第九話『釣り』
『…………直人』
『皆まで言うな、明姫。釣りとはこういうもんだ。このくらいなら絶望でもなんでもない』
『なんか、わたしのさお引いてる』
『え?』
とある日曜日、その前日。二人で夕食を取りながら、明姫があくまで何気なく尋ねる。
「……ねえ、直人。明日空いてる? 船の定期便が来るらしくて――」
「あ、すまん、明日は朝から釣りに行く予定なんだ。昼には時間ができると思うが」
「…………定期便来るの午前中」
「……ごめん、今回は一緒にいけなさそうだ」
冷たい目を向けられ、声が震える。小学生なのにすごい圧迫感を出すものだ。
「……友達とは」
「…………用があっていけない」
正直平日も暇そうな直人に用があると思っていなかったので、そもそも誘っていない。今からメールで誘うのも収まりが悪い。そもそも、買い物に行くのが目的ではない。
「…………わたしも釣り、行ってみたい」
「え?」
今までそんなそぶりがなかったこともあり、直人が戸惑ったような笑みを浮かべる。
「き、急だな、本気か」
「……うん」
「本気ならいいんだが。釣り道具も二人分くらいならあるし」
しかし、明姫と二人で行くとなると、他にも色々と準備がいる。
「明日は晴れだから、帽子もいるな。昼ご飯はどこかで食べるとして、朝ごはんは軽食で……」
と、ハッとした表情で明姫を見た。
「明日、かなり早起きになるが、大丈夫か?」
「…………いつもどっちが早く起きてる?」
聞くまでもなかった。
「まあ、分かった。準備はしとく」
「……ありがとう」
礼を言いつつ、つと視線を反らす。
「…………思ったより、すんなり連れていってくれるんだ」
「……そりゃ、俺と明姫の仲だろ?」
「…………うん」
頷かれると恥ずかしい。直人も顔を反らし、食卓が気まずい雰囲気で包まれる。そのままドギマギしつつ時間を過ごすうち、食事も終わり、就寝時間となる。
「明日、本当に早いから、そろそろ寝ないとな」
「……わたし、いつもこの時間にねてる」
田舎は娯楽が少なく、やることが少ない。放課後一日たちと遊ぶことの多い明姫も夜は宿題をやり終えればあとは暇な時間を過ごすことになる。本を読んだり、直人とのんびりだべったりすることもあるが、基本的には早々に寝てしまう。……寝る子は育つという言葉を信じているという意味合いもあったりする。
「おやすみ、直人」
「おう、おやすみ」
かくして、日曜日を迎え、二人は釣りへと出かけるのだった。
「……差がついたものだな」
「…………直人、全然つれていない」
「こんな日もあるさ」
空を見上げながら、のんびりと呟く。本当はすごく悔しい。
「…………まあ、俺に腕前がないのは確かだが」
明姫はビギナーズラックで釣れている、ということにしておくとして、直人も釣りを始めて日は浅い。こうなるのは仕方のないことと言えた。
「(……俺としては見栄を張りたいが)」
チラリと、明姫を見ると、彼女はじーっと、というかぼーっと海を眺めている。島だけあって、今直人たちがいるような釣りができる堤防はいくつかある。場所を変えれば成果が得られる可能性はある。
「! 引いてる」
「よ~し、そのまま慎重にリールを引いてけ」
……これで三匹目。そろそろビギナーズラックでは説明がつかなくなってきている気がする。
「…………いや、絶望するほどではないな」
ちょっと悔しいだけで他の趣味を見つければいいだけだ・
「うん、つれた」
「おう、じゃあ、それもバケツに入れておいてくれ」
釣った魚は一応家に持ち帰って食べてもいいことになっている。すなわち、明姫が釣れば釣るほど夕食が豪華になる。……いや、別に直人が釣っても豪華になるのだが。
「…………いい天気だ」
「現実とうひしないで」
「してないし」
そのまま、あれやこれや言い合いながら釣りを続けるも、状況は一向に変わらず、時間だけが過ぎる。日が高く上り、お昼時へと差し掛かった時、徐に直人が立ち上がる。
「……帰るの?」
「…………おう、腹が減ったしな」
「…………確かに」
小さく頷いた明姫がつられて立ち上がり、チラリと海を見る。すると。
「……引いてる?」
彼女はぽつりと呟く。なら、引けばいいんじゃないか、そう言おうとした時。
「俺の竿じゃねえか!?」
今こそが諦めかけたその時であると悟る。海に引きずりこまれそうになっていたそれに飛びつき、握りしめる。
「こ、これだけはバラせられないぞ」
「……頑張れ、直人」
静かに応援しながら、明姫が片付けを始める。パワー的には事足りてるといえ、まるで手伝う気配がない。……自分が何匹も釣ったあとだと、いまいち興が乗らないというのはある。言葉で応援しているだけマシ、というものだ。
そんな思考を巡らせている場合ではない直人は、グググッと引っ張る力に確かな手ごたえを感じていた。
「これは長靴ではないぞ!」
「…………現実だと長靴をつる方がすごいと思う」
片付けを終えた明姫が横にやってきて直人の横顔を眺め出す。
「地球を釣ったってオチでもない。これは、魚だ!」
視界に入るは魚影。数では到底明姫には敵わないが、そのサイズは今までで最も大きい。これで大人の威厳を保てる。その考えが頭を過る、その瞬間。
「あ、これ、糸切れるやつだ!」
直人が叫んだ。
バシャッ。同時に竿が一気に持ち上がり、その先につながっていた主とも呼ばれそうな巨大な魚が海水を伴って、落下してくる。まだ釣り糸は繋がっている。だが、いつ切れるか分からない。
「逃がさない!」
網を使うことなく、竿も手放し、抱きしめに行く、つもりだった。
「え?」
――その場には先約がいた。咄嗟のことで避けることもままならない。動けないがゆえに、彼女は反射的に両手を広げる。小さい体に重量級のそれが容赦なく降ってくる。
ガッ。
「明姫!?」
鈍い音がする。幸い、彼女も運動音痴というわけでもなく、ヒシッと魚を受け止めることには成功する。重くてすぐその場に下ろしてしまったがひとまず事なきを得た、と思っていたら。
バシャッ。
釣れると同時に舞い上がっていた海水が時間差で振ってきた。魚が避けられなかった、という時点でどうなるかは自明の理。九月の冷えた水が少女に振りかかる。
「っ!」
どうにか頭にかかるのは避けたものの、上半身、下半身が少しだけ濡れる。……釣りということもあり、彼女はパンツスタイルで、上もラフにTシャツを着ただけではあった。しかし、女の子はおでかけとなれば多少なりとおしゃれをするもの。それが台無しとなった。そのショックが頭を駆け巡り――。
「おっと」
バサッ。
――次の思考へと移る前に、それは上から覆いかぶさってきて。
「こんなこともあろうかと、タオルを多めに持ってきてたんだ。体が冷えるといけないからすぐ拭けよ」
「…………」
明らかに多すぎる三枚のタオルを抱えながら、じっと直人を見つめる。ついでチラリと自分の胸元を見る。……サイズは小さいが小学六年ともなれば一応している。……特に意図もせず、濃い色のやつだ。……タオルが降ってこなければきっとばっちりと見えていたことだろう。
「…………」
「? どうした、明姫」
「…………なんでもない」
仏頂面をタオルで隠しながら、いそいそ濡れた部分を拭く。そっとため息を吐きながら、火照る肌に降り注ぐ陽光を見上げる。
「…………こういうオチだったか」
これなら見られて絶望する方がよかった、なんて、本当にそうなったら後悔するに違いないことを思い浮かべ、苦笑する明姫だった。




