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ゾンビ先生は美脚がお好き  作者: 改 鋭一
一日目 「壁」
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心地良くない目覚め

何か気がかりな夢から目が覚めると、俺は固くて冷たいタイル貼りの床の上に、丸くなって寝ていた。


足を伸ばそうとするが、ちょっと足を動かしただけで膝やら脛やらが何かに当たってしまう。


すぐ目の前には白い陶器のような物があって視界を遮っている。手で触ると冷たくてペタペタしている。


こ、これは……便器!?


ト、トイレか、ここは? 何で俺はトイレの床で寝てるんだ?


びっくりして起き上がろうとするが、足がパイプと洋式便器の間にはさまってて抜けない。足をあっちに向けたりこっちに向けたりしてようやっと引っこ抜き、便器を抱きながら身体を起こした。


周囲を見渡すまでもない。間違いなくここはトイレの狭い個室の中だ。照明が消えているようで薄暗い。シーンと静まりかえっており、人の気配は全くない。




何で俺はこんな所で寝てたんだ? 一生懸命記憶の糸を辿ろうとしたが。


したが。


不思議なことに、何も覚えてない。


何となく自分の手を見る。


やけに血色が悪い。爪の色は暗紫色になってしまっている。


「酸素飽和度が低いな。チアノーゼを起こしてる」


何故かそんな医学用語が頭にパッと浮かぶ。


自分が着ている物を見る。


グレーのデニムパンツに薄いタートルのセーター、それに地味なジャケットを羽織っているが、何故かパンツもジャケットもあちこちが黒く汚れてる。


何で俺はこんな所で寝てたんだ? 何度も同じ『?』が頭の中をループする。




とりあえず床の上にへたり込んでいてもしょうがない。俺は便器に手をついて立ち上がり、蓋を開けて便座にどっかり腰を下ろした。


ふと目の前の床を見ると、床にも黒い汚れがついている。と、その時、気がついた。


あっ! これは血だ。


汚れを目で追うと、自分が倒れていた部分の床に赤黒い血溜まりができている。かなりの量の血だ。


この服の黒い汚れも、血だ。


俺の血か?


慌てて自分の手であちこち身体を触ってみると、頭のてっぺんに大きなたんこぶができている。たんこぶだけではない。裂傷ができてかなり出血したようで、周囲の髪が血でバリバリに固まってる。


ただもう止血しているようで、いくら傷を触っても手に鮮血が付着することはない。しかも不思議なことに、たんこぶも傷も、いくら触っても痛くない。触ってる感覚はあるんだが。


「これは本来なら6~7針はナートする傷だな」


ふっとそんな台詞が頭に浮かぶ。


『ナート』って何だ……あ、『縫合』のことか。


何でそんな医学用語が頭に浮かぶんだろう……まあ、いいか。


全身を確認したが幸い頭の裂傷以外に外傷はないようだ。じゃあこの血は、この頭の傷からの出血か。自分の血だな。


トイレの中で転んで頭をぶつけて、出血したまま長時間昏倒してたのか。カッコ悪いなあ。酔っ払いがやりそうなことだ。


そうだ。仕事で嫌なことがあった俺は、いつもの店でマスターが止めるのも聞かず飲み過ぎてしまい、気持ち悪くなって帰りの駅でトイレに入ったんだ……


とか?


いやいや、そんな記憶はないな。


というか全く何の記憶もない。こんなに何も覚えてないなんて、いったいどんだけ飲んだんだ?


しかもこのトイレ、駅のトイレにしちゃ暗いし、人の出入りが全くないな。どこだ、ここは?


考える人のポーズをしながらあれこれ自分の記憶を探ろうとして、俺はギクッとなった。


というのも、もっと重大で深刻なことに気づいたからだ。


俺は自分が何者か……いや、自分の名前さえ思い出せなかった。


あれ? 俺は……誰なんだっけ?




ちょっとショックだな。


アルコールでブラックアウトしただけじゃないな、これは。


頭の打ち所が悪かったのか。


記憶喪失なんてドラマの中だけのことかと思ってた。


というか、頭に大けがをして脳に障害を負っても、ドラマに出てくるような記憶喪失にはならない。あれは『全生活史健忘』といって、あくまで心理的なものだ。


とか思いつつ、何故自分がそんな医学的な知識を持ってるのかも分からない。足元から何かがわらわらと湧き上がってくるような落ち着かない気分だ。


何か自分のことを思い出すきっかけになるようなものはないかな。持ち物は……そういえば、カバンとか、その辺にないか?


ないな。




俺は立ち上がってジャケットやパンツのポケットを探る。


胸のポケットにスマホが入っていたが、倒れた時にどこかにぶつけたのか、液晶がぐちゃぐちゃに割れて壊れてしまっている。


パンツのポケットにはきちんと折りたたんだきれいなハンカチと、鍵の束がじゃらっと入っていた。


たくさん鍵持ってるな。自宅の鍵だろうか、職場の鍵だろうか。


それと……あ、いい腕時計してるな。自動巻きのアナログなヤツだ。


動いてる……よな。


針が示している時刻は2時5分。真っ暗ではないから昼の2時だろうな。デイトは20日を示している。何月かは分からない。特に暑くも寒くもないから季節は春か秋か?


分からんな。まあ、自分の着てる物から言っても、とりあえず真夏や真冬ではなさそうだが。


それより財布とかカード類とか、全然持ってないな。落としたんだろうか。スられたんだろうか。周囲に落ちてないかと見回したが、それらしきものはない。誰かに悪用されてなきゃいいけど。




まあ、ともかく。


こんな狭い所でごそごそやっててもしょうがない。この個室から出よう。


あれ?


鍵を開けようとして驚いた。鍵はかかってない。


鍵をかけるのも忘れてたんだろうか。本当にボケてるな。


軽く押しただけでドアはスムースに開いた。


目の前には小便器が並んでる。薄暗くて陰気くさいが、どこにでもありそうな普通の男子トイレだ。


高い位置に明かり取りの窓があって午後の気怠い光が差し込んでいる。窓は半分開いてるが外の音は聞こえず静かだ。




手洗い場の前に大きな鏡があった。


よしよし鏡だ。


しかし、鏡の前に立って自分の姿を見た俺はぎょっとして固まってしまった。


まるでゾンビじゃん……


髪はぼさぼさ、土気色の顔の半分は血まみれ、無精ヒゲが汚らしく伸び、目が落ちくぼんで濃いクマがその周りを取り巻いてる。生きた人間の顔ではない。


自分の顔に見覚えがあるかどうか、っていうレベルではない。たぶん元々の顔とは別人のような変わりようだろう。


とりあえず顔を洗おう。汚れてるだけかもしれん。


蛇口をひねって勢いよく水を出し、ザバザバと顔を洗ってこびりついた血の塊を落とす。




鏡で見ると頭の裂傷は結構深く大きい。頭蓋骨や中の大脳にも多少の損傷があるかもしれない。もう止血はしてるし、不思議と痛みはないが、かなり派手に出血したであろうことは間違いない。


消毒薬でもあればいいんだが、もちろん周囲にそんなものは見当たらない。止血していることを幸いに、今は放置せざるを得ない。


目の周りもしっかり洗う。ついでにウガイもしておこう。


いくぶんスッキリした気分になったところでもう一度鏡を見て、がっかりした。


血の汚れはとれたが、やはり顔は土気色で、目の周りにはひどいクマが残っている。ぱっと見、歳は三十代半ばぐらいか。たぶん元はそれほど悪くない顔だったんだろう、目鼻立ちは整っている。でも完全に死人の顔だ。


何気なく、医者がよくやるように下マブタをぺろっとひっくり返してみたが中は真っ白だ。


「大量に失血したな」


また頭の中に勝手にそんな台詞が浮かぶ。


何気なく、自分の手首に人差し指と中指を当てて脈を測ろうとした。


測ろうとした。


測ろうとしたが。


測れねえ!!


慌てて今度は頸に手をあて頸動脈で脈をとろうとした。


しかし。


脈がない。


「触知不能」


また勝手に頭にそんな言葉が浮かぶ。


「出血性ショックで血圧が極端に下がった状態か……そのわりに意識はしっかりしてるな……立位でも意識を維持してるってことは、血圧はそんなに下がってないはず……他にもショックの症状は何も出てないしな……」


そんなことをまた勝手に考えながら、俺は鏡に顔を近づけ、手で片眼を覆ったり外したりを繰り返してる。


俺の瞳孔は最初から開いたままでピクリとも動かない。


「瞳孔散大および対光反射消失」


息を止めてみた。


そのまま時計の秒針を凝視する。


1分……2分……3分……


ちょっと苦しくはなるが、いくらでも息を止めてられる。


「呼吸停止」


心拍停止、呼吸停止、対光反射消失。三つそろってる。




俺の頭の中である事実がはっきりしてきた。


それは、


「俺はもう死んでる」


っていうことだ。


これだけ医学用語が勝手に頭に浮かんでくるということは、たぶん生前の俺の職業は医療関係、医者だろうな。


「ご臨終です」


俺は厳かに、自分自身に死亡宣告した。


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