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第二十二話『過去編その七』

『…………わたしが知らないところでそんなことが』


『……まあな。…………すごく癪だが、影野がある程度話の分かるやつで助かった』


『……直人、これって』


『ん、どうした?』


『…………なんでもない』


『?』


「……絶望だ」

「…………どうした」

 用事を済ませて家に帰ると、アキが仰向けになって寝転がり、死んだ目でこちらを見てきた。最近、こんなことが多い気がする。

「……おなか、すいた」

「昼飯、食っただろ」

 まあ、買ってきたうどんだけっていうのと、成長期であるということも含めたら仕方ないと言えるかもしれないが。

「…………」

 苦笑していると、急にアキが背中を起こし、じっと直人に視線を送ってきた。

「……あまい匂いがする」

「…………バレるとは思ってたけど、気付くの早すぎないか」

 直人が取り出したのは、さきほどケーキ屋さんで買ってきたばかりのケーキ。サプライズにしたかったので、好みを聞くことができず、とりあえず四種類ほど買ってきた。……一人二個だ。

「……イチゴのショートケーキ、モンブラン、ガトーショコラ、チーズケーキ。…………まよう」

「待て、落ち着け。今すぐ食べるわけではないぞ」

 手を伸ばしてきそうだった彼女を制して、ケーキをそそくさと冷蔵庫の中へと入れる。

「…………じゃあ、なんで、ケーキを?」

思いのほかすぐに冷静になったアイキが首を傾げる。無論、直人とアキ、どちらの誕生日でもない。クリスマスといったイベントがあるわけでもない。……色々と考えた結果、直人が導き出した言い訳が――。

「ちょうど、俺がアキと出会って百日だったなって思い出して」

 なんか記念日みたいな理由だった。

「…………そうだっけ?」

 実は九十六日だ。記念日でもなかった。

「そうそう」

 計算されたら嘘がバレるので、話をすぐに切り上げて、ニカッと笑う。

「というわけで、ぱあっとお祝いといこうか」

「! 分かった」

 珍しく瞳を輝かせるアキ。ここのところ家に閉じこもってばかりで鬱屈とした心地になっていたのかもしれない。これが気晴らしになってくれればいい。

「(……俺にとっても、な)」

 感傷的な気分になりそうな自分を奮い立たせて、買ってきたケーキ以外の食材も冷蔵庫へと入れる。当初予定していたそれを無理矢理詰め込んでから、さて、と手を叩く。

「夕食の準備はまたするとして、何かやりたいことはあるか?」

「……やりたいこと?」

 急に言われても、そんな感情がありありと伝わってくる。自分だって前置きなく聞かれたら困ってしまう。

「…………」

「…………部屋でできることがいいが、場合によっては外に出てもいいぞ」

「…………わたし、運動、そんなに得意じゃない」

「お、おう」

「……観光したい場所も特にない」

「……おう」

「…………けど」

「けど!」

「……お兄さんと遊んだことがないから、一緒に遊びたい」

「…………遊ぶって」

「何でもいい。家にあるものでいいから」

 真剣な眼差しを向けられ、直人もこくりと頷くしかない。といっても何ができるか。周囲を見回しながら考えてみる。……残念ながら、弟と遊んだようなおもちゃはここにはない。あるものといえば。

「……トランプならあるが」

「…………トランプタワーしよう」

「二人用の遊びが少ないからってそのチョイスはどうかと思うぞ!?」

 結局やることになった。

「……やるにしても、二人でできるのか、これ」

「……一山ごとに交代する」

「…………一山っていうのか、あれ」

 いささか盛り上がるかは疑問だったが、とりあえずやってみることにする。

「…………お兄さんからやって」

 お手並み拝見とばかりに、腕を組んで直人を見る。……正直、手先は不器用な方だと思っている。……集中力はそれなりに高いはずなので、簡単な二段くらいまではできると思うが。

「――よし」

 当然、一段目は何の制限もないから容易に成功する。

「……わたしの番」

 いつになく集中した様子で徐にカードを持つ。ススッと手を直人が立てた山の横に持っていき、二つ目の山を――。

 パタン。

「あ」

「…………」

 何もしてないのに山が倒れ、アキが何やらプルプル震えている。

「……やり直す」

 言うなり、再び取り組み始め、たっぷり五分をかけて一つ立てることに成功する。

「…………アキ、あまりはっきりは言いたくないんだが」

「………………うん、わたし、なんか、集中するの苦手」

「…………おう」

 そっちか、と思った。どう見ても不器用の部類だと思ったが、本人がそう言うならそうなんだろう。

「………………お兄さんの番」

「ああ、そうだったな」

 さきほど、アキが失敗した部分。同じことをしないように気を付けなければ。

「…………できた」

 まだここも容易の部類だった。

「………………」

「……何?」

「いや、何でもない」

 絶対この次無理だろ、と思ったが言わなかった。

 パタン。

「…………………………絶望だ」

 すべてが予定調和みたいな幕閉じだった。

「…………何か別のゲームするか?」

「…………神経衰弱」

「このタイミングでそれをやるのか!?」

 意外と接戦だった。

「……………………絶望」

「こ、これって結構運の要素強いから!」

 フォローしつつ、他のゲームでも遊んでいくこと一時間。空きの連敗記録が十で止まったところで、直人はこれみよがしに時計を見て声を上げる。

「もうこんな時間か! そろそろ夕食の準備をしないと!」

「…………うん」

「あ、アキは色々後片付けをしておいてくれ。俺は料理の用意をしておくから」

 素直に頷いた空きは元気が少ないながらもいそいそと片付けを始める。それを横目で見ながら、直人も宣言通り、夕食の用意に取り掛かる。本日は、お祝いを兼ねているため、全体的に豪華な食事にするつもりだ。元々ハンバーグは作るつもりだったから、まずは材料を混ぜ合わせてタネを作っていく。それができたら、焼き始める前に他の料理の準備を済ませることにする。

 大きなお皿に買ってきたサラダパックを開け、ドレッシングで和えてやる。簡易ではあるものの、ドレッシングはアキ好みのものを使っているし、十分に楽しむことができるだろう。あとは、普通の食事のつもりだったため、炊いているごはん。そのままよそって食べるのもいいが、今日は気合を入れて焼きおにぎりを作ってみることにする。

 炊き立てほやほやのごはんを三角形に丸め、しょうゆを塗る。それをじっくりと焼き、こんがりと茶色になるまで日を入れる。そこまで頻繁に作るわけではなかったのでクオリティにあまり自信がなかったが、香るしょうゆの焼けた匂いは食欲を刺激してきて、我ながら腹の音が鳴ってしまう。

 他、あり合わせの食べ物を皿に盛っていく。ひと際豪勢なのが某チェーン店のフライドチキン。他にも色々あるのにこんなものを買うものだから、どう考えても今日中に食べ切れる気がしない。……まあ、それはお祝いの席なのだから仕方ない。余ったものは明日の朝ごはんにでもしてもらうことにしよう。

 最後の仕上げとしてさきほど作ったハンバーグのタネを二等分にして成形し、大きな楕円形なそれをフライパンで焼いていく。中にまで火が通るように弱火で蓋をして蒸し焼きにする。数分ののち開けてみれば、こちらも肉の焼けた良い匂いがして、気持ちの良いため息が出る。

「――よし」

 頷き、品々をテーブルへと並べていく。

「…………」

 トランプの片づけ、それとお箸やコップの準備を自主的に済ませていたアキが言葉なく、感嘆している。これだけ静かでも特徴的な赤がキラキラしていたら何を考えているのか分かろうというものだ。

「あともう少しだけ待っていてくれよ」

「…………うん」

 用意してくれたコップにせっかくなのでと購入したシャンメリーを流し入れる。自分用にお酒を買ってもよかったが、まかり間違ってアキの口に入ってしまったら一大事だと考え自重している。

「…………グレープ味」

「……まさか、マスカット味の方が良かったか?」

「ううん、どっちも好きだから、大丈夫」

 とのことなので、しゅわしゅわのそれを気が済むまで注いでやった。自分の分にも注ぎ終わったところでようやく乾杯の挨拶に移ることができる。

「まあ、きっちりした挨拶をする必要はないな」

 チラッとアキを見ると、シャンメリーの入ったコップを持って直人を凝視している。目が合うと、さっさとやれとばかりに瞳で訴えかけられる。

「……じゃあ、出会ってから百日記念ってことで――」

「「乾杯!」」

 カンッ。

 小気味よい音を立ててグラスを打ち合わせたあと、コクコクと中身を口にへと入れる。しゅわしゅわとした刺激のあと、グレープ味が口の中に広がる。ただのグレープジュースだと言われてしまえばそれまでだが、果汁一〇〇%ということもあり味が濃く、どことなく上品な味である。お酒があまり得意ではない直人としては、こういうイベントごとの時は是非用意してみたい一品だった。

「…………おいしい」

「おう、そうだな」

 飲み物を楽しんだあと、いよいよ食べ物。庶民的料理たるハンバーグがあるおかげでなんだかちぐはぐな感じになっているが、今日は二人しかいない。雰囲気は気にせず、舌鼓を打つことにしよう。

「……肉汁、ジューシー」

「ふふっ、今日のひき肉は特売で良いのを買ったからな」

 作り方はネット検索したものだからそこまで自信がなかったが、満足してもらえたのなら良かった。胸を撫でおろす直人をよそにアキはメインたるフライドチキンへと手を伸ばす。

「…………こういうの家ではあまり食べてなかったから新鮮」

「…………」

 温め直したフライドチキンをはふはふと言いながら頬張るアキはこともなげに言ってのける。……ジャンクフードを食べる機会が少ないということ自体は悪いことではないにしても、その環境に戻ることがないと考えると心苦しく感じられた。

「(しかも、天璋院家の諜報部が自分を消そうとしているなんて)」

「お兄さん?」

「…………俺の歳になると脂っこいものは胃に堪えるんだ」

「…………どんまい」

「……おう」

 本当はまだそんなに歳ではないと言ってほしかった。誤魔化すために言ったのに、思わぬダメージを負ってしまった。

「……肉ばかりじゃなく、野菜も食えよ」

「…………うん」

 アキは特に野菜の好き嫌いはなく、普通にピーマンとかも食べることができた。……むしろ直人の方が苦手な野菜が多いような。

「…………俺は、焼きおにぎり食べよう」

 子ども、それもお嬢様に対して謎の敗北感を覚えながら、こんがりと焼けた三角を口に入れる。

「ん、我ながら上手い」

 こちらはネットで検索せず適当にやったので、ただの醤油浸しおにぎりにならずよかった。

「…………わたしも食べる」

 一人で楽しんでいたら、アキがひょいと焼きおにぎりを箸で掴み、口に放り込む。

「……もごもご」

「一度に口に入れすぎだ」

「………………おいしい」

 何事もなかったかのように食事を続ける。そんな彼女の様子に苦笑しつつ、直人も心の赴くままに箸を伸ばしていく。それから一時間ほどが経過し、テーブルを見てみれば、まだいくつか食べ物が残っているが。

「…………おなかいっぱい」

「……俺も」

 ひとまず残ったものは冷蔵庫に保存しておくこととなった。……ケーキはもう少ししてから食べることにして、後片付けを始める。直人が食器を洗い、アキが拭いていくという役割分担で揃ってキッチンに立つ。

「(……会を開いたはいいけど、普通に飲み食いしているだけだな)」

 あまり派手にしたらアキにバレるから良いと言えばいいのだが、このままだとどこか釈然としないものを感じる。……覚悟を決めたのだから、決定に代わりはない。それでも、もう少し彼女のことが知りたい。……誘拐犯という立場上、踏み込み過ぎないように気をつけてきたが、今のこの瞬間ならば――。

「……なあ、アキ」

「? 何?」

「……アキって名前ってどこから来たんだ?」

「それは……」

 口ごもる彼女を見て、直人はやはり何かあったのかと一人納得する。偽名を名乗るにしても本名の美咲とは関連がなさそうなのに、やたらと案を出すのが早かった。……そもそもなぜ父親に疎まれているのか、母親を奪ったとはどういう意味なのか。そういった疑問よりもずっと軽い話題だと思ったのだが、果たして――。

「…………お母さんがつけてくれた、……考えてくれた名前だから」

「…………考えた?」

 ……本名が美咲という時点で言い直した理由は分かる。しかし、考えたのに実際にはつけていないというのは――。

「…………お母さんは、わたしを生んだ時になくなっちゃった」

「!?」

 ドキンッとして心臓が早鐘を打つ。だが、これで自分が母親を奪ったという彼女の言葉の意味が分かった。……父親は母親、妻をいたく愛していたのだろう。生まれた子どもに対する愛情よりも、憎悪が上回ってしまった。

「…………すまん、うかつなことを聞いた」

「…………ううん、いつか話さないといけない。……聞いてほしいと思ってた。それが今になっただけ」

 淡々と答えているように見えて、彼女の表情には悲しげな色が浮かぶ。罪悪感に苛まれながら、あるいは、その心を救えないことをもどかしく思いながら、あれこれかける言葉を模索してみる。

「…………アキ」

「…………?」

 結果、思いついたのは。

「…………漢字」

「?」

「……多分、だが、アキって名前にも漢字が振ってあるんだろ」

「…………なんで?」

「……カタカナでもひらがなでもいいと思うが、なんとなく、な」

 アキがその名を大切にしているということは、母親が愛情をこめて付けたと分かる、命名の意図が伝わりやすい漢字があるんじゃないかと思った、と言語化できるほど考え方はまとまっていなかったが、どうやらその推測は正しかったらしく。

「…………明るいに姫で、明姫」

「…………かわいい」

「!?」

 ごほごほ。急に咳き込みだした。動揺する彼女がレアで感慨深くなるも、ハッとして手を振る。

「べ、別に、深い意味はないぞ。普通に良い名前だなって思っただけで」

「……………………………ありがとう」

 ぷいと顔を反らされる。若干、心に傷を負いつつ、頭の中に漢字を思い浮かべる。

 天璋院明姫。美咲の時よりもずっと厳かというか、豪華というか、見栄えのする名前だ。……直人の目から見ても親の、母の、明るくてお姫様のように上品な女性になって欲しいというような願いが垣間見える名前は、温かみがあり、胸がズキンと痛んだ。フルフルと首を振り、アキもとい明姫を見返す。すねたようにそっぽを向いていた彼女は視線に耐えきれなくなったのか、向き直り。

「………………」

 何かを思い出して赤くなる。

「…………明姫」

「! ま、まだ、何か聞きたいことある?」

 苦しまぎれの話題転換。直人も大人なので、というよりせっかくのチャンスを逃さないようにと、疑問に思ってたことを投げかけてみる。

「…………なんで、明姫という名前を知ったんだ?」

 生まれる時に亡くなったのだったら、本人から聞いたという線はない。父親から聞けるくらいに仲が良いのであれば、こんなことにはなっていない。だとすると考えられるのは――。

「…………お母さんの日記を見つけた」

 ――母親が何かを遺していたか。

「…………お父さんは、お母さんが無くなったのがショック過ぎて、お母さんのものは全部そのまま残していた。…………わたしがお母さんの部屋に入るのは禁止されてたけど、一年くらい前に気になって入ってみた」

「それで、日記を見つけたのか」

 こくりと頷き、彼女はその時のことを思い出すかのように中空を見つめ、薄く微笑む。

「…………そこには、お父さんとのけっこん生活のことが色々書いてあった。……にんしんしてからは、生まれたあとのことを書くことも増えていった」

 でも。表情を暗くし、辛さを耐えるように口を引き結ぶ。

「…………思い出したくないことなら」

「ううん、大丈夫」

 首をフルフルと振り、覚悟を決めた瞳で直人を見返す。赤い光に引っ張られるようかのように、明姫から視線を反らすことができない。

「…………生まれる予定の日が近づくにつれて、日記に不安げな文が目立つようになってきた。…………………多分、わたしを生むと命の危険があるって分かってたんだと思う」

「…………そう、なのか」

 ……おそらく明姫だって確認は取っていないから実際のところは分からない。なんとなく不安に感じていただけかもしれないし、実際に文章を読んだ明姫の主観かもしれない。……いずれにしろ、その結果は変わらず、父親の考えも変わらなかっただろう。

「…………それでも、お母さんはまだ見ぬ自分の子ども、わたしに会えるのを楽しみにしていた」

 ……父親のことが出てこないのは、彼女が話していないだけか、そもそも書かれていなかったのか。聞くのも憚られ、口をつぐむ。話は佳境へと突入し、明姫の声にも力が宿り始める。

「……日記の中で、お母さんは、子どもの名前について書いていた。…………書いていたころには、女の子だということは分かっていたみたいで、どんな漢字が使いたいとか、どんな子どもになってほしいかとか、……子どもみたいに楽しげで」

「…………明姫」

「……………………わたしが生まれる前日にようやく決めることができたみたいで、お父さんも知らないって」

「…………」

 前日。口の中で呟いて、ごくりと息を呑む。すなわち、亡くなる前日ということ。……子どもが生まれる時はもっと前から入院するようなイメージがあるが、果たして何かしらのトラブルがあったのか。あるいは、必然だったのか。……明姫は目に見えて震え、苦しみを我慢している。止めるべきなのに、彼女の瞳に引っ張られ、徐々に直人の方も平静を失っていく。

「………………結局、お母さんが直接この名前をつけてくれることはなかった。……最期のしゅんかん、お母さんがどう思ってたかは分からない。……もしかしたら、お父さんみたいにわたしをうらんだかもしれない」

「! 明姫!」

「…………そうだったとしても、この名前を考えていた時だけは絶対、わたしを愛してくれていたって思うから」

 ついに涙が頬を伝う。ぬぐうこともなく、彼女は湧き出る感情を思いのままに吐露していく。

「だから、この名前を知った時から、この名前になりたかった。……お父さんがテキトーに名付けたありきたりな名前よりもずっと、明姫って名前にはお母さんの思いが詰まっているような気がするから」

「…………ああ、俺もそう思うよ」

 ……図らずして遺言となってしまった名前。そこに秘められたものを部外者たる直人が測ることはできない。それでも、母親の思いというものは身近な存在を見て知っているつもりだから。

「…………ありがとう、話してくれて」

 話に一区切りがつき、なんともなしに沈黙の帳が降りる。それから、少しして、明姫がスッとお皿を持って立ち上がる。

「……片付け、しよう」

「お、おう、そうだな」

 幼女に促されて、キッチンへと二人並んで立つ。

「……普通に洗い物も俺がするぞ」

「…………用意してもらったし、お礼はする。……むしろ、お兄さんの方が休んでても」

「……それはダメ」

 女の子に働かせて楽をしようというのはさすがに気が咎める。なので、結局二人役割分担をしていそいそと食器を洗っていく。直人がスポンジで汚れをぬぐったあと、明姫が水で泡を洗い流す。それが終わったら、二人で協力してふきんで水を拭きとっていく。

「……………」

「……………お兄さん」

 黙々と作業を続けていたら、視線をお皿に向けたまま、明姫がぼそっと呟く。

「…………わたしも、聞いていい?」

「…………おう」

 内心ぎくりとしながら、なんでもないように答える。急に踏み込んだ質問をしてしまったから、怪しまれたんじゃないかと心配になってくる。……言及されたら誤魔化すしかないが、あまり嘘はつきたくない。

 チラリと明姫に視線を向けると、彼女は小さな手で大き目のお皿をぬぐっている。横顔を見るに、何かに疑念を抱いているとか、警戒しているとかそういうのではなさそう。……本当にただ聞きたいことがあっただけか。

 明姫はたっぷり魔を取ったあと、思いのほか芯の籠った声で尋ねてくる。

「…………身代金は、もういいの?」

「!?」

 バッと彼女の方を向き直る。明姫の方もちょうど直人に顔を向けたところでバチリと目が合う。

「…………お金が必要だったんだよね」

「…………」

 その瞳がわずかに揺れる。ここで直人は悟る。彼女はずっと気にしていたらしい、自分に人質の価値がないということを。……それ自体は分かっていた。ただ、親に捨てられたというショックという形でしか認識できていなかった。しかし、その考え方は少し視野が迫ったのかもしれない。

「…………わたしが来てから、前よりお金を使う様になったと思う。…………大丈夫?」

「…………」

 ――彼女は直人に対して罪悪感を覚えていた。それが分かり、直人は自分の至らなさ首を振ることになる。……一歩を踏み込むのを恐れていたように、一歩踏み込まれることも無意識に拒絶してしまっていたようだ。……彼女が気にしているのならその負担を軽くしてやらなくてはいけない、この先のために。

「大丈夫だ。……その問題は解決したからな」

「そう、なの?」

 子どもながらに身代金を要求しなければいけないほどの問題が簡単に解決するとは思っていなかった。一体何があったのか、瞳に映る疑問に直人は胸を張り、かいつまんで話をしてやる、あまり心配をかけないように一部を伏せながら。

「…………確か、弟がいるってことは言ってたよな」

「…………うん。でも、いるってことしか知らない」

「だよな」

 だから、と直人は最近できたばかりの弟について語り始める。

「俺には年の離れた弟がいる。歳は明姫と同じくらい。活発な少年で、いつも外で走り回っていた。……長くなるから省くが、弟と出会ったのは、あいつが小学校に入学する前のことだった」

「…………」

「……複雑な事情はあったが、弟が人懐っこいやつだったおかげで、俺たちは意気投合して、長年連れ添った兄弟かのように仲良くしていた」

 けど。

 その日のことを思い出し、顔をしかめる。

「お兄さん?」

「…………本当に突然だったんだ。突然、あいつは体調を崩した」

 思い浮かべるのは、自分といる時に苦しみ始めた少年の姿。今までずっと元気だったはずなのに、何の前兆もなく、地面に崩れ落ちた。救急車で病院に運び込まれたのち、彼が先天性の難病を患っていることが発覚した。……今までは運よく発症していなかっただけだった。……そのことを義理の母親は知っていたが、心配させないため、あるいは、言う必要がないと思ったか言わないでいた。…………知っていたところで何ができたわけでもないから、それは別にいい。……でも、やっぱり本物の家族にはなれなかったんだなと壁を感じてしまった。

「――いや、俺のことはどうでもいい。問題なのは、弟の病気がそう簡単に治るものではなかったってことだ」

「…………だから、お金が必要だった?」

 じっと聞いていた明姫が核心をついてくる。キラリと赤い瞳が光り、うっと言葉に詰まる。あまり察しがよくても困ってしまう。……間違って知らせるつもりのないことまで知られるかもしれないから。

「…………ああ、あいつの病気を治すには多額の治療費が必要だった」

 この手の難病を治せる医療設備は外国にあるもので、外国に渡るだけでもかなりの額が必要だったのだ。

「…………なんで解決したの?」

 お嬢様にしては金銭感覚が常識的だったらしい明姫が首を傾げる。そう、身代金を要求しなければいけないほどのお金がおいそれと手に入るものではない。何か普通ではないことが起きなければ到底解決なんてできない。……すなわち、その普通ではない出来事が起きたのだ、

「…………早い話、あしながおじさんが現れたんだよ」

「……足長」

「……天璋院家みたいなお金持ちが肩代わりしてくれたんだよ」

「………………良い人?」

「…………まあ、そうだな」

 ……個人的なことを言えば、やつはまるで良いやつなんかではなかった。あしながおじさんと表現したが、彼は分かりやすく見返りを要求した。それは、弟の父親の座、同時に義母の夫の座だった。……その要求を義母は飲んだ、弟にはその話を内緒にしたまま。……母親として子どもの命を大事にするのは当然のこと。……直人が個人的にその男が嫌いなだけで、人柄はそこまで悪くはない。少し独占欲が強いだけだ。……きっと弟も義母も彼のもう一つの狙いには気付いていないだろう。だから、外国での新しい生活に向けて振り返ることなく踏み出していったんだ。

「…………とにかく、お金のことは気にしなくていいぞ」

 貯金はある程度あるし、今の仕事の他にバイトでも入れれば、二人暮らしになってもなんとかやっていけるだろう。……臨時収入が二回も入ったからしばらくは安泰だし、何ならもっと大きな家に移ることだってできた。…………だが、残念ながらその道はもう選べない。

「……分かった」

 ちょうど皿を拭き終わったらしく、明姫が向き合い、一歩近づいてくる。

「……お兄さん」

「……なんだ」

「…………また、今日みたいなパーティーを開こう」

 上目遣いに直人の瞳を見つめながら、彼女は温かく微笑む。

「…………これからも、明姫として生きていくから――」

 言葉を区切り彼女はそっと直人の手を取る。

「…………改めてよろしく」

「…………おう」

 温もりを称えたその手を直人はきゅっと握り返す。……一歩近づきたかったのに、いざ兄妹の契りを交わさんとすれば、心に寒い風が吹いた。……すべては彼女が幸せに暮らせるため、最後の最後で絶望しないため。だから――。

「さ、少ししたらケーキの用意をするぞ」

「! うん」

 いつになく明るいお姫様の笑顔を見ながら、直人はぽつりと呟く。

 さよなら明姫、と。




『――本日未明、行方不明となっていた天璋院美咲ちゃんを誘拐し殺害したとして、黒岩直人容疑者が出頭しました。警察は黒岩容疑者の証言をもとに再捜査を行い、余罪を追及するとしています』



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