自分の前を歩く自分
西村雅史は自宅マンションと勤務先が近いので、歩いて通勤していた。
ある日の夕方、会社からの帰り道でのこと、雅史は自分の前を歩いている男のことが気になった。
横道からふらりと現れ、それから前を歩き続けているこの男。スーツを着ているので、自分と同じサラリーマンであることが分かる。
雅史がこの道を通勤に利用してから七年になるが、今までこの男を見かけたことは一度もなかった。
おかしなところは他にもある。どうにも自分に似ている気がしてならないのだ。
スーツと靴の色は一緒、背丈も同じくらい。後ろから見る限り髪型も一緒だった。持っているカバンまで同じである。
サラリーマンの恰好などどれも似たり寄ったりだが、ここまで揃うのも珍しい。
最初は不思議なこともあるな、程度にしか考えていなかったが、その考えもだんだん変わってきた。
男がいつまで経っても雅史の前を歩き続けるのだ。
雅史が右に曲がろうと思っている交差点で右に曲がる。左の時は左に曲がり、まっすぐの時はまっすぐ進む。
まさか自分と同じマンションに住んでいるのだろうか。
そう思うと、もはや不気味である。
そこまで自分と共通点を持った者が、突然現れることなどあるだろうか。
同じ道を選ぶ度に、まさか、いやまさかなと思っていたが、とうとう雅史のマンションに着き、男はその入り口に入ってしまった。
本当に同じマンションの住人らしい。
雅史も後から中に入ると、男はエレベーターではなく階段を利用しようとしていた。
これも雅史と一緒だった。
雅史の部屋は二階にあり、エレベーターを利用するまでもない。
まさか、部屋の階数まで一緒なのだろうか。
不気味に感じながら、雅史も階段をのぼり始めた。
男は踊り場から先の階段をのぼっている。
その足音に耳を澄ませながら、心の中でもっと上の階に行くことを願ったが、階段をのぼる音は二階で途切れた。
男の部屋も二階にあるらしい。
ここまで来ると、不気味を通り越して恐怖だ。ストーカーに自宅まで追跡されているような気分になる。
後ろではなく、前を歩くストーカーというのもおかしな話だが。
雅史も階段をのぼり切り、廊下に出た。
男は鍵を取り出して、部屋のドアを開けている。
驚いたことに、その部屋は自分の部屋だった。
声をかける間もなく男はドアを開け、中に入っていく。
どうして鍵を開けられたのだろうか。考えている暇などない。中には妻がいるのだ。
雅史は急いでドアの前まで走った。
ドアを開けようとするが、中から鍵が掛けられていて開かない。慌ててポケットから鍵を取り出し、もどかしい思いで鍵穴に差し込んで回した。
ドアを思い切り開け放つ。
「晴美、大丈夫か」
雅史は妻の名前を叫び、土足で部屋の中に入った。
廊下を走ってリビングのドアを開ける。
晴美はソファーに座りながらテレビを見ていた。
「どうしたのよ、いったい」
妻が目を丸くして言う。
雅史はひとまず安堵して答えた。
「ああ、無事でよかった。変な男がここに入るのを見たんだ」
「え、嘘でしょ。あなたしか入ってきてないと思うけど……」
「そんなはずない。確かに見たんだ。まだ中にいると思う」
「でも、鍵はちゃんと閉めてたわよ」
「それなんだけど、その男はこの部屋の鍵を持ってるらしいんだ」
「なんで持ってんのよ」
「考えるのは後にしよう。とにかく男を捜さないと」
雅史は隣の台所から包丁を取ってきて晴美に持たせた。
それから自分は草野球に使っているバッドを持ち、リビングから廊下に出る。
男が潜んでいるとすれば、トイレ、風呂場、寝室のどこかである。雅史は晴美と一部屋ずつ回ることにした。
しかし、トイレにも風呂場にも寝室にも、男はいなかった。
特に寝室は隠れられる場所が多いので念入りに探したが、男を見つけることはできなかった。それどころか他人が侵入した痕跡すら見つからない。
もし泥棒であれば、棚やクローゼットを漁っているはずだが、そのような跡は一切無いのだった。
「やっぱりあなたの見間違いよ」
晴美は呆れた様子で言い、寝室のベッドに腰を降ろした。
「いや、そんなはずないって」
雅史は咄嗟に答えたが、ここまで証拠が無いと自分の意見に自信が持てなくなってきた。
とりあえず晴美の隣に腰を降ろし、履いていた靴を脱ぐ。
晴美が言った。
「だって、もしその男があなたより先にこの部屋に入ってきてるなら、逃げる場所なんてどこにも無いでしょ? そもそもなんでこの部屋の鍵を持ってるのよ」
「そりゃそうだけど。だったら俺が見た男はいったいなんなんだ」
「だから見間違いだって。別の部屋に入った人を、ここに入ったって勘違いしたんでしょ」
「そんな見間違いするかなぁ……」
「その男って、どんな見た目だったの?」
「それなんだけど、気味が悪い奴でさぁ」
雅史は帰り道にあった出来事を語った。
すると、話を聞いた晴美の顔色が変わった。明らかに恐怖の色を帯びている。
話し終わった後、雅史は心配になって尋ねた。
「どうしたんだよ。何か知ってるのか?」
「それ、ドッペルゲンガーよ」
「ドッペルゲンガー? 聞いたことはあるけど、よく知らないな。妖怪の名前か?」
「ドッペルゲンガーは妖怪って感じじゃないかな。自分にそっくりな分身のことをそう呼ぶの。ある日突然、自分にそっくりな人間が周囲に現れるようになって、それだけならいいんだけど、もし、本人がその分身と顔を見合わせてしまったら……」
雅史はごくりと唾を飲んだ。
晴美が続ける。
「死んじゃうんだって」
雅史の全身に寒気が走った。
いつもならこのような怪談を聞いても、子供だましと一笑に付すところだ。
しかし、今回ばかりは自分が実際に体験していることもあって、くだらないと切り捨てることができなかった。
「怖がらせないでくれよ。そんなのただの作り話だろ」
雅史は苦笑いしながら言った。
だが、雅史の期待とは裏腹に、晴美は深刻そうに言う。
「でも、それしか考えられないでしょう。ねえ、健康診断は受けてるんだよね?」
「うん、毎年受けてるよ。健康そのものだ」
「車に乗って通勤してないから、交通事故に遭うことはないだろうし」
「おいおい、やめてくれよ。本気で俺が死ぬと思ってるのか?」
「そうじゃないけど、心配で」
「大丈夫、大丈夫」雅史は靴を持ち、立ち上がりながら言った。「晴美の言うとおり、ただの見間違いだって」
「だといいけど……」
晴美の声を背中で聞きながら、雅史は寝室を出て、玄関に自分の靴を置いた。
そして、鍵を閉めていなかったことを思い出し、つまみをガチャリと捻った。
翌日の夕方、会社の帰り道を歩いていると、右の横道からふらりとサラリーマンがこちらの道に入ってきた。そのまま雅史の前を歩いている。
昨日の男だった。見れば見るほど自分に似ている。
雅史は晴美に言われたことを思い出した。あの男は本当にドッペルゲンガーなのだろうか。
そんなのただの作り話だ。子供じゃあるまいし、何を本気にしているのだろう。
雅史は怖がっている自分が情けなかった。晴美の話を信じているわけではない。しかし、理性ではそう考えていても、本能では恐怖を感じていた。
悩ましくて溜息をつく。このままドッペルゲンガーのことを気にしながら生活するのは嫌だ。だったらいっそのこと、ここであの男の正体を確かめてしまおう。
雅史は覚悟を決め、歩くスピードを速めた。
男との距離が縮んでいく。
「死んじゃうんだって」
晴美の言葉を思い出し、昨日の寒気が蘇る。
覚悟がくじけそうになるが、恐れを振り切ろうと歩くスピードをさらに速めた。
もう男に手が届きそうだ。
雅史は心の中で「よし」と呟くと、男の肩を掴もうとした。
その時、男が振り向いた。
「私に何か?」
そう言って立ち止まった男の顔は、雅史の顔とは似ても似つかなかった。やはりドッペルゲンガーなどではなかったのだ。
「いや、えっと……人違いです。すいません」
雅史はとりあえず謝った。
すると、男が思いがけないことを言った。
「もしかして、隣の西村さんじゃないですか?」
雅史は混乱して尋ね返した。
「えっ、そうですけど、どうして私の名前を」
「やっぱりそうでしたか。私、少し前に、隣の部屋に引っ越してきた大嶋です」
「えっ、お隣さん?」
「はい、引っ越してきた時に挨拶はしたんですが、その時は奥さんしかお宅に居なかったものですから」
「あっそうですか。……なんだ、そうだったのか」
これで答えが分かった。ドッペルゲンガーの正体は大嶋さんだった。
あの時、大嶋さんが隣の部屋に入ったのを、自分の部屋に入ったように見間違えたのだ。
大嶋さんの姿をよく見ると、歳は同じくらいに見えるが、顔は全然似てないし、ネクタイの柄もまったく違っていた。後ろから見ればそっくりだが、前から見たらまるで別人である。
雅史は拍子抜けして大笑いした。
「どうしたんですか?」
大嶋さんが不思議そうな顔で尋ねる。
「いや実はですね――」
雅史は大嶋さんと並んで歩きながら、ドッペルゲンガーの件を話した。
話を聞き終わると、大嶋さんは笑って言った。
「それはそれは。怖がらせるようなことをして申し訳ない。実はゴミ捨て場に行く西村さんのことを見かけたことがあったんですけど、その時に声をかければよかったですね。そしたら私をドッペルゲンガーだなんて思わなかったかもしれません」
「いやいや、その気持ち分かりますよ。私も口下手なんでね、そういう時になかなか気さくに声をかけられないもんですよ」
二人は談笑しながら歩いた。
大嶋さんが引っ越してきたのは二週間前のことで、来てすぐの頃は車で通勤していたが、健康のために徒歩に切り替えたらしい。
大嶋さんは雅史と一つしか歳が違わず、趣味も同じ野球だったので、すっかり意気投合した。
仲良く話し込み、あっという間にマンションに着く。二階の廊下で大嶋さんと別れの挨拶をし、雅史は自分の部屋に入った。
「ただいまー」
「おかえりなさーい」
晴美の声がリビングから聞こえた。
雅史はすぐリビングに入った。先ほどあったことを話したくてうずうずしている。
晴美はいつものようにソファに座ってテレビを見ていた。
雅史もソファに腰を降ろし、大嶋さんのことと自分の勘違いを語った。晴美はテレビの電源を切り、話に聞き入った。
「なーんだ、そんことだったの? おっちょこちょいなんだから」
話を聞き終えた晴美が言う。
「晴美がドッペルゲンガーなんて言っておどかすからだろ? それって大嶋さんじゃない、って言ってくれればよかったのに。挨拶されたのは晴美なんだから」
「そんなの分かるわけないじゃない。だいたい、あなただって部屋のドアを開ける大嶋さんを見たんでしょ? その時に顔を見てるんだから、ドッペルゲンガーじゃないって気づけるでしょう」
「あの時は大嶋さんがすぐ部屋に入っちゃったから顔をよく見れなかったんだよ」
「でもよかったじゃない。ドッペルゲンガーじゃなくて」
「ほんとにそうだよ。いつ以来だろうな。こんなにドキドキしたの」
二人はそう言って笑い合った。
その時、玄関から声がした。
「ただいまー」
ウチの玄関から、男の声がした。続けてドアが閉まる音がする。
鍵を掛けたはずなのに、どうやって入ったのか。
侵入者の足音が廊下から聞こえてくる。
雅史は晴美と顔を見合わせた後、リビングのドアに目を向けた。
足音が止まる。
ドアが開いた。