第二十八話『黒岩明姫』
天璋院の名前を完全に捨て、彼女は新しい戸籍を手に入れた。結果、何の気なしに名乗っていた直人の性である黒岩が苗字となり、母親が考えていた名前が真名となった。……若干不服な点もなくはないが、心機一転直人と暮らしていくのであれば必要な変化ではあった。
「…………」
すっかり暗くなった島内。例の小屋の近くで、明姫はぼーっと海を眺めていた。月明かりと星に照らされた水面がキラキラと輝き、目を喜ばせてくれる。……ただ、この時の明姫はまた別のことを考えていて、景色を楽しむどころではなかった。
「……………今、思うとすごく変なことを言ってしまったような気がする」
……今回の一件、犯人たちも意図せずして、彼女の昔の記憶を呼び起こしていた。なぜ名前を変え、この島に来たのかとか、赤の他人でしかなかった直人とのやり取り。何の気なしに思い出していたら、大分恥ずかしいセリフを思い出してしまったというわけだった。
「…………絶望を与えるって、なんて色気のない」
……そのセリフが飛び出てしまったのはなぜだったか、今となってはよく分からない。……影野に言われて、咄嗟に言ってしまったことだけのことだったのに。
そう、一年前、影野の問いに対する答えは、その実、とっくに直人に明かしていたのだ――。
「――わたしは、」
「わたしは?」
「――……わたしは、直人にやり返してやりたい」
「?」
「…………む、むかついてるから、その、そう、絶望させたい」
「…………ほう」
「ぜ、絶望させてやるまで、絶対にはなれない、はなれてやらない。…………、つ、つまり」
「…………つまり?」
「つまり――」
――明姫は今までで一番と言えるくらいに息を吸い、満を持して、己の想いを言い放つ。
「――わたしには直人が必要、なの!」
それは、復讐相手としてか、憎き相手としか。あるいは、生涯のパートナーとしてか。色んな意味に取れる言葉の中でどう解釈したのか、影野は薄く笑い頷いた。
「――なるほど」
かくして、影野の興味をひいたことで、交渉は上手く成立し、明姫は直人と暮らせるようになる。
「…………直人にどう説明しよう」
冷静になったことで、ふと明姫は気付く。元々、影野とは敵同士のようなものだった。その彼が協力してくれると言われても容易には信じられないだろう。何か、彼が納得するような説明が必要となってくるが、果たしてありのままを言っていいものか。正直、明姫自身もなぜ受け入れられたのかよく分かっていない。
「別に言わなくていいんじゃないですか」
「……さすがにそれは」
「お嬢様が何か言って、私を説得した。それで十分だと思いますよ」
「………………確かに、直人なら上手くごまかされてくれるような気がしてきた」
まるで何かあるように見せかけて、実は影野の気まぐれだった。……釈然としないが、今はまあそれいいとしよう――。
「…………結局、本当の理由言っちゃったし」
久しぶりに直人に会って色々と感情が沸き起こった結果、影野にした宣言をそのまま繰り返してしまった。その上、想いを現すには大分回りくどい方法を取ってしまった。……どさくさに紛れてプロポーズまがいのことを言ってしまったような気もするし、やらかしてしまった感がすごい。…………。
「……でも」
そろそろ一年が経つ。その間、島で平穏に過ごしてきた。……今日みたいなイレギュラーはめったにないから、多分この先は変わらず平和に生きられる、はず。それはそれとして、自分たちの関係はこの一年でほとんど変わっていない。……誘拐されていた間もお兄さんと呼んで兄妹のフリをしていたし、今だって同様に兄妹だと思われるように振舞っている。……本当は兄妹という関係性は不服だったが、親戚とか知り合いの子どもとか、比較的薄めの関係を選ぶと相応の設定が必要となってくる。……そこまでの設定を考えてくれる影野ではないし、直人も兄妹設定に否を言わなかったので、明姫の密かな希望は隠されたままで新生活が始まってしまった。
「………………遠い」
直人が刑務所から戻ってきたあの時から、二人でいる時はお兄さんではなく名前で呼んでいるというのに、彼はその意味に気付く様子はない。……これだけで気付かれても、変な恥ずかしさが出てくるから構わないといえば構わないのだが。
「…………少しくらい意識してくれても」
とはいえ、兄妹という関係性は大きな障害だ。血が繋がっていなくたって、兄妹は兄妹であって男女の仲にはなりえない。……自分の今の苗字がそれを物語っているようで、捨てたはずの天璋院が惜しくなってくる。
「――少し、勘違いをなされているようですね」
「!?」
バッと振り返るとそこにいたのは、神出鬼没でおなじみの影野だった。天璋院美咲が表舞台からいなくなったことで、任を解かれたのかと思いきや、彼は監視という名目で島に常駐していた。……時々島から離れて別の任務にあたっていたりもするようで、どうもただの道楽で島にいるという説も存在している。……聞いてもはぐらかされるだけなので、直人も明姫もスルーしてただの島民同士として付き合っていた。
その影野は直人と話していたのではないかとさらに後方を見てみると、彼はそろそろ帰ろうとしているのか、周りの警察官たちに挨拶をして回っているようだった。この調子だったら、すぐにでもこちらに合流してくるだろう。…………。
「…………かんちがいって?」
その前に気になる発言をした影野を問い詰めなくてはならない。
「黒岩性の意味ですよ」
「?」
首を傾げると、彼はピンと指を立てる。
「あなた方は兄妹として暮らしています。だから、苗字が同じである。それは分かりますね」
「…………うん」
剣呑な雰囲気漂わせつつ頷く。
「ですが、それは兄妹だと思わせるための演出に過ぎないんですよ」
「演出?」
「お嬢様は、この島に来る際、新しい戸籍を得ました。その戸籍上、両親はすでに亡くなり、兄妹はいない、ということになっているんですよ」
「…………?」
両親がいないのはいいとして、兄妹がいないというのはどういうことだろう。自分には黒岩直人という兄が――。
「…………まさか」
「気付きましたか」
珍しく影野が得意げに、それからいたずらが成功したことを喜ぶ子どものように頬を緩ませる。
「あなた方は単に苗字が同じだけの他人だということです」
「!」
ドクンッと心臓が高鳴り体が熱くなる。……ただ、これはあくまで戸籍上の話。これで直人の認識が変わるわけではない。自分のことを妹として見ているのなら、結局は届かない相手。しかし。
「可能性があるなら、もっとがんばれる」
明姫がキュッと小さな拳を握る。
「…………絶対に振り向かせて見せる」
「? 振り向くのは、明姫の方だろ?」
「!?」
さきほどとは別の意味で心臓が早鐘を打つ。話に夢中で背後から近づいてくるもう一人の男に気付かなかったらしい。…………影野はさも当たり前のように姿を消していた。
「…………用、済んだの?」
「…………おう。今日はもう帰っていいらしいぞ」
結構あからさまな明姫のごまかしは何となくでスルーして、彼は視線を帰り道へと向ける。
「……帰ろう、明姫。俺たちの家に」
「! …………うん」
直人はいつになく、穏やかに微笑んで手を出してくる。影野といったい何を話していたのか。明姫が過去を振り返っていたように彼にも感慨にふけるような出来事があったということにしておいて、明姫は目下の問題に頭を悩ませる。
「(手をつなぐの!?)」
今までになかったわけではない。兄妹のフリをしている時は、平然と手を繋いで歩いていた。……それがこのごろは変に意識して手を繋ぐことすらできなくなってしまっていた。……勢いに身を任せている時以外は。
「………………ん」
差し出された手を握り返し、二人はようやく帰路へと着く。……誓いを改めた直後のせいで明姫は赤くなって終始無言で縮こまっているのだった。…………暗くて表情を見られなかったのが幸いだった、のか。




