書道の時間
窓の外が少し明るくなってきた。
彼女たちはもうしばらく寝かせてあげるとして、俺の方はぼちぼち行動開始だ。
まず報道ヘリが本当に飛んできた時に、絵になるように、というより生存者がいることをちゃんとアピールするために、どこかに大きくSOSメッセージを書かないといけない。
どこに書くか。
定番はグランドだろう。大きな自然災害の時など、避難所になった学校の校庭にSOSメッセージが書かれている場面をよく目にする。グランドなら下が土だから何かでガリガリ引っ掻くだけで文字が書ける。広さも十分あるから大きな大きなSOSを書くこともできる。
ただ、昨日見てきたように、この大学構内のグランドまではここから数百メートルの距離がある。俺が一人でSOSを書きに行くとすると、その間、彼女たちをここに置いていくことになる。
そうなると陽奈は怖がるだろうし、葵はきっと「私も行くわ」って言うだろう。確かに俺がいないうちにこの建物で何かが起こらないとも言えない。といって彼女たちをグランドまで連れて行くのも非常に危険だ。どっちにしても彼女たちをリスクに曝すことになる。
そこで考えたのは、この建物の屋上にSOSメッセージを書くことだ。
それなら彼女たちを長時間置いておくことにもならない、っていうか彼女たちに手伝ってもらって一緒に作業しても全く安全だ。それに、グランドほどは広くないが、それなりの大きさのSOSを書くことはできる。
ただ屋上の床面はコンクリだ。何かで引っ掻いたぐらいでは文字は書けない。文字を書くために必要な、インクのようなもの……そうか、あるぞ。
昨日からゾンビ寄せに使っている一斗缶の中、ずっと何かを燃やしてるおかげで大量の炭や灰が溜まってる。そこに水をぶち込んでよくかき混ぜれば、墨汁とまではいかないものの、黒い液体が出来る。それを布か何かに浸せば……いや掃除用のモップを使えば十分筆の代わりになるだろう。また掃除用品か、って感じだが。
試しにやってみよう。
1階に下り、煙の出ている一斗缶を一つ回収し、屋上に持って上がった。
中に水を入れてまだくすぶってた火を消し、さらにぐちゃぐちゃにかき混ぜると、墨汁というよりは『灰のいっぱい浮いた炭汁』という感じの黒っぽい液体ができた。
それでもそれをブラシにつけてコンクリ面に擦り付けると、うっすらと字を書くことができる。1回ではハッキリしないが、何回か上からなぞって書けば、何とか判別可能なレベルになりそうだ。
ただ、それを一人で作業すると思ったより時間がかかりそうだ。やはり女神二人にも手伝ってもらおう。
東の空が朝焼けで赤々と染まる下、そこまで確認して俺は研究室に戻った。
葵と陽奈はもう起きて歯を磨いているところだった。
「おじゅはれはは」
「おじゅはれははへふ」
並んで歯を磨きながら「お疲れ様」は結構だが口の端から歯磨きが垂れてるぞ……っていうかお前ら、相変わらず仲が良いな。
「どこ行ってたの?」
うがいを済ませて口元を拭った葵は目が笑ってない。一人であんまりうろうろするなと言いたげだ。
「うん、それだ。とりあえず朝飯を食ってくれ。その間に説明する」
彼女たちがレトルト食品の朝食をつついている間に、俺はこの建物の屋上にSOSメッセージを書くつもりであることと、彼女たちにも手伝って欲しい旨を話した。
「陽奈ちゃん出番よ。書道パフォーマンスよ。日頃の成果を見せる時よ。音楽かけてあげようか」
葵が陽奈を冷やかすが
「そんな場合じゃないです!」
そう言いながら陽奈もまんざらでもない顔をしてる。
俺は話を続けた。
「書く文字は『SOS』と『生存者あり』だ。大きく読みやすく書こう」
「『感染しません』っていうのも書いた方が良くない? 外の人は何よりも感染を恐れてると思うし」
葵がそう言うということは、ようやっとウイルスの塊である俺をここから連れ出すのを諦めてくれたんだな。ちょっとホッとした。
しかし葵はペロッと舌を出して軽く言う。
「まあ全然嘘だけどね。でも抗体持ってるから大丈夫じゃん」
そういう問題じゃねえよ! 嘘ついたらいけません!
でもまたここで議論をしても葵は納得しないし議論してる時間がもったいない。
「よし、じゃあ、書くのは『SOS』と『生存者あり』と『感染しません』で行こう」
とりあえずこの場は葵の言うままに進むことにした。
上の階の倉庫にはフロア掃除用のモップ類も置いてあった。3本拝借して、彼女たちと屋上に上がる。
「寒っ!」
陽奈が相変わらず制服の上から羽織っている白衣の襟をかき合わせた。感覚が鈍いせいか俺は何とも思わなかったが、秋の朝の空気はかなり冷え込んでいたようだ。
そういえば彼女たちの吐く息は白くなっている。葵も寒そうに肩をすくめている。まあいいや。動いてるうちに寒くなくなるだろう。
モップを一斗缶の中の炭液にたっぷり浸し、さあ、お習字の時間だ。
俺は『SOS』、葵は『生存者あり』を書き、陽奈に一番難しい『感染しません』を書いてもらうことにした。
書き始めてみると思った以上に炭液の色が薄く、何回も重ねて塗らないとハッキリ黒くならない。字を書くと言うより水墨画を描いているような感じだ。
「上から俯瞰で見た時にどう見えるか意識しながら書いて下さいね。初心者の人が書くと意外と小さい字になってしまんで、とにかく大きく書くように大きく書くようにして下さい」
俺と葵は陽奈に指導を受けながら懸命にモップを振るった。
しかし何度もモップを浸しているうちに炭液がすぐ無くなってしまう。仕方なく何缶か追加で下から持って来て炭液を作る。
薄墨を何度も何度も塗り重ね、小一時間かかってようやっと読めそうな字を書き上げることができた。
「俺たち3人で書道パフォーマンスに出られるかな」
と茶化したら
「葵先生の『生存者あり』はイイ線行ってますけど、山野先生の『SOS』は35点ですね。字じゃなくて絵になってます」
陽奈に激辛の採点で返されてしまった。
「『SOS』というより『505』に見えるわよ。大丈夫かしら。『505』なんて意味不明よ」
葵にまで突っ込まれる。
不安になってきて自分の書いた字をもう一度、いろんな方向から見てみるが……大丈夫だ。ちゃんとSOSに見える、よな。
葵は遠くの空を見ながら
「本当にヘリなんて飛んでくるのかしら」
と訝しんでいる。
「飛んでくるさ。必ず飛んでくる。停電は復旧した。電波障害も改善した。夜も明けた。テレビ局はとにかく何かネタが欲しい。来るよ。絶対来る。ヘリじゃなくても、せめてドローンぐらいは飛ばすさ」
俺は、実はちょっと不安な自分の心に言い聞かせるように強く言った。
しかし先にやって来たのは招かれざる連中だった。
パーン!
銃声だ!
やっぱり来たか。あの黄色い防護服の連中だな。
慌てて銃声のした方に走って行って下をのぞくがゾンビ以外には何もいない。
幸い今の銃声はまだ遠かった。少しホッとするが、俺たちは自分たちの置かれた状況を再確認した。
外の世界と連絡はとれたが、まだ安全にはほど遠い。周囲は大量のゾンビに取り囲まれ、建物から出ることも困難だ。しかも防護服の連中が銃を構えて着実にこちらに迫ってきている。この建物から逃げ出せたとしても、キャンパスは鉄の壁で完全封鎖されていて外に出ることはできない。
絶体絶命に近い。
しかしまだ詰んではいない。こっちには奥の手があるんだ。
しかし奥の手は、頼みの綱は……本当に来るんだろうか……
俺もさらに不安になってきた。
その時、
「あっ! 来たわ!」
葵が声を上げた。
ぱたぱたぱたぱた
確かに、葵が指さしている方角、西の方から微かなローター音が聞こえてくる。
「あれだな」
目凝らすと丘陵の向こう側、大学病院の方向、上空のかなり高いところをヘリが旋回している。遠過ぎて色や形は分からない。報道ヘリなのか、警察のヘリなのか、救助ヘリなのかも分からない。
ここから手を振って「おーい、おーい」とやっても到底見えないだろう。困ったな。これじゃどうしようもない。
そうか!
だいぶ鈍くなった俺の頭がまた微妙なアイデアをひねり出した。
俺はまた1階まで下りてもう一つ、まだ煙の出ている一斗缶を持って来た。そしてそこに研究室から持って来たカップ麺の殻などプラゴミをいっぱい放り込み、アルコールを補充して火を煽った。
燻っていた火が勢いよく燃え上がり、プラスチックの焼ける独特の臭いとともに真っ黒な煙を吹き出した。風がないため黒煙は真っ直ぐ空に上がって行く。そう、これは狼煙のつもりだ。
この狼煙に気づいてくれたのかどうかは分からないが、しばらくしてヘリはこちらに近づいてきた。
「おい、こっちに来たぞ」
「来たわね」
「ようし、思いっきり手を振ってやろう」
「分かったわ」
「了解です!」
俺たちは上着や白衣を脱いで大きく振り回し
「おーい、おーい」
と叫んだ。
ヘリはようやっと俺たちの姿やSOSの文字に気がついたらしい。俺たちの上空、かなり高いところを何度も旋回した。
そこにもう1機、別の方角から来たヘリも加わった。こちらも俺たちの上空を旋回している。
「おーい、おーい」
俺たちはお約束の絵柄を演出するため一生懸命上を向いて手を振り続けた。




