悪意というものは、他人の苦痛自体を目的とするものにあらずして、われわれ自身の享楽を目的とする。
師匠の言葉は正しかった。
私は世間知らずな愚か者だった。
戦争が語れる大義は存在しない。此処にあるのは地獄だけだ。
「今すぐ、略奪を止めさせろ!」
今日の午前に奪ったばかりの館の一室に乗り込むと、私は声の限りに叫んだ。
解放軍が本格的に活動を開始して半年。私達は遂に帝国の都市を一つ落とすことに成功した。幾つか平野での戦闘に勝利していたが、都市を手に入れるのは始めてのことだ。その興奮は凄まじい熱量を持ち、その熱に浮かされるまま兵士達は軍規で禁じられた略奪を始めてしまい、まるで統制がとれる状況ではなくなってしまっていた。
「あら。昼前は一騎打ちお疲れ様でした。貴方がいなければ、もう少し攻略に時間がかかったことでしょう。論功行賞は暫く待って下さいね。まだこの町の財産を整理出来ていませんので」
混沌を危惧する私に、聖女は笑って答えた。会議室らしき部屋には他にも一〇人程の人間がいた。にたにたと笑う者もいれば、面倒臭そうな顔をする者もいたが、共通して私の事を道理を知らぬ若造だと馬鹿にしていることだけは伝わって来た。
「そんな物は後で良い! それよりも、略奪を止めさせるように言え。城下は酷い有様だぞ!」
「それは無理でしょう。今まで彼等には辛い思いをさせて来ました。ある程度の良い思いがなければ人はついて来ません」
「馬鹿な! 決められた報酬が彼等には支払われるはずだろう! それに聖女様は町をご覧になられましたか? あらゆる商店は打ち壊されて全てを奪われた! 貴族は吊るされて殺され、それに仕えていた連中は地面に打ち捨てられている! 市民を武器で脅し、男であれば殺し、女であれば犯す! 老人に孫を食わせ、妊婦の腹を裂いて胎児の性別に金を賭ける! さあ、教えてくれ! 何処までが“ある程度”なんだ? 貴様の神は何処まで許すんだ!」
町を少し見回っただけでこれだ。もっと酷いことがもっと沢山起きているに違いない。
そして師匠の言葉が嫌でも思い出される。
『貴様達の正義なぞ、道理を知らぬ蛮族となんら変わりない』
まったくその通りだ。犠牲を念頭に置いた正義のなんて野蛮なことか。
「貴方は彼等の人生を考えたことがありますか? 人として産まれ、人として扱われず、搾取され、蹂躙され生きて来ました。これは弱者の復讐なのです。そうしなければ、彼等は過去を断ち切れません」
「弱者だと言うなら、何故に人を殺し、人を犯し、人から奪い、踏み躙る! どうして憎き強者の真似をする必要があるんだ! 俺達は何の為に戦っている? 誰の為の戦争だ! 何の為の聖戦だ!」
「過ちを繰り返さぬ為にも、我々は強者にならねばならないのです」
「違う! あんたは言った! 平等な世の中を目指すと! 強者も弱者もいない世界を作ると! あんな景色を作るために俺は協力したわけじゃあない!」
「新たな時代への必要な犠牲なのです。わかってください」
「いいや! わかっていないのはあんただ! 今、略奪され蹂躙されているのは、俺達だ。俺達は前の時代にとって必要な犠牲だった! それに納得出来ないから、こうして立ち上がった! ここで略奪を止めねば、俺達はただ成り代わるだけだ! 俺達が嫌った支配者に! 固定された社会の考え方に! 間違った道徳と正義に! そうだろう! そうなれば、遠くない未来に俺達は過去の俺達によって葬られてしまう! 必要な犠牲なんて言葉は今すぐに捨てるべきなのをどうして理解しない!」
気が付けば私は肩で息をする程に興奮していた。
部屋の温度は私とは対称的にどんどんと低下しているようだった。
誰も彼もが私を嘲笑している。
私はそんなにも間違っているだろうか?
「貴方の言うことは理想論です。現実はそう甘くないのですよ」
聖女は少しも悩まずにそう言った。
まるで子供をあやすように。酷く面倒そうに。
だからこそ、私はより熱くなってしまう。
この現実を変える為に戦わねばならない。
「現実を変える為にどうして戦えない! 私は今! ようやく理解した! 弱い心は憎しみを糧にして自由に振る舞う! 弱者達は自身の弱さを免罪符に全てを肯定する! 深い憎しみを綺麗な言葉に言い換えるだけで、人は自らを少しでも良くしようとしない!」
弱いから。
不幸だったから。
虐げられて来たから。
奪われ続けて来たから。
そうやって弱者の自己肯定は続く。
そこにあるのは際限のない欲望と、終わりのない憎悪の連鎖だ。
師匠。答えを見つけました。
悪とは弱さから生じる全てのモノです。
「だから、私達は憎悪を断たねばならない! ただ未来の為に憎悪に耐えねばならない! このままでは、私達も私達の子供達も永遠に呪われて殺し合うだけだ! 我々は気高く生きねばならない! 復讐なんて今すぐに止めろ! 弱さと決別し、強さを振りかざす事を止める為に我々は戦うべきだ! 違うか!? 私達が闘うべき敵は、尊敬できるモノでなくてはならない!」
「…………所詮は、辺境で帝国人に育てられた田舎者ですね。社会の道理を理解しませんか」
私の言葉に、聖女は言った。普段と変わらぬ、物腰柔らかな声のまま。
「その顔のアザ、忌み児と言うのも本当かも知れません。貴方は優秀ですが、それ以上に面倒で厄介です」
彼女の静かな声に、周囲の嘲笑が追随する。
将校達は私の出自を罵り、容姿を嘲り、師匠を侮辱し、私と彼等が違う所を並べて喜んだ。
我々は個々の違い以上に、同じ人間と言う種だと言うのも忘れて。
崇高な目的を持って集められた人々ですら、コレか。
なんて脆弱な魂。なんて愚かな魂。
嗚呼。
この感情が、落胆なのだろう。
「やはり師匠は正しかった」
あの時、私が師匠の刃を邪魔しなければ、少なくとも聖女は死に、解放軍の歩みは遅くなっていただろう。ならば、今日、この時、この瞬間の悲劇は私の責任だ。
太刀を抜くと、将校達も椅子から立ち上がってそれぞれ得物を抜いた。
流石に、多勢に無勢か。勝機は万に一つもないだろう。
だが、もう私には関係ないことだ。
「間違いは正さねばならない」
「ええ。だから、貴方は死ぬのです」
弱者の為に出来る私の最後の戦いが始まった。