白衣と生足
「あ、あの……もう大丈夫です」
部屋の前で待っていると、ドアを細めに開けて女の子が声をかけてきた。
中に入って彼女の姿を見て、不覚にもドキッとしてしまった。
か、可愛い。
スカートやストッキングを脱いでいるため、白衣の裾から健康的で綺麗な生足がすらりと出てる。素足にローファーだけを履いてるので、かえって生足感が際立っている。
しかも白衣というのは一番下までボタンを留めても前が少しはだけるので、歩く時に膝の辺りまで生足がチラチラ見えて、オジサン、鼻の下が伸びてしまいそうだ。
白衣の胸元からは制服の茶色いブレザーと青いリボンが見えてる。上半身の畏まり方と足下のセクシーさのギャップがまた素晴らしい。
いかんいかん。
俺はゾンビだ。もう死んでるんだ。生前は脚フェチだったかもしれないが、もうちょっと煩悩から解脱しろよ。こんなに脚ばかりじろじろ見てたら変質者じゃないか。
どうしても彼女の美脚に視線が引き寄せられるのを必死で抑えながら、あくまで紳士的に尋ねる。
「どう、ちょっと落ち着いた?」
「は、はい……いろいろありがとうございます」
礼儀正しい子だな。育ちの良さが伝わってくる。
「そこに座りなよ」
改めて彼女にオフィスチェアを勧め、自分はパイプ椅子にどっこいしょと腰をかける。
彼女が座る際にまた一瞬、膝の上までチラリした脚に目が行ってしまう。
いかんいかん。もう最初から無理やり明後日の方向を見ておこう。
「ええっと、本来俺の方から自己紹介すべきところなんだけど……ゾンビになっちまったせいか、自分についての記憶が全然ないんだ。この部屋の鍵だとか、設備の鍵だとかを持ってたので、たぶんこの大学の職員なんだとは思うけど」
彼女は膝に両手を置いておとなしく聞いてくれている。
「いったい何が起ったのか、何で自分がゾンビになってしまってるかも分からない。つい30分ほど前、この建物の1階で目が覚めた時にはこうなってたんだ」
俺は続ける。
「周りの連中がみなゾンビになってる中で君だけがゾンビになってないっていうのも不思議だ。もし良ければ、この事態について君の知ってることを教えてくれないか」
「あ、あの……」
話を振られて、慌てた様子で彼女が語り出す。
「私もあの、何があったのか全然分からないんです。まる2日間そこのエレベーターに閉じ込められてて、真っ暗だし、携帯も通じないし、誰も助けに来てくれないし、息苦しくなってきて、もうダメかもって諦めかけてた時に、急にエレベーターが動いてドアが開いたから出たんですけど、周りはゾンビだらけで……」
「え、まる2日もエレベーターに閉じ込められてたの!?」
「はい……」
さっき俺が緊急用発電装置を作動させた時にエレベーターが動いて、最寄り階で扉が開いたんだろう。
狙ってやったことではなかったけど、とりあえず電源を動かして正解だったな。あれで彼女は解放されたんだ。
「えっ! そうだったんですか! あ、ありがとうございます!!」
全力でお礼言われちゃったよ。照れるじゃないか。
「私は須山陽奈って言います。ここの付属高校の3年で、サイエンスプログラムのレポートを提出するために5階にある研究室に来たんですけど、帰ろうとしてエレベーターに乗ったら途中で止まってしまったんです。それが2日前のお昼のことで」
「それで2日間もどうしてたんだ!?」
「最初は、しばらくしたら動き出すかなと思ってじっと待ってたんです。でも非常ボタン押しても何も起らないし、インターホンも通じないし、携帯も全然つながらないし、いつまで経っても真っ暗なままで怖くなってきて、ドアをどんどん叩いて『助けて』って叫んだけどやっぱりダメで」
「……そりゃ叫ぶだろうな」
「その後は、長期戦になるんだったらエネルギーを無駄使いしたらダメだと思って、泣いたり叫んだりしないように我慢して、携帯もなるべく電源を切って、お昼に食べようと思ってたパンが一つとペットボトルの紅茶を持ってたので、それを少しずつ食べて飲んで真っ暗な中でジッとしてました」
「あっ! 2日間でそれだけしか食ってないのか?」
「はい……」
その時ちょうどタイミング良く、彼女のお腹がこっちに聞こえるほどぐーっと鳴った。
「それはまずい、とりあえず何か食え。食いもんがどこかにあったはずだ。水も飲め」
おれは慌てて立ち上がり、その辺を物色した。
電源の切れた冷蔵庫の中には試薬や試験管しか入ってなかったが、冷蔵庫の上の段ボールの中にカップ麺が5つも入ってた。ペットボトルのお茶やミネラルウォーターもあった。
電気が停まってるから電子レンジなんかは作動しないが、ちょうど良いことにガスボンベ式のコンロと小鍋があった。これでお湯を沸かそう。
カップ麺じゃ栄養は期待できないが、とりあえずカロリーや塩分の補給にはなるだろう。
可愛い女子校生が白衣の裾から生足を晒して、はふはふいいながらカップ麺を食べている姿は大変に微笑ましい。見ている俺まで笑顔になってしまった。
それに、カップ麺をかき込む女の子を笑顔で見守ってる自分……そういう構図に強力なデジャヴを感じる。間違いなく、こういう状況を俺は知ってる、そんな感じがする。生前の記憶なんだろうか?
……まあ、いいか。
俺の方は、不思議と腹は減ってない。
彼女が一心不乱に食ってる間に俺は考えていた。
この子がゾンビになってないのは、たまたまエレベーターが停まって閉じ込められていたからのようだ。この子がエレベーターに閉じ込められてる間に何かがあって、ゾンビパニックが引き起こされたんだろう。
いったい何があったんだろう。やっぱり嫌な予感がするな。
その時、彼女は三つ目のカップ麺を食べ終え、スープまでズズズと飲み干した。
「どうだ、ちょっと人心地ついたか?」
幸せそうな笑顔になった彼女に、俺は声をかけた。
「はい! ありがとうございます! 美味しかったです!」
何か拾ってきた猫にメシやったら急に元気になった図、みたいだな。
「お茶もしっかり飲めよ」
「はい、もうお腹の中がちゃぷちゃぷいうぐらいなんで大丈夫です」
「そうか。他にどこか身体に不調はないか?」
「ちょっと脚がすーすーするぐらいで、他はもう大丈夫です」
ああ、そうか。脚はすーすーするだろうな。相変わらず白衣の裾から生足が見えてるからな。
「あの……あんまり脚、見ないで下さい」
バレてたか。
「あ、ごめん。ゾンビになってもおっさんはおっさんでな。綺麗な脚にはつい目が行ってしまうんだ」
彼女はそれには答えず、こちらに尋ねてきた。
「センセイはこれからどうされるんですか?」
「センセイって俺のことか?」
「あ、はい。だって大学の人だったらセンセイですよね」
「ああ、まあそうかもしれないけど……」
そう言いながら、俺の気持ちはもう固まっていた。
とりあえず、この子を安全な場所に送り届けることが俺の最優先ミッションだ。自分の身に何が起ったかの詮索なんかはその後でいい。どうせもう死んでるんだしな。
ただおそらく、この子を連れて移動すること自体が簡単なことではないだろう。何せ外にはゾンビがうようよいるんだ。
「ええっと、須山さんだったっけ、君はとりあえず家に帰りたいよな?」
「ええ、まあ……できれば……」
あれ? 今ひとつの反応だな。あまり家には帰りたくないんだろうか。
「とりあえず、君を安全な場所まで送って行くよ。俺が盾になるぐらいはできる」
「ありがとうございます」
「ただ、無理はしないで行こう。無茶なことして君がゾンビにかじられちゃったら元も子もないからな」
「あ……はい」
ちょっとだけ彼女の顔が固くなった。エレベータを出てからゾンビに追いかけまくられたのはマジでトラウマになってるんだろうな。
デスクの奥にある窓のブラインドを上げて外の様子をうかがう。
大きな木の陰になって見えない部分もあるが、ここから見渡せる範囲でも、大学構内の至る所にふらふら彷徨っているゾンビの姿がある。
空が少し曇ってる上に秋の陽は既に大きく傾いて、周囲は少し薄暗くなってきている。
明るい内に強行突破した方が良いか?
いやしかし、このゾンビパニックが大学構内だけではなく周辺の街まで拡がっていたらどうする。大学から出た途端にもっと大量のゾンビに出くわすかもしれない。
しかも今の俺は大学構内の建物の配置もその周辺の地理も全く分からない。逃げる途中でうっかり道に迷ってしまったらこの研究室に引き返してくることすら覚束ない。
とりあえずこの研究室を基地として確保した上で、徐々に安全なルートを確認して行った方が良いだろうな。
「ええっと、いきなりこの部屋を出て突っ走るのはリスクが高過ぎるんで、とりあえず俺はちょっと近辺を偵察してくるよ。安全なルートを確認してから動き始めよう」
「えっ! 私、一人でこの部屋で待つんですか?」
「ああ。その方が安全だろう」
「い、いやです! 怖いです! 私も連れて行って下さい!」
「いや、俺はゾンビだから襲われないけど、君を見たらあいつら寄ってくるよ。しかもその格好だと怪しいオジサンまで寄ってくるんじゃないか」
軽い調子で俺はかわそうとしたが、彼女は必死に食い下がる。
「さ、さっきはお腹減ってたので動けなくなりましたけど、今は食べさせてもらったからちゃんと走れますし、書道やってますから、こういう棒みたいな物を持たせてくれたら十分戦えます。お願いです! 一人で置いて行かないで下さい!」
トイレのデッキブラシを握りしめて泣き出しそうな顔で訴える女の子……置いてはいけないか。
あれ? しかし今『書道』って言わなかったか?
「何で書道なのに戦えるんだ?」
思わず訊いた。
「あ、あのう、書道パフォーマンスっていって、ダンスしながらモップみたいな大きい筆を振り回して字を書くのご覧になったことないですか?」
「ああ、TVの特集番組でやってるの、見たことあるかな。女子高生が部活とかでやってて、全国大会もあるやつだよな?」
「それです、それです。私、書道部の部長で、大きい筆持って字を書く役なんで、筋トレとかもやってますし、こういうの振り回すの慣れてます!」
ふうん。
あんまり戦闘力がありそうには思えないが、まあいいか。
「分かった。じゃあ一緒に行こう。ただ、絶対に俺から離れるなよ」
「は、はい!」
「もし危なくなったら遠慮なくそのデッキブラシを振り回してくれ。ゾンビは脳を破壊すると行動不能になるって聞いたことがあるから、頭か首を狙うと良い」
「は、はい……」
まあいずれにせよ彼女の戦闘力は当てにできない。どうしても俺が彼女を庇いながら歩いて行くことになる。あまり遠くには行けないな。
しかも俺がにらみを利かせられるのはせいぜい正面120度ぐらいの範囲内だ。真横とか真後ろからゾンビにかかって来られたらかばいきれない。
つまり彼女をかばいながら同時に相手できるのはゾンビ2体までだ。それ以上だと危ない。なるべくゾンビ密度の少ない所を縫っていくしかない。
「それと、すまんが『須山さん』って、とっさに呼びにくいから下の名前で呼んでもいいか?」
「あ、はい」
「陽奈、ハルナちゃんだったっけな」
「はい、そうです」
「じゃ、ハルナって呼ぶぞ」
「はい。友達とか、みんなそう呼びます」
「俺のことは『先生』か『オジサン』でいいから」
「あ、でも先生。白衣のポケットにこんなの入ってたんですけど、これ、先生の名前じゃないですか?」
彼女が差し出したのは、首からぶら下げるタイプのネームホルダーだ。中にIDカードが入ってる。
『理学部生物学科 助教 山野 圭』
そう書いてあった。
IDカードには顔写真も刷られている。
血色も良いし、目の周りにクマはないし、なかなかのイケメンだ。ただ、さっき鏡で見た俺と似てないこともない。このイケメンが死後しばらく経つとこういう顔になるのか。
これ、俺かなあ?
山野……ヤマノ……少なくとも違和感はないな。山野クン、山野さん、山野先生……そんな風に呼ばれてたような、そんな気もする。
でも理学部か……医者じゃなかったのかな?
何か明らかに医者っぽい動作や思考が身についてるようにも思うんだが。
「山野先生、って呼んで良いですか?」
「うーん、良いけど、呼ばれても俺のことだと気づかないかも」
「え、それはやだ。じゃあやっぱり『先生』だけにします」
「まあ、どっちでもいいよ」
俺はゆっくりドアを開けた。
「よし、とりあえずこの建物の周囲を探りながら、大学構内の建物の配置と出口の方向を把握しよう」
「は、はい」