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第十七話『過去編その二』

『…………敬語だったころの明姫が懐かしいな』


『…………敬語の方がいい?』


「いや、今のままでいい。ありのままが一番だろ」


「…………」


 単なる気まぐれで名前を聞いただけなのに、返ってきた名前、特に苗字にひっかかりを覚える。

 天璋院。一見してただの珍しい苗字。しかし、このあたりの地域に住んでいる直人には聞き覚えがあった。

「――天璋院って、旧財閥で、今はグループ会社を経営してるっていう?」

「……そう、です」

 となると、彼女の言葉遣いが妙に丁寧なことや、衣服の生地がよく高級感が漂っていることにも納得がいく。仕事での受け持ちエリアのことは頭に入れていたが、さすがに大企業の令嬢の顔までは知らなかった。

「…………そうか、君が」

 ぽつりと呟き歩き始めようとしていた足を止める。黙って視線を向ける少女、美咲を置いてけぼりにし、彼は激しく葛藤していた。

 大会社の社長令嬢。彼女自身はともかく、その家は多大な資産を抱えている。それこそ、直人が欲している額を簡単に払えるほどには。……当然、彼女を親元に返したからといってそのお金を無心してくれるほどの恩を売れるわけではない。いずれ返すと言って借りることだって不可能だろう。ただし、場合によっては天璋院家の力を借りられるかもしれない。……合法的な手段でなければ。

「…………お兄さん?」

 ハッとしてすぐそばまで近づいてきていた美咲を見返す。彼女は不思議そうに小首を傾げている。警戒心が薄いのか、鈍感なだけなのか、彼女に恐れや不安の色は見られない。……兄属性を発揮して信用を得られたのかもしれない。……こんな女の子を、今度こそ怖い目に会わせるのか。そもそも自分のために利用しようなんて――。

『――アニキ』

「っ!」

 頭の中に自分を呼ぶ声が響き、どくんと鼓動が鳴る。彼女のためなら、知り合ったばかりの少女を気遣ってもいられない。

「…………」

 直人は覚悟を決め、すーっと息を吐く。やがて、さきほどまでの弛緩した雰囲気から一転、真剣な眼差しで美咲を見る。

「…………天璋院美咲、さん」

「…………はい」

 ……名前を呼んだのはいいが、これからどうするか。方針は決めた。でも、やり方を考えないと失敗してしまう。……突発でやろうとしている時点で成功確率は低いんだから、できるだけ慎重にいかなくてはならない。

「…………えっと」

 直人は辺りを見回し、誰もいないことを確認する。夏で日が長くなっているとはいえ、この時間になってくると、大分暗くなってきている。妹のところに行くのはもう諦めるとして、美咲をどこに連れていくか。

「…………交番に行く前に、うち寄って行かないか」

「……………なんで、ですか?」

 いきなり躓いた。普通に考えて会ったばかりの人間、それも男の家に行こうとは思えない。……騙す形で家に連れ込もうとしたが、早々に失敗してしまった。どうも人をだまくらかすのは向いていないっぽい。……ならば、いっそ小賢しい真似はなしにしよう。

「…………君をさらうためだ」

「…………」

 彼女は一瞬息を呑んだかと思えば、つと顔を俯かせる。低い声で言ってしまったからさすがに怖がらせてしまったか。しかし、この場合怖がってくれた方がいい。いくら人気がないからって大声を上げられたら人に見つかる恐れがあった。騒いだらひどい目にあう、そう思われる必要があった。……嫌われるのは精神的にきついが、罪悪感に苛まれるよりはいくらかマシだ。

「…………静かにしてるなら、危害は加えない。…………うちに寄っていってくれるか」

「…………分かりました」

 顔を上げ、頷く少女。見えた素顔には思いのほか恐怖の色は浮かんでおらず、無表情。……強がって感情が表に出ないようにしているのか。それとも。

「(いや、俺に都合のいいように考えるべきではないな」

 首を振り雑念を追い出す。こっちだと彼女を先導して現在住んでいるアパートの一室へと入る。誰かに見られると面倒だったが、幸い隣の部屋から人が出てくるということはなかった。

 部屋に入り、戸を閉めたところでようやく人心地つき、息を吐き出す。

「…………」

 部屋に連れ込まれてしまったのに、美咲は無表情に殺風景な部屋を眺めている。

 このアパートの一室は社会人になって実家を出てから、六年ほど暮らしている場所だった。古ぼけたアパートということもあり、家賃は安い。ただ、直人は物をあまり多く持たない主義、かつ綺麗好きであるため、部屋は少女を迎えても問題ないくらいに広く、清潔だった。

「………………」

 まあ、お金持ちのお嬢様からすれば狭いと言われても仕方ないくらいのあばら家だった。

「…………とりあえず、その辺に座っていてくれ」

「…………分かった」

 少女はスタスタと壁際まで行き、ストンと座る。その体育座りをして押し黙る。

「…………?」

 何か違和感を覚えたが、幼女を部屋に上げてしまったという罪悪感と、これからすることに対する緊張で答えには届かない。

「(座らせたのはいいが、まずは何をすればいいのか」

 無計画犯罪なので、手際はすこぶる悪い。

「そうだ」

 悪いなりにも、ことを起こさなければ先に進めない。直人は手始めにキッチンへと行き――。

「オレンジジュースだ、飲んでくれ」

 ――ジュースを振舞った。

「………………うん」

 無表情だったのに目をパチクリとさせ驚く少女。この流れでジュースを出されたのが不思議らしい。

「…………単なる機嫌取りだ。いいから飲め」

「……うん」

 受け取ったコップに口をつけ、チビチビと飲む。さすがは令嬢、飲み方が優雅というか控えめというか。これでしっかりと伝わるのだろうか――。

「! …………美味しい!」

「!」

 念願の言葉を聞き、直人はTPOを気にすることもなく、ダンと音を立てて少女に近づく。

「そうなんだ、このオレンジジュースはただのオレンジジュースじゃないんだ!」

「!?」

「オレンジの名産地、○○県で取れたオレンジをふんだんに使った一品で、果汁100%のしっかりとした濃厚な味わいが特徴なんだ! 全国には色んな柑橘系のジュースがあるが、俺はこれが一番好きだ! だから、わざわざ取り寄せまでして家に常備していて――」

「…………」

 ぽかんと口を開けている美咲と目があってやっとのこと我に返る直人。初対面の少女に何を熱弁を振るっているのか。……やっぱり、今の自分はどうかしている。

「(……いや、これは、彼女、天璋院美咲があいつに重なるから)」

 つい気軽に話しかけそうになる、……話しかけてしまう。

「…………とりあえず、それを飲んでいてくれ」

 こくこくと頷き、大人しく再び飲み始める。その姿をぼんやりと眺めながら、というわけにもいかず、つと天井を見上げる。

 ……攫ったのはいいが、どうやって身代金を要求しよう。ネットで調べれば天璋院家の家の電話番号が出てくるだろうか。あるいは、天璋院家が運営している会社に電話して、社長に取り次いでもらうか?

「…………天璋院美咲、さん」

「…………なんでフルネーム?」

「……なんで、そんな砕けた口調に?」

 ここに来てようやく気付く。いつの間にか、彼女から令嬢らしい上品さ、はまだ残っているが、お嬢様然とした態度と口調が消え去っている。知らない男の家というシチュエーションのせいで感情が抜け落ちてしまったのか。……もし、それならもう止めてしまおうかと思ってしまうほどの罪悪感が沸き起こってしまう。

「…………これが素」

「…………なるほど」

 誘拐犯を前になぜ素に戻る。聞きたかったがひとまず後回しにする。

「美咲、さん、続きなんだが」

「…………うん」

「お家の電話番号とかしらないよな?」

 知っていたらもっと早くに伝えているだろう。そう思っての単なる確認だったのだが。

「? 知ってる」

「知ってるのか!?」

 謎の手のひら返しが行われる。

「…………だれかしらって聞かれたから」

「…………」

 固定電話を覚えているなら、それはそれでよかったのだが。……あそこで言ってくれていれば、犯罪に手を染めることもなかったのに。……後悔してももう遅い。事はすでに始まってしまっている。

「…………教えてくれ」

「……うん」

 彼女がそらんじる番号をスマホで打っていき、ひとまず連絡先に登録する。馬鹿正直に天璋院家とするのも気が引けたので、とりあえず、美咲としておいた。これなら、女子友達か何かだと思われるだろう。……固定電話だったら母親かもしれない。

 ともあれ、連絡先は手に入れた。あとは実行に移すのみ。……のみだが、それが難しい。身代金の額に、受け取り方、逃亡方法と人質の変換の仕方。それから、身代金要求時のセリフ。声色も変えないとすぐにバレかねない。

「…………こういう時はネットで調べよう」

 当然、有益なものはヒットしない。が、かつての悪い友達のツテを頼ることで、それなりの値段がする誘拐プランを購入することに成功する。

「…………ダークウェブ、こわっ!」

「…………おかわり」

 オレンジジュースを入れてやってから、まずは犯罪計画を熟読する。全部読んだところで、順次必要なものを手配する。

「あとは、手に入れた金をどう渡すか、だな」

 足のつかない金にしたあと、普通に振り込む、しかないか。宝くじでも当たったことにして。

「…………いざとなれば事情を話すか」

 痛いところを突けば説得もできようというもの。今一度覚悟を決めてスマホを取る。非通知設定にして、電話番号を打ち込む。ボイスチェンジャーはないので根性で声色を変える。

「――よし」

「…………おなかすいた」

「…………カップ麺で我慢してくれ」

 かくして、若干ぐだぐだになりつつ、誘拐大作戦が始まった。



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