ゾンビの花嫁
「えっと、じゃあ始めますね」
「よろしく」
「お、おう、よろしく」
陽奈は、聖書のつもりだろう、書棚から適当な洋書を持って来た。それ、ゾンビ物のSF小説だぞ。まあいいけど。
そしてそれを胸に抱きながら、俺に向いて厳めしそうな声をあげた。
「新郎、圭さん。あなたはここなる新婦、葵さんを、健やかなる時も病める時も、富める時も貧しき時も、妻として愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」
「はい、誓います」
そして今度は葵の方を向いて
「新婦、葵さん。あなたはここなる新郎、圭さんを、健やかなる時も病める時も、富める時も貧しき時も、夫として愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」
「はい、誓います」
葵の表情は晴れやかだ。頬を少し赤らめたその横顔は美しい。
「えっと、次は指輪交換なんですけど、結婚指輪なんて用意されてませんよね?」
陽奈が真顔に戻って尋ねる。
「そりゃ、そんなのないけど……じゃあ、こうしましょ。この婚約指輪を右手から左手の薬指に着け換えましょう。そのまま結婚指輪にしちゃいましょう」
「あ、それいいですね。じゃあ、お二人ともいったん指輪を外して……はい、山野先生はこれを葵先生の左手に着けてあげて下さい。はい、葵先生はこちらを山野先生に」
俺たちは陽奈の言うまま、それぞれの指輪を相手の左手の薬指に着けた。
「じゃあ、お二人とも、その手を私の手の上に重ねて下さい」
陽奈が差し出した聖書代わりのゾンビ小説の上に俺の手、その上に葵の手、さらにその上に陽奈がもう一方の手を置いて厳かに宣言した。
「ここにお集まりのみなさん! って誰もいませんけど、ここに、お二人の結婚が成立したことを宣言します。幸せなことばかりではなく、人生の辛いこと、苦しいことも、お二人で夫婦として協力して乗り切って行って下さいね」
「はい」
「はい」
陽奈の成りきりぶりが可笑しいが、俺にはまた陽奈と妹の姿がダブって見えてしょうがなかった。
もし心臓移植が間に合って佳代が生きてたら……俺は医者になんぞなってなかっただろう。大学にも行かなかっただろうし、今頃何をしてるか分からない。
佳代が亡くなったことで俺と葵は引き合わされた。だとすると、俺たちの結婚に立ち会うのは、親や友人たちなんかより、まず佳代であるべきだ。
俺の目には笑顔の陽奈が
「お兄ちゃん、良かったね。おめでとう」
そう言って笑う妹の姿に見えていた。
こうして俺は女神と結婚した。もう一人の女神に見守られながら。
白衣を着ただけだが、葵の花嫁姿は、その笑顔は、この世のものとは思えない神々しさだった。
女神は、ゾンビの花嫁になった。
昼食は当然、カップ麺だ。もはや俺たちにとってのソウルフードだ。
三人で食事を共にするのも、もうこれが最後かもしれない。最後の晩餐か。昼飯だけど。
せっかくだから花嫁の葵にあーんしてもらって俺もちょっとだけ食ってみた。味覚神経がバカになってきているのだろう、味はよく分からないが、嗅覚は敏感だ。とても懐かしい匂いで胸がいっぱいになる。
その時、葵の携帯が鳴った。
「はい……はい、そうです……」
少し受け答えして、また俺の所に電話を持って来た。
そしてまた横でジッと俺を監視してる。
「あ、山野先生、折原です。そちらは大丈夫ですか?」
「ああ、何とか保ってます」
「それは良かった。先生、まずインタビューの方ですが、ほぼカット無しでオンエアできました。会社の上層部はカンカンで、私とディレクターはこの後、呼び出し食らって大目玉です。始末書ものですね」
「ああ、そりゃ誠に申し訳ないです」
「いえいえ、番組は大反響で、すごい視聴率が出そうです。先生に『独占』と言っていただいたおかげです。むしろお礼を言わねばなりません。ありがとうございました」
俺の思いつきが意外に効果的だったということか。
「次に救助ヘリの件ですが、やはり政府かどこかから有形無形の圧力がかかっているようで、都内のヘリ会社は忖度してどこも動いてくれませんでした」
「ああ、やっぱりそうですか……」
「でも長野県の山岳救助のエキスパートが1チーム動いてくれることになって、既に向こうを出たそうです」
「何! 本当ですか?」
「はい。以前、うちの番組が密着取材をしたことのあるチームで、よく知ってる人たちなんです。その縁で動いてくれることになりました」
「ありがたい! 助かります!」
「場所などのデータは伝えてありますが、まだそちらに着くまでに1時間近くかかると思います。それまでもちこたえられますか?」
「何とかがんばります」
「救助方法の確認ですが、大学病院のヘリポートやグランドに下りるんではなく、その建物屋上からの吊り上げですね」
「そうです。もうこの建物から出て移動することはできません。お手数ですがそれで頼みます」
「搬送先は確保できましたか?」
「平成大医学部の大学病院が受け入れOKとのことです。そっちは病院屋上のヘリポートが使用可能みたいです」
「分かりました。そう伝えておきます」
「ありがとうございます」
「先生、これは余談になりますが……今回の事件、先生はI国系テロリストによる偶発的なバイオテロとおっしゃってましたが、何かもっと高度の政治案件のような臭いがします。政府の上層部、特に数人の政治家は事件が起こる前から何か知ってたようで、事件が起こってからの動きが妙に素早いんですよね。私の勘ではA国も絡んでるように思います」
「えっ!? A国ですか? I国じゃなく?」
「そうです。A国です。今、大学を封鎖している鉄板の壁なんかも、その材料は今から数ヶ月前にA国から大量に輸入されてるみたいなんです。おかしいでしょ? そんなの」
「はああ……そうですか」
俺にとっては意外過ぎて頭が付いていかない。
A国は葵を守ってくれたし、俺からウイルスを受け取ってニヤリと笑っていたはずだ。そして俺が生きていれば俺と葵の身元引受人になったくれてたはずだ……何かの間違いじゃないのか……
しばし呆然とする俺を、電話の声が現実に引き戻した。
「いずれにせよ先生が民間のメディアに話をして下さって、まず世の人に広く事実を報せたというのは非常に有効だったと思います」
「あ、いや、公共機関がどこも相手にしてくれなかったから、それしかしょうがなかったんですけどね」
「最後に先生、救助対象は本当に女性2人だけで良いんですか? 先生は本当にそこに残られるおつもりですか?」
「ええ、そうです。私は残ります」
「世論というか、みな先生には同情的ですよ。先生が主治医をされてた元患者さんとか『素晴らしい先生だった』って証言されてますし、先生を責めるような論調はゼロですよ」
「いや、そういう問題じゃなく、感染拡大のリスクとかいろいろあってのことです」
「そうですか……でもヘリは3人まで救助できますし、先生、ぜひ考え直してみて下さい。どうかまた改めて『独占』でお話を聞かせて下さい」
「折原さん、本当にいろいろありがとう」
「どういたしまして。先生、絶対に生きてて下さいよ。それでは、また」
電話を切った。
「葵、聞こえたか? もう1時間弱で救助のヘリが来るそうだ」
「ええ、聞こえてたわ」
「……」
「……」
俺は残る、と言ったのも聞いてただろう。また何か言うかと思ったが、葵はもうそれ以上何も言わなかった。
俺は自分の愛の証としてこんな状況でプロポーズした。葵はそれを受けてくれて、俺たちは夫婦になった。
ただ俺はもうすぐ完全なゾンビになって理性を失い、死ぬ。1時間後に救助が来て、彼女と陽奈は行き、俺はここに残る。そこでお別れだ。
その運命に変わりはない。葵はそれを受け入れる気になってくれたのだろうか。




