐らくまた、書庫へ向かうのだろう。扉の閉まる音が、無駄に大きく、無情に、耳に届いた。

 どうすることも出来なくて、立ち尽くす。今すぐに、泣き出してしまいたい気分だった。



 ぱたぱたと、窓枠をはたきで叩く。

 リアルには、ああ言われたけれど。特にやりたいことが思いつかなくて、普段と同じように、掃除をすることにした。

 相変わらず、ここが五百年後だなんて思えずにいる。だって、何ひとつ変わっていない。

 ただ、カーラナさまだけがいない。

 リアルが未来から、ここへ来たと言われた方が、よっぽど信じられる気がした。

 ずっと悶々と考えて込んでいるのに、相反するように窓の外は、これでもかという程の快晴が広がっていた。気分転換に、部屋の空気を入れ替えてしまおうかと、窓枠に手をかける。

 だけど何をしても、窓は開かなかった。原因として、魔術の影響が思い浮かんだ。

「リアルだったら、知ってるかな……」

 呟いて、部屋を振り返る。恐らく今日も彼女は、書庫にいるのだろう。

 しかし、人の気配がしなかった。ここが、書庫から離れているとはいえ、あまりの気配のなさに、心配になってくる。

 来なくていいと言われているし、リアルに返せる答えがまだ、何も見つからない。正直、顔は合わせ辛かった。

 だけど、一度思いを向けると、気になって仕方がない。

「……様子を見るくらい、いいよね?」

 言い訳するように呟いて、書庫へと足を向けた。


 書庫の前に立ってはみたけれど、中からは、物音ひとつ聞こえてこなかった。ついでに言えば、人の気配もしない。

 言いつけを破っていることに、気が引けている。だけど状況は、あまりに異様だった。

「……っ」

 思い切って、扉をノックをする。返事はない。

「いないのかな……」

 見つからなければ良いだろうと、そっと扉を開いて、部屋の中を伺った。リアルの姿を探していると、当の本人は、机の上へと伏せている。

 悟られないように、静かに近づいて、その顔を覗き込んだ。

「……寝てる?」

 本の上で彼女は、微かな寝息を立てている。こんな隙を、見せる人ではない気がして、その寝顔を、まじまじと見つめてしまった。

 太陽の光を弾いて広がる、栗色の髪。長いまつげは日の光に透けて、蜂蜜色になっていた。よく見ると、綺麗な顔の造りをしている。

 いつも、瞳の印象と言葉に圧倒されて、気が付かなかった。思わず見とれていると、彼女の長い指が、本の上で微かに動いた。

「……」

 桃色の、柔らかそうな唇が、言葉を紡ぐ。その声は、聞き取れなかったけれど。

 多分それは、誰かの名前だろうと思った。見てはいけないものを、見てしまった気がして、焦る。

「ん……、テト、ラ?」

 だけど慌てふためいているうちに、リアルは目を覚ましてしまった。

「あああ、あの、おれ、邪魔するつもりじゃなくてっ。えと、ここへ来たのはっ」

 ぐ。

 必死に言い訳を探していると、突然、妙な音が聞こえてきた。

 ぎゅるるる。

 リアルが、再び机に伏せる。

「おなかすいた」

「あの……、食事は?」

「いつものでいいと思ったんだけど、食べる気になれなくて」

「いつもの?」

 問いかけるとリアルは、机の上を指し示した。その先には、例の携帯食料が入っている筒が、置いてある。

「なんで」

「本を読んでるときに、ごはん用意するの面倒だもの」

 言い終わると、僅かに浮いていたリアルの手が、机の上へと落ちる。

 本の虫は、別に、本を食べて生きている訳じゃない。そして彼女は、自分のように、食事をとらなくてもいい身体を、している訳でもない。

 自分の手が、ぶるぶると震えていた。ゆっくりと、息を吸い込んでいく。

「リアルは、本当は馬鹿だろっ!」

 気が付けば、そう思い切り叫んでいた。


 目の前で、リアルは急いで用意した食事を、満足そうにとっていた。一通り体内へ収めると、彼女は深く息を吐く。

「まさか、こんな少しの間で、舌が肥えるとは思わなかった」

 一応、自分の作った料理も、褒められたのだと思う。しかし、それを嬉しいと思う以上に、あれで食事を済ましてしまおうというリアルの心情が、理解し難かった。

 だけど、それなりに早いペースで、食事をとっている姿を見ていると、少し絆されてくる。文句を連ねる気が失せて、なんとなしに窓の外を見ると、変わらぬ青空が広がっていた。

「……ね、リアル。窓が開かないんだけど、なにか」

 ふとリアルを訪ねた経緯を思い出して、問おうとすると、リアルは途端に、その表情を硬くした。

「開けちゃ駄目よ」

 思わぬ、強い調子で言われて、驚く。

「あ、の……」

「とにかく、駄目」

 取り付く島がなくて、言葉を失う。すると、食事の手を止めたリアルが、僅かに眉を下げていた。困って、いるんだろうか。

「あなた、変な子ね」

「え」

 突然、そんなことを言われても、どう返していいか分からない。

「ここまで無理やり連れてこられて、びっくりした」

「あ……」

 思い出して、顔に熱が集まる。なぜか携帯食料に手を伸ばす、リアルの姿を見たら、その手を阻むように腕を掴んで、そのままここまで連れてきていた。

「気が弱そうに見えたのに、意外と強引」

「な、それは……っ」

 いつになく饒舌なリアルに、恥ずかしさが増していく。

「いい子、よね。彼女の影響でしょうけど」

 彼女、の一言に、冷や水を浴びたように、身が竦んだ。リアルが示す人物は、どう頑張っても、一人しか浮かばない。

 逃げ場がないと、思った。

「彼女のことは、好き?」

 そう言うリアルの瞳が、いつもに増して、ガラス球のように透き通る。自分のの全てが映り込んで、何もかもを見透かされているように感じた。

 向き合うのは、まるで自分自身そのもの。

「……好きとか、考えたことない。傍にいるのが、当たり前だった」

「……」

 リアルは何も言わずに、ただ見つめてくる。だけどそれだけで、誤魔化していた、自分自身が視えてきた。

「でも、傍にいたかった。……本当は傍にいて、おれが、守りたいと思ってたんだ……!」

 ぼたぼたと、目から何かが溢れ出した。熱い滴。泣いている自分。手のひらでぬぐった涙を、呆然と見つめた。

 今まで、泣いたことはなかった。胸の奥から湧き上がるような、この気持ちは一体、何なんだろうか。

「リア、ル……。おれっ、なんで……泣い……っ」

 喉がしゃくって、言葉がうまく出てこない。顔が上げられないでいると、リアルがすぐ近くまで来ていた。

 片腕で、頭を抱き寄せられる。驚いて、なすがまま、彼女の胸に顔を預けた。密着した身体から伝わる熱を、温かいと思う。そう思うだけで、さらに涙が溢れそうだった。

 しばらく、そうしていると。

「貴方、失せてくれる?」

 唐突に、冷ややかなリアルの声が響いた。それと同時に、部屋の窓という窓が、一斉に砕け散る。

「なっ、なに……っ」

 気がつけばリアルが、窓の破片から庇うようにして立っていた。その腕の中から、窓の外へと視線を投げる。

 ガラスが砕けた窓の、その向こう。屋敷の外で、大きな影が揺らめいていた。

 

 砕け散ったガラスを踏みつけて、蜘蛛のような足が、屋敷の中へと入ってくる。

 リアルの背中に庇われながら、部屋に入ってきた大きな蜘蛛の、背中に繋がっている女性の半身が、ゆっくりと顔を上げるのを見ていた。

 その女性は、とても禍々しく濁る瞳を細めて、うっそりと嗤う。

「……っ」

 あまりの恐ろしさに、声が出ない。その異形に向かって、斜に構えたリアルが、小さく呟いた。

「『戦雛』、ね」

「いくさ、び……?」

「戦闘に特化した『人形』の、呼び名よ。……ここの魔力を、感知したのね」

 はじめて見る恐ろしい姿に、足が竦む。するとリアルが、微かに笑った。

「魔戦時代のものとしては、珍しくないのよ? まあ、ここまで純粋な『戦雛』は、そうそうあるものじゃないけど」

「魔戦、時代?」

「……あなたの、過去のこと」

 唐突に情報が増えすぎて、混乱する。するとそこへ、ぶん、と音を立てて、蜘蛛の足が振りかかってきた。同時に、空気が震える音が響く。

 するとリアルは身の回りに、光る文様を浮かばせていた。立体の魔導術式を織りなして、彼女はその手に、光の粒を集束させている。

 次の瞬間、集束した光は、剣の刃へと転化した。魔力を練って作り上げた剣を、手にしたリアルは、蜘蛛の足を受け止めていた。

「リアル……っ」

 彼女が手にしている、剣の柄が、魔導具なのだろう。だけどその光景は、実際に目にしても、信じられるものではなかった。

 だけど彼女は、自分の胸に埋め込まれた制御装置も、使いこなしていたと、今更ながらに気が付く。

つまり、彼女の正体は。

「……リアルは、魔導士だったの?」

 そう問うと、彼女は僅かに、表情をしかめた。

「何を聞いていたの。言ったでしょ、魔導士はもういないって」

「だけど」

「条件さえ揃えば、魔導士じゃなくたって、魔導具は使える。そういうことよ」

 そう言ってリアルは、蜘蛛の足をなぎ払った。『戦雛』はよろめくと、その自重で、部屋の壁へとめり込んでいく。

「……硬いわね。ここまで保つだけのことはあるか」

 『戦雛』は再び立ち上がると、その長い足を振り回し始めた。破壊力は凄まじいものの、『戦雛』は、単調な攻撃しかしてこない。リアルと散り散りになって、それをかわした。

 一投をかわして振り向くと、『戦雛』の長い足が、机を砕いていた。その他にも、壁は崩れ、物は破壊されて、部屋が無残な姿になっている。

 カーラナさまの、大切な屋敷なのに。

 そう思った瞬間、思わず『戦雛』の前に出ていた。しかしすぐに腕を捕まれて、後ろへと転がされる。目まぐるしく視界が回る中で、一瞬先にいた場所に目を向けると、そこには『戦雛』の足がめり込んでいた。

「死にたいの?」

 怜悧な声が降ってくる。

「それなら、止めないけど」

 凍えそうなリアルの視線を受けて、身体が震え上がった。いままで、どこかぼんやりとしていた『死』が、急にはっきりとした輪郭を持って、目の前にあった。


 死ぬことの意味。いなくなるということ。

 カーラナさまは、ここにはいない。

 目の前にいるリアルは、生きてる。そして、自分も。


 響き渡る『戦雛』の、獣のような唸り声で、我に返った。濁った瞳と、視線がぶつかる。

「これが欲しいの?」

 おれを指して、リアルが問うと、『戦雛』はにたりと笑った。

「駄目よ」

 即座に、リアルが言い放つ。

「まだ、答えを聞いていないもの」

 そして次の瞬間、リアルの剣が、大きな円を描いて閃いた。剣の軌道を、皮膚の硬さで弾きながら、『戦雛』は悶える。斬りつけることはかわなくても、『戦雛』の皮膚は、衝撃で砕け、中が露出していた。

 剥き出しになった、中の回路が、腐っている。苦痛に顔を歪ませながらも、『戦雛』は再び迫ってきた。その視線は、ずっとこちらに据えられている。

「もしかして、狙いはおれなの? どうして……そんなになってまで」

 理由に、心当たりなどなかった。するとリアルが、『戦雛』を睨み付けながら、静かに呟く。

「憎いから」

 その一言に、胸が抉られるようだった。

「これは、人側の人形ね。強い魔導士と、その魔導師が扱う人形が怖くて、憎くて、捕まえた弱い魔導士達に造らせた『人形』。恐怖の対象を、凪払う為の道具」

 リアルの説明に、言葉が出ない。時折、カーラナさまは、外の何かに脅えていた。その正体が、おそらくこれなのだろう。

 それでもカーラナ様は、いつだって気丈に、おれを守ってくれた。この屋敷の結界の中で、大丈夫だと抱きしめてくれた。

 おれは今まで、何も知らなかった。

 あまりの事実に、呆然とする。すると今度は、みしり、と何かが歪む音が聞こえてきた。咄嗟にリアルを見ると、彼女は剣を構えて、『戦雛』と距離を取っていた。

「意外と、過激ね」

「え?」

 独り言なのか、リアルはぽつりと、それだけを言う。すると今度は、更にひどい音がして、部屋が大きく揺らいだ。

「な、なに?」

「空間が、歪んでるのよ」

 そう言ってリアルは、ゆっくり壁へと後退ると、そこにあった窓枠に足をかけた。

「この時間が、元の流れへ戻ろうとしてる。このままここにいたら、時空の捻れで、潰れちゃうわ」

 ずっと『戦雛』を見ていた翠緑の瞳が、こちらに向けられる。ガラス球のように透き通った、綺麗な眼が。それから、空いている方の手が、伸ばされた。

「自分で決めなさい。ここに残るか、それとも」

 リアルから伸ばされた、手のひらを見つめる。その時には、『戦雛』への恐怖も、空間が歪む音も、何もかも自分の中から消え失せていた。

 頭が飽和状態で、何も考えられない。

 だけど迷う隙もなく、彼女の手には、自分の手が重ねてられていた。


 繋がった手に、引き上げられる。その細い腕は、予想以上に力強かった。

 導かれるまま、窓枠の外に身を乗り出す。僅かに後ろを振り返ると、背後に『戦雛』が迫ってきていた。するとリアルが、自分と『戦雛』の間に、身を滑り込ませる。

 彼女は自分の身体で、窓枠を塞いだ。『戦雛』の濁った瞳が、その目前にある。そこで、リアルが何かを呟いていた。

 だけど窓枠の外は歪みが酷くて、部屋の内側に向けられたリアルの声は、分厚いガラスに遮断されているように聞き取れない。だけどその横顔が、ひどく静かで、思わず魅入ってしまった。 

 そうしているうちに、リアルは手のひらを『戦雛』に向けると、小さな魔術式で、その身体をはね飛ばした。彼女が剣を真構え直している間に、『戦雛』が再び飛びかかってくる。

 その瞬間を狙ったように、リアルの持つ剣は、『戦雛』の胸へ、深々と突き刺さっていた。『戦雛』が、苦痛に顔を歪ませる。だけどその顔は、何故か泣いているようにも、笑っているようにも見えた。

 『戦雛』から剣を引き抜いて、リアルが外に出てくと同時に、窓枠が、粘土細工のように小さく引き絞られていく。その瞬く間に、『戦雛』の姿は見えなくなっていた。

 住み慣れた屋敷が、歪みへ吸い込まれていく様に消えていく。その歪みに、リアルの左足がとられていた。

「リア……っ」

 彼女の名前を叫ぼうとした瞬間、歪みが、空間全体を激しく揺さぶった。その、頭の中まで振り混ぜるような激しさに耐えられず、おれは直後に意識を手放していた。



 乾いた風の感触で、目を覚ます。頬に触れている土が、熱かった。

 どうしてこんなところで寝ているんだろうと、ぼんやりと考える。脳裏に、歪みに足を取られたリアルの姿が浮かんで、跳ね起きた。

「リアルっ!」

「なに?」

 予想外にも、すぐ近くで声が聞こえた。リアルは傍らで、地面に直接、腰を下ろして座っている。気温は高いのに、その表情は、いつもと変わりなく涼しげで。普段通りの姿に、全身から力が抜けた。

「あの……足、は?」

 問いかけて、リアルの左足を見る。歪みに巻き込まれた靴は、ぼろぼろになっていた。

「平気よ」

 リアルは平然と、そう言う。その外観から信じられないでいると、彼女はぼろと化した靴を脱いだ。

「私、魔術の影響を受けにくいもの」

 晒された素足は、確かにどうにもなっていない。一先ず安心すると、やっと周りの状況が見えてきた。

 目の前にあるのは、住み慣れた屋敷のはずだった。だけどその外観が、恐ろしく風化して、半分崩れかけている。一見で、人が住める状態ではないと思った。

 さっきまで、住んでいた場所の筈なのに。いつもと何も変わらないと、ずっと感じていたのに。

 立ち上がって、すっかり変わり果てた屋敷を眺めていると、リアルの声が聞こえてきた。

「カーラナの魔術が、屋敷を世界から、少し歪ませていたのよ。歪みが正されれば、一気に時間が押し寄せて、見ての通りだわ」

 リアルの言葉に、押し寄せてきた、空間の歪みを思い出す。そしてその、歪みの向こう側に消えていった、『戦雛』の姿を。

「あの『戦雛』……」

「歪みの中で、ぺちゃんこよ」

 何の感慨もないように、リアルは淡々と言う。彼女の言う通り、歪の中に閉じ込められたら、『戦雛』の最後はそうなったのだろう。だけど。

「その前に、『戦雛』の止めを刺したよね?」

 座り込んだままの、リアルを見下ろす。彼女は屋敷を見つめていて、視線を交わすことは出来なかった。

「……『戦雛』自体、好きじゃないけど。特にあの手は、嫌いなんだもの。中がぐちゃぐちゃの、どろどろで」

 リアルにしては珍しく、濁った言葉を使う。それでも、その遠くを見るような表情は、酷く静かで。嫌悪から、口にしているのではないように思えた。

 リアルの瞳に何が映っているのかは、分からないけれど。その横顔は、彼女が『戦雛』に何かを言っていたときと、よく似ていると思った。

 何を伝えたのかは、知らない。それでも、分かることもある。

「『戦雛』にとって、最後に会ったのがリアルなのは、良いことだと思うよ」

「……何、言ってるのよ」

 表情は変わらず、静かなままで、リアルは呟く。

「だってあの『戦雛』、最後に笑ったように見えたんだ」

「……そんなことより!」

 不意にリアルは立ち上がった。そしてぱたぱたと、服に付いている土を払う。左足は、本当に大丈夫なようだった。

 軽く身なりを整えた彼女と、眼が合う。その瞳が、僅かに細められた。綺麗なガラス球のような瞳に、見つめられる。

 澄んだ翠緑の色に、吸い込まれそうになる。その透明度が、胸の奥まで見透しそうで、少し怖いと度々思った。

 でも今は、その瞳が支えてくれている。そんな気がした。

「テトラはこれから、どうするの」

 自分は何がしたいのか。何度か問われた、その答え。

 誤魔化さない、胸の奥からの言葉。それを、リアルは待っていると思うから。

 ひとつ、息を飲み込んだ。


「おれは、カーラナさまに会いたい。もう一度、だけでもいいから」

 彼女は、遥か昔に、手が届くなってしまったひと。それでも。

「会ってどうしたいかは、正直分からないけど。どうやって会えばいいのかも、分からないんだけど」

 それでも。

 頭の中がこんがらがって、どうすれば上手く伝えられるのか分からない。それでも必死に言葉を連ねていると。

「分からないのなら、考えればいいわ」

 すとんと、リアルの言葉が、胸に落ちてきた。

 自分自身でも、凄く滑稽になっていると思う。それでもリアルは、正面から向き合ってくれる。そのことが嬉しくて、今にも泣いてしまいそうな気分になった。

「会えないって、言わないんだね」

 リアルなら、そんなことは言わないと、思っていたけれど。

「会えるか会えないか、じゃないもの。テトラが、会いたいんでしょう?」

「……うん」

 どうしてこの人は、『人形』相手に、こんなに真剣になってくれるんだろうか。

「会いたい」

「じゃあ、会いに行けばいいだけのことよ」

 淡々と、なんでもないことのように、リアルが言う。当たり前なのだと、思わせてくれる。それがどんなに、無茶な願いであっても。

「……リアルは、ばかだなぁ」

 しみじみと言うと、彼女は僅かに眉根を寄せた。

「言うに事欠いて、それ?」

「だって」

 リアルは、『人形』の言葉を聴いてくれる。『人形』の心を待っていてくれる。そんなのは、カーラナさまだけだと思っていた。

 カーラナさまとは違うのに、少しだけ似ている。でもやっぱり、違う人で。

 カーラナさまじゃないのに、『人形』のことを、想ってくれるひと。

「やっぱり、ばかだよ……」

 泣きたくなるような気持ちで、おれはいま、笑っていた。


 風化してしまった屋敷を眺めながら、リアルが呟く。

「見事にぼろぼろね。……本当ならあと一日、猶予があったのに」

 その言葉に、なぜか嫌な予感がした。

「時間が無いって、まさか」

 しかし、リアルはそれには応えずに、空を仰ぐ。珍しく彼女から、未練を引きずるような声が出た。

「まだ読みかけだったのに。『この虹の果てに』」

 その聞きなれない名前に、首を傾げる。

「それって?」

「レヴァンテの恋愛小説」

 とうとうと、リアルは答えた。一瞬、『恋愛小説』という言葉の意味が、頭から抜けしまう。真剣な面持ちで読みふけっていたものが、それだったとは。

「そんなの読んでたの? というか、そんなのがあったの?」

 恋愛小説、と口の中で反芻して、リアルの姿を見る。

「そんなのとは何よ。どんな本でも、読む価値はあるわ。それに、持ち出すのが無理なら、出来るだけ多くの本を読んでおきたいじゃない」

 その言葉で、少しの間どこかに飛んでしまっていた、悪い予感が戻ってくる。

「リアル……。もしおれが、ここに残るって言ってたら、もしかして……?」

 問うと、リアルの視線が、さりげなく逸らされた。

「……まあ今は、ここにいるんだからいいじゃない」

 そう言って、完全に明後日の方を向いたリアルは、わざとらしく、明るい声を出した。

「あの『戦雛』のせいで、予定が狂ったじゃない。何をするにも、半端な時間ね……」

 太陽の角度を確認しながら、彼女は呟く。

「街まで間に合うか……」

 空を見上げて、リアルが背中を向ける。その上着の裾を、掴んだ。

「ねえ、リアル」

 呼びかけると、彼女がゆっくりと振り向く。その視線に思わず怯んで、俯いてしまった。眼もきつく瞑って、今にも逃げ出したくなるのを堪える。そして彼女に向かって、願いを口にした。

「……おれは、リアルの傍にいてもいい?」

 ───どうしたい?

 自分で考えろと言ったのは、リアルだから。彼女が、『人形』の自分でも、選んで進めと言ってくれたから。

 リアルの傍なら、見えなかったものが見える気がする。カーラナさまに会う方法さえ、いつか見つかる。そんな気がするから、だから。

 裾を掴む手が、震えだす。リアルからの返事を待つ間が、酷く長い時間に感じた。

「……好きにすればいいじゃない」

 すると、いつもと変わらない、素っ気無い声が返ってくる。だけど、その内容は。

 ついて行っていいのだと気が付いて、顔を上げると、吸い込まれそうな翠緑の瞳に見つめられていた。


 いつも、何も気にしていないようで。気がつけば、その瞳がこちらを見ていた。自分を、気にかけてくれていた。

「……リアルってやっぱり、馬鹿だよね」

「何よ、急に」

「今回のことで、リアルに得るものはあったの?」

 お金にならないし、役に立つ『人形』を手にした訳でもない。『戦雛』とも、戦う羽目になった。本は読めたかもしれないけれど、その時間だって、十分には取れていないように思う。

 ならどうして、リアルはここに居てくれたのか。

「損とか、得とか、そればかりで動くものでもないでしょう。……ちょっとした気まぐれで、ほんの少し興味が沸いただけよ」

「それって……?」

 重ねて問うと、透き通ったリアルの瞳が、ほんの僅かに陰る。

「遺されたものが、何を選んで背負うのか。そして、その先を」

 そして、どこか遠くを見るような表情で、そう呟いた。

「背負う……」

「貴方は、貴方らしくしていれば良いってことよ。ほら、余計なことばかり考えていると、置いていくわよ」

 リアルに、髪をくしゃりとかき混ぜられる。そして彼女は言葉通りに、先へ歩き始めた。少し離れて、その後をついて歩いて行くと、僅かにリアルが振り返る。そして、衝撃の事実を口にした。

「今日、街に辿り着けないと、食事はまた携帯食糧よ」

 その言葉に、うっかりその味を思い出す。実際に口にしていないのにも関わらず、独特な味に顔をしかめた。

「……それはやだ」

「でしょ。だから少し、急ぐわよ」

 苦々しく呟くと、リアルは微かに笑ったようだった。向かい風の中、彼女は宣言通りに、歩く速度を速めていく。通り過ぎていく風が、後ろ髪を引くようで、背にした屋敷をもう一度振り返った。

 無残に朽ち果てた屋敷を目にしても、何の感慨も沸かなかった。自分の過ごしていた時間は、遙か昔だったのだと実感する。

「テトラ」

 後ろから、リアルの呼ぶ声が聞こえた。つい足を止めてしまっていたけれど、それを咎めるような響きはない。

 前を向くと、静かな湖畔に佇むように、リアルが立っていた。

「あの屋敷には、ずっとカーラナの魔力が残ってた。あの魔術式が、機能していた」

「う、ん?」 

 透明すぎて、何を見ているのか、よく分からないリアルの瞳。何を伝えたいのか、よく分からないまま、それでも、その瞳を必死に見つめる。

 透明で、透明で、自分の全てが映り込んでしまいそうだった。

「……私だったら、捨てていくものに、こんな面倒な真似しないわ」

 その言葉に、眼を見開く。それでも視界が揺らいで、リアルの姿がよく見えない。頬が、熱い滴で濡れていくのが分かった。

「……っ」

 言葉が出なくて、何度も頷く。胸が、張り裂けそうだった。

 ずっと、怖かった。本当は、カーラナさまに見限られたんじゃないかと、そう思っていた。

 自分から動きしてしまったら、カーラナさまとの距離がさらに開いてしまいそうで、踏み出すのが、怖かった。

「ほら、行くわよ」

 淡々と響く、リアルの声。だけど酷く、優しい音だと感じた。

「うん……っ」

 頷いたけれど、次いで溢れてくる涙を拭うのに精一杯で、足が動かせない。それでもリアルは、何も言わずに、ただ傍にいてくれた。



 カーラナ様、おれは自惚れてしまっても、いいんだろうか。

 あなたに想われていると。どんなに遠くに、離れてしまっていても。


 いま俺は、過ぎ去ったあなたに会うために、この先を進んでいく。

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