びだあどのぼうけん 序
その女の顔には死相が現れていた。
ほつれて薄汚れた頭髪は垂れ下がり、顔色は蝋の様に白い。
唇は罅割れ半開きだった。
動かなければ死体だと誰しもが疑わないだろう。
たがその女は動いた。
一見死体に見える全ての外見的特徴の中で、一つ例外があった。
目だ。
垂れ下がった前髪に加え、俯き加減で影のかかった顔の中で、異様な光を湛えた相瞳が炯々と怪しく、刺すように輝いていた。
血走った白目の中央に収まる瞳は澄んだ空の様に美しく、全てを吸い込むのではないかと人々を恐怖させた。
彼女の目を見た者は三日の間、振り返ればその目があるのではという恐怖に取り憑かれ、三晩の間は夢にその瞳を見てうなされた。
その女、森渡りのシンカの妻ヴィダードは秋上月の茹だる様な暑さの昼過ぎにルーザース王国の王都ヘンレクに現れた。
ぶつぶつと何かを呟きながらヘンレクに現れた彼女の土埃で薄汚く塗れた頭髪の頭頂部には鳥の巣が作られ、鶫が鎮座していた。
また足元を気位の高そうな二尾の黒狐が歩いていた。
その上彼女は両手に白骨化した成人男性の腕を抱えており、時折愛しそうに頬擦りし、まれに指の骨、末節骨から中節骨までを舐めしゃぶった。
白骨化した腕は細かい骨が細い金属で繋がれて、形を保っていた。
指には宝石の指輪が一つ中指に嵌まっていたが、指輪を狙う不届き者は一人として現れなかった。
彼女を見た人々は悪霊の化身が現れたと怯えたが、すぐに街の薬師達が現れて彼女を人眼から隠し、街には平穏が取り戻された。
どう考えても狂人だった。
「ヴィダードさん…悲しむ気持ちはわかります…。私も山渡りの襲撃で夫を亡くしました」
薬師組合の一室でランミンが語る。
そんなランミンの寄り添った言葉に対し、ヴィダードは遺骨の指を自分で操り親指と人差し指で自分の鼻を摘んだ。
そして理解不能な言語で興奮してきゃっきゃと1人で喜んだ。
「…駄目だな……」
「ああ。彼女の心は、逝ったシンカが連れて行ってしまったのかもしれん…」
男達が顔を引き攣らせてそう会話した。
「…駄目よ、ヴィダードさん…。そんな身形じゃ貴女が森や風に帰った時、迎えに来たシンカさんが何と思うか…」
ランミンはへらへらと笑いながら白骨を撫でさするヴィダードの手を取り、宿の裏庭の木板を張り合わせた小さな風呂にヴィダードを誘導した。
ヴィダードが手を引かれるがまま歩き出すと床に伏せていた故シンカの従罔アギが四つ脚で起き上がり静々と後を追った。
ふらふらと歩くヴィダードなので頭は大きく揺れているが、頭髪に巣を作ったヤカは中脳が発達しているので毛繕いをしたまま警戒すらしていない。
沸かした湯を貯めた風呂を前にヴィダードは骨とへらへら会話するだけであった。
ランミンは途方に暮れる。
森に還ってしまったシンカは万の軍隊、千の森渡りが無造作に引きちぎられる様な魍魎と戦い、それを屠る事に成功した英雄だ。
ヴィダードは余程心酔していたのだろう。
ランミンも夫を失って1年が経つ。悲しみはまだ癒えない。
ランミンは山渡りへの復讐に同行し、彼等の里を滅ぼした。
僅かだが夫を失った痛みを軽くできた様にも思う。
しかしヴィダードは復讐もできなかったのだ。
消化しきれない悲しみを心の内に抱え、彼女は壊れてしまったのかもしれない。
復讐を遂げてから夫との記憶を色濃く思い返してしまう里に帰らず、ランミンはこのヘンレクに居を構えて生活していた。
そんなもの到底人間が斃せるとは思えない朱顔鋼鬼の王種を、シンカが己の命と引き換えに斃したという報を聞き及んでいた。
朱顔鋼鬼を倒せていなければどうなっていたのかランミンには想像もできなかったが、或いは魍魎達を従えて人の世を滅ぼす可能性もあったのかもしれない。
ランミンは山渡りに襲われて同胞が倒れ、血に染まった光景を今も鮮明に思い出せる。
もっと酷い事が起こったかもしれないのだ。
少なくとも精霊達はその未来が訪れる事を告げていた。
であれば、シンカは里にとっての英雄だ。
彼が1人苦難の道を歩み、結果残され森に帰ろうとする彼の妻を世話する事はランミン、いや、森渡りにとってシンカへの恩返しにあたるのだ。
ランミンはそんな考えを持っていた。
そして多くの同胞が同じ気持ちを持っているだろう。
里を山渡りに襲われた時、失われる同胞の命を目にして血涙を流しつつ戦う、シンカの凄まじい姿は瞼の裏に焼き付いていた。
シンカは朱顔鋼鬼の王種を斃したものの、牛鬼の群れに襲われて殆ど原型をとどめていなかったという。
王種との戦闘時に千切れた手足だけが彼の遺体だった。
夫の遺体に縋り付いて泣けたランミンと腕にしか縋る事のできなかったヴィダードとの差なのかもしれない。
ヴィダードの頭上の森鶫、ヤカがおもむろに尻を上げ、巣の外に向けて糞をした。
小さくぽとりと音がして糞が地面に落ちた。
森鶫はヴィダードの頭上から退けられ、ヴィダードはランミンに裸に剥かれ、浴槽に入れられた。
花無患子の種の皮を水に漬けて泡立たせるとヴィダードの頭髪に垂らし、水をかけながら髪を洗い始める。
どろどろと黒い洗い水が流れ出てじきにヴィダードの美しい麦穂色の髪が現れた。
浴槽に座り込んだヴィダードの肌は風に溶けて消えてしまいそうなほど白く透き通っていた。
美しい肌、濡れて張り付く淡い色の髪、滴る水、物憂げな表情。
「シンカさん…こんなに綺麗な人を置いていくなんて…」
思わずそんな言葉がこぼれ落ちたが、しかし責めることも出来ない。
シンカはそれほどの偉業を成し遂げたのだから。
巣が破壊されたヤカが怒ってランミンの耳たぶを突いた。
「どうする…?」
人骨と戯れるヴィダードを宿の一室に隔離すると森渡り達は集まって相談を始めた。
「里に送り返すか?」
「大人しく着いてくるのならいいのだが…」
「そもそもヘンレクには何しに来たのだ?」
「見ていられないわ。可哀想よ。ほどけて風になってしまいそう」
いくら話せど彼女をどうするべきか、結論が出ようはずもない。
結局したいようにさせ、同胞が見守るという結論に至った。
汚れた衣類を買い替え、ヴィダードはすっかり美しくなった。
乾いた唇は軟膏で艶々に戻ったが、昼夜の区別なく白骨に話し続ける為、目元の濃い隈だけは取れることはなかった。
それでも、彼女は美しかった。
ヴィダードは宿からランミンの家に移され、数日の間大人しく過ごしていた。
ヴィダードは不気味であり、食事以外の自立した活動を一切行わなかったが、ただ不気味なだけで大人しく過ごしていた。
そんなある日、1羽の丸頭嘴鴫がヘンレクに飛来し、薬師組合の窓に一度止まり、建物の中に入ると受付の中、壁際の止まり木に止まった。
1人の組合員が鴫に近付く。鴫の右脚には皮袋が結え付けられていた。
皮袋に施された天秤の焼印は薬師組合のもので、急患の情報や不足した薬剤を運ぶ為、どの様な立場の人間であっても手出しは禁忌とされている。
そんな皮袋を鴫から外し、中身を確認したのは二代前にヘンレクに土着した森渡り出身のテンショウという男であった。
テンショウが皮袋から取り出したのは文を収める防水性の小さな筒。
薬師組合の受付に背を向け、背後の事務所への扉を開けた。
受付からの視線を遮る仕切りを躱し、薬剤を測ったり、帳簿を付ける組合員の机を抜け、奥の雛壇席に座る薬師組合ヘンレク支店、北支部長のリンゲツの元に歩み寄る。
因みにリンゲツは現リン家当主リンブの曽祖父リンダンの弟のリンバンの孫で、元リン家当主、六頭リンレイの従兄弟に当たる。
やや小太りのシメーリア人だ。
リンゲツは額と鼻を脂ぎらせながら、他支部からの素材や薬の不足調達依頼簿に目を通し、ヘンレク支店北支部の在庫と付き合わせて都合のつけられる素材や薬の数量を計算しているところであった。
「支部長。鳥が来ました」
「ああああっ!?急に話しかけるから数字が頭から吹っ飛んだぞ!」
「知りません。こちらを」
「テンショウおまえ…俺の事舐めてる?」
「支部長の薄汚い顔を舐めたいと思う人間は少ないのでは?塩分不足の山氈鹿でも避けるでしょう」
「…うん。知ってた。お前が俺の事馬鹿にしてるの知ってた」
「それよりこちらをどうぞ。リュギル王国ケルレスカン本部からの全通です」
全通とは大陸中の主要都市の薬師組合へ通達が行われる事を言う。
南はグリューネ王国のイラ、北はランジュー王国の狩幡。
西はマルカ王国のラグー、東はナルセフ王国のビジ。
この通達を行えるのは薬師組合の支店長級か、森渡りの五老、六頭、十指に限られている。
山渡りの襲撃が行われた際もこの全通が行われており、結果大陸中の三度笠を冠った薬師が不審死を遂げていた。
「全通だと?!また何かあったのか?」
「私はまだ中を見ていません。蝋封が剥がれていない事は一目瞭然かと」
「おまえ、うるさいぞ?」
リンゲツは短剣で蝋を剥がし、文を広げた。
「……は?」
そして短く声を上げる。
「何が書いてありましたか?」
「…いや、わからん」
リンゲツが差し出した文をテンショウが受け取る。
「………これは…………参りましたね」
「おーい、皆。聞いてくれ」
リンゲツは業務に勤しむ組合員数名に声を掛ける。
「テンショウがこれから読む内容を理解できる者はいるか?テンショウ、頼む」
無言で頷きテンショウが口を開き、文に書かれた内容を読み始めた。
我が精霊よ 我が叫びの声を聞き給へ 我は祈りし者なり
我が精霊よ 我は悪しき者を討ち 敵は永久に絶えて滅ぶ
我が精霊よ 我が魂は去らずあり 我が足は地を踏む
我が愛よ その唇は祈りを紡ぎ その舌は愛を歌う
我が愛よ 祈りの丘で縁を紡ぎ 祝いの歌で愛を寿ぐ
我が愛よ 無償の愛よ 我は求める者なり
千の日を超え 分つ事は難し
正しさで道を照らし 手を取り歩け
純潔であれ 英明であれ 精強であれ
導かれよ
テンショウが読んだ文を聞き、皆が首を傾げる。
森渡り達は暗号を使う事が有るが、既知のそれで解ける内容では無かった。
では内容に意味があるかと問われれば、意味を成しているようで理解ができない。
リンゲツはテンショウから文を受け取り匂いを嗅いだ。
深谷楮と黄蜀葵で作られたありきたりな紙である事しか分からない。
文字を書くのに使われた墨は僅かな酸の匂いから、黒沼酢の皮を煮出し、膠と混ぜて作られた森渡り特製の物であるとわかる。
何の変哲もない通達文。
しかしその内容は理解できない物だった。
「…分からんな。取り急ぎヘンレク北区に居る同胞に通達してみるか。誰かわかるかもしれん」
その文の内容は密やかにヘンレク北区に居を構える帰化した森渡り達、旅の途中で宿や知人宅に滞在する森渡り達にその日のうちに伝えられた。
その文章を解読できず、ヘンレクの他地区のみならず大陸中で同じ対応が取られた。
ヘンレク北区のランミン邸にその内容が伝えられたのは夕餉の刻であった。
牛の乳で野菜と鶏肉を煮込んでいたランミン邸には、その日若い頃にランミンと共に技を鍛えていたリクイが訪れていた。
料理中で手が離せないランミンに代わり、独特の間隔で叩かれた扉にリクイが向かう。
小さく蝙蝠の鳴き声に似せた森渡りの伝達で外の人物に問い掛ける。
返事がなされ、リクイは練っていた経を体内で霧散させると同時に逆手に握っていた水金剛鞭を一振りで腕に巻き付けて収めるた。
扉を開けるとどこにでも居そうな衣類に身を纏った、記憶の難しい顔付きをした男が立っており、飼い犬の行方について尋ねつつ、さり気無く小さな紙切れをリクイに手渡した。
リクイは犬など見覚えが無いと伝え、戸を閉めた。
戸に錠を掛けると紙切れを眺める。
「…全通?!…意味が分かる者を求む…ふうん?」
「全通?何かあったの?」
汁物を椀によそい付けていたランミンが尋ねる。
「待って。今読むから……」
「ちょっと待って。ヴィダードさんを連れて来るわね。連携も緊急伝達では無かったし、食事をしながらにしましょう」
そういうとランミンは部屋で腕骨と戯れるヴィダードを連れて席に座らせた。
「…可哀想ね……」
白骨化したシンカの手と恋人繋ぎをしながら、虚空を充血した目でじっと見つめるヴィダードを、ちらと見やってリクイは呟いた。
「クウハンさんや何人かの同胞がなす術もなく倒されてしまった、朱顔鋼鬼の王種を1人で倒せただけでもすごい事よ。シンカさんは命懸けでヴィダードさんや他の奥さんを護ったのね…」
ランミンはちらと横目でヴィダードを見た。
「私の恋人は第一陣でシンカさんと御告げの王が戦った場所に乗り込んだの。……里に帰ってからも暫く震えていて、悪夢を見ていたのよ。あのあたりは森の深層。それが更地になっていたって」
「……深層の巨樹が根刮ぎ倒れて、地面は捲れて、200を超える牛鬼の死骸が転がってたって…」
その光景を脳裏に浮かべているのか、リクイは目を閉じた。
「朱顔鋼鬼の王種はあまり大きく無かったって。でも皮膚は経を通さず、どんな刃物でも斬ることが出来ない。シンカさんは天変地異の様な力を振るう鬼の攻撃を避けながら、少しづつ傷を付けて、少しづつ鬼の身体を壊していった」
「…想像する度に身体が震えるわ。もし私がそれと鉢合わせしていたらと思うと。……それ以上に、それ程のものを相手にして、背を向けず、立ち向かい、打ち勝ったシンカさんの心の強さに」
ランミンは葡萄酒の瓶と盃3つを用意して酒を3人分注いだ。
「シンカさんに」
「ええ。シンカさんに」
シンカが命懸けで護ったヴィダードは骨の掌を頬に添え、じっと床を見つめていた。
護ったヴィダードがそれではシンカが報われない。
ランミンはそんな事を思った。
「本当に綺麗な人。白く細くて、風に溶けてしまいそうね」
リクイの言葉にランミンは頷く。
燭台の炎が麦穂色の髪を美しく輝かせていた。
「それで、伝達にはなんて?」
ランミンは汁物を一匙掬って口にすると訊ねる。
「じゃあ読むわね。…我が精霊よ 我が叫びの声を聞き給へ 我は祈りし者なり」
「我が精霊…巫女の言葉?」
「我が精霊よ 我は悪しき者を討ち 敵は永久に絶えて滅ぶ」
「悪しき者を滅ぼす。森渡りが書いた前提なら、山渡りのことかしら?」
「我が精霊よ 我が魂は去らずあり 我が足は地を踏む」
「韻を踏んでる?これだけじゃ分からないわ」
「まだ続くから聞きなさい…我が愛よ その唇は祈りを紡ぎ その舌は愛を歌う」
その時今まで微動だにせず虚空を凝視していたヴィダードが痙攣したかの様にひくりと動いた。
「我が愛よ 祈りの丘で縁を紡ぎ 祝いの歌で愛を寿ぐ」
「我が愛よ 無償の愛よ 我は求める者なり」
「千の日を超え 分つ事は難し 正しさで道を照らし 手を取り歩け」
「純潔であれ 英明であれ 精強であれ」
「導かれよ」
最後まで続けて読み上げるとリクイは紙を卓の上に置いた。
「これは…組合が回して来る理由が分かったわね。今まで使って来た暗号とは異なるし、一見して意味も分からない」
軽く炙って焼き色をつけた麺麭を汁物に浸しながらランミンは口にする。
「歌の歌詞の様にも感じるわね」
「何処かの民謡?聞き覚えはないわ」
節を何度も口の中で繰り返す。
少なくとも森渡りにて歌われるものではない。
ランジューから南、クサビナ、ガルクルト、リュギル、ヘンレク、サウリィなどの大陸中央の北側諸国で伝えられるものとも歌詞として使われる語句が異なる。
「こんな歌、聴いたことある?」
ランミンは訊ねる。
「無い…と、思う」
リクイが答える。
その時、唐突に耳に届いた鼻歌に2人の森渡りの女は身体を硬直させつつ武器に手を伸ばした。
ヴィダードが鼻歌を歌っていた。
その涼やかで、鈴が鳴る様な高い、しかし耳に付くことなくすんなりと脳にまでたどり着き、声が脳を串刺しにする様な軽やかで美しい鼻歌に2人はしばし思考を止めて聴き入った。
そしてヴィダードが口を開く。
可憐な淡い色の薄い唇から歌声が紡がれる。
枝は日差し、根は月明り。
正しさで道を照らし夜を越える。
清らかに喜び、強かに歩く。導かれよ。
穏やかに営み、確かに支える。導かれよ。
御心のままに。
手を取り歩け、道の終わりまで。
純潔であれ。清かな流れで芽を育てよ。
己を導け。
英明であれ。豊かな大地で実を育てよ。
互いを導け。
精強であれ。強く結び付け。導かれよ。
2人の知識には無かったが、それはヴィダードとシンカの婚姻の儀式にてヴィダードが歌った、イーヴァルンの歌であった。
ランミンとリクイは至近距離で歌われたヴィダードの歌に硬直し、肌を粟立て、知らずの内に涙を流していた。
「行かなくてはねぇ」
すくりとヴィダードが立ち上がる。
ヴィダードが立ち上がり、ランミンに与えられていた部屋に戻り、荷造りを終えても2人は硬直し続けていた。
軈て支度を終えたヴィダードが2人の元に現れる。
苔色の傘の上には森鶫が、足元には尾裂黒狐が寄り添っている。
「世話をしてくれて、有難うねぇ。私、もう行かなくては。それではねぇ」
ヴィダードは手に持ったシンカの腕の骨を振る。
白骨化したシンカの掌が左右に揺れて別れを告げた。
それから暫くの間、ランミンとリクイは動く事が出来ないでいた。
「……これが、愛の力……」
「いや、脳の処理が追いつかないからって雑に締めないでくれる?」
呆然としたまま呟いたランミンにリクイが口を挟む。
「まって。なんなのあの歌声は。え?さっきまで完全に逝っちゃってたわよね?普通に話してたし…何?歌は?」
「今度は決壊しないで。一つづつ整理しましょ。……まず、あの歌は?」
2人はしばらく前に目の前で歌われた歌を思い返す。
まだ鳥肌は治まっていなかった。
「リン家の人に聞いた事がある。ヴィダードさんの歌は素晴らしくて、リン家で宴会をする時はいつも歌ってくれるって。気付いたらいつも涙を流してるって。話半分で聞いてだけど…本当だったわね」
「……本当ね。私も涙出てるのに今気付いたわ。…ていうか、それ誰から聞いたのよ。素晴らしいなんて一言じゃ、表しきれてないわよ」
2人は暫く歌の感想について話し合っていた。
「…そういえば、さっきヴィダードさんが普通に話していたけど、あれは?もうまともに会話も成立しない状況だったんでしょ?」
リクイは冷えて硬くなり始めた麺麭をちぎり、橄欖の搾り油に付けると口に入れ、咀嚼して嚥下した上で口を開く。
「…そうよ。リクイも見たでしょ?…森に飲まれて亡くなってしまったシンカさんが、ヴィダードさんの心を連れて行ってしまったって、私はそんなふうに思っていたんだけど…」
「…確かに、確かに彼女は廃人だったはず。一体何が?どうして突然…?」
「…それよりも、あの歌。また聴きたいな。里に帰れば聞けるのかしら?」
「そうね。ヴィダードさんは里に帰るのかしら?…また聴けるといいんだけど。…あの透き通った声。抑揚がはっきりしていて歌に感情が乗ってた。私は2節目の始めの手を取り歩けって所の歌い方が凄く好きだった」
「私は初めの鼻歌から1節目に移った走り出しのところが…」
2人の森渡りは謎の全通についてすっかり忘れ、ヴィダードの歌ったイーヴァルンの祈りの唄について遅くまで感想を伝え合い、歌を口ずさんでいた。
全通の受領翌日、ヘンレク北支部にて支部長のリンゲツは不機嫌そうな顔で文を認めていた。
「テンショウ!これをヘンレク本部に」
テンショウは文を確認してから無言でそれを巻き、文筒に収めた。
「結局、皆があの暗号を解読できませんでしたね。ヘンレク本部から全通が行われたケルレスカン本部に確認と苦情を入れてもらう打診ですか。……まあ、支部長が伝えなくとも既に本部が行なっていそうですけど」
「一体誰だ、あんな全通を出したのは。全く…」
リンゲツは無言で肩をすくめた。
実際のところ、テンショウの予測通り、既にヘンレク本部長はケルレスカン本部長に確認を行っていた。
ヘンレクから飛び立った棗梟は3日かけてケルレスカンに到達した。
ケルレスカン本部には既に近隣の大きな町にある薬師組合本部や、小さな町村の支部から無数の問い合わせがなされ、組合員は整理に奔走する羽目になっていた。
ケルレスカン本部長のエンゲンは全通を発した時の状況を思い返していた。
ケルレスカンの西支部から六頭のリンレイより全通が発されたのだ。
その文章を確認し、全組合に向けて発想を行った。
文章自体は書き写した後、直ぐに燃やしてあるため、原文は残っていない。
権限者から全通が発された場合、エンゲンにそれを止める権限は無いし、またものがものだけに内容を確認し、止めおくことも出来ない。
支部から全通が発された場合、支部に全薬師組合宛に伝達を行う機能はない為、それは本部から行われる事になる。
エンゲンは西支部長のセンガイを直ぐに呼び出した。
半刻程で現れたセンガイは若い男を一人伴って現れる。
「センガイ。単刀直入に聞く。この全通が発された状況を説明して欲しい」
前置きも何も無くエンゲンは訊ねる。
センガイはこうなる事を予測していたのか、隣の男に話をするよう促した。
エンゲンが伴った若い男はランガクと名乗った。
「…あの。俺、何かやっちゃいました?」
「俺は全通が行われた時の状況を話せと言っている」
余計な事を口にしてランガクはエンゲンに厳しい口調で再度促された。
「えっと、7日前の夜に30代前半の男が西支部にやってきて、全通を行ったんです」
この時点でセンガイは内心で首を傾げた。
全通を行った六頭のリンレイは若々しくはあるが、50を超えた男だ。
流石に30代前半には見えないはずだ。
となると、誰かがリンレイの名を騙った事になる。
「センガイ殿、全通の署名はリンレイ殿の署名で誤りはなかったので?」
支部長では署名が正しいかは判断できない。
エンゲンができる事は受け取った全通であろう文章を本部長のセンガイに送る事だけだ。
「ああ。全通の署名、六頭の署名、リン家の署名、リンレイ殿の署名、全て誤りはなかった」
署名は多量に経を練り込んだ、小雛柚子の皮汁と鉈米酢の混合液で書かれている。
文字が書かれた後乾くと透明になるが、経を通す事で薄茶色に文字が浮き出る。
しかし浮き出してから直ぐに周辺の紙もろとも腐食して崩れてしまう。
薬師組合の本部長に就任すると、初めに里の指導者達の署名を覚える事になる。
森渡りが紙媒体で情報をやり取りする際に、偽造が出来ないよう複雑な形状の署名を幾つも記載するのだ。
同じ森渡りでも署名全てを偽造する事はほぼ不可能だ。
筆圧や文字の濃淡は書いている姿勢や腕の使い方までを見ていなければ再現は難しい。
だが例外もある。
「ランガク、リンレイ殿の容姿を詳しく伝えよ」
「…えー、はい。30代前半、人種は…焦茶色の髪と目、白い肌。アガド人とシメーリア人の混血です。髪は短髪でしたが、癖が強そうでした。体格は6尺を少し切るくらいの中肉中背、衣類はケルレスカンで購入できる一般的なもので、武装は無し。経はかなり強く濃かったです。」
六頭の署名を知り偽造出来るような立場にあるのは、薬師組合の統括本部長、本部長級と、五老、六頭、十指と限定して問題無いだろう。
万が一不特定多数の人間に署名の記載された書類が漏れていたとしても、全ての先の全通に記載された署名を得る事は不可能。
それが出来る者は先の通り。
その上、リンレイの署名を手に入れる事は特に難しい。
彼が薬師組合を通して文を出した事が無いからだ。
そして全通を行った者の容姿を加味すると、容疑者は更に絞れる。
「…全ての条件に合致する者は存在しない。だが、近しい者を挙げる事は出来る。1人目はリンレイ殿自身」
「リンレイ殿だとすると、年齢や人種に差異があります」
エンゲンの言葉にセンガイが答える。
「2人目はリンブ」
「リンブはリンレイ殿の長兄で、リン本家の家長を継いでいます。各署名を何処かで見た事があり、覚える機会があってもおかしくは無いでしょう。年齢の頃も合致します。しかし、やはり人種に異差があります」
「3人目…いや、3条件目と言ったほうがいいな。五老、六頭、十指だ」
「リンブと同じく、全ての署名を覚える機会を得られる可能性があるでしょう」
センガイの言葉にエンゲンは頷く。
「だが、リンブと同じく外見で差異が出る」
「…こいつの見間違いを疑うべきか、何か見落としがあるのか…」
「そんなっ!俺は絶対に間違ってません!」
センガイの疑念に対し、ランガクが遺憾を表した。
「…4人目の可能性がある」
エンゲンは眉間に皺を寄せ、目を閉じて口にする。
不謹慎な発言を厭うてのものだ。
「…誰でしょう?」
「……シンカだ」
センガイはエンゲンの言葉を聞いて目を僅かに見開いた。
「確かに、歳の頃、人種も合致する。髪も癖毛だ」
「え…でもその人死んだんじゃ?」
ランガクの言葉にセンガイは眉を吊り上げる。
「お前!シンカは英雄だぞ!あの魍魎が野に放たれていれば、初めに滅びたのはケルマリオか我らの住むケルレスカンだ!命の恩人になんという言い草!」
「…あ……すいません。俺、その人と会った事なくて」
エンゲンもセンガイもシンカが1人で討伐した御告げの王、朱顔鋼鬼の遺骸を目にしていた。
研究の為、遺骸が森渡り達によって密かにケルレスカンに運び込まれたからだ。
加えて戦闘跡地には200を優に超える牛鬼の遺骸が転がっていたという。
「…森に飲まれてしまったという条件を除外すれば、シンカが妥当なのだが…な」
「はい……ランガク、他に何か参考になる情報は無いか?」
センガイが訊ねる。
「あ、そういえばですが、すげえ美人のドルソ人の女を連れてました!なんつーか、そそる身体で!やりたかったなー!一回やらせてくれないか頼んでみれば良かったかも!それにドルソ人なのに髪が真っ白で、月の精霊かなんかかと思いました!」
「それはエンディラの民だ」
下劣な発言をしたランガクに眉を顰めながらもセンガイは記憶を辿る。
「…確か、シンカは嫁を5人娶り、その内の1人がエンディラの民だった筈だ」
「いや、そんなまさか…だが、確かに現場には背骨や頭蓋骨などは残っていなかった。実現性は兎も角、状況的には生存している可能性は…確かにある…」
エンゲンとセンガイは顔を見合わせた。
「嫁5人かぁ。俺は10人の絶世の美女を傅かせたいなぁ」
胡乱な発言を繰り返すランガクに対する2人の視線は冷ややかだった。
「……とりあえずランガク。お前にはこれから暫く、精神を鍛え直す為に修行を行う事とする」
「えっ」
シンカが生きているのかもしれない。
森渡り達がそう考え始めたのは、秋中月の立っているだけで汗を垂れ流す様な、そんな暑い日の事だった。
ヴィダードがヘンレクを立ち去ってから4日後の事であった。
書き溜め……ゼロ!