17
ふわり、体が浮かぶ。
それはほんの一瞬で、そのあとすぐに落ちた。
ぐるぐると世界がまわって、視界はぐらぐらで何もかも混ぜこぜ。
がんがんと頭が痛み、ずきずきと痛みがあちこちに走る。
誰かが、何かを言ったけれど、なにも、なにも……。
はた、と気が付くとそこは見慣れた天井。
まだ光も差し込まない真夜中の暗い暗い部屋の中。
『私』は鼓動が早くなった胸を押さえ、起き上がる。
ああそうだ。
そうだった。
『私』は、そうやって階段から落ちて、今ここにいるんだった。
パンジーの素敵な家族たちによって、幸せなこの日常に
そして、何より愛してやまない推しのいるこの世界に割り込んだのだ。
どくどくと走る鼓動は痛いくらいに早くて、ベッドに潜っても、
目を閉じても、この体は寝ようとはしなかった。
仕方なく起き上がり、こっそりと部屋を出た。
そうすれば、ほんの少しだけ明るい部屋が見えた。
もしかして。
これはきっとパンジーの親の勘という事だろう。
「カイ」
「は、母上。どうして」
そこにいたのは驚いたカイの姿だった。
〇〇〇
しん、と静かな部屋にぼんやりと灯る光。
何をしゃべるでもなく、ほんの少しだけ聞こえる音だけが響く。
どうしようかしら。
なんて声をかけたら良かったのかしら。
まだ時間にしてみれば数時間前といえばそうなってしまう今日の出来事。
まだきっと鮮明に覚えているかもしれないあの出来事。
あんなに楽しそうにしていたのに、それは一瞬にして幻として消えた楽しみ。
「ミリア嬢は、大丈夫なんでしょうか」
「ええ。貴方が庇ったから、どこも怪我はしていないと聞いているわ。
けれど、きっと……」
わんわんと泣いていた彼女の姿だって鮮明だ。
自分のせいでと責める姿はこちらも心が痛い。
「……は、母上、僕は、助けた事を後悔なんてしていません。
本当に、本当に、ミリア嬢が無事でよかった。
怪我をしたのが自分で良かった、そう思っています。
……剣術合宿に行けないのも悔しいですが、でも、僕はっ…!」
「苦しいわね、カイ……」
「……情けないです……あんな言葉では、きっとミリア嬢を苦しめるでしょう…」
「………ねえ、カイ。今度、ちゃんと会って話ましょう。
ミリア嬢も、貴方も少し落ち着いたら、きっとお互い素直に言えるわ。
だって、貴方もミリア嬢もとってもいい子なんですもの」
カイはきっと自分の発言を気にしていたのだろう。
ミリア嬢から罪悪感を取り払う為、あえて気丈に振る舞おうとした。
でも、それが出来なかった。
悔しさが後から追いかけてきて、そして、ほろほろと涙がこぼれた。
まだカイだって子供なのに、なんで、どうして、こんなにいい子なのだろうか。
ミリア嬢だって、最初こそ最悪の出会い方をしたが、今では良き姉の様に接してくれて、
カイとだって一番早く打ち解けて、ぎくしゃくした関係の突破口となった。
「夏の休暇、基礎を見直して、手当の勉強をするなら
おばあ様に挨拶をした帰りに、本屋にも立ち寄りましょう。
きっと為になる本があるわ」
「……僕より兄上が長居しそうですね……」
「………そ、それは、まあ……。まあ、そうなんだけど」
「ふ、ふふふ……」
リクのはしゃぐ姿を思い浮かべてほんの少し口元が緩んだ。
「さあ、夜更かしはもうお互いやめましょうか。
明日からは夏の休暇が始まるのよ。
まずおばあ様にご挨拶、それからハイド子爵家へ訪問して、
沢山やることがあるわ。
もちろん課題もしなくてはならないけど、
遊びだって大切よ。領地について学びを深めてもいいかもしれないわ。
カイも沢山楽しんで欲しいわ。
そして次の剣術合宿はきっと、きっと……!」
「ええ。次の機会は必ず、必ず参加します。
そのためにも僕は基本を振り返り、初心を今一度……!
手当の仕方や知識を深める、そう決めています!
………そして、ミリア嬢に謝らなくてはいけません。
きっと、自分を責めているでしょうから」
「ええ、ええ。そうね、いきなりはきっと彼女もまだ辛いでしょうから、
他の方にも聞きながら、様子を見て、ご挨拶に行きましょう。
さあ、夜更かしは本当にこれでやめましょう。
貴方よくここまできたわね。
部屋まで送るわ。そしてゆっくりお休みなさい」
どこまでもいい子のカイは夜なのにとてもまぶしくて目がくらむ。
どうして、あんないい子がこんな目に遭わなくてはいけないのか。
このゲームの物語において、モブ同然であるのに何故。
もしかして本来なら、ヒロインが落ちるのを攻略キャラが助けるとか、
そんなイベントだった、なんて。
なんて、いや、そんなイベント、あったかしら。
それとも、物語なんて関係ないただの偶然?
偶然で女の子一人が危険に晒されるのもなんとも嫌な感じなのだが。
とりあえず今は、これからの事を楽しみたい。
あの子たちにとって楽しい事がたくさんの思い出を作れるように願うだけだ。
この世界はもうきっと色々違う。
それがどうなっていくか、『私』にも分からない。
関りがないと言えばないし、あるといえばあるのだが。
ただ今、『私』がするべきなのはあの優しい子たちが
楽しく、健やかに育つ手助けをする、それだけ。
そして、これからもリリアの為に生きるだけ。
〇〇〇
「聞いてくださいな、リリアねえさまっ。
全く酷いんですのよ。
義姉とのお茶会を優先させて、わたしの友人を蔑ろにするんですの。
あり得ませんわ!
天使の様に麗しく、純真な義姉に優しくできないなんてと
まるでキツバが悪い様に言って、彼女を傷つけて!
いくら精霊に愛された存在だからって、謂れのない事で
何故キツバが責められなくてはならないの!
わたくし、頭にきて言ってやってのですわ。
貴方の婚約者は誰なのですかって!
そうしたら、なんて言ってきたと思います?
自分の想い人は義姉だ、なんて言ってきて!
ああ、気持ちが悪いです!
血のつながりがないとはいえ、姉となった存在に恋煩いですよ!?
ならば最初からキツバとの婚約を断ればよろしいのよ!
そうしてくれていたら、キツバが、私の親友が傷つく事なんてなかったのに!」
「まあ……なんて事なのでしょう……。
キツバ様はなんてお辛い目に……。
わたしもお兄様たちの事は大好きですが、さすがにそれは嫌ですね」
「そうでしょうそうでしょう?
おねえさまはそう言ってくださると思っておりましたわ!
明日キツバを励まそうと思って、お茶会をする予定ですの。
是非おねえさまやリク様、カイ様にも参加してほしいです」
おばあさまへの挨拶は無事に終わり、今ここはハイド子爵家の邸にお邪魔している。
そこにはすっかり成長した叔父夫婦の娘、モモナ様。
幼いころ侯爵家の令息に声をかけ、両親の腰を抜かせたあのおしゃまな女の子。
カイに一目惚れした、なんてのはもう今はすっかり過去の話。
彼女はあのあとその侯爵家の次男との婚約が決まった。
長男に声をかけている周りには微笑ましい風景の最中、
電撃に打たれた様な一目惚れが次男を襲い、あっという間に話が進んで
熱烈アプローチに悪い気がしなかったモモナ嬢も今では彼と熱い仲、なんて。
まあ今は彼女の親友の方が大変な、というかどこかで聞いた様な人の事が聞こえたが
気のせい、いや、気のせいではない。
まさか、その、いや、全部聞き覚えが、というか、身に覚えしかない。
「ごめんなさいね。
モモナったら、ガロイジュ男爵令息の態度が気に入らないと
物申したらしくて。
幸い、周りの人たちも同じことを思っていたから今は責められてないけれど」
「けれど、それは確かに、その御令嬢は傷ついているでしょうね。
自分よりも義姉が大事だ、なんて公言されては」
「ええ……しっかりしたいい子なんだけどモモナと違ってはっきりいう事が苦手で。
真面目な子だから、自分を責めていないといいのだけれど。
それにモモナやうちに言ってこないだけで、彼女の家に何か文句を言っていたら…」
ショウルートにもライバルという立場のキャラはいる。
それがキツバ嬢。
大人しく、慎ましいという言葉としては『大和撫子』が良く似合う少女だ。
義姉となったヒロイン一筋のショウの婚約者だが自分といるよりずっと楽しそうなショウを見て
幸せを願い身を引くという、舞台装置でしかないキャラ。
ツツジ様のように物語の為に身を引く役目を担う優しいキャラだ。
もしかしたら物語の外ではこんな事になっていたかもしれない。
当たり前と言えば当たり前なのだが、改めて聞くと酷い。
不思議と話を聞いているだけのリクとカイの顔も少し悪そうに見える。
この三人でそんな事が起きたら、まあ確かに嫌だ。
まさかここでもこんな話を聞くなんて。
さすが世界のヒロイン。
物語が放っておいてくれないなんてこれも物語の強制力……なわけないか。