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「悪女と婚約なんて可哀想」? お生憎様。彼女のおかげで幸せです。

掲載日:2026/02/06

 古代から人類を脅かしてきた存在、魔王。

 その存在が打ち倒されるという歴史的快挙が一人の青年によって果たされた。


 彼には友とも呼べる仲間が何人もいたが、彼以外の仲間は皆激しい戦火の中で命を落とした。

 名誉を手に奇跡の帰還を果たした唯一の英雄『勇者』を国王は歓迎し、王宮へ呼びつける。


 そして公爵位と財を授けると共に「其方に相応しい伴侶も用意しよう」という提案を受けたが、彼はそれに対し「少し考えさせてください」と返答する。


 暫くは社交界や領地経営の勉学で忙しくなるだろうからという、尤もらしい理由から断った彼だったが、この話にはあまり乗り気ではなかった。

 戦渦に巻き込まれて喪った家族の仇と、亡くなった仲間達に報いる為に歩み続けた険しい道を踏破した彼は、これまで背負っていた使命を下ろし、ただ静かに、穏やかに過ごしたかった。


 けれど今や世界中から注目される有名人となった彼が褒美を断れば、魔王討伐に貢献した多くの功労者達の立場が無くなってしまう。

 実際に魔王と対峙したのは青年やその仲間達であったが、魔王の配下にあった軍との戦いや、戦の裏の支援などで貢献してくれた者――褒美を受けるべき人物は青年の他にも多くいたのだ。


 功績を正しく評価され、与えられた褒美を青年が突っぱねれば、それに続いて褒美を与えられるはずであった者達が褒美を手放しに受け取れなくなってしまうかもしれないし、『勇者が褒美を得なかったのだから』という理由から、本来得られるはずだった報酬が減らされる可能性もある。

 それは青年の望むところではなかった。


 だから彼は自分の功績に相応しいとされる褒美を断ることはできなかった。


 公爵という地位を与えられた以上、いつかは伴侶が必要になる。

 それは理解しているが、すぐに伴侶を選ぶような気持ちにはなれる訳もない。

 青年は大切な仲間を喪ったばかりだったのだから。


 故に彼は問題を先送りする事にしたのだった。



***



「シリル・ヴェルディエ様?」


 とある夜会での事。

 青年――シリルは若き令嬢から声を掛けられる。


「はい」

「お初お目に掛かります」


 令嬢が自身の名を明かす。

 それから彼女は「勇者様にお会いできて光栄ですわ」と言った。


「こちらこそ」


 シリルは端正な顔に柔らかな笑みを浮かべて答える。

 けれどその笑顔とは裏腹に、彼は内心で溜息を吐いていた。


 ……これで二十人目。

 シリルが公爵となってから、貴族としての暮らしやマナーを最低限理解できるだけの月日が流れた。

 生活に慣れる為という理由から断り続けていた夜会の招待も、公爵や勇者としての体裁の為に参加せざるを得ない状況となり、渋々参加するようになったが、彼の周囲には常に貴族達が集まり、気が休まるような時間はなかった。


 自分の家の価値の主張や娘を婚約者にどうかという提案をする貴族夫妻。

 貴族社会の噂や余所の家の悪い評判を並べ、是非友人になって欲しいと言う令息。

 シリルの功績を称え、容姿も出自も何もかもをとにかく褒め、気を引こうとする令嬢。


 人の下心で煮詰めたような空間に、シリルは嫌気がさしていた。


 ただでさえ、シリルは母国の貴族に良い印象を抱いていない。

 彼らの殆どは自分や仲間が魔王へ挑む事になった時、支援の一つすらしてはくれなかった。

 後に手を貸してくれた数少ない貴族達ですら、シリル達の冒険が軌道に乗り、魔王軍の一派を何度も退けるといった結果が出てからでないと現れなかった。


 仕方のない事ではある。

 これまで魔王討伐を謳い、脅威に立ち向かった者達は数えきれない程いた。

 けれどその全てが失敗で終わっていたのだ。

 最早誰も、魔王討伐へ向かう者達へ期待などしていなかったのだ。


 期待できない、結果が出せるとも思えない者達を無条件に支援する者などいるはずもない。

 けれど、彼等の中のほんの一握りでも、手を差し伸べてくれる者がいたのならば……命を散らさずに済んだ仲間がいたはずだった。


「シリル様は魔王軍が扱う呪いを祓う聖剣に選ばれたのですよね? 呪いは私達からすれば、あまりに不可解な原理で、簡単に生命を奪うという恐ろしいものだと聞きますのに……本当に素晴らしいですわ」


 そんなシリルの思いなど露程も知らず、貴族達は手のひらを返すように彼へ媚び諂い、賞賛する。


「運が良かっただけですよ。けれど選ばれたからには、魔王軍が各地に残したという呪いを消す手助けは今後も行っていきたいと考えております」


 シリルはそれに笑顔で応じる。

 勇者として求められる人物像をよく理解していた。


「まぁ! 世界を救っただけではなく民の未来の事まで考えてくださっているだなんて。やはり聖剣に選ばれたのは偶然ではないのでしょう」

「はは、大袈裟ですよ。けれど、ありがとうございます」


 物腰柔らかで、誠実そうな振る舞い。

 世界を救った英雄に求められるのは、人格すら優れているという完全無欠さ。

 そこに、シリルという人格は求められていなかった。


 そんな社交界にうんざりはしていたが、何故だかこの英雄の仮面を外してはならないような気がして、シリルは自分を取り繕う。


 彼が心を殺し、挨拶に来た令嬢の会話に付き合っていたその時。

 離れた場所からざわめきが聞こえる。


 何事かとシリルは視線を移す。

 夜会の会場である大広間の真ん中。

 注目を集めていたのは二人の女性と一人の男性だった。


 その場に崩れ落ちて涙を流す女性と、そこに寄り添う男。

 そして二人の前に立つもう一人の女性。


 男女の方はそれぞれシリルと面識があった。

 どちらも王族だ。


 王太子テランスと第三王女リュシエンヌ。

 特にリュシエンヌの方はこれまでシリルに何度も婚約を求めて来た為、よく記憶に残っていた。


「何をする、アルレット!! リュシーを突き飛ばすなんて!」


 テランスが対峙する相手へ叫ぶ。

 王族二人を前にして物怖じ一つしない令嬢――アルレットは涼しい顔をしていた。


「いいえ、テランス様。私は何もしておりませんわ」

「ならば何故、何の前触れもなく、リュシーがお前の前で転んでいるというのだ!」

「何の前触れもなくご自身で転ばれたからでしょう」

「な……っ、よくもまぁその様な嘘を平気で……っ!」

「アルレット様は、私が自分で転んだと言いたいのね」

「ああ、可哀想なリュシー……。気にするな。こんな悪女の言う事など、誰も耳を傾けはしないに決まっている」


 涙を滲ませるリュシエンヌをテランスが抱き寄せる。

 二人は仲睦まじい兄妹として有名で、その噂が事実である事はこの現場を見るだけでも明らかである。


「またアルレット様ですわ」

「……また?」


 話していた令嬢の呟きにシリルが聞き返す。


「ああ、シリル様が夜会にご出席されるようになったのは、最近でしたね。あちらで、テランス様やリュシエンヌ様の前にいらっしゃるのは、アルレット・ド・レオミュール公爵令嬢……テランス様のご婚約者様です」

「あの方が、王太子殿下の」

「けれど……その、非常に困ったお方でして」


 声を潜める令嬢。

 その周囲からは別の囁きがいくつもあった。


「またアルレット様?」

「ええ。またリュシエンヌ様に嫌がらせを……」

「いくらテランス様がリュシエンヌ様と仲が良いからって、あんまりだわ。お二人は兄妹だもの。仲が良くて当然なのに」


「そもそも、王族をあれだけ堂々と害しておいて、何故罰せられていないんだ」

「確固たる証拠がないのと、アルレット様が無実を主張する事を鑑みて、『もしかしたら本当に悪気がなかったのかも』とリュシエンヌ様がお許しくださっているそうだ」

「どれだけ慈悲深いお方だというんだ……。どうせ全て嘘に決まっているのだから、さっさと見限ってしまえばいいというのに」

「いくら顔が良くても、あれじゃあな」


 次々と湧く非難の声。

 『婚約者への嫉妬に狂い、王族を害する愚かな悪女』。

 それが社交界におけるアルレットの評価だった。


(公爵家の我儘で浅はかな令嬢……。生まれた時から何不自由ない、高貴な身分で生まれたのなら……ああいう驕り方をする者が現れるのも必然なのかもしれないな)




***



 それ以降、シリルの耳にもアルレットの悪評がよく届くようになった。


 彼女が夜会に姿を見せれば皆が嫌な顔をしたし、必ず何か騒ぎが……主にテランスやリュシエンヌとの衝突が起きた。


 例え本人が出席しない夜会であってもふとした時に彼女の噂が囁かれる。

 楽しそうに笑う貴族達の口からは実に多くの毒が吐き出されていた。

 誰かを落とすことで自分の価値を高めようとする浅はかさが良く見え、シリルは毎日嫌気がさしていた。


 また、ただでさえ、社交界での人付き合いにうんざりしていたシリルだったが、それに追い打ちをかけるようにして婚約の話が次々と舞い込んできていた。

 申し出をやんわり断るのにも、暗に婚約を匂わすような誘いを自然に躱すのにも、そもそも『求められる英雄像』を取り繕い続ける事にも辟易としていたシリル。


 限られた時間しか出席していない夜会や、家に届く数えきれない手紙を前にしているだけでそうなのだ。

 ならば婚約者が出来て、婚約者相手に時間が拘束されたり、その後籍を入れて同じ家で過ごすようになれば、シリルは片時だって気が休まらない日々を送ることになるだろう。

 自分を偽り続けなければならない日々が続くとわかっているのだから、婚約に乗り気になれないのも、当然の事ではあった。




「シリル様ぁ」


 ある夜会でのこと。

 シリルが他の令嬢と話していると、リュシエンヌが彼女達を押しのけてやって来る。

 甘えるような声で近づいた彼女はシリルに腕を絡ませようとした。

 シリルはそれを無駄のない動きで避けながらリュシエンヌへ微笑み掛ける。


「ご機嫌よう。リュシエンヌ王女」

「もう、リュシーでいいって言ってるのにぃ」

「いくら公爵位を頂こうとも、出自は平民。王族であるお方を愛称でお呼びするなど、恐れ多い事です」

「相変わらず謙虚なんだから」


 リュシエンヌは随分と機嫌が良さそうだが、シリルとしては堪ったものではない。

 王族である彼女にうっかり触れてしまい、『責任を取れ』などという言い掛かりを付けられでもすればシリルは逃げられない。


 リュシエンヌの事を皆は慈悲深いものと評価するが、シリルはそうは思わない。

 長年生死が隣り合う生活を続けてきたシリルは、相手の企みに気付く感覚と、自分に降り掛かりかねない危機にいち早く気付く直感に優れていた。


 それは言語化できる程明確な感覚ではないが、シリルは自己の経験則から鑑みて、『違和感』を覚えたものからは遠ざかる選択を取ることを徹底していた。

 故にリュシエンヌとの婚約は是が非でも避けたいという思いがあるのだが……残念な事に、彼へ言い寄る女性の中で最も積極的なのが彼女だった。


「それで、シリル様はいつになったら私と結婚してくださるのですか?」


 自分が王族であり、社交界の人気者であるという自覚があるからこその自信だろう。

 彼女はさも、シリルとの婚約が決まっているかのように、事あるごとにそう言った。


 最初は様々な理由を作ってそれを何とか躱していたシリルだが、いい加減言い訳の引き出しも尽き、また徐々にリュシエンヌや周囲の者が不思議がる瞬間も増えた。

 そろそろ潮時だろうという危機感がシリルを焦らせていた。


「リュシエンヌ様。以前も申し上げましたが、私は――」


 その時だった。


「アルレット・ド・レオミュール!!」


 良く通る声が、会場中に響き渡った。

 視線を移せば、皆の視線を集めるテランスと、彼の前に立つアルレットの姿がある。

 張り上げた声はテランスによるものだ。


「お前との婚約を破棄する!!」


 周囲が一斉にざわめき立つ。


「お前は俺の愛しの妹、リュシエンヌへ度重なる嫌がらせをした。いくらリュシーが許すと言っても、これ以上はもう看過できない!! お前は王族を愚弄し過ぎたんだ」

「……お兄様」


 シリルの傍に居たリュシエンヌは兄の想いに感激でもしたのか、目を潤ませている。

 そんな彼女の隣で、シリルは思わず怪訝そうな顔をしてしまう。


(婚約を破棄……? 婚約というのは本来、書類を介して交わされるものではないのか? ましてや王太子と公爵家の女性の婚約ともなればそのやりとりもより厳格に扱われるのでは……? というかいくら王太子と言えども独断で婚約を白紙にする事など、許されるのか……?)


 困惑を抱えるシリルだったが、周りは何故か「まぁ、ついになのね」、「最近は特にひどかったからな。流石に目に余ったんだろう」等と納得を示している。


(良い、のか……!? 貴族社会の常識が分からない……ッ)


 勿論公の場で婚約破棄と宣言するような事が社交界では当然……などという常識はないのだが、何も知らないシリルは内心ですっかり混乱していた。


 テランスは最近あったというアルレットの罪を次々と並べていく。

 一方のアルレットは、王族との婚約関係を反故にされそうだというのに至って平然としている。

 そして、テランスが一通り話し終えると、彼女は涼しい顔をして言った。


「身に覚えがありませんね」

「な……ッ、お前、この期に及んで白を切るというのか!?」

「見間違いではありませんか?」

「ふざけるな! この場にはどれだけの証人が揃っていると思っているんだ。……まぁいい、お前がまさか、ここまで馬鹿な女だったとはな。とにかく! お前のような悪女との婚約は破棄だ!!」

「畏まりました。王太子であるテランス様のお言葉であれば、私が何を申し上げようとも婚約は解消されますでしょう」

「捨てられる側の人間だというのに、随分と余裕だな? アルレット。お前のような悪女に婚約者など二度と出来ないだろうに。どれだけ悔やもうとも、もう誰も、お前を相手になんかしないだろう!!」


 テランスの言葉に、周囲の貴族達が同意を示す。

 頷きや蔑む視線、嘲笑……それらがアルレットへ降り掛かる。

 どれだけの暴言を投げ付け、冷たく接そうとも、それは当然の事だという共通の認識が、その場には出来上がっていた。


 誰もが同意するような空気。

 しかしその中でシリルは――


(……『誰も相手にしない』?)


 何故か、何かに閃いたかのように目を見開いた。

 彼は思う。

 『誰もが相手にしないような女』の前でならば、気を遣わずとも良いのではないか。

 例え英雄という仮面を外し、淡白に振る舞おうとも、自分の本性に気付く者はいないのではないか。

 寧ろ当然の事と思われるのではないか。


 そんな場違いな事を考えてしまう程には、彼は貴族社会にうんざりしていた。


「どうしましょう、シリル様ぁ。私のせいで、アルレット様が」

「……リュシエンヌ王女」

「……はい、シリル様」


 リュシエンヌは『貴女のせいではない』という言葉を待っていた。

 そして普段のシリルならばその模範解答に気付いてすぐに対応した事だろう。

 しかし今の彼の情緒はそれどころではない。

 一刻も早く今の環境から脱する一手を講じたかった。


「たった今、テランス殿下とアルレット様の婚約は白紙になったと……そう、考えても良いのでしょうか」

「え?」

「書類上では二人はまだ婚約している事になっているかと思うのですが、今この場で第三者が婚約を申し出ることは可能なのでしょうか」

「え、え、え?」


 リュシエンヌは困惑の声を次々と漏らす。

 しかし普段穏やかな微笑みを浮かべているシリルの真剣な眼差しを受けた彼女はぽっと顔を赤くすると小さく頷く。


「そ、そうですね。お兄様の意向は皆様聞いていますし、こうなればやはり撤回する、というお話もないかと思いますので……」

「婚約は解消したも同然だと」

「ええ。ですけれど、今のアルレット様にそのようなお情けをかけるようなお方など――」


 ――情け。

 シリルにとって都合の良い言葉を彼女は吐いてくれた。

 それは『英雄』という概念に、非常に相応しい言葉だった。


 シリルは足を踏み出す。


「……え!? ちょ、ちょっと、シリル様……!?」


 堂々たる足取りで、けれど逸る気持ちからやや足早に。

 そうして彼はアルレットの前に立った。


「失礼」

「な、シリル殿……?」


 テランスが驚き、目を見開く。

 そんな彼へシリルはいつも通りの微笑みを向ける。


「口を挟んでしまい申し訳ありません、テランス殿下。一連の流れは拝見させていただきました。そこでなのですが……アルレット様」


 シリルはアルレットへ手を差し伸べる。


「私と婚約して頂けませんか」

「……え?」

「な……ッ!!」


 それまで凛とした佇まいや強気な姿勢を崩さなかったアルレットから、随分可愛らしい、困惑の声が漏れる。


「い、いけない、シリル殿!! 彼女は悪女なのだ!!」

「そのお話は何度かお伺いした事があります。しかし、高貴な身分である女性に嫁ぎ先は必須であると、私はそのように学びました。そしてテランス殿下の先のお話を信じるのであれば、彼女は貴族の女性としての義務を果たすことが出来なくなるという事でしょう。それは……少々、気の毒だと」

「そ、そんな考え……! シリル殿が抱く必要はないものだ! 貴方にはそんな女よりも相応しい者が――」

「お気遣いありがとうございます、テランス殿下。しかし私は、自分と関わる方々の事は皆、自分の目で確かめたいのです。……噂に左右される事なく」


 度が過ぎるお人よしという人となりは、英雄と非常に相性がいい。

 ――愚かな程な善性を持つ勇者は、悪女を見捨てられなかった。

 周囲の者達の中で、シリルのこの判断はそう脚色される事だろう。


「そ、そんな……!」

「悪女と婚約なんて、可哀想だわ!」


 辺りからは女性の悲鳴が聞こえるが、シリルの知った事ではなかった。


 アルレットは丸くした目を何度か瞬かせてから、シリルを見据える。


「よろしいのですか?」

「はい。私でも良いと、貴女が思ってくださるのであれば」

「では……謹んで、お受けいたしますわ」


 アルレットはシリルの手に自分の手を乗せる。


「う、嘘よぉ……っ」


 離れた場所から、リュシエンヌの震える声が響くのだった。



***



 斯くして婚約関係を結んだシリルとアルレット。

 あの一件から数日が経った頃。

 改めて顔合わせをと、アルレットの両親であるレオミュール公爵夫妻に呼び出され、シリルはレオミュール公爵邸へ足を運んでいた。


 悪名高いアルレットには非常に手を焼いているだとか、家の恥さらしだとか、あとはシリルへの温情への感謝だとか。

 そんな話を長々と聞かされてから、シリルは親睦の為、アルレットと二人きりにさせてくれと頼んだ。


 レオミュール公爵邸の広大な庭園にあるガゼボ。

 お茶にする事となった二人はそれぞれ向き合う形で席につく。


 二人分のお茶とお菓子の支度が済んだ頃。

 アルレットは「下がって頂戴」と使用人達をガゼボから遠ざけた。


 こうして二人きりとなった空間は、シリルにとって非常に都合がよかった。


「どうぞ」

「ああ……頂きます」


 アルレットに勧められ、シリルはお茶を何口か口に含んだ。

 そしてカップをソーサーに戻すと、彼は口を開く。

 誰かがやってくる前に、つけておきたい話があったのだ。


「婚約を申し出た身で大変申し訳ないのですが、私はアルレット様を愛するつもりはありません」


 カップに口を付けていたアルレットは、その言葉を聞いて静かに目を細めた。

 それから遅れてカップを戻し、シリルを真っ直ぐと見つめる。


「二人きりを望んだのは、それを伝える為に?」


 シリルは驚く。

 彼女は、シリルが二人きりを望んだのが親睦の為ではない事に気付いていたようだった。

 であるならば、使用人を下がらせたのも彼女の計らいであったのだろう。


「……はい」


 罪悪感を覚え、シリルは苦い顔をする。

 けれどアルレットはというと、涼しい顔をしていた。


「構いませんわ」

「え?」

「構いません」


 アルレットは穏やかに微笑む。


「驚かれるような事でもありませんわ。だって私たち、あの夜に初めて言葉を交わしたのですから。シリル様が婚約を申し出た時から、何か目的があるのだろうと考えるのはおかしな事ではないでしょう? そもそも、貴族間の婚約に色恋が絡まない事など、よくある話ですわ」

「た、確かに、そう聞いてはいますが」


 彼女の言う通りだとシリルは思った。

 そういう考え方も確かにできる。

 しかし、周りの貴族達が一切疑おうとしなかったからこそ、彼女の反応はとても新鮮に映った。


「ですから、お気になさらず。それで、私はいかがすればよろしいのでしょう。何かした方がよろしいのでしょうか。それとも何もしない方が?」

「私から望むことは特には」


 本当ならば『期待しないで欲しい』と続けるはずだったのだが、アルレットにはそもそもそんなつもりがなさそうであった。

 シリルは首を横に振る。


「好きに過ごして良いと」

「強いていうならば、先の発言については内密にお願いしたいくらいでしょうか」

「あれくらいでは誰の心象も落ちないかと。それに、私の話など、誰も信じたりはしませんから、ご安心ください」


 シリルは反応に困ってしまう。

 アルレットは自分が嫌われているという事実を知っているのだろうが、だからと言って「そうだな」と返せる程、シリルは無神経ではなかった。


「では次に……婚姻はされるおつもりですか? それとも期間限定のお付き合いでしょうか」

「す、するに決まっているだろう!」


 予想だにしなかった話の切り出し方に、シリルは動揺する。

 いくら悪名高い女性だとはいえ、はなから縁を切るつもりで婚約を申し出たりはしない。

 そんな無責任な人間だとでも思われているのだろうかとシリルは心外に思った。

 慌てて反論をすれば、何故か不思議そうに目を瞬かれる。


「そんなに焦らずとも」


 それから彼女はプッと、吹き出し、声を押し殺して笑い始める。

 夜会で見かける時には一切見せた事のないその様子は、シリルにとって意外だった。


「畏まりました。シリル様が何をお考えになってこのような申し出をしたのかはわかりませんが……これは互いの利害の為の婚約であり、順当にいけば婚姻も想定されていると。この認識でよろしいのですね」

「は、はい」

「……そう畏まらなくともよろしいのですよ。シリル様は公爵で、何より世界の英雄。私は公爵家の娘、おまけに嫌われ者です」

「そうは言いましても……長年平民として生きてきましたから」

「では追々ですわね。いくら愛がない婚約とはいえ、婚約者同士がよそよそしすぎるのは不自然ですから」


 アルレットはシリルの発言に一度も怒りを見せず、ただ穏やかに彼の意向を確認した。

 どこまでも物腰柔らかく、品のある言動で対応する。

 シリルは彼女が社交界で囁かれる悪女のようには、到底思えなかった。


(猫を被っているだけなのか……? いやだが、先程からの受け答えを見ていればとても噂の様な愚かしい真似をするような人には)


 いくつかの疑問が浮かんだが、シリルはそれを頭の奥へ追いやった。

 噂の真偽も彼女の本質も、シリルには関係のない事だった。


 彼はただ、人目を気にせず振る舞える環境さえ守れればそれでいいのだから。



***



 それから数ヶ月の間、シリルとアルレットは定期的に顔を合わせる事となる。

 初めは互いの家をそれぞれ行き来していたが、レオミュール公爵夫妻の胡麻すりに耐えかねたシリルはアルレットと会うときは彼女を家に呼ぶ事にした。


 アルレットと過ごす時間は存外、シリルの負担とはならなかった。

 彼を悩ませた数多の女性は皆取り入ろうと必死になってシリルへアプローチを仕掛けたが、アルレットはそんな素振りを一切見せない。


 共にいても、シリルが話し掛けなければただ静々と自分の好きなこと――庭園の花を見たり、本を読んだり――をしているだけだ。

 『英雄』としての振る舞いを心掛けずともそれを否定したり、指摘したりもしなかった。


 おまけに婚約者が出来た事で殆どの女性は、夜会で顔を合わせても一定の距離を保つようになった。

 ……リュシエンヌだけはよりしつこくなったが、他の令嬢が身を引いた事で全体的な負担は非常に軽くなっていた。




 ある日の事。

 麗らかな日差しのもと、庭でのんびりと過ごしている内、シリルは転寝を始めてしまった。

 慣れない執務で疲れていた事もあるのだろう。

 芝生に横になり目を閉じたのが昼頃。

 目を覚ませば――空は橙に染まっていた。


 だというのに、慌てて体を起こせば、さも当然のようにアルレットが座っている。

 昼間と全く同じ場所に。


「おはようございます」

「え? いや……え?」


 シリルはアルレットを二度見する。


「……帰らなかったのですか」

「帰るならば一声かけるなり起こすなりしたでしょう」

「起こしてくださればよかったのに。すみません、長居させてしまい」

「いいえ。私がこうしていたかっただけですから」

「今後は、気を遣わず、好きに帰ってしまって構いませんから」

「それは、帰りたくなければ長居しても良いという事でしょうか?」


 アルレットが首を傾げる。

 彼女の問いの意図が分からず、シリルは目を瞬かせた。


「構いませんが……私といても退屈でしょう」

「そんな事はありませんよ」


 アルレットはいつもと変わらない笑みを浮かべている。

 しかし、シリルは何故か妙な胸騒ぎを覚えた。


「独りの方が、退屈ですから」

「それは…………。しかし、ご家族とか……」


 シリルは社交界での彼女の立場を思い出す。

 何と声を掛ければいいのか悩み、友好関係に難があるのであれば家族に触れてフォローでも試みようかと思い……けれどすぐにある結論に行きつく。


 婚約が成立した直後のレオミュール公爵夫人の様子だ。

 作り笑いを浮かべたまま娘を貶し続ける両親。彼らとアルレットの仲が良好とはとても思えなかった。


 シリルはすぐに言葉を切る。

 アルレットはただ、静かに肩を竦めるのだった。



***



 それから一年。

 シリルとアルレットは穏やかな時間を過ごす。


 何か問題が起きるでもなく、かといって互いの関係に熱烈な恋心が咲くでもなく。

 どこまでも、ただただ穏やかな時間が流れた。


 そして成り行きで、本当にすんなりと婚姻まで行きついた。


 ヴェルディエ公爵邸にアルレットが嫁ぎ、顔を合わせる時間が明らかに増えた。

 だというのに、二人の関係はあまり変わらなかった。


 貴族としての責務として、シリルは彼女と夫婦として夜を過ごす事も考えていたのだが、何故かアルレットからそれを断ったのだ。


「無理に貴族の常識に囚われる必要はありませんわ」


 シリルもシリルとて、夫婦は愛し合うものという認識が強い環境で育ったが故に、あまり乗り気にはなれなかった。

 故にアルレットからそう言われてからというもの、一度もそのような話はしていない。


 不仲ではない。

 二人は互いに気負う事は無くなり、自然と砕けた会話が増えていった。

 寧ろ、それなりに気心は知れた関係になっていたと言えるだろう。

 だからこそ、シリルは下手にこの関係を壊す必要はないと考えていた。


 世継ぎについてはいつかは考えなければならないだろうが、それは今ではなくてもいいのだろうと。

 彼自身も自覚はしていなかったが、アルレットと過ごす心地良い時間をシリルはとても気に入っていたのだった。




 二人は用事がない時間の殆どを共に過ごした。


 シリルが執務に追われていればアルレットが手伝った。

 彼が仕事に疲れ果てて適当な空き部屋で休んでいれば、いつの間にか寄り添うようにして座っているアルレットがいた。


 食事は当然のように二人でとるし、どちらかが街まで出かけるならば必ずもう一人も共に出た。

 用事で一人で出掛ける時は必ず相手に伝えるような習慣がいつの間にか出来ていたし、眠るのは相手が帰って来てからになっていた。


 いつしか、二人でいる事が当然になっていたのだ。




「聖剣って、呪いを消せるのよね」

「何だ、急に」


 この日も二人は同じ部屋の中で思い思いに過ごしていた。

 そしてシリルがソファで横になっていると、別の椅子に腰を掛けて本を読んでいたアルレットが突然話を振って来たのだ。


 ――聖剣。

 持ち主を選ぶ特別な剣は、多くの力を授け、魔王軍が扱う『呪い』に対抗する力を持っている……とされている。

 その剣はシリルと共に世界を旅し、今は家の片隅にこっそりと保管されている。


「貴方って、勇者としての自分の話をなかなかしないでしょう。ふと気になったの。本当に勇者なのかって」

「いや、それは流石に疑うなよ」


 アルレットが愉快そうにくすくすと笑う。


「消せるは消せるが、多分周りが思っているような魔王軍特化の武器ではないな」

「そうなの?」

「まず、聖剣でなくても呪いは消せる。呪いの大本を殺すか壊すかすればいい」

「大本というのは、術者とか?」

「基本はそうだが、たまに魔王の配下――魔族自身ではなく道具を媒介に仕掛けられる呪いがあるんだ。だから魔族や呪いに対抗する力そのものは聖剣にはない。ただ……聖剣を所持していればその大本は一目でわかるようになる」

「その力を使って、術者や道具を積極的に攻めていたという事?」

「そんなところだな」


 尤も、魔族への特効が出まかせと言うだけで、呪いが効きにくい体質や身体能力の大幅な向上など、人間離れした能力はいくつも授かった、とシリルは話した。


「気になるなら出そうか?」

「そんな軽々人に持たせていいの?」

「減るものじゃあないだろう」


 その後、シリルはアルレットに剣を持たせたが、それはアルレットが握った瞬間に凄まじい重量を伴い、廊下の床を陥没させた。聖剣を持ち主以外が触った時に起こる現象だった。

 何度持ち上げようとしてもびくとも動かない聖剣に困り果てるアルレットを見てシリルは腹を抱えて笑うのだった。



***



 夜会に出席した時の事だ。


 シリルが大勢の貴族に囲まれ、アルレットは会場の端で彼が空くのを待っていた。

 そんな中。

 リュシエンヌがアルレットの前に現れる。

 かと思えば――


「キャッ」


 彼女は独りでに転んだ。

 その場に座り込んだ彼女はそのまま目を潤ませる。


「酷いわ、アルレット様」


 アルレットは静かにそれを見つめている。

 何も言わない。言っても無駄だと割り切っているのだ。


 すると周囲はアルレットへ非難の視線を浴びせる。


「な……ッアルレット! お前また――」


 遅れて、転んだリュシエンヌに気付いたテランスが駆け付け、アルレットへ掴み掛ろうとする。

 その時だった。


「失礼」


 アルレットは背後から肩を引かれ、数歩後ろへ下がる。

 そうして、声の主――シリルに抱き寄せられた。


「妻が何か?」


 リュシエンヌとテランスが顔を強張らせる。

 彼女達はシリルを敵に回したい訳ではないのだ。


「や、シリル殿、その……っ、こいつが、我が妹をですね」

「そうなんです、シリル様ぁっ、私、急に突き飛ばされて、怖くて……っ」

「彼女がリュシエンヌ王女を突き飛ばしたのですね。事実だとすれば大罪でしょう。私も共に裁かれる必要がある」

「い、いえ、そこまでではありませんわ――」

「ですが、それも事実であればの話ですね」


 シリルは周囲に集う人々の中から数名の令息へ目配せをする。


「私は存じ上げませんが、妻は過去にも皆様にご迷惑をお掛けしたと伺っております。ですから私も目は光らせていました。……ですが、私よりも、他の方からお話を伺った方が信憑性も出る事でしょう。先程のお願いは聞いていただけましたか?」

「は、はい」


 令息たちはしどろもどろになりながらも言う。


「そ、の……恐れながら……先程はリュシエンヌ王女がお一人で転んでしまっていたようにしか……」

「な……ッ」

「何だと!!」

「殿下、家族を想うお気持ちはよくわかります。しかし、彼等に妻を見ていて欲しいと頼んだのは私であり、素直に話すよう促したのも私です。もし何か咎められるべき事由があるのだとすれば……全て私が責任を取ります」


 シリルは真剣な面持ちで、そして冷え切った視線をテランスとリュシエンヌへ向ける。


「妻が何の謂れもない罪を被せられそうになっているというのであれば……悪意によって傷付けられるのであれば、私は相応の態度を示すほかありません。勿論、思い違いなのであればそれに越した事はありませんが。……どうでしょう、リュシエンヌ王女」

「……ヒ」


 リュシエンヌが引き攣った声を漏らす。

 暫く小さく震えるだけだった彼女だが、やがてシリルの鋭い視線に耐え兼ね


「……お、思い違い、だった……よう、です。ごめんなさい」


 と掠れた声で言った。


 騒然とする周囲。


 その中でシリルだけが驚かない。

 何故なら彼はもう知っていた。

 アルレットが悪評のような、愚かで浅はかな女ではないことを。


 騒ぎの中でリュシエンヌは俯き、肩を震わせる。


「……さっさと死ねばいいのに」


 そんな声が聞こえ、シリルは咄嗟に彼女を見る。

 リュシエンヌはそんなシリルの様子には気付いていない。

 ただ、憎悪に塗れた視線をアルレットへ向けていたのだった。



***



「どうして否定しないんだ」


 翌日。

 厨房に立ちながらシリルは深く溜息を吐く。


「あれは英雄である貴方の発言力のお陰でしょう。私の言葉では誰も信じないわ」

「俺は信じるだろ」


 アルレットは目を瞬かせる。

 シリルの視線は真剣そのものだった。

 けれど……そんな彼の姿を見てアルレットはプッと吹き出す。


「どれだけ真剣でも、包丁とジャガイモを持って言われたら格好がつかないわ」

「んな……」


 アルレットに指摘され、シリルは不服そうな顔をする。

 彼女の言う通り、シリルは今まさに料理を始めようとしていた。


「自炊をする公爵様なんて、きっと貴方くらいね」

「別にいいだろう。前まではそれが当然だったんだから」


 たまに作りたくなるんだよ、等と主張するシリルをアルレットは更に揶揄って笑うが、彼の手料理が素朴ながら美味しい出来である事は既に知っている。

 それに、貴族らしからぬ一面を持つ彼の姿もアルレットは好ましく思っていた。


 アルレットは拗ねた様子でまな板に向かうシリルの背中に近づく。


「今は触らないでくれよ、危ないから」


 足音を消して近づいたはずなのに、シリルは視線一つ動かさないままそう言う。

 勇者としての感覚は今も健在であった。

 アルレットはそんな彼の耳元に顔を寄せ――


「何も言わなくたって、信じてくれるでしょう?」


 シリルは手を止めて目を見開いた。

 けれどすぐに作業を再開し、


「当たり前だろう」


 と、振り返る代わりに答えた。


 アルレットは満足そうに微笑む。

 そしてシリルの隣に並ぶ。


「私もやってみたいわ」

「え?」

「料理」


 シリルは今度こそアルレットの方を見てから、フッと笑みを浮かべた。


「なら、今日はアルレットに頼もうか。俺が教える」

「任せて頂戴」

「やった事ないだろ? 何でそんな自信満々なんだ」


 厨房には二人分の笑い声が響き渡っていた。




 さて。そんなこんなで出来上がったクリームシチューは、何故か紫色の粘液状のゲテモノだった。

 二人は自分の前に置かれたスープ皿を前に言葉を失う。


「……どうして洗い物をしている間にこんな事に」

「わ、わからないわ。わからないけれど、これが間違いだという事はよくわかるわ」

「…………何か作り直すか」

「ちょ、ちょっと待って。もしかしたら美味しいかもしれないじゃない!」

「ない」

「シリル」

「ない」

「普通ここは料理下手の伴侶が一生懸命作った料理を口に運んで『美味しい』って食べるところでしょう。『美味しくないから無理しないで』って言われても食べるところよ。ロマンス小説にあったわ」

「限度があるだろう、限度が!」


 シリルは至極真っ当な主張をしているのだが、それを受けたアルレットはわかりやすく落ち込んでみせる。

 因みに彼女は絶対に人に弱みを見せない性格だという事をシリルは知っている。つまり演技だ。

 ……だというのに、バツが悪くなってしまうシリルはいつも、掌の上だと理解しながらも彼女の思惑に乗ってしまう。


 シリルは渋い顔をしながらスプーンを持つ。


「……きっと美味しくないわ。無理しないでね」

「だろうな」

「ちょっと」


 シリルは薄目でシチューを睨んでから、意を決してスプーンを口に運ぶ。

 何故か鼻を衝く生臭さと酸っぱさと苦みに呼吸を止める事で耐えながら、彼は器に入ったシチューを一気に掻っ込んだ。


 何度かえずきそうになりつつもそれを体内に流し込んだ彼はとても長い溜息を吐く。

 そして、何の前触れもなく――椅子ごと後ろへひっくり返った。

 バターン! と大きな音がした。


「ちょ、ちょっとシリル!?」


 アルレットは慌ててシリルへ駆け寄り、彼を抱き起す。


「う、うそ……私、流石にそこまでではないと思って……っ」

「勇者の死因が毒殺、とか……流石に呆気なさ過ぎるな…………」

「縁起でもない事を言うのはやめて頂戴!」

「おめでとう……君は、魔王を倒した俺をも殺す才がある……つまり君は間接的に魔王を倒した事に…………」

「どうしよう、頭までおかしくなってしまったわ……っ、主治医! 誰か主治医を呼んでぇ!!」


 シリルの性格的な問題から公爵邸の使用人は最低限しかいない。

 故に食事の際に同じ空間で控えている者の数も限られているのだが。

 この時ばかりは散り散りになっていた使用人達が全員集結する大ごとに発展したのだった。




 幸い、シリルは一時的な腹痛と幻覚に苛まれる程度で済んだ。

 片付けを使用人に任せ、食後の時間を二人きりで過ごす中アルレットは突然吹き出してしまう。


「笑い事ではないんだが」

「ごめんなさい、私のせいなのだけれど……平気だって分かった途端に」

「次に君が作る時は一時も目を離さないようにする」

「……そうね」


 彼女がそう答えた時、シリルはふと僅かな違和感を覚える。

 他愛もない軽口のつもりだった。

 けれどほんの僅かに……きっと、アルレットすら気付いていない程僅かに、彼女の微笑に陰りが見えたような気がした。


「アルレット」


 シリルはこの何となくに近い感覚を大切にしている。

 僅かにでも違和感を覚えれば、すぐにその正体を探ろうとする、魔王討伐時代の癖が彼の中には残っていた。

 だからこそこの時も、ほぼ無意識的に、一瞬のうちにその違和感の正体を事細かく探った。

 その時間は長く見積もっても三秒くらいだった。


「どこか悪いのか」


 アルレットの笑顔が強張る。

 今度は先程よりも分かりやすかった。


 シリルはアルレットの頬へ手を伸ばす。

 彼が触れれば、細かな粉が彼の手に多量についた。

 おしろいだ。

 ただ、白い色が主流であるそれは、随分黄みがかかっていた。

 そしておしろいが取れた箇所からは青白い肌が浮かぶ。


「……アルレット」


 自分の手や彼女の頬に目を奪われたシリルは、事情を聞こうとアルレットへ視線を戻す。

 その時。


 シリルの視線は彼女の口元に吸い込まれる。

 ぽたり、ぽたりと滴る赤。

 アルレット口の端から零れたそれは彼女のドレスや手を汚していく。


「……あら、いけない。ドレスが汚れてしまったわ」


 大した事ではないかのように振る舞う彼女の意図をシリルは理解していた。

 心配をかけまいとしているのだ。


「アル――」

「……ごめんなさい」


 アルレットは困ったように微笑み、そのまま――崩れ落ちた。


「ッ、アルレット!!」


 床へぶつかるより先、シリルは彼女を抱き留めるが、腕の中のアルレットはぐったりとしていた。



***



「…………治らない!?」


 シリルは倒れたアルレットをベッドへ運び、すぐに医者を呼ぶ。

 しかしアルレットの容態を見た医者が告げた言葉は『原因が分からない』というものだった。


「喀血した事から、内臓を損傷しているのでしょう。しかし似た症例の流行り病とは明らかに異なるのです。発熱はなく、斑点や痣は見られず、それどころか……あまりにも綺麗だ。その他にも不可解な事が――」


 アルレットは顔を蒼白とさせ、浅い呼吸を繰り返し、時折血を流している。

 にも拘らず、医者はあれこれ言葉を並べては原因が分からないと告げた。


「そんな……っ! だって先程まで――」


 そこでシリルは我に返る。


 自分は知っているはずだ。

 アルレットという女性を。

 どれだけ逆境に立たされようと、孤立し、味方がいなくとも、彼女は平気で涼しい顔をする女性だ。

 ……自分の弱みを見せない女性だ。

 そう、つい先程だってそんな彼女の性格を見抜いていたはずだったのだ。


「……っ」


 シリルの言葉はそこで途切れる。

 余命幾許(いくばく)もないだろうという医者の宣告に、彼はただ、拳を握り締めて俯く事しかできなかった。




「……驚いたでしょう」


 その晩の事。

 アルレットにつきっきりであったシリルはその声を聞いてぼんやりとしていた意識を引き戻した。


「私の演技が上手くて」

「っ、アルレット……!」


 シリルはアルレットの顔を覗き込む。

 アルレットはそんな彼の頬を優しく撫でながら力なく話す。


「……やっぱり、助からないのね」


 その言葉に、シリルが言葉を詰まらせる。


「…………いつから」

「そうね、あまり覚えていないのだけれど」


 やがて何とか絞り出せば、アルレットは過去を振り返るように静かに目を細める。


「……貴方と婚約するよりも前だったのは確かね。ある日、本当に突然」

「な……」

「その時も、お医者様には罹ったのよ。でも、原因が分からないと言われたわ。その時はまだ軽度だったから、「どうせ気を引きたいだけなのだろう」と、両親も信じてはくれなくて」


 アルレットは苦く笑う。


「何となく長く生きられないとは感じたのだけれど……あの時は、別に長生きしても楽しくないだろうって思っていたから、まぁ、死ぬならそれでもいいかと思っていたの。あの頃はまだ、テランス様がいたし」

「殿下が?」


 シリルが聞き返せばアルレットが笑みを深める。

 けれどその瞳は酷く潤んでいて、込み上げる感情を必死に押し殺しているのだという事は明らかだった。


「私、本当は寂しがり屋なのよ?」


 シリルが鋭く息を呑んだ。


「本当に孤立して、独りぼっちで死ぬくらいなら……嫌われていてもいいから、誰かの傍で死にたかった」


 シリルは彼女と婚約してからの日々を思い出していた。


 何時間も放って居眠りをした時も、彼女は帰ろうとしなかった。

 結婚してからも、今の関係に落ち着くまで、進んで二人を選んでいたのは彼女だった。

 あの時だって、ただ仕事をしたり、休んだりしているだけで構ってやれないシリルの傍に当然のように現れていた。


 彼女が虚勢を張りがちだという事はわかっていた。

 けれど、それでもシリルは、アルレットという女性のほんの一部分しか理解していなかったのだ。

 アルレットは、シリルが思う以上に繊細で、怖がりで、寂しがり屋だったのだ。


「…………すまない」


 肩を震わせ、深く項垂れるシリルの頬からいくつもの雫が零れた。


「泣かないで。黙っていたのは私だったのだから」


 そんな彼を見てアルレットが笑う。


「どうせ、治りっこないのなら……時間が許す限り、ありのままの貴方に触れたかった。いつか貴方を悲しませるとわかっていても」


 シリルの頬を撫でる。

 そんな彼女の瞳からも涙が流れていた。


「最初はただ一緒にいてくれるだけでよかったの。けれど、貴方の傍があまりにも居心地が良くて……貴方と過ごす毎日が、想像していなかったくらいに満たされていて…………私、本当に幸せだったわ。……シリル」


 アルレットはシリルへ両腕を広げる。

 それに応えるように、シリルは彼女を抱き寄せた。


「ごめんなさい。置いていかれる悲しみをまた味わせてしまう」

「……死なないでくれ、アルレット」


 シリルの願いにアルレットは答えない。

 ただ、くすりと笑って囁いた。


「楽しかったでしょう? 気付いたら沢山、大切な思い出が出来ていて」


 子供をあやすように、アルレットはシリルの頭を撫でた。


「私の命を、貴方にあげる」


 優しい声が囁く。


「私、知っているの。貴方は皆が言うような完全無欠の英雄ではないけれど、とても優しくて、私と同じくらい臆病な人だって」


 同じ時を共有し、心を許し合ったからこそ、誰も知らない一面が分かって来た。

 シリルがアルレットの虚勢を見抜いていたように、アルレットもシリルの本質を見抜いていたのだ。


「貴方は人の醜さにうんざりとしている癖に、見限る事ができない。自分が拒絶する事で傷付くかもしれない誰かを想ってしまうから、期待に応えようとしてしまう。そんな……不器用で優しい人」


 公爵や英雄としての体裁だとか言っている彼は結局のところ、誰かを傷付ける事を恐れる優しい人間であった。

 例えアルレットがリュシエンヌのような性格だったとしても、期待外れな行いばかりして不利益を被らせようとも、彼は婚約を破棄したりは出来なかっただろう。

 そうアルレットは確信していた。


「貴方の優しさに付け込もうとする人がきっと、沢山現れるでしょう。強く拒絶ができない貴方はきっと苦しくて、周囲の期待の圧力に潰れそうになるかもしれない。だから……覚えていて。私と過ごした時間を」


 すすり泣く声と小さな嗚咽が部屋に響き渡る。


「私は悪女だから、貴方を潰そうとする人たちへ代わりに叫んであげる。貴方が期待と孤独に苛まれないように、傍に居てあげるわ。……貴方の中に、ずっといてあげる。だからどうか、苦しまないでね」


 アルレットはシリルの胸を優しく撫でる。

 涙を流し、掠れた声を震わせて、それでも笑って彼女は言う。


「愛しているわ、シリル」



***



 それから、アルレットはシリルの中で意識を失った。

 息はまだ辛うじてあった。


 シリルは彼女を優しく寝かせ、その額に口づけをする。


(もう、本当に……何もできないのか)


 大きな悲しみに呑まれながらも、シリルは考えを巡らせる。

 とはいえ、病気であるならばシリルに出来る事は少ない。

 今の自分に出来る事といえば、手当たり次第に医者を当たる事くらいだろう。


 しかしそれでも、何もしないで悔やむよりはマシだと思った。


「医者を探してくる。すぐ戻るから……いつもみたいに待っていてくれ」


 いつの間にか身についていた、『どちらかが外出する時』の習慣。

 それに従ってアルレットに話し掛けてから、シリルは部屋を後にした。




 アルレットの看病を使用人に任せ、シリルは廊下を進む。

 その途中、不自然に凹んだ床を見つけた。


 且つて、アルレットに聖剣を持たせた時に出来たものだった。

 たったそれだけの事で、当時の光景が次々と蘇る。


「……全く」


 楽しかった記憶と、あの時ですらアルレットは病に体を蝕まれていたのだという事実に板挟みにされ、シリルは苦く笑う。

 溢れそうになる涙を彼は必死に堪えた。


 ――聖剣って、呪いを消せるのよね。


 ふと、こんなふざけた凹みを作るきっかけともなったアルレットの言葉が蘇る。

 アルレット本人も、本当に何気なく振ったであろう話題。


 それを思い出した途端。

 シリルは背筋が凍るのを感じた。


 頭の奥で何かが引っ掛かった。

 シリルは足を止め、思考を巡らせる。


 ――シリル様は魔王軍が扱う呪いを祓う聖剣に選ばれたのですよね?


 ――呪いは私達からすれば、あまりに不可解(・・・)な原理で、簡単に生命を奪うという恐ろしいものだと聞きますのに。


 社交界で何度だって聞いたような称賛の言葉を思い出す。


 ――それどころか……あまりにも綺麗だ。その他にも不可解(・・・)な事が――


 医者の言葉が過る。


 ――ある日、本当に突然。


 何の前触れもなく症状が現れたというアルレットの言葉が脳裏で何度も繰り返され。




 ――さっさと死ねばいいのに。






 鼓動がこれでもかという程に大きく、激しく鳴り響いている。

 伝う冷や汗を拭い、シリルは長い、長い溜息を吐いた。


(…………思い違いなら、それでいい)


 シリルはすぐ目の前の扉に手を掛ける。


(俺を捕まえられる人間はこの国にはいない。もし間違っていたのなら、その時はアルレットと逃げればいい)


 もし、という考えは残しておきつつも、彼の中には一つの確信が生まれていた。


(彼女がいなくなった後なら、裁きでも何でも受ければいい。どんな目に遭ったって構わない)


 シリルは部屋の壁に立て掛けられていた聖剣に手を伸ばす。

 彼の瞳は、暗闇の中で鋭く光っていた。



***



 王宮の正門が突破されたのはそれから五分後の事だった。


「な……ッ、ヴェルディエ公爵!! お待ちください!」


 正門を突破したシリルは前に立ちはだかる騎士達を目にも留まらぬ速さで気絶させていく。

 そして一直線に謁見の間に辿り着いた彼は扉を蹴破り、ずかずかと中へ入り込む。


「な……ッ、し、シリル殿? 一体何事――」


 騒ぎの報告が間に合わない程の速度で辿り着いたシリルに国王は驚愕する。


「国王陛下の御前にて狼藉を働いた事、どうかお許し願いたい」


 もし、この判断が過ちではないという確証が持てなかったのであれば、シリルは口先だけでも許しを請うことはしなかっただろう。

 だが――


「今すぐここに、リュシエンヌ王女をお呼びください」


 聖剣を握り締めるシリルの視界には――王宮の一角に漂う、黒く悍ましい煙が見えていた。




「し、シリル様ァッ!! 一体何をするのですか!」


 現れるや否や、その場に組み伏せられたリュシエンヌが悲鳴を上げる。

 しかし彼女の顔は、怒りに囚われたシリルの形相に気付くや否や、青白くなっていく。


 シリルはリュシエンヌが首に着けている大きな宝石のネックレスを引き千切った。


「あ……ッ!!」

「……まさか二つも持ち歩いているとはな」


 更にシリルは髪飾りをリュシエンヌから奪い取る。


 黒い煙はリュシエンヌから漂っていた。

 その発生源は二つ。

 ネックレスと、髪飾り。


「…………なるほど。何故彼女のような人間がああも嫌われているのか、不思議でならなかったが。……呪いの中には他者を洗脳する類のものもあったな」


 シリルが『呪い』という言葉を口にした時、リュシエンヌが引き攣った悲鳴を上げる。


「し、シリル様……ッ、違うんです、これは――」


 シリルはリュシエンヌを突き飛ばすと二つのアクセサリーを投げ捨てる。

 それはシリルの剣技によってあっという間に砕け散ったのだった。


 瞬間、国王を含め、その場に居合わせた者達が一斉に放心する。

 何が起こったのかわからないというように呆然とする中、リュシエンヌだけがすすり泣いていた。


「陛下ッ!!」

「っは、はいぃっ!!」


 シリルの鋭い声に、放心していた国王が我に返る。

 肩を跳ね上げ、背筋を伸ばし切った国王へ、シリルは告げる。


「陛下御自身が、身をもって理解したはずです。今の状況を。同胞や民の命を数えきれない程奪って来た魔王軍。彼の者達が人を滅ぼすために用いた呪いを、リュシエンヌ王女は用いていた。それも二つもです!」


 国王の顔が真っ青になっていく。


「このまま呪いの行使を許していれば、我が国の未来がどうなっていたかはわかりません。彼女は王族ですが、家族と同胞を奪った魔王軍と同じ力を易々と使い、あまつさえ我が妻の命を狙った彼女を、私は許す事が出来ません。国民や、彼女が使った呪いに振り回された者達とてそうでしょう! どうか――然るべき罰を与えて頂きますよう!」

「は、はひ……」


 常に物腰柔らかく穏やかな振る舞いを心掛けて来たシリルが声を張り上げる様を、その場の誰もが初めて見た事だろう。

 そのあまりの圧に国王は腰を抜かしてしまい、情けない返事を上げるのだった。



***



 それから一週間が経った頃。


「リュシエンヌ様は初め、愛する兄を取られた事と、淑女教育において優秀だった私と自分の差に嫉妬していた……と」


 ベッドの上に体を起こしながらアルレットは呟く。

 その顔色には明るさが戻り、呼吸も安定している。


「呪いのかかったアクセサリーを手に入れたのはテランス様で、妹の為を思っての事だった……まぁ、彼はシスコンでしたし、私を良くは思っていなかったものね」


 ぶつぶつと呟くアルレットの傍では、シリルが微動だにしないまま椅子に座っている。


「テランス様は『まじないの類』としてアクセサリーを手に入れ、リュシエンヌ様もその話を信じ……あっという間に効果が出たアクセサリーの力に依存するようになった。アクセサリーを送ったのは魔王討伐を機に停戦状態となった隣国の間者と言っていたわね」

「ああ」


 アルレットは数分前……長い眠りから覚めた後、シリルから聞かされた情報を整理していた。


「強力な魅了の呪いと、時間はかかるけれど一人の命を奪う呪い。……洗脳の類は勿論のこと、後者だって王族と意見がぶつかっている国家の重要人物なんかの殺害に用いれば充分国家の混乱を招くでしょうね。尤も……政治が絡まない恋敵? のような相手に使われるとは思っていなかったのでしょうが……。まぁ、問題はそんな事よりも」


 シリルは、捕らえられたリュシエンヌとテランスから手に入れた真相と、事の顛末を詳細にアルレットへ話していた。

 尚、戦を仕掛ける機会を窺っていた隣国には既にその思惑がバレている事と、勇者を怒らせない方が良いという忠告を記した手紙が送られた。


 魔王を倒した勇者の力はあまりに強大だ。

 バレないように暗躍していた隣国もその計画が明らかになってしまった事から、この暫くは勇者の怒りを恐れ、息を潜める事しかできないだろう。

 だが、それも無駄な事だ。

 呪いを利用した国という事は既に他国にも知られている。

 近いうちに国同士が同盟を結び、一斉にかの国を落とす計画が水面下で組まれつつあった。


 尚、リュシエンヌとテランスは王族としての籍を廃された後、処刑が決まった。

 国どころか世界を滅ぼしかねない力、また人類の敵と同じ行いに出たというのは、流石の国王としても庇い切れるものではなかった。

 もしかしたらあの晩の勇者があまりにも怖かったというのもあるかもしれないが。


 何はともあれ、呪いから解放されたアルレットはすっかり健康になり、諸悪の根源は滅される事となった。

 これにて一件落着……


 ――というのは、あくまで客観的な話であり。


 アルレットは片手に力を籠める。


「いだだだだっ」


 瞬間、身を強張らせていたシリルが悲鳴を上げる。

 彼は、アルレットによって頬を抓まれ続けていた。


「……怒りのままに王宮を襲撃した? 信じられないわ。死ぬ気だったの?」

「いや。逃げられるだろうといだだだだ」

「そういう問題ではないでしょう? 折角、死に物狂いで積み重ねて勝ち取った功績が全て台無しになるとこだったのよ。リュシエンヌ様達の悪事が証明されたからよかったものの」


 呪いの恐ろしさは誰もが知っている。

 故にシリルの王宮襲撃事件に関しては、一刻を争うと判断した勇者の英断として処理され、お咎めなしとなった。

 尚、下手に勇者を刺激してより酷い目に遭いたくないという国王の私情も存分に含んではいる。


「功績なんて、必要ない」


 頬を抓られながらも、シリルは真っ直ぐ見る。


「俺はそもそも、魔王を倒して死んでいった大切な人達に報いることが出来ればよかった。そんなものよりも……」


 シリルは自分の頬に触れる手を握り、引き寄せる。

 そしてアルレットを腕の中にしっかりと抱き留めた。


「君の傍に居たい」


 シリルの声は少しだけ震えていた。

 それを感じたアルレットの瞳が、徐々に潤んでいく。


「もう二度と、あんな風に諦めるような事は言わないでくれ」


 アルレットが小さく頷く。

 その瞳から涙が零れ落ちた。


「生きてくれ、アルレット。……愛してる」

「……ごめん、なさい。ありがとう、シリル。――愛してるわ」


 二人は互いに寄り添い合って、静かに涙を流した。

 それから気持ちが落ち着いてきた頃。

 互いの顔を見て「酷い顔だ」だなんて軽口を言い合いながら、口づけを交わすのだった。




 その一年後。

 二人は新しい命を授かり、幸せな家庭を築いていく。



***



 且つて、国一番の悪女に婚約を申し出た英雄がいた。

 当初、悪女を見捨てられない彼の優しさとそれが招くだろう不幸に「可哀想」と囁く娘たちがいた。


 けれど、彼女達は数年後、その言葉が過ちであった事に気付く。


 社交界に姿を見せる公爵夫妻は……


 ――どこの貴族よりも、幸せそうだったのだから。

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― 新着の感想 ―
これ、シリルが気づいたから良かったものの、気づかなかったら逆にこっちの国が『魔王軍が使った呪いを使って国民を洗脳した王族がいる国』扱いされて滅ぼされていたってことですよね…。 またもや英雄ではないです…
シリルが気付かなかったら隣国に滅ぼされていたかもしれませんね。悪役令嬢を呪ったリュシエンヌは希代の悪女として歴史に名を残す事になるのでしょうね。 楽しく読ませて貰いました。
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