第二十五話『天璋院美咲』
物心ついた時から、美咲は一人だった。どうやら自分が母親の命を奪ってしまったらしいということはすぐに分かった。……その意味をちゃんと理解したのは小学生になってからだが、幼い時から漠然とした後ろめたさに悩まされてきた。
……天璋院家の一人娘ということもあり、表立って疎むものはいなかったが、古くから天璋院家にいる者の中には複雑な感情を抱くものもいて、居心地悪くこともあった。……婿養子として天璋院家の一員となった美咲の父親は特に母親に執心しており、明確に美咲に対して憎悪を抱いていた。……だからといって自分の、ひいては天璋院家の血を引く彼女をどうこうするわけではなく、日々、淡々と業務をこなしていた。
……子どもに無償の愛をささぐべき親としては失格であったものの、加害行為はなく、裕福な暮らしをしていたから、抱える想いは多くても実害までは出ていなかった。……美咲の精神的負荷は相当に高いものとなっていたが。
……そんな鬱屈日々の中で母親の日記を見つけたり、使用人の中には純粋に美咲の心配をしてくれている人がいたりと絶望の底にまでは落ちることなく過ごしていたが、ある時から雲行きが怪しくなってくる。
……元々、父親が美咲に抱く憎悪は、彼女が生まれたことで最愛の女性が亡くなったこと起因する。……母親がすでにいない以上、彼女を排除しようと意志はなかった。なのに、いつしか、彼女を邪魔だと思う様になっていた。……手を下すまではしなかったまでも、彼女がいなくなることを望んでいたのだ。…………どうしてそんな思考に陥ってしまったのか、まだ子どもである美咲には分からなかった。
不穏な空気が流れながらも、どうすることもできずいつも通りの日々を過ごしていると、ふと一台のワゴン車が目に入った。お金持ちとはいえ、自宅は住宅街にあり、その車のことは知っているし、多少ボロくても十分に走るというのも分かっていた。
『…………』
魔が差したというか、興味が出てきてしまったとか、つい出来心とか、色んな言い訳を頭の中に浮かべながら、彼女は目に見えない脅威から逃げるように車の後ろに立ち、バックドアに手をふれた。
ガコン。
すると、思いもかけずドアが開く。
『……………』
正直、開くとは思っていなかった。他人の車の周りをウロチョロして終わる予定だった。……なのに、開いてしまった。
「…………」
美咲は黙ってワゴンの中に入った。中に入った!
「………………そのうち、バレる、はず」
中に入っていたものをどけつつ、寝床を形成する。そのまま横になり、天井を見上げる。
「………………なに、やってるんだろう」
落ち着いたら急に我に返ってしまった。大事になる前に、早く車から出なくては。
…………このまま事が大きくなれば、父親は心配してくれるだろうか。
「………………」
首をブンブンと振り、雑念を追い出す。もう一度息を大きく吸い込んでから、起き上がり車から出ようとする、が。
「………………眠い」
温かい昼下がり。別に寝不足じゃないが、こうやって横になっているとどうにも瞼が重たくなって仕方ない。
「……………………」
そんなこんなで美咲はうっかり居眠りをしてしまい、気がついたら知らない男に見下ろされていた。……厳密には知らない男というわけでもなかった。時々見かけたこの車の持ち主だった。
「…………ここ、どこ?」
それから色々言葉を交わし、隣の街にまでやってきてしまったことを知る。
「…………」
お嬢様モードを維持しつつ、どうしたものかと頭を悩ませる。……天璋院家の権力をもってすれば、もう見つかっていてもおかしくない気もする。そうなっていないということは何か不足の事態が起こっている。……子どもの美咲にはよく分からず、ひとまず彼の手を借り、家に連絡を取ることにするつもりだったのに、話の流れでなぜか交番に行くことになった。まあ、警察づてに家に帰れば、大きな問題もきっと起こらないだろう。と、思っていたら、またもやなぜか、ワゴンを運転していた男、直人の家に来ていた。優しそうな感じだったのに、どうやら誘拐するらしい。……行動こそ犯罪者だったが、まるで凄みがなく、むしろ罪悪感で苦しんでいることが丸わかりだったため、恐怖を抱くことはなかった。しかし、誘拐なんて上手くいくわけがないと思い、ここからどうするべきか考えた。ひとまず夕食を済ませてから思考を巡らせる。……このお兄さんにはあまり捕まってほしくない。多分、お金を必要とするまっとうな理由があるんだと思ったから。
その後、怪しい筋から誘拐計画を買ったらしい彼は素人ながら奮闘し、なんとか電話をかけるところまでは進む。緊張しながら天璋院家に電話をし、おそらく使用人が電話に出る。相手に向かって誘拐を告知し、ひとまず電話を切る。……ここまでは順調だった。だが、ここから電話がつながらなくなる。美咲自身も戸惑いにしばらく言葉が出なかった。いくらなんでも子どもが誘拐されて居留守をするとは思えない。……それも今までならだった。最近の父親は少しおかしかった。……こんな体よく排除できるタイミングを利用しないわけがなかった。
なんとなく状況を掴んだ、つかめてしまった彼女は誘拐犯へと事実を告げる。信じられなさそうにしていた彼もいつしか信じるしかないと考え、二人の奇妙な同居生活が始まった。
……本当のところ、美咲にも少しくらいは不安があった。……お嬢様として育てられた自分が、庶民の生活に馴染めるのか疑問に感じていた。……それは杞憂に終わり、割と平穏な暮らしを送ることができ、彼女も内心、胸を撫でおろしていた。
これからのことを意識し始めたのは誘拐から三ヶ月が経った頃だった。まずしい生活に適応できたとしても、自分の立ち位置をはっきりとさせる必要があった。……連絡が取れなくなった時点で天璋院家に戻る道は閉ざされていた。……自力で家に戻るといった手もあるにはあるが、捨てられたとなっては実家も安全な場所とは言えない。今後生きていくためには、直人との関係性をきちんと考えなくてはいけない。……彼から離れるにしては、小学生の自分ではさすがに無理がある。……そうじゃなくても、色々よくしてもらった直人と離れるのはなんだか嫌だった。……その感情が何なのか、美咲はいまいち理解できていなかった。おじさんというほどふけてもいなかったからお兄さんと呼んでいるが、自分は本当に彼の妹になりたいのか。……天璋院家の呪縛から逃れて、一緒に生きていきたいのか。……美咲はここ最近、自分の気持ちと向き合い、どうするべきか考えていた。
そんな折、直人が出会ってから百日といった名目で突然お祝いをすると言い出した。……百日かどうかはちゃんと数えていないからよく分からない。三ヶ月ほど経っているのならそれっぽい数字ではある。……ただ、なんとなく不穏なものを感じて。
……しかし、美咲もお嬢様かつクール系とはいえ子どもに代わりはない。二人で楽しむうちにテンションがすっかり上がり切り、ケーキを食し、風呂に入ったころには大分眠たくなっていた。まあ、直人とのことは今すぐ決めなければいけないことではない。……まだ自分は小学生、その時が来るまでじっくり考えればいい。……眠気に抗えず、美咲は睡眠欲のままに布団に入り眠りにつく。…………そういえば、元々会ったばかりの知らない人だった直人の家で随分とリラックスしてしまっている。……初日からこんな感じだったような気がするから、かなり彼に心を許してしまっているな。……関係性以前に、もう今更彼から離れることができないような? 漠然と浮かんだ考えが形になる前に彼女の意識は暗闇に沈み、本格的に深い眠りにつくのだった。
その翌日、目を覚ました美咲は一枚の手紙を見つける。そして、その手紙の差出人、直人の姿はどこにも見当たらなかった。




