娘が行方不明になった。残された日記の最後のページには娘ではない筆蹟の日記が書かれていて、それを見た私はもう二度と彼女に会うことができないと悟った。
娘の綾香と連絡が取れなくなった。
3年前、大学卒業後食品メーカーに入社したと同時に家を出た綾香。今は隣の市に住んでいて月に1度ぐらいのペースで顔を見せにきてくれる。平日でも時間を見つけてはちょこちょこ電話をくれる私の自慢の娘だ。
そんな自慢の娘から、初めて私を不安にさせる連絡があったのはたしか1年ほど前の事だ。最近変な人が家にきて怖いと電話でこぼしていた。知らない男が夜にインターホンを鳴らしにくるそうだ。最初は人違いをされていると思ったが不定期で夜にやってきてはインターホンを鳴らし何もせずに帰るのだという。
警察に相談してみたが、前の彼氏に悪戯されているだけではないか?あなた自身に原因があるのではないか?と言われたそうだ。腹が立って反論したら自意識過剰や被害妄想とまで言われたそうだ。その話を聞いて本気で腹が立った私は警察に怒鳴り込みに行ってやろうかと思ったがそれだけはやめてくれと止められてしまった。
綾香が電話で不安をこぼしてから、心配になった私は月に2回ほど娘の家に様子を見に行くようになった。
「そんなに心配しなくても大丈夫だって……」
綾香は呆れながらよくそう言っていた。でも、私が帰る時、私を見送る顔はいつも少し不安気に見えた。
綾香には彼氏がいない。いないはずだ。母子家庭で女手一つで育てあげた一人娘。綾香が中学生の頃から彼氏ができたらどうしようと思っていた。親という立場を抜きにしても綾香は可愛いと思う。嘘ではない。芸能プロダクションからスカウトされたっておかしくないと私は本気で思っている。
幸か不幸か、母の願いの影響か、綾香には彼氏ができないらしい。いつの頃からか「彼氏ができない」「早く彼氏が欲しい」というのが娘の口癖になっていた。私は黙ってその口癖を聞いていたが内心では聞く度に安心していた。
綾香の周りに変な男がいる。こんな時に限って、娘の側に頼りになるしっかりとした彼氏がいてくれたらどんなに頼もしいだろう、と私が思うのは少し勝手が過ぎるだろうか。まあでも、どんな男が綾香に適しているかはわからないし、もし仮に彼氏ができてもこの一件が終わればすぐに別れて欲しいと思う。親バカで過保護だという自覚はあるがこの思いは制御できそうにない。
綾香と連絡が取れなくなった。
最初は仕事が忙しいのだと思っていた。これまでもメールがなかなか返ってこないことはたまにあった。でも3日も返事がないことなんて今まで1度もなかった。
心配になって娘の職場に電話をしてみた。過保護過ぎるとも思った。しかし心配で心配で私は自分の事に何も手をつけられなくなってしまい電話をして一刻も早く安心したくなったのだ。
綾香に連絡がつかないのは仕事が原因ではなかった。娘はここ数日仕事を無断欠勤していた。会社側も連絡が取れず困っているようだ。会社の人に丁寧に謝り電話を切った。
綾香に何度も電話をしてみた。しかし、何度留守番電話のメッセージを残しても折り返しの電話がかかってくることはなかった。留守番電話のアナウンスの女性の声にだんだん苛立ち始める私がいた。
病気で寝込んでいるのかもしれない。そう思った私はスポーツドリンクと食べ物を買って娘の家を見に行ってみた。しかし留守なのか何度インターホンを鳴らしても反応がなかった。
娘と連絡が取れなくなり2週間が経った時、私は娘の住むマンションの大家さんに連絡をして鍵を借りることにした。どうしても不安になったのだ。
大家さんが鍵を貸すだけでなく、私と一緒に家に行ってくれることになった。大家さんは少し腰の曲がった優しい雰囲気のおばあさん。なんとなく嫌な予感がして心細かった私は一緒に来てくれる人ができて少しほっとした。
ピンポーン
インターホンを鳴らしてみる。でもやはり反応はない。私は大家さんの方を見た。大家さんが私を見て一度頷いた。そしてポケットからマスターキーを取り出して娘の部屋である306号室のドアを開けた。
ガチャ………
ゆっくりドアが開く。家の中はしんとしていた。当然だ、家の中には誰もいないかったのだから。私は恐る恐る2DKの部屋を見て回った。慎重に見て回ったが特に何の異常は見られない。物が荒らされた形跡なんて欠片もない。なんなら思っていたよりとっても綺麗だ。床には薄く埃が溜まっていて暫く誰も家にいなかったことを物語っている。
「特に家の中に変な形跡はなさそうですね」
大家さんが少しほっとしたような、でも綾香の安否を心配するようなどっちつかずな声で声をかけてきた。私は大家さんに向かって一度頷きもう一度家の中を見て回った。
ふとテーブルの上に置いてあるクラフト紙表紙のノートが目に入った。開いてみるとそれは綾香の日記だった。あの子は子どもの頃からよく日記をつけていた。たしか気が向いたらその日にあった事を簡単に書いていると言っていた。一人暮らしをしてからも続けているとは聞いていたがどんな内容を書いているかは知らない。
私は少し罪悪感を覚えながらも内容を見させてもらうことにした。何ページがめくってみると日記はつい最近まで書かれていた。
日記の内容はいたって普通だ。会社であったトラブルのこと、晩ご飯の献立、化粧品を買ったことなど、日常のちょっとした内容が書いてあった。私が知らない名前の人と食事したこと、プレゼントをもらったことなど娘の生活を覗いている気がして申し訳なく思いつつ、でも楽しい気持ちになった。
大家さんもいることだし読み耽っている場合ではない。ノートの1ページ目を見てみた。日付は1年と少し前の日付だった。
10月2日
今日あいつと別れた。金もないみたいだしもういいかな。カバンもアクセも買ってもらったし潮時だと思う。
10月3日
クリスマスプレゼントは欲しいから新しい彼氏をどうするか考えなきゃいけない。合コンは当たり外れがあるし誰かに紹介してもらおうかな。
私は目を疑った。彼氏はずっといないと思っていたのに。これは本当に娘の日記なのだろうか。彼氏がいた?あの子に?本当に?私の前で口癖のように「彼氏ができない」って言っていたのに?
10月10日
インターホンが鳴って覗き穴を見たらあいつだった。
家は教えていないはずなのに信じられない。
本当にウザい。金のない男なんて付き合う価値もないのに。てか、なんで家を知ってるの?人違い?
10月15日
今日もあいつが家まで来てインターホンを鳴らされた。
本当にやめてほしい。何なの。気持ちが悪い。
10月17日
こわいこわいこわい。なんなのあいつ。
本当にこわい。何時だと思っているの?夜中に人の家まで来てインターホンを鳴らして帰るなんて。意味不明。
10月22日
こないだ警察に相談したら相手にされなかった。
下らないケンカを持ち込むなって。
なにそれ、こっちはこわいって言ってるのに。どうして私が悪いって言われなきゃいけないの。
でも、あいつにドア越しに「警察に言ってやる」って怒鳴ってやったら来なくなった。
あー、お母さんに言ったのはミスだ。
心配かけたくなかったのに。
私は彼女の事をわかったつもりになっていただけかもしれない。私は頭の整理が追いつかなくなった。注意してページをめくると彼氏と思われる名前や明らかに貢いでもらったと思われる内容がちらほら出てきた。さっきまで流し読みをしながら楽しく感じたことが嘘のようだ。私は彼女の事をわかっているつもりになっていただけらしい。
これ以上読みたくない……そう思ったが、彼女の居場所の手がかりになるかもしれないと思い直し、直近の内容から少し遡って読んでみることにした。すると気になることが書かれ始めたのは今日からつい1か月ほど前の日付からだった。
11月2日
今日洗濯物を干していたら視線を感じた。誰に見られているのかはわからないけれどなんだか嫌な感じ。
最近は恨みを買うようなこともしていないのに。
11月8日
家に変な人が来た。市の職員だとかいう男がアンケートと言っていた。スーツを着ていたけど、なんか変な感じ。スーツがぜんぜん似合っていなかった。
最後に「ここはあなたの家ですか?」って真顔で聞かれた。こわかった。なにあれ、気持ちが悪い。
11月9日
今日も昨日の男が来た。服装を変えていたから最初気付かなかった。すごくこわい。ストーカーなのかな。
何度考えても知らない人だ。
これ以上つきまとわれたら警察に相談したほうがよさそう。今回のはマジでやばいやつだ。
お母さんには心配をかけたくないからあんまり言いたくないけど、どうしよう。
11月11日
今日、仕事から帰るとポストに手紙が入ってた。開けてみたら「好きだ」とだけ書かれていた。名前はない。
あの変な男かな。どうしよう引っ越した方がいいかもしれない。
11月12日
隣の部屋から変な物音が聞こえた。
お隣は誰も住んでいないはずなのに。誰か引っ越してきたのかな。いい人ならいいな。
そうそう、明日は絶対に警察に相談に行こう。
日記は11月12日で終わっていた。ちょうど彼女と連絡が取れなくなった日の前日だ。
「隣の部屋に誰か入られたんですか?」
私は大家さんに聞いてみた。
「いいえ、隣はここしばらくずっと空き家ですよ。見学の話も出ていません」
「え、でも…………」
私は大家さんに日記を見せようと差し出した。その瞬間手を滑らせて日記を床に落としてしまった。
それはまるでそうなる事が当然かのように、日記は最後のページが開いた形で落ちた。
日記の最後のページには彼女とは全く異なる乱暴な筆蹟で日記が書かれていた。
11月13日 やっと君を手に入れた。
彼女と連絡が取れなくなって3週間が経った。私は大家さんにも相談して警察に届け出た。無理を言ってマンションのエントランスに設置されている防犯カメラの記録を一緒に確認させてもらった。
11月1日から記録を確認したが彼女の日記に書いてある男と思われる人物は映っていなかった。それどころか11月12日の夜に仕事から帰ってきたのが最後、それ以降、彼女もカメラに映っていなかった。エントランスは一つ。マンションから出るには駐輪場に行くにしても一度ここを通らなければいけないのに。
警察は真面目に調査してくれている。少なくとも私にはそう見える。でも何故だろう捜査したところで何もかも無意味な気がするのだ。大切な愛娘、出来る事なら今すぐに会いたい。無事でいてほしい。私の知らない一面もあるみたいだがそれでも私の子どもであることには変わらない。
我が子が見つからない。普通なら取り乱すはずの事態なのに何故だろう、もう二度と彼女に会うことができないと諦めかけている自分がいる。根拠なんてない。でもなんとなく彼女の死を受け入れている自分がいる。
いや、違う、嘘だ。受け入れてなんていない。でも、受け入れたくないのに私にはもう受け入れるしか選択肢がないのだ。それがわかってしまったのだ。あの日記の最後のページに書かれた内容を見た瞬間、もう彼女には二度と会うことはできないと悟ってしまった。悟らせる力があの書き込みにはあった。
彼女が今どこにいるのか、連れ去ったのは誰なのか、そもそも連れ去られたのか、何もわからない。警察による捜査は難航している。難航どころか何もわからないままいたずらに時間だけが過ぎていく。この世にこんな理不尽な事があるなんて知らなかった。
母親でありながら私は理不尽な存在の前ではあまりにも無力だ。どんなに泣き叫ぼうとも、もう何も彼女にしてあげる事ができない。
「はあ…………3年ほどか、まあ前の人よりかは長持ちしたかね。でも嫌だねえ、また事故物件って書かなきゃいけないよ。
どうしてこういつも入居者が蒸発するんだろう。まったく変な物件は抱えたくないもんだよ。あーあ、また誰かに一時入居してもらって事故物件の表記を消さなきゃいけない……本当に面倒くさいねえ」
入居者が消えた誰もいない部屋。ブレーカーを落としにきた老婆の呟きを聞いた者はいない。