指輪とパスワード
「あなたの身体を元に戻すヒントがあるかもしれないわ。とにかくそのノートパソコンを起動してみましょう」
葵は胸のポケットからUSBメモリーを取り出して言った。
まあそんなヒントなんて存在しないけどな……などとは言わず、葵に合わせた。
「そうだな。やってみよう」
俺はオフィスチェアに座り直してノートパソコンを開き、葵からUSBメモリーを受け取ってUSBポートに刺した。
スイッチを入れると微かなディスクの作動音がして、昨夜は何も表示されなかった液晶にログイン画面がパッと表示された。やはりこのUSBがロックになってたんだな。
しかしこのログイン画面は見慣れたOSのものではない。文字だけのシンプルな画面。LINUXか何かだろうか。
IDの入力はなく、求められているのはパスワードだけだ。
パスワードは……ああ、そうだ葵が知ってるんだ。
「葵、パスワードを教えてくれ」
「……あなた本当に覚えてないの?」
「え? そんなの全然覚えてねえよ」
「面倒くさい人ねえ。あなた右手に指輪してるでしょ? それ外してみて」
「指輪?」
見ると、血の気のない俺の右手の……薬指に、確かに指輪がはまっている。
俺、指輪なんてしてたんだ。今、初めて気がついた。
プラチナかな。石や飾りは何もついてない、白銀色のシンプルな指輪だ。
ずっと着けっ放しにしてたのか、ちょっと引っ張ったぐらいでは抜けない。ぐりぐり回してどうにか外す。
「その指輪の内側を見て」
言われた通り、指輪の内側を見ると、何やら小さな文字が刻まれてる。
「K&A2014Apr27」
そう書いてある。何? これがどうしたの?
葵を振り向くと黙ったままジッとこちらを見てる。
何だ? あ、そうか。これをパスワードにしてるのか。
しかし「K&A」って……圭&葵ってことだよな。
「2014年4月27日」っていう日付は……婚約した日か。
要するにこれ……婚約指輪だな。
ついチラッと葵の手を見てしまった……予想通り、葵の右手の薬指にも同じ指輪が存在していた。ひっそりと。
「何だ、二人ともちゃんと婚約指輪着けてるんじゃないですか。らぶらぶじゃないですか。ぶーぶー」
気付いた陽奈がふざけた調子で冷やかす。でもこれは冷やかされてもしょうがない。
俺自身が山野君に突っ込みたい。小一時間突っ込みたい。
婚約解消したんじゃなかったのかよっ!
「私も、もちろん一時は全く着けてなかったけど、普通に二人で会うようになってからちょっと着けてみたら、そのうちこの人も着けて来るようになったのよ」
「ふうん。私、ここにいたらすごいお邪魔ですね」
陽奈が口を尖らせる。
「いいのよ。指輪は単なる指輪だから」
いや、単なる指輪って……婚約指輪なんか引っ張り出して来てまた着けてたら、完全に元サヤじゃねえか。
俺と葵。最近はいったいどういう関係になってたんだろう。
俺が葵を振り切って渡米してしまっても、葵の方は俺のことをあれこれ気にかけてくれてたみたいだ。だから俺が窮地に陥った時に、すぐにそれに気付いて手を差し伸べてくれたし、親のコネを使って俺に就職先まで世話してくれた。
ずっと俺のことを想ってくれていたんだろう。
一方、俺の方も、別に他の女性がいるわけでもなさそうだし、昔の写真を捨てずに大事に持ってたり、こうやって婚約指輪をまた着けてたりするところを見ると未練たっぷりだ。
というかここに来て、婚約指輪の刻印を大事なパスワードにするとか、起動に必要なUSBのロックを彼女に託すとか、もう完全にデレデレじゃねえか。まあこんな女優さんのような超美人が一生懸命こっちを想ってくれてるのに放っとく男はいないだろう。
……えい、もう、考えてたら照れてくる。何で葵はこんな冷静なんだ?
とりあえず、パスワード入れてしまえ!
かちゃかちゃかちゃ……たん!
リターンキーを押す手に無駄に力が入ってしまう。
見慣れない文字列がひとしきり流れた後にOSが起動した……と思ったらいきなりエディタが起動し、テキストファイルが表示された。
「葵へ まずこれを読むこと」
トップにはそう書いてある。
「スクロールしてみてよ」
そこで止まっている俺に、横から液晶画面をのぞき込んでいる葵が言う。俺は↓キーを押して一行一行、文章を表示していった。
**********
葵、ここまで来てくれてありがとう。
今、これを読んでくれてる君の横に、俺、ゾンビ化した俺はいるかな? もしいるなら、俺の最後の実験は一応成功したことになる。
まあ、記憶を失ってたりして、今の俺との連続性は断たれているかもしれない。でもそいつは紛れもなく俺自身だ。適切な刺激があれば過去の記憶はある程度取り戻せるはずだ。
もしそこに俺がいないなら……たぶん俺の死体が大学構内のどこかに転がってるはずだ。もし可能なら遺骨の一つも拾ってくれると嬉しいが、無理はしてくれるな。
さて。
君は全く信じてくれなかったが、俺と俺が作ったウイルス、正確に言うと『ヒト5型アデノウイルス改』が、R国、C国、それにA国とI国の諜報機関、あるいは軍関係者から狙われてきたっていうのは、これまで何度も話した通りだ。
電波な話だと思われても無理はない。でも今だったら信じてくれるだろう?
最初のうち熱心だったのはR国とC国だ。
彼らはそれぞれ巨乳の美女を研究助手とか大学院生として俺の近くに送り込んできて、必死で俺を籠絡しようとしたが、俺が巨乳なんて見向きもしないガチの脚フェチだということを、連中は知らなかったようだな(笑)。
俺が日本に帰ってきてからはI国の動きが活発になってきた。
I国の連中の厄介なのは、自らは動かず、テロリストを焚き付けて、あの手この手でアプローチしてくることだ。しかも困ったことにテロリストの多くは頭が悪いし乱暴だ。やることが下品なんだ。
しかし今から1ヶ月ほど前、I国が裏から動かしているはずのテロリスト集団が、実は最近、I国の指示通りに動いていない、勝手な動きをしているという恐るべき情報が入ってきた。それを教えてくれたのはA国の軍事機関だ。
それまで俺にアプローチしてきた他の国や機関はどこも、身の安全と素晴らしい研究環境を保証するからうちに来てくれ、生物兵器の研究をしてくれ、ついでにウイルスもちょうだい、そういう風に話を持って来てた。
しかしテロリスト達は違う。奴らは端的に生物兵器が、今ここにあるウイルスが欲しいだけだ。その気になれば俺を殺して奪って行くだろう。
奴らがI国のコントロールを離れて勝手に動き、俺とウイルスを狙ってる……こんな恐ろしいことはない。
俺は死を覚悟した。
ただこのウイルスが生物兵器として実際に使われることは、自分の命に代えても阻止しなければならない。
だから君にもう一度話をして、俺の安否確認を手伝ってくれるようにお願いした。そして俺の身に何かあったら、この部屋のパソコンを起ち上げてくれと頼んだ。
この部屋にあるパソコン4台にはそれぞれ、ウイルスと抗体治療に関する様々な情報、それとI国やテロリスト達の正体を暴露した文章が納められている。
そしてこれらのパソコンは起動後、各国の政府と諜報機関、それと主な報道機関に、上記の情報を英文メールでスパムの如く何度も送りつけるようにプログラムを組んである。
ネットが落ちていれば、ネットにつながった瞬間にメール送信を開始する。SNSに投稿するという方法もあったが、情報の信頼性が落ちてしまうし、外から操作されやすいのでメールにした。
メールを受け取る側にすれば迷惑な話で恐縮だが、それぐらいやればどこかが本気にしてくれるだろうし、お互いが牽制し合って変な動きは起こさないはずだ。そう考えたんだ。
ノートパソコンは奪われる可能性がある。デスクトップも壊されるかもしれない。ただ、どれか一つでも残っていて君が起動してくれたらと思って4台とも同じ仕掛けをしといた。
さて、話を戻そう。
死を覚悟した俺はまず、ウイルスがバイオテロとして実際に使用されゾンビパニックが起きてしまった時のために、ウイルスに対する中和抗体を大量生産した。君に渡したのと同じやつだ。ざっと千人分ぐらいは作った。
そして少しでも安全性を高め、生物兵器としての危険性を減じた、いわば『改良型』ウイルスを早急に開発すべくこの研究室に閉じこもった。
しかし事態はさらに良くない方へと動いた。いつかそうなるんじゃないかと危惧してたことが現実になってしまった。
つい1週間ほど前、テロリスト達から、タイトルも内容も空のメールに画像ファイルが一つだけ添付されて送られてきたんだ。ウイルスメールじゃないぞ。その画像ファイルに写ってたのは……葵、君だ。
いや、安心しろ。別にエロい画像なんかじゃない。君が出勤しようとして朝、眠そうな顔してマンションを出てきたところ……その場面がばっちり写ってる。そういう画像だ。たぶん待ち伏せて車の中から撮ったんだろう。
つまり連中は「お前の彼女の住んでる場所も生活パターンも、俺達は把握してるんだぞ」ということを伝えてきたわけだ。要は脅しだ。
俺は焦った。
自分がボコられたり殺されたりするのは仕方ないとしても、葵に危害を加えられるのは絶対にダメだ。許せん。
しかし相手は人の命なんて何とも思ってない連中だ。何をするか分からない。といって百戦錬磨のテロリストを相手に、俺が仮に24時間葵に張り付いていたところで守り通せるものでもないだろう。
それとなくI国に探りを入れてみたが、奴らが最近のテロリスト達の動きを把握してないのは事実だった。つまり葵をネタに脅しをかけてきたのは、本当にテロリスト達の独断専行だったんだ。
最悪のパターンだ。
詰んだな。
そう思った。




