カップ麺の記憶
若干のウツ展開を含みます。ストーリー上、避けられない部分ですし、後できちんとフォローされていますが、ご注意下さい。
「お兄ちゃんも食べる? これ美味しいよ」
俺の目の前に味噌味のカップ麺を突き出しているのは陽奈ではない。
俺の妹、佳代だ。
ちょっと目尻の上がったパッチリした目。小作りで上品な鼻と口。「可憐」という言葉がぴったりの少女。猫耳のカチューシャをつけたらむちゃくちゃ似合いそうだ。
ダイニングセットが詰め込まれた狭苦しいマンションの一室。西の窓から夕暮れの陽が差し込んでいる。
両親は仕事で忙しい。俺たち兄妹はいつも二人で夕食を食べていた。たいていは母親が夕食を用意してくれていたが、カップ麺しかないこともあった。
いや、いいんだ別に。子供にとっちゃ、母親が用意してくれた真面目なおかずをレンジでチンするよりカップ麺の方が美味しい。
だから俺たち兄妹はいろいろなカップ麺を食べ慣れていて、どこのメーカーのどの味のカップ麺が美味しいかよく知っていた。
「お兄ちゃん、今日あたしこれ食べる」
「じゃあ、俺はこっちだ」
今日、学校でこんなことがあったの、お友達がこんなこと言ってたの、でもあたしはこんな風に思ったの……佳代のおしゃべりに適当に相づちを打ちながら二人でカップ麺をつつく。
食った後はTVを見ながら二人で学校の宿題だ。風呂も小学生のうちは一緒に入って俺が身体を洗ってやっていた。寝る時も俺が本を読んでやったり、おしゃべりの相手をしてやったりしてた。怖がりなので夜にトイレに行く時は俺が先導してやらないといけない。
両親が帰ってくるのは夜10時過ぎだ。それまでは俺が佳代の親代わり。それが俺の日常だった。
両親がそこまで忙しいのは、佳代の治療費のためだ。
俺より3つ年下の佳代は、生まれた時から心臓に病気を抱えていた。可哀想に小さい身体で何度も手術を受け、それでも心臓はだんだん悪くなっていた。
拡張型心筋症。
それが最終的についた診断名だ。心臓移植しか治療法のない、不治の難病だ。
当時この国には法律の壁があって、どうやっても15歳未満の子供の心臓移植はできなかった。米国に渡って自費で移植手術を受けるしかなかった。
しかしそれにはざっと1億のお金がかかる。そのため両親はそれぞれがダブルワークに行って必死に治療費を貯めてたんだ。
中学2年の時、俺はキャプテンを務めていたサッカー部を辞めた。土日に街頭に立って募金活動をするためだ。
『佳代ちゃんに心臓移植を』
佳代の写真をバックにそう大きく書いたパネルを首から提げ、募金箱を持って街頭に立つ。声を嗄らして支援をお願いする。
いや、正直辛かったよ。
夏はクソ暑いし、冬はクソ寒いし。それに恥ずかしかった。
優しい声をかけてくれる人もいた。昼間っから酒を飲んでる酔っ払いに絡まれて怖い思いをしたこともあった。見るからに厳ついヤクザみたいなオジさんが千円札を入れてくれた時は嬉しかったな。
でも結局、通りすがりの人の99%は、病気の子供への募金なんて完全無視だよ。それが現実だ。
高校に入ってからは募金に加えて俺もバイトで働き出し、途中から2つ掛け持ちで行くようになった。学校とバイト2つと、土日は募金。結構大変だったな。
でも、お金はなかなか貯まらなかった。
そして、佳代の心臓はだんだん悪くなった。
家にいる期間よりも病院に入院してる期間の方が長くなり、地元の中学にはもう通えなくなった。病院の中にある院内学級に転校した。
佳代は俺と同じ県立高校に入りたがっていたが、もうそれも無理だというのが自分で分かってきたんだろう。せめて俺の高校の制服を着て俺と一緒に写真を撮りたい、しきりに言うので同級生の小柄な女の子に頼んで制服を貸してもらい、病院の中庭で写真を撮った。
それがこの写真だ。俺も佳代も笑顔で写ってるが、本当はみんな大声で泣きたい気分だったんだ。
中学3年になって、佳代の病状は坂道を転がり落ちるように悪くなった。
彼女も成長して思春期の女の子らしい身体になってきたが、それに心臓がついて行けなかったのかもしれない。
手足から浮腫みが引かなくなった。ちょっと動いただけで息切れがするので酸素マスクが外せなくなった。時々危ない不整脈が起こるので心電図モニターが着けっぱになった。
渡米できるのかできないのか、できるとしてもそれまで心臓が保つのか。事態は切迫してきた。
主治医には「心臓移植できなければ、この夏は越せないでしょう」、そう言われた。いよいよ来た。最後通告だ。
俺は高校3年になってたが、受験どころじゃない。というか高校も休むことが多くなった。とりあえずバイト、そして募金、それ以外は家と病院と行ったり来たり。そんな生活だった。
間に合ってくれ。間に合ってくれ。
俺は祈った。
寝たきりでどんどん顔色が悪くなって行く妹を見ながら、毎日必死で走り続けた。
そんな時、連絡があったんだ。
同じように海外心臓移植を目指してたけど残念ながら間に合わなかった子がいて、その子のご両親が渡航費、治療費として集めていたお金を、佳代のために譲ってくれるっていうんだ。
両親と俺と3人、忙しい中を1日潰して関西まで行って、そのご両親に会って泣いてお礼を言ったよ。
助かった! ようやっと渡航の目処が立った!
主治医の先生が米国の病院と連絡を取り合ってくれて、約1ヶ月後に渡航することになった。渡航の事務手続きも始まった。
しかし。
俺や両親が何を話しかけても佳代は
「うん、ありがとう」
しか言わなくなった。
こちらが何を言っても「ありがとう」なんだ。
俺が何日かぶりに行った高校でドジった話や、バイト先の人間関係の話をしても、
「うん、ありがとう……お兄ちゃん」
返事はそればかりだ。
「お前、『ありがとう』しか言えねえのかよ」
と突っ込むと、
「だって……ありがとうっていう気持ちしか出てこないんだもん。ありがとう、お兄ちゃん」
と返ってくる。
後から考えると、佳代はその時もう既に自分の運命を悟っていたのかもしれない。
それでも一回だけ佳代が「ありがとう」以外の言葉を口にしたことがある。それは俺が、何か食べたい物はあるかと尋ねた時だった。
「お兄ちゃん……ネッシンのマ王が食べたい……味噌味のやつ」
「こんな時にカップ麺かよ!」
食塩を制限されていた佳代にとっては塩辛いカップ麺は禁断の食品だ。主治医に食べさせても良いか訊いてもダメって言われることは分かってる。でもせめて一口だけでも食べさせてやりたい。
俺は内緒で学生鞄にマ王を忍ばせ病室に持ち込んだ。ポットのお湯を注ぐと良い香りがする。
そういや佳代はこの味噌味のマ王が大好物だったな。二人でカップ麺食ってる時に、麺の歯ごたえが良いとか、味噌味が素晴らしいとか、いつも蘊蓄を語ってた。
ちゃんと正規の作り方に沿って、一度麺を湯切りしてから再度お湯を注ぐ。
小鉢に麺とスープを少しだけ取り分けて口元に持って行く。酸素マスクを横に避けて、小さく開けた口の中に入れてやる。
もぐもぐもぐ。
「ああ、美味しい……やっぱりカップ麺は生麺タイプで湯切りするのが一番ね。歯ごたえが全然違うわ。それにこの麺にまんべんなくスープが絡んだ感じ、バランスが良いのよね。やっぱりマ王は古典的な味噌味が一番ね」
佳代は久しぶりに饒舌になった。
「その台詞、久々に聞いたな」
「うん。マ王はお兄ちゃんとよく食べたよね。値段高いしご馳走だったよね」
「そうだな」
「私もう良いから、後はお兄ちゃん食べてよ。美味しいよ」
「え? もう良いのか?」
「うん。お兄ちゃん、ありがとう」
またありがとうと言われてしまった……仕方なく残りは俺の胃袋の中に流し込んだが、泣きそうになるのを堪えるのに必死で、せっかく妹の推しの麺も、のどにつかえそうだった。
パスポートも来た、航空券も来た、荷造りもほぼ済んだ、渡航まであと10日。もう本当にあと10日だった。
それなのに……佳代の病状は最後の段階に来てしまった。
彼女の心臓の壁は薄くなってしまってぺらぺらの状態だった。血液を十分送り出すことができず、腎臓も機能しなくなった。肺に水が溜まり、酸素を十分に取り入れることができなくなった。
少女の身体にはたくさんのチューブと機械がつなげられた。機械の間を縫っていかないとベッドの横にも寄れないぐらいになった。
ここ2~3日はほとんど意識もない。ベッドの横まで行って声をかけてもうっすら目を開けるかどうかだ。
もうバイトなんて行ってもしょうがない。学校なんてさらに行く意味がない。俺は昼も夜もずっと佳代の横にいた。
渡航予定まであと10日じゃないか。あと10日だけ保ってくれ。
佳代の枕元には俺と一緒に制服を着て撮った写真が飾ってあった。この制服を着て、俺の後輩になるんだろ!? だろ!? 元気になれば二人でカップ麺を好きなだけ食べられるんだぞ。
あと10日、あと10日だけ待ってくれ。
俺は彼女の横で祈り続けた。本当に祈り続けた。
しかしその祈りは届かなかった。
その日の夜遅く、佳代の病み疲れた心臓は、とうとう拍動を止め、もう二度と動き出すことはなかった。
俺には彼女の死が理解できなかった。
確かに彼女の心臓は止まった。でも彼女の身体は温かい。彼女の顔にはうっすら微笑みが浮かんでる。
「お兄ちゃん、ありがとう」
そう言ったままの顔だ。
心臓は止まったけど、身体の細胞はまだ生きてるじゃないか。肺や腎臓はダメかもしれないけど、他の内臓はまだ生きてるじゃないか。
何で心臓マッサージをしないんだ!?
10日後にアメリカ行くんだろ!?
心臓移植するんだろ!?
何、諦めてんだよ!!
医者がやらないんだったら俺がやる。俺が10日間ずっと心臓マッサージをし続けてやる。アメリカまで飛行機に乗ってる間もずっとやる。心臓移植の直前まで俺がずっと心臓マッサージをし続けてやる。
何でダメなんだよ。身体の細胞が生きてるんならまだ完全に死んだわけじゃないだろ。何で諦めるんだよ。
俺は大声で主治医に食ってかかった。カッコ悪いよな。
「もういい加減、妹さんを休ませてあげなさい」
主治医はそう言いやがった。
「休ませたらもう帰って来ないだろ! 佳代は別に休みたいわけじゃないんだぞ。こいつは俺と一緒の高校に行きたい、またカップ麺を食いたい、まだいろいろやりたいことがあるんだぞ! 勝手に休ませてんじゃねーぞ!」
両親に取り押さえられても俺はまだ叫んでいた。
「死んでねえ! 佳代は死んでねえ! 心臓が止まっただけだ!」
涙は出なかった。
俺の心と頭は機能停止していた。
お通夜、お葬式……いろいろあったはずだが、それこそ何の記憶も残ってない。
俺は1ヶ月以上ずっと虚脱していた。
担任から、これ以上休んだら出席やばいよ、卒業できないよ、という電話がかかってきて、仕方なく学校にはまた行きだしたが、もう目にも耳にも何も入って来ないし、何の気力も出なかった。
それは俺の両親にしても同じことだった。
元々気の弱いところのある父親は、すっかりダメ男になってしまった。
毎日飲んだくれて家に帰ってきて、玄関で寝ゲロしながら朝までぶっ倒れてる、休みの日は朝から晩までパチンコ三昧……そんな風になってしまった。
母親はそんな父親を嫌ってますます仕事にのめり込み、家に帰ってこなくなった。というか、実は職場に不倫相手がいて、そっちの家に入り浸ってることが後で分かったんだが。
両親二人とも佳代のことを口にしなくなった。というか、それぞれ積極的に娘のことを、忘れようとしているようだった。
四十九日が済んでしまうと妹にお線香をあげるのは俺だけになってしまった。
「結局、また俺たち二人だけだな」
俺はいつも妹の遺影に話しかけてた。もちろんあいつのお気に入りのカップ麺をお供えにしてな。
そうこうするうち、さらに事件が起こった。
佳代の渡航と手術のために貯めたお金、例のいただいたお金は向こうのご両親にそのままお返しするとして、残ったお金の使い道で両親がモメだしたんだ。
父親はあろうことか「これは全部俺の金だ、好きに使わせてもらう」と言いだした。母親は母親で、ワケの分からない宗教団体に全額寄付すると言う。
そしてある日、父親は自分の口座に入ってたお金を持ってトンズラしてしまった。どこに行ったか分からない。仕事も辞めてしまってて、全く音信不通。ま、いわゆる『蒸発』ってやつだ。
最初は激怒していた母親だが、しばらくすると父親がいなくなったのを良いことに堂々と不倫相手を家に連れてくるようになり、数年後、父親との離婚が成立するなりその相手と再婚した。
母親の彼氏は別に嫌な奴ではなかったが、俺は家に居辛くなって高校卒業と同時に都内に出た。
家族バラバラ、一家離散だ。
要するに俺の家は、佳代の病気とその治療のためにぎりぎり家族という形態を維持してたけど、本当に絆でつながれてたのは俺と佳代だけで、両親の方はもうとっくに気持ちは切れてたんだろうな。
でも両親は責められない。両親も疲れてしまったんだろう。佳代のことを忘れないと生きていけなかったんだろう。
もう1話だけウツ展開が続きます。その先できちんとフォローされていますが、ご注意下さい。




