味宿者不寐哉戀将渡
小雨が降り頻る秋中月のある日、早朝にシンカとナウラは連れ立ってケルレスカンを旅立った。
夏の朝の匂いと小雨が大地を湿らせる匂いが混ざり合い、シンカは何故か郷愁の念を抱いた。
この匂いをきっと里で嗅いだことがあるのだろう。しかし、いつの事かは思い出せなかった。
全身を覆う苔色の外套が小さな水滴を纏って銀色に輝き始める。
時が更に経つと生地に染み込んで色を暗くさせた。
笠からは雫が滴り始め、外套に落ちて吸い込まれる。
外套の裏生地は防水だが通気もできる為、身体が濡れる事はなく、蒸し暑さも軽減できていた。
路を北に進んでいく。隣を歩くナウラはどこか嬉しそうだった。
2人で旅をしたのは初めて出会ってからヴィダードと再開する迄の短い期間だった。
2人きりの旅を楽しんでいるのと、一度は諦めたシンカとの旅を再び行える事を喜んでいるのだろう。
それはシンカにとっても嬉しい事だった。
辛い戦いだった。あの鬼を倒せるとは直面した時は考えられなかった。
圧倒され、痛みに苦しみ、何度も心が折れかけた。
それでも家族を思えばこそ、シンカは最後まで抗うことができたのだった。
それはシンカだけの力では無かっただろう。
なにかが一つ欠けていてもシンカは今の結末を得られていなかったはずだ。
何年もかけて精霊達に導かれ、シンカ自身正しい選択を取り続けたからこその今なのだ。
それは誇れることなのだろう。
とても辛く、暗く、寒かった。
シンカは苦難の先で、最後に絶望と真の幸福の価値を知ったのだった。
絶望的な闘いを終え、身体は生きているのが不思議な程の状態で、殆どの感覚を失った後に鬼の群れに襲われ、シンカはいつ終わるともしれぬ明日への抵抗を続けた。
身体の肉を毟られながら、目から血涙が流れ落ちても行法を行い続けた。
脚一本で森を這いずり、転げ回り、一度は鬼に捕まった。手当たり次第に行法を行い、僅かな隙を突いて逃げ出し、方向感覚を失って山を彷徨った。
目も見えず、鼻も利かず。頼れるのは一本の足と耳と経。
沢を見つけて蔦を使って口と片脚だけで止血を行い、片脚の代替となる義足を作って腿に固定して沢を下った。
幾度も魍魎を退け、青臭い草木や山菜を喰らい長い時間かけて
森を脱し、シンカはようやっと路へ辿り着くことが叶ったのだった。
喉が火傷と御告げの王に潰されかけた事で、同胞に合図を送る事さえできなかった。
気温と爛れた肌で感じる日光の熱で方角を判断し、シンカは北を目指した。
その途中で商隊と遭遇し、行法を使える所を見せて同道させてもらったのだった。
幾度か魍魎を退け信頼を得てケルレスカンに向かう。
ケルレスカンにさえ辿り着ければ薬師組合で同朋と連絡を取ることが出来る。
あと少しと言うところで懐かしい息遣いを耳にする事ができたのだった。
シンカは運命というものをその時に感じた。
ナウラの突進と熊抱きにより罅で済んでいた残り少ない肋骨を骨折したのは秘密にしている。
北への路を逸れ、シンカとナウラは白山脈の裾野の森へと足を踏み入れ、里へと向かった。
余程寂しかったのか、ナウラは夜もぴったりとシンカの隣に張り付いて座り、静かで暗い闇の中2人で過ごした。
倒木を超え、大岩を避け、虫の群れを小川に潜んで躱し、身体を乾かし茂みに潜んで鳥の食事が終わるのを待つ。痕跡一つ残さず深い森を2人で渡って行く。
魍魎の少ない高山まで登り、白山脈を縦走する。
夏でも雪の残る頂きを見上げ、岩と同色の布を被って鷹をやり過ごし、巨大な蛞蝓を崖から蹴落として西のクサビナ方面を見遣る。
肌寒い強い風に煽られながら笠の鍔をおさえ、外套をはためかせた。
幾度となく訪れる夜を寄り添い越えて、里が近付くにつれて2人は下山を始めた。
山渡り襲撃の後に移された里への隠し通路を通り、2人は見慣れた景色を目にする。
「感慨は無いのですか?」
ナウラはそっとシンカの肩に触れて声にする。
「無いな。11年空けていた時の方が余程。今回は半年程度だ。………しかし、なによりもお前や他の妻達の顔はもう見られないと覚悟した時もあった。それは、恋しいな」
シンカは竹林をゆっくりと歩きながらナウラの頬を撫でた。
柔らかな頬と産毛の感触が心地よかった。
「私達を未亡人として後妻にという噂もありました。いいのですか?私の様な美しい妻を置いて旅立つなどと。正気ですか?」
「誰だ。教えろ。殺す」
「いえ…あの」
「セキムだな?後は誰だ。八つ裂きにしてくれる」
瞳孔が開いたシンカにナウラはたじろいでいた。
冗談は置いておき、竹林の中に小道が伸びる小道を進む。
青々とした真竹が日光に当たり、目に痛いほど緑に輝いていた。
さらさらと風に笹葉がそよぎ、涼しげな音を立てている。
「なぜ隠し立てする?まさか、俺は既に命を賭して迄守ろうとした妻を寝取られているのか?!」
「冗談です。本気にしないで下さい。貴方が居なくなってから半年もせずに、そんな話が出る程不謹慎な里では無いはずです」
「……俺を揶揄ったか。まあ念の為糞爺いの背中を何度か刺して、そんな事が起こらない様、念押ししておくか」
「止めなさい」
そんな雑談をしながら歩いていると里の門を通り抜けた。
門の側で幼年組に稽古をつけていたランマンがナウラを目に止め声を掛ける。
「ナウラか。早い帰りだった………」
そのまま隣のシンカに目を移し、手に持っていた剣を落とした。
目を剥き、顎が外れんばかりに口を開ける。
シンカとナウラはランマンに手を挙げて挨拶すると彼は言葉を紡ぎもせず喉を膨らませた。
怪鳥を模した奇妙な合図が里中に響き渡った。
シンカ、帰還。
そう言う合図だった。
前方に見える千穴壁の扉が一斉に開け放たれる。
森渡り達が遠目からシンカを指差して聴こえはしないが何かを話し合っている。
僅かに遅れて千穴壁中央上部のシン家の重厚な扉が内側から弾け飛んだ。
茶髪2人と黒髪1人が戸口から飛び出し、暫くきょろきょろとした挙句シンカを発見して固まった。
直後、上空で太陽を上回る光量の白光が発生し、轟音を立てて爆発した。
3人が猛烈な勢いで長くうねる千穴壁の石段を駆け降り始めた。
とても速いのだが、遠目から見ると滑稽に見えてしまう。
シンカはそっと微笑すると妻達に向かって歩き出した。
「…いや、お前の葬式済んだんだけど…」
ぽつりとランマンが呟く。
「森渡りの質も落ちたものだ。負傷している俺の痕跡を追えなかったとはな」
「……」
隣で誇り高そうに僅かに顎を上げたナウラを見て、お前も偶然鉢合わせたに過ぎないだろう、という言葉を飲み込んで歩き続ける。
口に出そうものなら地吹雪で凍りついた様な表情で文句を垂れつつ涙を流すに違いないからだ。
崖の登り口に近付く。
森渡り達が遠目にシンカを見遣り、本物か、何かの化身か、或いは悪霊か論じる中で漸く石段を降り終えたカヤテの黒髪が陽光を照らして艶やかに輝いた。
「馬鹿者がぁ!」
全身に経を巡らせカヤテの突進を受け止めた。
踏み石が衝撃で割れる。
僅かに遅れて焦茶の髪を靡かせてリンファがシンカに躍りかかる。
正面を奪われて右側面に回り込んでくる。
「ゔああああああああああああっ!ばああああああああああっ!」
左脚を外に開き、再び衝撃を耐えた。
最後にユタが跳び上がり、上手くカヤテとリンファを避けて首に抱き着き、逆肩車状態になる。
シンカは胸鎖乳突筋を含めた首周りの筋肉を硬め、頚椎捻挫を防ぐ。
「シンカっ!」
「腹に子供がいると聞いたぞ!何という動きをっ!」
シンカの叫びはユタの下腹部に吸い込まれていった。
3人の女に覆われたシンカの隣でナウラが誇らしそうに豊かな胸を張り、自慢げにかんばせを僅かに上げた。
喉を壊して同胞達と連絡を取ることもできず、ナウラに出逢えていなければ帰郷はもっと遅くなっていただろう。
ナウラの自負は妥当であると言えるが、そこまで探し回ったわけではない事をシンカは把握していた。
でろんでろんの顔で奇声を上げ続けるリンファと背に赤子を背負いながらシンカを揺さぶるカヤテを両腕で抱きしめる。
色々な感情が湧き出しては流れていく。
苦痛、絶望、孤独。
それらに抗い、傷付き、のたうち回りながらシンカは生を掴み取った。
その結果が今だ。
肌に風と日差しの熱をを感じながら、女達を抱きしめ、彼女らの匂いを吸い込んでいる。
努力が報われるとは限らない。
それでも努力をしない人間が報われる事は決して無い。
報われたのだ。全てが。そんな言葉がシンカの脳裏をよぎり、すっと身体の中に消えていった。
じわりと目尻に涙が滲む。
それは誰にも感付かれる事なくユタの服の裾に吸い込まれていった。
「………ただいま……」
おわり。
次の投稿は、また本編の何某かのポイントが大台に乗ったらとさせて頂きます。
次回、罔象の杜 外伝タイトルは「びだあどのぼうけん」です