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作者: 長田エリカ
掲載日:2026/01/12

たばこが吸いたいYO!

「減らないんだよ」


彼がタバコの箱を私に見せてくる。


二列に詰まったタバコが銀紙に包まれている。瞼が痙攣した。


「禁煙するっていったじゃない」


1ヶ月前の約束だった。


「だから、この一箱吸ったら、やめるつもりだったんだよ」


彼の声は疲れていた。私の物わかりの悪さを責めている口調だ。私は箱の脇に挟まっていたライターを取り上げた。


「1ヶ月も前のタバコがどうしてそんなに余ってるのよ」


彼は私の手元のライターをぼんやり見つめながら、


「減らないんだよ。もう何本も吸ってる。」


カチカチとライターを鳴らして火をおこす。透けてる容器にアルコールが充分溜まっている。


「その言い訳おもしろくないから」


「誰かが補充してるとしか思えない」


「誰よ」


「君以外いないじゃないか」


呆然。


彼の妄想は完全に理解の範疇を越えている。


「あのさ、できないんだったら、いいから。期待させないでよ。別にタバコ吸ってるパパなんて、いっぱいいるんだから」


突然、赤ちゃんが身動きをしたように思って、ライターをテーブルに放った。さすってあげたいから、手を洗いにいくと、洗面台のコップに刺さった歯ブラシが三本あった。


「ちょっと」


「なんだい?」


「なにこれ」


「?歯ブラシだけど」


「誰の?」


「ボクと、君と、...」


初めて気がついたみたいに、彼が絶句した。


「ねえ」


「まただ」


「は?」


「また増えてる」


彼が額をおさえたまま頭からドアにもたれた。


「なにその演技」


「君がやったんじゃないのか?」


「は?なに?私が男連れ込んだってこと?」


「そうは言ってない」


「あのさ、浮気はいいよ。もう病気だから。でも、その妙な演技と嘘はほんとにやめて。」


「違うんだよ。浮気はやめた。本当だ。もう1ヶ月以上してない」


誇らしげに言う。


無言で手を洗ってから、お腹をさすりながら台所へ向かった。麦茶を注ごうと冷蔵庫に手をかけたとき、ふと玄関の暗がりが目を惹いた。


不審に思って近づいてみると、傘立てに見慣れないビニール傘がある。新品だ。しかも五本。


「ねえ」


「なんだい?」


「こういう無駄づかいやめてって言ってるじゃん」


いつかの、彼の分のビニール傘を傘立てから引き抜いて見せつけると、


「はぁぁああああ」


彼が顔を両手で覆ってへたりこんだ。


「ねえ!聞いてる?」


「増えてるよ~」


指の間からくぐもった嗚咽がきこえる。


「あのさ、ちゃんと天気予報みてよ。こんなにあったってしょうがないでしょ」


「増えてる~」


無言で台所に戻って、食器棚を開けた。ニトリで買った私と彼用のコップが、なぜか狭い棚のスペースを隙間なく占領している。


「ねえ!」


「なんだい?」


「これ!なんでこんなにあるの!?」


彼はおずおずと覗きにきて、棚のガラス越しに並んだコップを見ただけで目をむき、


「うわぁぁああああ」


ゴキブリをみたときより恐ろしげだ。


「いつ買ったの?」


「ふ~え~て~る~」


話にならなそうだから、義務づけている家計簿を確認しようと寝室へ行って、小物入れの引出しを開けると、奥に見慣れない紙袋があった。中には同じ家計簿が十冊入っていた。とりあえず古い家計簿に十冊分の家計簿の値段の合計を書いた。


彼は本当に深刻な病気なのかもしれない。台所のほうから「ふ~え~て~る~」と裏返った声がする。何が増えてるだ。その分お金が現実に減ってるんだ。


彼のそばに戻り、とにかく麦茶で一息つこうとふたつコップを用意して冷蔵庫を開けたら、大量の納豆のパックがなだれ落ちてきて足元に転がった。ひゃあっと彼が飛び退いた。


「ねえ」


「なんだい?」


蛍光灯の白い光が彼の瞳に映っている。


「病院行こっか」


「なぜだい」


「なぜって、普通じゃないよ。この無駄な浪費。あんたべつに納豆好きじゃないでしょ」


「うん。どちらかというと嫌いだよ」


麦茶はありえないくらい濃かった。


「ゴホッ。とりあえず、明日休みなんだから、一緒に病院行こう。ね」


彼は腑に落ちない表情で首をかしげながら、床に散らばった納豆のパックを片付けていた。


#


「はあ。物が増えるんですか」


白衣の先生がメガネ越しに伺う。彼は呆然とした表情で、物のない部屋の中央に、モニターを前に座っている先生の、胸ポケットに挟まったボールペンを見ている。


「違うんです。間違いなく彼が買ってるんですが、その記憶がないんです」


私が口を挟もうとすると、


「ボクは買ってないです。君、それはさっき証明しただろう。先生、勝手に増えるんです。あるとき、ある瞬間、気づいたら何の法則性もなく物の数が増えるんです」


先生は沈黙している。彼からは財布と給料明細を照明させてもらって、不自然なお金の使い方はしていないことがだいたい分かった。彼は低所得だから少額の浪費でもだいたい判明してしまうのだった。他に増えていた物で私が知らなかった分は、ハンカチ、セロテープ、ハンガー、等小道具類が多く、一つ一つの単価はそれほど高くなくてもまとまればそれなりの金額になる物ばかりだった。彼はそれらをベッドの下から出して私に広げてみせて、それから部屋の隅で踞って念仏かなんか唱えていた。「あんた、盗んでるんじゃないでしょうね。他に何を盗ったの」そう問い詰めたときの 、彼の絶望した表情が気の毒で追及することはよしてしまった。


「いつごろからですか」


先生がモニターを操りながら問う。


「1ヶ月前からです。タバコ、これなんですが、吸っても吸ってもなくならないんです」


彼がジャンパーから例のタバコを取り出す。私にしたように先生に見せると、先生は、ほう、と興味深そうに点検する仕草で、


「ためしに一本、いいですか」


ライターで着火した尖端が赤くなり、一筋の煙がたちこめる。先生の髭もじゃの口から紫煙が吐かれ、何もない部屋に薄く膜を張る。


「うん、うまい」


満足そうに頷くと、先生は白衣のポッケから携帯灰皿を出し、器用に灰を落とした。


「今、一本なくなった。そうですね?」


「はあ。そうですね」


箱の中には一本分の隙間がある。


「ここにマジックみたいになくなった分が増えると」


「そうです」


「このまま観察してても、増えそうにはないですねえ」


「そうですね。僕が気がつかないときに増えます」


「ほう、それにしても、すーっ、はっ。うまい」


煙が部屋中にたちこめる。ボヤ騒ぎを心配するほど、もくもくとたちこめる。一応身重なんで、と席を外そうとしたとき、ふと先生の胸元を見ると、ポケットにボールペンが三本挟まっていた。三色ボールペンが三本だった。


「そのタバコは当院でお預りしておきましょう。次回来ていたただき、ご確認いただく。宜しいですね?」


彼は呆然と頷いた。


#


病院を出て、遊歩道をバス停に向かって歩いていく。男の子が連れた犬がすれ違いざま、彼の匂いを嗅いでいった。


「ボク、盗んでないから」


ぼそりと呟く。


「それはごめん。私も感情が高ぶってたから」


女子高生の軍団がそれぞれスマホをいじったまま横一列になってやってくる。私たちが歩道脇の藪に避けると、横一列のまま何事もなく去っていった。


「ボク、頭おかしいのかな」


「大丈夫よ。きっとタバコ、やめたくない気もちがそういう奇跡をおこしてるんだよ」


自分でも何いってるかわからなかった。でも、物が増える現象は彼がタバコをやめる、って言い出してからだから、そうなんだろうと漠然と思っていた。


コンビニがある。店先で渋い顔をしてタバコを吸っている人がいる。


彼のタバコは先生に獲られちゃったから、


「買おうよ、タバコ」


私は弱った彼につくづく甘いのだった。彼の袖をひくと、彼は申し訳なさそうな、でも確かな足取りでコンビニへと向かった。


客の来店を告げるメロディーと共に自動ドアが開いて、すぐに異常に気づいた。気づかざるおえないほど、入り口と対角線にあるおにぎりのコーナーの棚からは数限りないおにぎりが溢れ出していた。床を埋めるほど散らばったおにぎりの中に、これまた大量のウイダーインゼリーやレッドブルやガムやお菓子が混ざっている。右を見ると雑誌コーナーの柵を破壊する冊数のグラビア雑誌が縦に横にと天井に届きそうなほど乱雑に積まれていた。ワックスや化粧水などコスメ用品をバキバギ踏みながら店員が雑誌をかきわけ現れて、「いらっしゃいませー」と言ったころには彼の姿はなかった。


「待って!」


彼は走っていってしまった。私は走れない。しかたなく混沌としたコンビニに戻って、


「あの、すみませんタバコください」


店員はちらっと私のお腹をみて私の目を見据え、


「番号は」


と言いながら缶コーヒーの海をかきわけながらレジに入っていった。


「一番在庫があるやつください」


#


コンビニを出て、歩道の先を見やると、彼らしき人が指先で摘まめるほどの小ささで佇んでいた。息を切らしているようで、かすかに肩が上下している。そこがバス停だ。昼さがりの日差しの影になっている。


まだ時間があるから、とぼとぼ歩いていく。すれ違う人たちの視線が、なんとなく私のお腹をかすめていく気がして、誇らしくなる。


歩道の石畳には、舞い込んだ銀杏の落ち葉が敷かれている。木々は左手の公園の奥から、先の中学校の校舎の手前まで続いていた。こんなにたくさん、よく植えたものだと思うけれど、種から育ったのだろうから、この高さまで育ちきるのによく無事だったと感心する。


高い金網で遮られた学校の校庭では、同じ格好の、同じ頭をした男の子たちが駆け回っていた。


校舎を過ぎると、交差点で足留めされた。左手からいくつかの乗用車にまぎれて二人乗りのバイクがやって来た。左折して、バス停を通り過ぎていく。


後ろに乗っていた女性は細くて危なげだった。私は絶対乗りたくない、いくらピンクだってヘルメットなんて無骨でかわいくない、そう思っていると左手からまた似たようなカップルのバイクが現れた。左折して、まっすぐ小さくなっていく。うしろの女性はピンクのヘルメットを被っていた。あまり見ないが流行っているのだろうか。信号が変わった。


バス停について、彼の隣に腰をおろした。


「タバコ買ったよ」


彼は複雑な表情でタバコを受け取った。


バスがやってきた。車椅子のおばあさんとそのお孫さんらしき女の子を、屈強なお兄さんが助けている。私たちも乗り込んだ。発車してからは前方の園児たちの黄色い頭が風に揺られる黄葉のようだった。


#


いくつかの駅を過ぎて、車椅子のおばあさんとそのお孫さんらしき女の子が降りていった。その間私は意味もなくつり革の数を数えたりしていた。屈強なお兄さんは後ろの席に戻っていった。


またいくつかの駅を過ぎた。目的駅まではぼんやりしているからはっきりしない。降車ボタンが点灯して、後ろからおばあさんの声がした。


「あら、駅を過ぎてしまっていたよ」


「おばあちゃん、どうしよう」


「なに、また戻ればいいよ。私もボケたのかねえ」


「おばあちゃん、ごめんなさい」


お兄さんの野太いイビキが重なった。


#


自宅に着く前に彼のスマホに連絡があった。どうやら彼の兄夫婦が来ていて、勝手にあがっているらしい。


「ねえ」


「なんだい」


「勝手にあがるなんて、どうなの?」


「ああ、増えたからね」


「はい?」


「鍵だったらこの間たくさん増えてたから、せっかくだから兄貴にお裾分けしたんだよ。一つくらいいいだろう」


「その理屈はわからないわ」


玄関に入ったら、見慣れないスニーカーが二足、ブーツが二足あった。


「お兄さんたちって四足歩行だったっけ」


さすがに彼は蒼白な顔だった。

まさか、まさかと思っていると、


「やあ、おかえり」


リビングから顔を出したお兄さん。ややあって、トイレの方から、よく似た声のくぐもった「おかえり」がきこえた。


彼はその場で気絶してしまった。「おじゃましてます」とキッチンから双子の兄嫁が出てきたからだろう。


「お姉さんって双子だったんですか?」


私がきくと、


「いいえ、こないだ、目が覚めたらベッドに一緒に寝ていたのよ」


セリフみたいにふたりの声が重なる。おそろいのエプロンがかわいらしい。


「私、いけない、この人はドッペルなんとかだ!と思って、よくわからないから、とにかく近所のお寺にお祓いにいこうと思って」


「私は精神科に行こうとしたのよ。それをこの人が、私を執拗にお化け扱いするの。私こそが私なのに」


「なによ。いきなり私に化けておいて、この化け狐」


「もう、しらない。あのね、私、頭おかしくなったんだわ...と思って、病院行こうと玄関出たら、彼がよく似た男と取っ組み合いしてるでしょ」


「私もうパニックになっちゃって。彼も憑かれてるんだわ!って」


「私、覚醒剤でも飲まされたのかなって」


ふたりの兄嫁が間髪なくまくし立てる。私が交互に彼女らをみていると、次第に視界がぼやけてひとつに重なった。いけない、目眩がする。


「とにかく、埒が明かないから病院行ったら、先生、深刻そうな顔で、入院を勧めるじゃないの。私、冷静になっちゃって、新婚早々そんなの嫌だったから、薬も貰わずに逃げ出してきたわ」


もうひとりの兄嫁は手に数珠をからげて念仏を唱えている。すると楽観的なふたりのお兄さんが、


「まあ、市役所行ってみたら当然戸籍は一つしかないし、職場でも一人いれば事足りるから、いいようにサボれて今は楽だよ」


「ただ仕事の経過と職場での会話をいちいち確認しあうのは、気が滅入るけどね」


仕方ないね、はっはっは、とふたり仲良く肩をくんで笑っている。


#


お兄さんたちと世間話をしていたら、なんだか眠くなってきてしまった。こちらがひとつ質問するたびに倍の回答が帰ってくるわけだから、疲れもその分倍になる。


「ちょっと休ませてください」


よほど私の顔が悲壮だったのか、四人は顔を見合わせてそれぞれ労いの言葉をかけてくれた。


気絶した彼は寝室に寝かせられていた。

それからは彼に寄り添って、静かな時間を過ごした。私が産んだ女の子の赤ちゃんが、赤ちゃんのまま赤ちゃんを産む夢をみた。わあっ、と叫んで、驚かせた彼もろとも跳ね起きたころには、もう夕方だった。


どうやら夢から覚めたのに、まだ夢だったようだ。

部屋のなかは、ワカメのように増殖した物で溢れかえっていた。

夕日に照らされ、あらゆる雑貨や小道具が、倉庫やゴミ屋敷のように狭い部屋に溢れていた。


彼が私にプレゼントしてくれた、「用意できなかった」と、渡してくれた指輪の空箱が明らかな在庫過多で転がっていた。指輪が入っていたら億万長者だろう。


「ねえ」


「なんだい」


「そろそろ限界なんじゃないかしら」


「まあ、人が増えるとは、想定外だったよ」


夕食の買い物に行ってくる、と百枚くらい書き置きを残して消えた兄夫婦と再開するのを恐れた彼と、ひとまず、近所の公園に逃げることにした。外の風で寝ぼけた頭を冷やしたかった。


#


公園は異常にブランコがひしめいていた。砂場をまたいで設置されたブランコや、漕いだら滑り台のスロープに接触する位置にあるブランコや、すでにベンチに乗っかっていて鎖がたわんだブランコや、ジャングルジムの周りに危なげに立て掛けられたままだったり、横倒しになっていたりするブランコや、公園脇の歩道に堂々と通行止めする形で並んだブランコなんかがあった。


かわいそうな彼はすでに言葉を発しなくなっていた。空虚な瞳は足元の砂粒の数をぼんやり数えているようだった。


夕暮れの空を見やると、薄蒼い空にぼんやり満月が浮かんでいる。よかった。ひとつだ。そう思ったら、その満月がくるりと回って目玉に変わった。こちらを凝視している。


「ねえ」


「なんだい」


「タバコ吸いなよ」


「いいよ。やめた。吸ってもどうせなくならない。だったらもう吸わない」


「赤ちゃんのため?」


「そうだよ。でも、自分の健康のためでもある。最近咳き込むんだ。肺は一つしかないからね。大事にしなくちゃ」


「ふたつあるけどね」


「左右でひとつなのさ。これから僕たちは、この子のために、左肺と右肺になるんだ」


遠く土手の向こう、手前の橋の袂から、トラックが一台通りすぎていった。それに続いて、二台、三台、次第に間隔を狭めて、前の車体の排気ガスを顔面に浴びながら同じトラックが橋を渡っていく。クラクションが鳴り出す前にここを去らないといけない。


「どこ行こっか」


私がきくと、


「物がないところはどこだろう」


この郊外の静かな住宅地ですら、難しい質問だった。海しか浮かばない。


「とりあえず電車乗ろう」


#


駅にやってきた。


焦りからかよく見ていなかったせいで、改札口を抜けると改札口に出ることに気づかなかった。急いで引き返してきたのだけれど、一瞬引き返せないかと思ってすごく怖かった。振り替えると、遥か彼方まで延々と改札口が続いている。その昔、切符なくしました、と言ってケチって出てきた人が落ちる地獄なのかもしれない。


「邪魔だよ」


「あ、すみません」


私たちを退けて改札を抜けた男性は、何事もないかのように次の改札を抜けていく。カードの残金を心配する私をよそに黙々と次へ次へと終わりのない改札を抜けていく。男性に続いて、学業帰りの学生たちが和気あいあいと駅舎内に吸い込まれていった。


それにしても、これでは海どころか市内から出ることも困難だろう。


「ねえ」


「なんだい」


「お腹空いたわ」


駅前にマックがある。しかし、こないだまで二階建てだったのに、横に伸びたMの字の赤い看板は店舗ごと縦に積まれていて、上層階は空高く吸い込まれており果てがなかった。

ガラス張りであったはずの二階はおろか、すべての階が一階と同じく店先に向かって解放されている作りで、無意味極まりなく、二階以上は落ちたら即死だしクレーン車でもなければ入店できない。そしてビル自体は、まるで固いレゴブロックを縦にいくつもくっつけたときに危なげにたゆむみたいにゆらゆら揺れていた。倒壊したら大災害じゃすまない。やはり学業帰りとおぼしき制服の子たちが、建物を仰ぎ見ながら、


「高すぎね?ありえなくね?」


「マジ設計ミスなんだけど、ウケる」


などとのんきなことを言い交わして入店していった。夕方時のファストフード店は学生などでよく混むのだった。


#


「安全なところを探そう」


彼が呟く。


「安全って、どこよ」


「わからない、とにかく、あそこはダメだ。お腹の子がいるからね」


「何か気分が落ち着くところがいいわ。喫茶店とか、バーとか」


「喫茶店か。心当たりがある」


#


刻々と暗くなってゆく線路沿いの路地に、彼は私をおいてくかのような足取りで入っていった。角の美容院の店内では、見習いらしき美容師が先輩に急かされ、稲穂を収穫したかのごとき嵩になった髪の毛を抱えて奥へと消えていった。


#


暗い路地を彼について歩いていく間は、電灯の点ったあらゆる店や町の様相が私の不安を煽った。


ゲームセンターは真っ暗なのに、中で多くの人の気配がした。


廃墟みたいな動物病院には、列ができていた。先頭にいたケージを提げたおばさんならまだ納得できるものの、自衛官らしき男性や、パジャマ姿の女性、ピエロなんかもいて、後尾に自立した小学生のように並んでいたのは大型犬だった。


眼鏡屋から味噌ラーメンの匂いがした。


パーキングエリアに映画でしかみたことがない戦車がとまっていた。児童英会話教室の隣には風俗店があった。


ここに至ってようやく気づいた。この異常な現象は物や建物が増えるだけにとどまらないのだ。見慣れた交番の前に見慣れたカーネルおじさんが立っている。


#


路地を抜けて幅の広い車道に出た。そこから向こうはよく知らない、たしかなのは富裕層の多く住む、リッチな住宅地だ。不思議なほど静かだった。車道に何も通らない。ただ冷たい夕闇がはりつめて、風が吹いている。交差点を渡って、あるビルに近寄り、彼は地下に続く階段の前で立ち止まった。


「ねえ」


「なんだい」


テナントが表示されるべき看板はまっしろだった。


「なんか行かないほうがいい気がする」


「なぜだい」


「なんとなく」


彼はかまわず地下に降りていった。私も従うしかないのだった。


#


階段を降りきった左手に、シックな木目調のドアがあった。照明があたたかく照らしたプレートには、太い文字で「バーっぽいバー」と書かれてある。


「なにここ、ふざけてんの?」


「なにを」


「なにって、バーなの?」


「まあ、バーかも知れない」


「かもってなによ」


「お酒も飲めるし、カウンターもあるけど、なんていうか、バーに行ったことないしそういうの読まないから、書けないんだよ」


「さっぱりだわ」


「しかも夜中の5時で頭がボケてる」


「今は夕方よ」


「だから書いてる時間だよ」


ドアを押すと、鈴の音がして奥に開けた。店内はほの暗く、静かに眠たい音楽が流れていて、なんていうか、バーって言われてパッと思い浮かぶバー、そんな感じだった。


「いらっしゃい」


カウンターの奥にいるバーテンダーのおじさんは、格好こそ違えど先ほど行った病院の先生だった。


「先生、なにしてるんですか」


「なにって、知らないよ」


「先生、医者でしょう」


「そうだよ。でも、おそらく、このあとまた病院に行くって展開が無理になったんだろうね」


「さっぱりだわ」


先生は不慣れそうにシェイカーを振りながら、座りなさい、とカウンターをアゴでしゃくった。白いシャツに合わせた黒の蝶ネクタイは先生によく馴染んでいるけれど、ベストの襟に値札がついている。


彼とふたりで腰かける。よく磨かれたカウンターの向こう、キャンドルの灯りに照らされたお酒のビンの数々はイオンで買い揃えたもので、ムーディーな空間を演出している間接照明はダイソーで買ったそうだ。


「何しろ、急に間に合わせたものだから。何か飲むかい?」


シェイカーは振りっぱなしだ。


「カクテルなんて、先生、つくれるんですか?」


「作れるわけないだろう。医者だぞ、私は」


変なリズムをつけて振りだしたため、ガシャン、と床に落とした。


「赤いきつねと緑のたぬきがあるけど」


掃除がめんどうだからか不機嫌になった先生。私は、


「先生、タバコどうでしたか」


#


「タバコ?なんのことかね」


グラスを磨きながら先生がとぼける。


「さっき先生が回収したタバコですよ」


突然、嫌な予感がした。さっき地下に降りる前に感じたものだった。やっぱ、いいです、と謝りかけたとき、


「ああ、これかね」


先生がおもむろにベストのポケットから、例のタバコの箱を取り出した。私が手を伸ばそうとすると、素早く大声で「こちらのお客様からです!」と、そのままテーブルを滑らせて奥へやってしまった。


「これが言いたかった」と先生が震え声で呟くと、何を血迷ったか棚のお酒のひと瓶を、床に叩きつけて割ってしまった。ビンの硬く脳天に響く破裂音が店内に響くなか、私は気づいた。


奥に、人がいた。


暗がりでみえなかったわけではない。入ってきたときにはいなかったはずだ。頭からズブ濡れになったスーツ姿の男が、力なくカウンターに突っ伏していた。床が水浸しになっている。


「ひゃあああっっ」


破裂音よりは、タバコの箱が腕にあたって驚いたようだった。身をおこし、こちらをそろそろと窺って、「やあ」と微笑みかけてきた。額に前髪がはりついていて、口元しか見えなかったが、ひどく痩けていて生気のない顔をしているのがわかった。


「タバコですか」


「ひゃっはああああああ」


破裂音。


「あの」


「私、もう禁煙してるんですよ」


「びょびょびょびょびょおおお」


破裂音


「あの!」


「ですから、せっかくのご厚意なのですが、ご遠慮させていただき...」


奇声と、さらに勢いを増した破裂音。どうやら両手で好き放題に、棚のお酒を床に投げつけ、壁に叩きつけしているようだ。先生が壊れてしまったわけだけれど、ふと傍らの彼をみたらカウンターの下で身を縮めてぶるぶる震えていた。


埒があかないから、男のそばに近寄ると強烈な臭いがした。一瞬、雨に濡れた男かと思ったけれど、その臭いでドブにでも落ちたのか、いや、腐敗臭というよりは揮発性のある刺激臭、ガソリンだ。


「ぼく禁煙してるんです」


「ああ、それで」


「こうでもしないと吸ってしまうんです。もう吸いたくないんです」


「うん、わかるよ」


「吸っちまえええええ!はぁああああああああ!びょー!びょー!すえええええ」


先生がものすさまじい声で絶叫しながらその場でのたうちまわると、先生がえづきだし、心配に思っていると、咳き込みながら何かを吐き出した。透明な容器のライターだった。それにつられて、男も吐き出した。やはりライターだった。先生も男も、大量のライターを目から涙を溢しながら吐き出し始めた。彼は、カウンターの下で耳を塞ぎながら泣きじゃくっていた。


#


ひとしきり吐き出して胃の中がからっぽになったのか、男は疲れて眠ってしまった。


ガソリンまみれにしておくわけにいかないから、店の奥にシャワー室があったので、彼に手伝ってもらいそこにひきずっていった。

濡れたスーツやスラックスを脱がしてもおきず、お湯で体を流してる間もおきず、頭を洗っている間も顔にかからないように配慮したとはいえ、寝息をたてていた。

いくら洗っても臭いは消えず、一本しかなかったボディーソープはすぐに空っぽになった。

膝を抱えた体勢で横に寝かせて、体からたちのぼる湯気を見ている。シャワー室はもくもくと湯気で曇っていて、男は肌色の霧のなかにいた。


「タイルは冷えるわね」


また店内に運び出した。


「おつかれさま」


先生がバーテンダーの格好のまま、床に染みたガソリンと、男と自らが吐き出したライターの山を掃除していた。立ち上がりかけた拍子に片手で腰をおさえてうめいた。


「先生は大丈夫なんですか」


「まあ、これが初めてではないからね。彼とは違って。痛ってぇなあ」


先生は髭もじゃの大口をあけて、喉を指差し、続けて私たちが抱えた男を差した。


「この人、どうしましょう」


「そこに暖房があるから、近くに寝かせてやりなさい」


部屋の隅に赤く火のついた石油ストーブがあった。ソファーに寝かせて、少し距離をあけて熱を当てた。彼が羽織っていたジャンパーを男にかぶせた。


あらためて眺め回してみると、部屋中が割れたビンとお酒にまみれて悲惨な事になっている。


私たちも手伝おうとすると、先生は手で制して、座りなさい、と、ところどころ欠けたり抉れたりしたカウンターに促した。


先生が乱れた服を鏡で整えながら、


「ところで、タバコのことだけれども」


「ああ、その、どうだったんですか。増えたんですか」


「うん、ものすごく。あのあと君が帰ってから、また一本拝借して、医院の外で吸っていたんだ」


無事だったグラスを磨きながら、先生は落ち着いた口調で言う。


「その間もずっとタバコの箱を観察していた。なんともなかった。戻ってから、診療室へ入ろうとしたら、ドアが開かないんだよ。はたして、部屋の中はタバコの箱で隙間なくいっぱいになっていた。患者が出る側のドアを試したら、半分ほど開いて、中の状況が確認できたからね」


「先生、これらの現象は、彼が原因なんでしょうか」


切り出しにくかったが、やっぱり、ビクッと彼の体が震えたのがわかった。


「そうだよ」


にべもなく言う。彼が再度震えた。


「だから、彼が死ねば解決するよ。世界は元通りさ」


「あの、彼あとすこしでパパになるんです。死んでもらっては困るわ」


「そうは言われても、このままではねえ」


先生はどこからかリモコンを取りだし、カウンターの横にあった小型のテレビをつけた。


『臨時ニュースをお伝えします。ご覧ください、国会議事堂前の広場に突如として地面に突き刺さった逆さまのスカイツリーがそびえ立ち、あの、私は何を言っているんでしょう。あっ、議事堂横に天守閣が!ものすさまじい地鳴りです、立っていられない、あっ、あれは、あの宙に浮いた島のようなものは、堀?石橋?建物がぼろぼろと、あの、宮殿は、皇居でしょうか!地面から引き剥がされ、洪水が、あ、あれは自由の女神!皇居の跡地に、自由の女神がたくさん突き刺さっています!なに、影が、私の頭上にも、あっ』


ノイズとともに画面が砂嵐になった。


「世界滅亡」


先生が好きな四字熟語を教えるみたいに言った。


「僕やだよ~」


彼がだだっこみたいにすねる。


「そうはいっても、君が死なないと、テロ国家がありあまる核ミサイルを世界中に打ちまくるのも時間の問題だ」


「先生、なんとかならないかしら」


お腹の赤ちゃんの動きが活発になっている。元気な子だ。なだめるようにゆっくりさすりながら、


「私、一人で育てるのは嫌なの」


「そうはいってもねえ」


先生がグラスの磨き具合をキャンドルの灯りに透かして子細らしくみている。気に入らなかったらしく、床に叩きつけて割ってしまった。短気な人だ。


「彼の何が原因なんでしょう。それを突き詰めれば、解決の糸口が見つかるかも」


「禁煙だろうねえ」


やっぱりそうなんだ。


「禁煙ですか」


「まあ、タバコは合法ドラッグって言われるくらいだからね」


先生が棚のお酒をひと瓶あけようとするも、コルクが抜けない。素手で抜こうとしている。抜けなくてカウンターに叩きつけた。破砕された欠片が目の前に飛び、散らばる。とっさに彼が私を庇ってくれた。


「禁煙、もういいよ」


私が彼に諭すようにいうと、


「いやしかし、この子のためを思うと」


彼が慈愛に満ちたような瞳で私のふくれたお腹をみてる。でもその瞳にふと悲しい色が揺れたように感じたのは、キャンドルの灯りのせいなのだろうか。


「でも世界滅亡したら意味ないじゃない」


「いやしかし、この子にヤニ臭い口でキスはできない」


彼がカウンターの隅のタバコを見やる。


いかにも吹いたそうだ。


#


「一本、ためしに吸ってみなさいよ」


実は彼が、もう1ヶ月以上禁煙していたことなど知っていた。カウンターのタバコの箱をあけると、銀紙に包まれた二列のタバコは、ちゃんと二本分の隙間ができていた。


「いやしかし」


「吸いなさいって」


「いやしかし」


『吸えよ殺すぞ!!!』


私と先生の怒声が重なった。彼はビクッと震え、生唾を呑み込んだ。


「じゃ、じゃあ一本だけ」


「そう、一本だけ」


彼は震える指先で、一本、タバコを摘まんだ。そろそろと箱から抜き出すと、先生がさっとライターを、片手を添えて彼の口許に近づけた。


「ぼく、怖い」


彼が涙目になっている。


「大丈夫、一本だけだ。一本だけ。ケムリが、少し、肺に触れればいい。吸い込むこともない」


先生がぞっとするほど優しい声で彼に囁く。


ジュボ、とライターが着火した。タバコの先端が、じんわりと燃えて、ほの暗い彼の顔を照らした。


沈黙があった。彼が目をつむってケムリを口元から吐き出している。そのケムリが、少しずつ少なくなっていく。彼が一呼吸ごとにより深く体内に吸い込んでいくのがわかる。


ふ、とテレビの砂嵐がやんで、ニュース画面が映った。何事もなかったかのように先ほどのレポーターが、議事堂前の、若者の憲法改正の抗議運動か何かを解説している。


「どうやら助かったようだね」


先生が満足げに頷く。いつの間にか白衣を着ている。胸元のボールペンは一本だった。


「先生、医師だったら禁煙できるように治療すべきじゃないんですか」


私が非難がましく睨むと、


「何をいう、私はただの無職だよ。医者でもバーテンダーでもないただのコスプレおじさんさ」


「病院は」


「あそこはただの廃墟だよ。ここもそうだが空きビルだ。兄貴が所有している」


ソファーの男はいつの間にかいなくなっていた。


「彼は」


「ああ」


無職はめんどうくさそうに、


「あれは幻。吸いたい願望が具体化した彼の分身だよ」


そういえば彼は髪も伸びてて頬もえらい痩けていたけれど、似ていると言えなくもない 。体を洗ってるときに不快を感じなかったのは、本能で感じていたからか。


「さて、もう町の異常さも消えていることだろう。それに、君はもう」


「あれ」


私の股を伝っていくものがあった。


お腹が痛い。


#


「愛美!愛美!」


玄関からパパの声がする。外は夕暮れで、少し早く出張から帰って来たようだった。


「ほら、出迎えてあげなさい」


私が促すと、愛美はものすごく不満そうな顔をしたあと、手にもっていたソフビ人形や建物の模型を放って玄関に駆けていった。


パパはいつも娘が玄関先に迎えに出ないと家にあがろうとしなかった。


「愛美、ちゃんと買ってきたぞ~」


パパののんきな声がする。愛美を抱き上げている様子だが、愛美はパパの臭い息をすごく嫌うから、手ではねつけてることだろう。


夕暮れの寝室にたくさんのオモチャが散らばっていた。愛美のおままごとはあまり普通とは言えなかった。極端に何かこだわったものをたくさん欲しがったり、物を溢れさせ、人形を暴れさせたり、ありえない場所にありえない建物を並べたりして一日中笑っているのだった。


パパが寝室へ入ってきた。そのまま、汚れた靴下で布団を踏んであぐら座りする。


「ねえ、洗ってきてってば」


いつも軽く睨まれるだけで、無視される。パパは愛美にキスをせがみ、ものすごく嫌そうな顔で避けられているのにお構いなしだ。


愛美はするりとパパの腕を抜けると、パパの持っていたビニール袋をひったくった。


袋を逆さまにすると、ししゃもほどの大きさの、ミサイルや小型の銃器がいくつも畳に転がった。


「愛美は男の子っぽいものが好きなんだなぁ」


パパは感心そうに頷いて、スーツのポケットからタバコを取りだし吸い始めた。部屋にケムリがたちこめる前に、


「外で吸えよ!」


「はいはい」


大袈裟にため息をつきながら渋々ベランダに出ていった。



愛美がミサイルを建物に突き立たりして遊んでいる。


落日の陽が、パパの口許で燃えるタバコの火と重なった。



fin

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