びだあどのぼうけん 破-伸暢
少女に請われ、倒れ伏した若い男を治療する事に決めたヴィダードだったが、内心途方に暮れていた。
人の治療など微塵も興味を持てず、ただシンカが隣にいる事だけを感じていたヴィダードは、今にも命を失わんとする人間を助けられるとは微塵も思えなかった。
しかしこんな事ならもっと真面目にシンカの教えを聞いていれば、とは思わないところがヴィダードのヴィダードたる所以だった。
記憶の糸を手繰る。
ヴィダードの脳内は薬の名前や効能などの検索が不可能であった。
しかし、シンカとの記憶は次々に湧き出てくる。
ヴィダードは背嚢を降ろし、記憶の中でシンカが行った挙動を再現する事にした。
背嚢の扉を開き、シンカが開けたのと同じ引き出しを開けて薬剤を取り出す。
奇跡というべきか、必然というべきか、ヴィダードが選んだ薬剤はシンカが選んだ物と違わなかった。
薬剤を手に取ったヴィダードは自然と器具を手に取り、薬の調合を始めた。
これはシンカの腕の成せる技だった。
シンカはヴィダードの仕様のない脳の性能を把握しており、自分と全く同じ収納を行う事で、知識ではなく追憶から状況に適した薬剤を選べる様に対策していた。
そして自然と身体が動く程繰り返しヴィダードに調合を仕込む事で自分が居なくともヴィダードが怪我の治療を行える様に仕込んだのだ。
並々ならぬ苦労が窺えた。
ヴィダードは自身が調合している薬が正しい効能を発揮するか、まるで自信がなかったが、噯にも出さずに堂々と調合する。
「…あ」
薬の調合を終えると、若い男は顔色を土気色にさせて痙攣していた。
「お願いします!オテロがっ」
倒れた若い男の流血を止めようと必死になっている背の高い少女に懇願される。
煩わしく感じる。
見ると革鎧を斬り割いて付けられた傷口は、1尺に及ぶ。
傷は皮膚と肉を裂き、肋骨を断っておりどす黒い血の中に乳白色の骨片を浮かび上がらせている。
作り上げた薬を、記憶の中のシンカを真似……ようとして、はじめに声を掛けてきた小柄な少女に渡す。
シンカ以外の男に触れたくなかったのだ。
「そこの女。これで手を洗って、傷口の骨を取り除きなさい」
背嚢から瓢箪を取り出す。
必死に傷を押さえていた大柄少女に手を出させ、瓢箪の中身、蒸留した高濃度の酒精を振りかける。
大人しくいう事を聞く少女。
もう1人の手も酒精で清め、薬を薬を振り掛けさせる。
傷口を覗き込むと肺から空気が漏れて、付着した血液が吹き飛ばされていた。
「……」
内心でこういった場合にシンカがどうしていたか思い起こし、背嚢から調合済みの粉薬を取り出す。
難易度が高いのでナウラが調合したものだ。
綿棒に酒精を付けて、木匙で掬った薬を綿棒に付着させる。
「……トゥス…ティタ…寒い…俺は…敵は……」
「しっかりして!お姉さんが今治療してくれてるから!敵ももういないから!オテロ!オテロッ!」
ヴィダードは綿棒を肺の傷口に塗り込もうとして、はたと思い直して背嚢から茅の茎を取り出して大柄な少女に渡した。
「肺の中に血が溜まってるかもしれないからぁ、これで吸い出してぇ」
茅を渡されて暫し固まった少女だったが、震える手で肺に開いた半寸程の傷に茅を差し入れ、息を吸う。
「っ!?」
少女が咳き込む。
肺に溜まっていた血液を吸い込んでしまったらしく、口から鮮血が吐き出される。
「繰り返して。吸い出さないと、溺れてしまうのよぉ」
少女は肺に溜まった血液を吸い出しては吐き出す。
ヴィダードは男の呼吸から濁った音が薄れたのを聞き取ると、少女を退かせて肺の傷に綿棒を擦り付ける。
「縫い物はぁ?できる?」
医療用の縫い針と鋼蝋蜘蛛の縦巣糸を取り出しながら訊ねる。
小柄な少女が出来ると答えたので、其れを持たせる。
「それで肺の傷を縫いなさい」
「えっ!?」
青褪めた顔から更に血の気が引く。
「死んでもいいのぉ?」
少女が首を振る。
横たわる男に近付き、震える手で糸を通した針を傷口に近付ける。
「早くやりなさぁい」
けしかけられて、小柄な少女が慌てて肺に針を通した。
縫合が終わる頃には傷口も癒着を始めていた。
次に断ち切られた大胸筋を縫わせ、そこに先程調合した筋繊維の蘇生薬を振り掛け、一斉に伸び始める筋繊維に定期的に薬を落とす。追いかける様に皮膚が再生して桃色の出来立ての皮膚となる。
何かを忘れている気がしたが、息はあるので問題ないだろう。
ヴィダードは改めて周囲を見渡す。
ヴィダードが殺した9人以外に死体がふたつ。
一つは装備から同じ傭兵と思われる。
もう一つは軽装備の中年。
息はない。
それと荷馬車が一台。
太った中年の男が荷台からこちらの様子を伺っていた。
「……早く此処から移動しないと、血の匂いに釣られて魍魎が来るわぁ」
踵を返して森に踏み入ろうとすると慌てた少女から声が掛かる。
呼び止められ、背嚢を背負いながら振り返った。
「あの!……オテロ…彼はもう大丈夫なのでしょうか?」
ヴィダードは首を傾げ考えた。
そして何か忘れている気がしていた何かに気付く。
折れた肋骨を再生させるのを忘れていた。
「身体を温めてぇ、赤身の肉や卵を食べるといいわぁ。息も落ち着いているしぃ」
「そ、そうですか…あの、ありがとうございました」
頭を下げながらも不安そうにもじもじしながらこちらを見ている。
「そこの!そこの女性!」
間隙を縫って野太い声が耳に届いた。
荷馬車から転がり落ちる様に太った中年の男が現れた、ヴィダードに向かって声を掛ける。
「………」
ヴィダードは外套の下で短剣の柄を握りながら中年に注意を払う。
「いやぁ!一時はどうなる事かと思いましたぞ!助太刀、本当に有難い!」
伸ばされた手をヴィダードは無視する。
男は満面の笑顔で、目を弓の様に細めて無視されても感謝を口にした。
「助けて頂いた所を大変恐縮なのですが、ケツァルまで同行頂けないでしょうか?護衛もこの様な状況ですし。依頼料は支払いますので」
中年の言葉にもじもじしていた小柄な少女が目を輝かせる。
ヴィダードは暫し思考する。
「同行はいいけどぉ、お金はいらないわぁ。責任持てないしぃ」
実際のところ、ヴィダードは彼らへの同行の必要性を微塵も持っていなかった。
勘違いされがちではあるが、ヴィダードは脳の回転が速い。
興味の対象が極めて矮小で、一見してその他の全てが視界に入っていない様に見えるだけで、目端は効く。
状況把握も的確な為、戦闘時にその能力が遺憾無く発揮されている。
その上で、ヴィダードはこの商人の提案を是とした。
気を失っている男の身体を荷馬車に積ませ、荷馬車1台、商人1人、護衛2人の超小規模商隊は移動を始める。
ヴィダードは去り際の惨状を目に収める。
少なすぎるのだ。護衛の数が。
護衛の代金を削ったのか。
何故、他の商隊と同道しないのか。
荷馬車の中身は葉巻や葡萄酒などの嗜好品。
怪しげな積荷は無い。
単独で路を行く意味もない。
風下の東側の森から魍魎の気配が近付いている。
ヴィダードは空を見上げてシンカとの記憶を辿り始めた。
それからの旅は順調だった。
北森林狼の群れや二角小鬼の群れと遭遇したが、統率個体を先に仕留めれば、彼らは呆気なく退散していく。
2日目になり若い男、オテロが動ける様になった。
オテロの復調に2人の少女も喜び、ヴィダードに懐いた。
背の高い剣士がトゥス、小柄な行兵がティタと名乗った。
商人の中年はランクルスと言った。
彼らはエリンドゥイラからケツァルを目指す途中で、ランクルスが3人の他にもう1人を護衛として雇ったとの事だった。
確かにクサビナ国内は罔害は少ないが、先の内乱で落ちぶれた貴族の私兵や、領民による盗賊行為が横行している。
内乱集結直後より大分掃討されて落ち着いてはいるが、内乱前とは比べるべくも無い。
規模の大きな商隊は、大きな盗賊団を呼び寄せる。
かと言って小さな規模で少ない護衛というのも危険であった。
その結果が先の襲撃だ。
ヴィダードが現れなければ、吝嗇の対価は商品どころか己の命となっていただろう。
ケツァルに向かう間、4人は変わるがわるヴィダードに声を掛けた。
ヴィダードはそれを無言、無反応で遇らっていた。
しかし同道開始から5日後、状況が変わる。
荷馬車の前を歩いていたらヴィダードは、風に乗って流れる人間の男の体臭を嗅ぎ取った。
経の散布範囲を北東に伸ばし、こちらの様子を伺う集団の気配をいち早く把握した。
武器を把握し、ヴィダードは両手を伸ばす。
風行法・銀線
細く束ねられた風の糸が、森に潜む集団に向けて落ちる。
複数の命を断ち切る。
慌てて飛び出して来たのは、矢張り傭兵。
思い思いの装備に共通するのは、簡易で雑多である事。
5日前の襲撃者と共通する。
初めの銀線で3人を仕留め、飛び出して来たのは4人。
矢筒から一度に3本の矢を抜き放ち、即座に1射。
戦闘の男が眉間に矢を突き立たせ、駆ける勢いのままうつ伏せに倒れて地に伏せる。
2射目はその右手の男。
難なく安物の革鎧を貫通し、胸骨体を破壊して心臓を射抜く。
3射目は喉に。
正面から頸椎を破壊する。
近寄る4人目。
矢が無駄になると思い、弓を首にかけながら胸元の短剣を抜き放つ。
袈裟に振り下ろされる敵の剣を、右の顳顬付近まで上げた短剣の腹で斜めに受けて擦り落とす。
僅かばかりの手応えと共に空ぶった男は、体勢を崩し容易に右側面をヴィダードに晒した。
ヴィダードの短剣が僅かに風を纏う。
革鎧の脇を、表面をそっとなぞる様に風を纏った短剣でなぞる。
するとばくりと革鎧、その下の衣類、そして皮膚とその下の肋骨を切り裂き、臓器まで切り裂かれた男は袈裟に剣を振り下ろした勢いで倒れた。
数を10数える間の出来事だった。
「す、凄い!」
「剣も使えるんですね!?」
2人の少女が興奮した様子で言葉を紡ぐ。
オテロも自分の剣を抜き、ヴィダードの動きを真似しようとしている。
風を纏った短剣は血液の付着も無く、ヴィダードは胸元の鞘にそれを収め、首にかけた弓を背負い直す。
そんなヴィダードに若者達が声を掛けてきた。
「あの…ヴィダードさん、私に行法を教えて頂けないでしょうか…?」
「俺を弟子にしてください!」
「あたしも!剣を教えて下さい!」
目を輝かせて3人はヴィダードに躙り寄る。
「私に指一本でも触れたらぁ、縊り殺すわよお」
一歩下がって冷たく突き放す。
だが、内心では考えていた。
シンカに言われた事を。
シンカは、ヴィダードを弟子にした際、一つの義務を告げた。
それは教わった知識、技術を教え伝える事だ。
ヴィダードはその責務を未だ果たしていなかった。
それから再び歩み始め、その日が暮れる頃、ヴィダードは一つの結論を出した。
路の中央で野営の支度を始めたヴィダードは、火の匂いが体につく事を避けて距離を置いていたが、軽食を取る4人に近付き、告げる。
「私、何の責任も持たないけどぉ、少しの間なら教えてもいいわあ」
初めはきょとんとしていた3人の若者は、顔を見合わせた後、喜色を顔に浮かべ、口々に礼を述べる。
その日からヴィダードは3人に修行をつけ始めた。
行法を扱えないオテロとトゥスには自身の経に気付かせる所から。
ティタには扱える経を増やす修行から練経の速度を上げる修行。
歩きながら、休憩の最中に行った。
剣を使うオテロとトゥスには体の動かし方や剣の振り方を。
ティタには弓を教えた。
自分がシンカに教わった修行方法を、ヴィダードは2人に課した。
3人は大層ヴィダードに懐き、師匠と呼ぶ様になった。
ヴィダードはあまり聞いていなかったが、3人はヴィダードに生い立ちを話した。
3人は同じリュギル南方の村の生まれて、村が罔害で滅びた際に3人で傭兵稼業を始めたとの事だった。
剣や行法は、村に訪れた旅人に教わったと言う。
ヴィダードが扱うのは短剣だが、シンカに無手を教わったヴィダードは剣や槍、斧についてもある程度の水準で教える事ができた。
ヴィダードは其々の性格や身体付き等から、オテロに王剣流、トゥスに千剣流を教えた。
身体の使い方や剣の振り方を高水準で教わったオテロとトゥスは、10日の内に智位程度には技量を上げた。
そうこうしているうちに一行はクサビナ王都ケツァルに辿り着いた。
ケツァルには過去の遺恨から薬師組合が存在せず、当然森渡りも滞在していない。
ヴィダードは3度目となる白い巨大な外壁を通り抜け、ケツァルに足を踏み入れた。
前の2回も隣にシンカはいなかった。
1度目はシンカに導かれた後、闇雲にシンカを探し回っている時に訪れた。
2度目はカヤテを助けに1人消えたシンカを追い、ナウラ、ユタと訪れた。
「ヴィダードさん、本当に有難うございました。是非お礼をさせて頂きたいので、私めが営んでおります大山公司にお越し頂けないでしょうか?」
ランクルスが額の汗を拭いながらヴィダードを誘う。
「…行かないわぁ。何を考えているのか知らないけどぉ、私が欲しいものは一つしかないのよぉ」
師匠、言い過ぎですよ、脇で嗜めるオテロを気にも止めず、ヴィダードはシンカの遺骨と手を繋ぎながら望洋とした目で遠方に見えるケツァル王城を目つめていた。
「…因みに、欲しいものとは…?」
「私の夫よぉ。いなくなってしまったのぉ」
全員が聞きたくて聞けなかった腕の骨の正体に思い至った。
「それでは食事などは如何でしょう?良い料理を出す店でお持て成し致しますが」
「いらないわぁ…」
ヴィダードはしつこさに苛立ち始めていた。
それきり反応をしなくなったヴィダードに対し、ランクルスは苦笑して頭を掻くと声を掛けるのを諦める。
そして3人の若者に契約金を払い、荷馬車の2台に乗り、馬を操って去っていった。
「師匠、あの人結構大きな商会の主人ですよ?あまり邪険にしても…」
「師匠が行かないならあたしが行きたかったな。きっと凄く美味しい料理ですよ?」
オテロとトゥスが口々に言う。
「……料理が美味しいかは、どこの店で食べるかでは無くて、誰と食べるかよぉ。そのくらい分かっておきなさいな」
「おおおっ!流石です師匠!」
「緊張してあまり親しくない人と食べるより、仲の良い人と食べる方がいいですよね。………その、この後、私達とお食事は如何ですか……?」
ティタに食事を誘われる。
「……貴女達は、この後どぉするつもりなのぉ?私の修行を続けるつもりはあるのぉ?」
この時ヴィダードの脳裏を占めていたのは義務感だった。
シンカに認められたい。
シンカとの約束を守りたい。
何の因果か自分に師事したいという若者と出会い、その機会を得られた。
繋がれた縁に何か意味があるかもしれない。
だから、できる範囲でこの若者達を育てようと考えていた。
「え……まだ俺たちに修行をしてくれるんですか?!」
オテロが驚愕と言った様子で言葉にする。
「…だって、貴方達、すぐに死んでしまいそうだしぃ」
若く未熟で青い若者達。
無事に生きていけるとは、ヴィダードには思えなかった。
「是非お願いします!」
「私も!お願いします!」
往来で大きな声を上げる2人の少女に周囲が視線をやる。
ヴィダードには分からない事だったが、2人とも目鼻立ちが整っていたという事もある。
「では宿を取りましょお」
ヴィダードは3人を引き連れてケツァルの南部、貴族街に程近い質の高い宿が立ち並ぶ区画を目指した。
田舎出身の3人はそわそわしていたが、ヴィダードは気に留めずすたすたと進む。
その横をアギが歩き、肩にはヤカが留まる。
先の内乱で幾分か寂れたケツァルではあるが、戦火の傷跡はすっかり消えている。
大陸で最も栄える都市では犬等の従罔を連れた貴族も稀に存在する為、ヴィダードはそこまで目立っていなかった。
ケツァルを堂々と歩くヴィダードを見て、3人の若者は流石は師匠と尊敬の念をより深くしていた。
それと同時に見るからに高級そうな構えの宿を見て、金銭の心配をしていた。
しかし一つの宿に目を留め、中に入ったヴィダードはなんと3人分の宿賃を1月分も纏めて支払ってしまったのだ。
その金額は彼等が今回商人の護衛をして得た金額の10倍以上であった。
「師匠ってお金持ちなのか?」
「そうなんじゃないかしら?」
「こんな金額、返せないよ…」
こそこそと話す若者を尻目にヴィダードは粗方の説明を受けるとさっさと自分の取った部屋を目指す。
3人は慌てて従った。
実際の所、ヴィダードはきちんと金銭の管理も出来ている。
自分の技能で作れる薬とその売値も把握できていた。
今し方支払った金額も問題無いと判断していた。
ヴィダードがこの宿を選んだのは、男女に別れた蒸し風呂が存在するからだった。
入浴料は取られるが、1日1回分を1月分支払ってしまっていた。
旅装を解くと、着替えを持つ。
この行動も、シンカと出会ってから身に付いたものだ。
本来イーヴァルンの民の身の潔め方は、沐浴である。
道楽の様に各地の宿に泊まり、様々な風呂や食事を楽しんで来たせいで、ヴィダードの生活水準は上がってしまっていた。
ヴィダードはティタの部屋の前に立つと扉を叩く。
ティタは直ぐに戸を開けて顔を覗かせた。
「蒸し風呂に行くから着替えを持ちなさいな」
「えっ、えっ?」
「貴女達、臭うのよぉ。部屋で待っているから他の2人も早く呼んできなさぁい」
顔を赤くさせてティタは慌てて他の2人を呼びに行った。
男女に分かれた蒸し風呂に向かう。
ヴィダードは熱された大きな石に水を掛けるとじっと目を瞑る。
初めは無言だったトゥスとティタだったが、暫くすると2人で小声で会話を始めた。
それはこのケツァルで目にした物についてだったり、ヴィダードの戦闘技術についてだったりした。
他の客が居なかったせいで、2人の会話は段々と大きくなっていった。
「言っておきたいのだけどぉ、2人は扉を開ける時に、外に居る相手が誰かわかっていて開けたのぉ?」
「えっと、分かっていませんでした」
「あたしもです」
2人が答える。
「分からないなら開けては駄目よぉ。人間は醜いわぁ。女の部屋にも押し入ってくる事があるからぁ」
「!?…師匠も押し入られた事があるんですか!?」
「私は無いわねぇ。私の家族が酔って寝ている間に、宿の上の階から天井ごと攻撃されて、捕まった事ならあるわねぇ」
「え!?天井ごと!?行法ですか!?」
「本人は覚えていないから定かでは無いけどねぇ」
「その人はどうなったんですか?」
「私の旦那様が怒って、捕えられている城まで乗り込んだわぁ。私も一緒に行ったのよぉ。だから、高い宿でも気をつけなさいな」
そこまで話し、蒸し風呂まで持ち込んだ骨を撫でた。
汗を掻き始めたヴィダードの肌が長灯石の暖色光に照らされて輝いていた。
ヴィダードは齢48になっていたが、正面の10代の少女2人と遜色無い美しく木目細かい肌をしていた。
肉付きは薄いにも関わらず、少女達はヴィダードに艶かしさを感じてごくりと唾を飲んで顔を見合わせた。
「師匠の旦那さんはどんな人なんですか?」
興味本位でトゥスが尋ねた。
「とても強い人なの。心も身体も。敵には厳しかったけどぉ、仲間と家族思いで、家族の為なら自己犠牲を厭わない人だった。暖かくて…」
シンカについて尋ねられたヴィダードは饒舌になっていた。
目を輝かせて思い返しながら話すヴィダードを見て、2人は何とも言えない気持ちになる。
きっとその人はもう居ないのだろうから。
蒸し風呂で汗をかくと、洗髪が出来る水場に向かう。白皁莢の鞘が籠に纏めて置いてあり、鞘の内側の粘液を絞り出して髪を洗う。
粘液は泡立ち、頭皮や髪の毛に付いた油分を浮かせる。
そして汗と一緒に髪を洗い流した。
洗髪の仕方が分からない2人にヴィダードは洗い方を教え、浴を終えた。
暫くの間、ヴィダード一行はケツァルで修行をして過ごした。
ヴィダードは毎晩全通で届いた唄に想いを馳せていた。
我が精霊よ 我が叫びの声を聞き給へ 我は祈りし者なり
我が精霊よ 我は悪しき者を討ち 敵は永久に絶えて滅ぶ
我が精霊よ 我が魂は去らずあり 我が足は地を踏む
我が愛よ その唇は祈りを紡ぎ その舌は愛を歌う
我が愛よ 祈りの丘で縁を紡ぎ 祝いの歌で愛を寿く
我が愛よ 無償の愛よ 我は求める者なり
千の日を超え 分つ事は難し
正しさで道を照らし 手を取り歩け
純潔であれ 英明であれ 精強であれ
導かれよ
やはり後半はヴィダードに向けた唄だと確信できる。
問題はこれがいつ作られた唄なのかという事だ。
シンカが御告げの魍魎を倒しに行く前のものか、後のものか。
前のものなら、ヴィダードの希望はぬか喜びでしか無い。
後のものなら。
これがシンカが作った唄でなければ。
誰が作ったものなのか。シンカの親族か。別のものか。
事と次第によってはその相手を殺す。
自身の想いを踏み躙る相手を赦す気はなかった。
唄の意味を考える。
後半がヴィダードに向けた言葉だとしたら、前半はどの様な意味なのか。
我は悪しき者を討ち。
悪しきものとは山渡りか。黄迫軍か。赤鋼軍か。
敵は永遠に絶えて滅ぶ。
赤鋼軍と山渡りは滅んではいない。
黄迫軍はどうだったか。
ファブニル一族は直系が絶えて分家が当主になったとか。
兵は散り散りになり再編は困難な状況と聞く。
何れ内乱の責を負わされ断絶するだろう。
では、矢張り御告げの魍魎か。
それなら、我とはシンカを指す言葉になる。
我が魂は去らずあり
シンカの言葉だとすれば、死んでいないと伝える言葉になる。
我が足は地を踏む
これも同じ意味となるだろう。
我が愛よ その唇は祈りを紡ぎ その舌は愛を歌う
我が愛よ 祈りの丘で縁を紡ぎ 祝いの歌で愛を寿く
この二節がヴィダードを指定するものだとする。
我が愛よ 無償の愛よ 我は求める者なり
我が愛よ、はシンカ風に言えば、俺のヴィダードよ、という事になろうか。
無償の愛よ、は一小節の我が愛よに掛け、イーヴァルンの民の特性である生涯伴侶を固定する御導きを表現したものか。
だが、わかるのはそこまでだ。
我は求めるものなり
千の日を超え 分つ事は難し
この節の意味を解する事ができなかった。
もし、この唄がシンカからヴィダードに対する言葉なのだとしたら、何時、何処にの表現が無い。
我は求めるものなり
千の日を超え 分つ事は難し
という表現にそれが含まれているとヴィダードは見ていた。
だが、わからなかった。
ケツァルに辿り着き10日。
3人の若者に対する修行は順調だった。
武技の技能も、行法も、3人は着々と身に付けていた。
薬の調合と薬剤についても、彼等の能力で手に入れられる範囲について教えていた。
その日、ヴィダードは3人を連れて高級な酒場に訪れていた。
シンカがそうしていた様に、ヴィダードも3人の世話をしていた。
シンカがどんな気持ちでナウラや自分、ユタに世話を焼いていたか。
その気持ちの一端を知る事ができた様で、ヴィダードは己の伴侶に近付けた気分となり、悪く無いと考えていた。
酒を嗜み、3人にも酔いが回り始める。
元々物静かなヴィダードはあまり話さないが、3人は喧しく会話をしていた。
「師匠には本当に感謝してるんですっ!」
顔を赤らめたオテロがやや回らない呂律に苦心しながら卓に身を乗り出し、木製の杯を片手に勢い良く告げる。
ヴィダードは飛び散った飛沫を風行法で防ぎ、薄甘い白葡萄酒に口を付けた。
オテロの隣ではトゥスが甲斐甲斐しく世話を焼いている。
反対にティタはヴィダードの世話を焼こうとしていたが、ヴィダードは拒否していた。
懐かしい。
自分も酒の席ではシンカに必要以上に世話を焼こうとしていた。
そして思い至る。
トゥスは自分と同じ。
トゥスはオテロに好意を抱いているのだ。
食事も酒も進む。
卓の料理は粗方無くなり、ティタは船を漕ぎ始めている。
そんな中でオテロが口を開く。
「あの、師匠!俺、師匠の事が好きです!俺とお付き合いをして貰えますか!」
言われたヴィダードは梁から吊るされた油灯を見詰めていた視線をオテロに向ける。
「本気ぃ?」
じっとオテロの焦茶の瞳を見据えた。
「ほ、本気です!師匠ほど強くて綺麗な人、俺初めて会いました!助けてもらって、修行までつけてもらって!こんなにして貰って好きにならない人なんて、いませんよ!」
後に退けなくなったからか、酒のせいか、オテロは周囲の視線など気にも止めず勢い良く話し切った。
ヴィダードは考える。
好きとは何か。
彼の好きとは。自分の好きとは。
直ぐに答えは出ない。
「貴方は…私の為に死ねる?」
「…え?」
「私は、旦那様の為なら死ねるわぁ。そして、旦那様も私の為に、きっと死んでくれるわぁ」
「…俺だって!」
むきになるオテロを手で制する。
「私は人間ではないの。私も私の一族も、生涯1人の伴侶しか持たないの」
「でも!師匠の旦那さんはもうっ」
「オテロ君!」
ティタがオテロの口を名前を呼ぶ事で塞いだ。
オテロは歯を食いしばって下を向き、隣で聞いていたトゥスは眉を寄せて悲しそうな表情をしている。
「…貴方達は、私の旦那様が死んでいると思っているのでしょぉ?私もそう思っていたしぃ、里の皆もそう思っているわぁ。でもぉ、私だけでも信じてあげなくては、5体を引き裂かれても戦い続けたシンカ様が、報われないわぁ」
5体という言葉を聞いて3人の視線が骨に集中した。
「人は、2度死ぬのよぉ。1度目は肉体の死。2度目は記憶の死。私は、私が死ぬまでずっと旦那様の事を忘れないの。たとえシンカ様が死んでいたとしてもぉ、2度は死なせないの。私がずっと、覚えているのよぉ」
ヴィダードは視線をトゥスに向ける。
「人間は、1人の相手だけではないのでしょお?本当に私と添い遂げたいと、思っているのかしらぁ?刷り込みって言うのでしたっけ?」
じっと一点を睨み付けるオテロ。
トゥスは目尻に涙を浮ばせ、ティタは目を瞑り考え込んでいた。
「貴方はどぉして今、生きていると思うの?」
ヴィダードの言葉を聞き、オテロは疑問を顔に貼り付けてヴィダードを見返した。
「…それは、師匠が助けてくれたから…」
「違うわぁ。貴女は分かる?」
トゥスを見つめる。
顔を上げたトゥスは悲しそうに首を振った。
「私は、本当は貴方を助ける気は無かったのよお。だって、私にとって、貴方は顔も見た事がない他人。ティタに頼まれたからって、助ける義理なんて無いものぉ」
「…では、どうして助けてくれたのですか?」
ティタが訊ねる。
「昔、私も死に掛けた事があったの。その時に旦那様が必死に治療してくれてぇ。トゥスの顔がその時の旦那様の顔と重なったのよぉ。だから、助ける事にしたの」
「……」
トゥスがヴィダードの顔を見つめる。
「貴方は、トゥスに助けられたのよぉ?」
口が乾いていた。
ヴィダードは葡萄酒を一口、口に含んで口内を湿らせた。
「一時の高揚感に左右されて、手近な大切なものから目を逸らしては駄目よぉ。失ってから後悔しても、戻っては来ないのよお?」
その日の酒宴はそこで終わりとなった。
ここまで書いて、漸く自分が満足できそうなプロットが思い浮かびました。
少々お時間頂きたく存じます。