癒し
それは壮絶な傷跡であった。
四肢の内3本が無く、その断面は腐って蛆が湧いていた。
肋骨は毟られ腹横筋が露出している。
皮膚は焼け爛れて、眼球は白く濁っていた。
そんなシンカの身体をナウラは静かに涙を流しながら嬉しそうに丁寧に清めていた。
リュギル王国、ケルレスカンの宿でナウラはシンカの治療を始めようとしていた。
「…貴方は分かっていません」
されるがままのシンカにナウラは声を掛ける。
「………」
シンカは言葉を返さずナウラに口元だけで微笑んだ。
「私は貴方に先立たれるくらいなら、共に最後の日を迎える方が遥かに良い」
「それは聞けない相談だ」
ナウラは僅かに唇を尖らせて不満を表した。
「お前や他の妻達、子供、家族。彼等の為なら俺はなんでもする。彼等の事を思わねば、俺は生き残ることができなかった」
ナウラは無言でシンカの身体の膿を取り除き、酒精を布に染み込ませて傷口を拭く。
激痛が走っているだろうにシンカは呻き声も身動ぎもしなかった。
「手足を再生させます。胸の傷も」
「…あれか。あれは苦しいのだ。口に猿轡を噛ませてくれ」
言われて頷いた。
経を練り口から火炎を吹き出し剣を炙る。
「固定は?」
「侮るな」
シンカは肘から先を失った右腕を突き出した。
ナウラが揺らしても微動だにしなかった。
ナウラは剣を振る。
塞がりきらず腐った傷口を斬り落とす。直ぐに止血を施し粉末薬を断面に塗布した。
「大丈夫ですか?」
「ああ。後3日もすれば漸く自慰できると思うと心躍る」
下品な事を言うシンカをナウラは小突いた。
「自慰で良いのですか?私が居るのに?」
顔が火照るのを感じながらそう口にした。
「…ここだけの話、無沙汰過ぎて…な。恥をかきたく無い」
「本当に、貴方は気障な男です。呆れました。…勝手に死にかけて…。貴方程妻不幸な夫は居ません。今後は心して下さい。私の言う事を何でも聞いてもらいますから」
妻不幸という聞いた事のない単語は無視してシンカはナウラの戯れに応える。
「ナウラの我儘など何時だって聞いてきたでは無いか」
「黙らっしゃい」
左腕が差し出される。
再度同じ処置を繰り返した。
叫んでもおかしく無い筈だがシンカは目と口を閉じて脂汗をかきながらも呻き一つ上げなかった。
「背中も膿んでいてな。腐った肉を蛆が喰らっていて痒くて叶わん。不幸中の幸で頭髪を失ったせいで虱が沸かなかったのは良かった」
ナウラは呆れる。
この男、自分の夫が身も心も強すぎて自分が今どれ程の難易度の治療を行なっているのかあやふやになる。
義足を外し清めると最後の切断を行った。
「…痛く無いのですか…?」
「お前達を失う事と比べれば些末な痛みだ。…肉の痛みは直ぐに引くが、心の傷は何時迄も痛む。それだけは耐えられん」
ナウラはシンカの爛れた禿頭を撫でた。
「……今日は四肢と胸の治療とします」
胸の傷口に軟膏を塗る。
暫くすれば発熱が始まる。放置すれば脳に影響を与えてしまう。
付きっきりでの看病が必要となる。
「…一つ頼みがある」
「……何でしょう?無茶は聞けません。ご存知と思いますが下手をすれば今晩死ぬ可能性もあるのです」
「目の治療もして欲しい」
「何故ですか?」
寝台に横たわりナウラに顔を向けてシンカは口を開く。
「少しでも早くお前の顔が見たい」
体力が必要な治療だ。あまり多くに手を出せば体力不足で衰弱死する可能性もある。
しかしシンカのその望みをナウラは無碍にすることができなかった。
1人家族のために絶望的な戦いを行い、手も足も失い、光を失って尚故郷を目指したシンカの気持ちを思えば、否定する事など出来なかった。
ナウラは再び涙を流しながら了承した。
熱により白化した眼球を金属の細い匙で抉り出す。
変じていない視神経の位置から切断した。
「痛って」
やけに剽軽な痛みの主張にナウラは脱力した。
「……腕や脚の方が痛そうですが」
「未知の痛みだった」
「臓器用の再生薬を塗りますよ」
「目に心臓が出来たらどうしよう。怖い」
「ふざけないで下さい」
いや、違う。これは優しさだ。
シンカは気の病む作業を続けるナウラの気持ちを解そうとしているのだろう。
暗く窪んだ眼科に薬液を流し込む。
その頃には陽が陰り始めていた。
要望通り口に猿轡を噛ませる。
眠りについたシンカの隣に腰掛けてナウラは夜の帳に包まれていった。
シンカが死んだと認識してから1人こうして暗い部屋に蹲り幾晩も過ごした。
今は隣に彼がいる。
シンカが汗を掻き始めた。丁寧に拭い額の水を染み込ませた布を取り替える。
ナウラは初めてシンカと出会ったときのことを思い出していた。
傷付き死にかけていたナウラをシンカは拾った。
拾う必要など無かっただろう。
始めは自分の身体を求めているものと思い込んでいた。
恥ずかしい記憶だ。シンカは女には困らない。ナウラである必要はなかった。
ナウラを拾ったのも情ならば、ナウラを伴侶としたのも情だ。
己の夫は情が深い人物だ。
狩幡でもシンカはこうしてナウラを癒し看病したのだろう。
そう考えると尚更この時間も愛おしく感じられた。
それから時間をかけてゆっくりと骨が伸び、それに纏わり付くように神経と血管と筋肉が再生していった。
長らく続く壮絶な苦痛にシンカは猿轡を強く噛み、声を殺して耐えていた。
1日後にはシンカの顔には眼球が嵌っていた。焦げ茶の瞳が輝いていた。
その瞳で眩しい物を見る様にナウラの顔を見つめた。
ナウラは噛み砕いた豆をシンカの口に流し込み水を口移しで飲ませ、汗を拭って額を冷やした。
身体が再生する痛みに呻くシンカを抱きしめ頬に口付けした。
爪の先まで手足が再生するのに5日掛かった。
通常の人間より体力が損なわれていた証であった。
ナウラは生え変わったシンカの腕、その指先に嘗て送った指輪をそっと嵌め込んだ。
腐った肉を取り除き、怪我を癒して皮膚を再生させた。
傷一つ残すものかとナウラはシンカの全身をくまなく確認した。
看病の日々をきっとヴィダードは羨ましがるだろう。
シンカを発見してからの日々を彼女に語り、その反応を想像してナウラは楽しくなる。
そして最後に睫毛や眉、頭髪を生やし15日かけてシンカの身体は最後に見た時と変わらぬ状態に戻る事となった。
そしてその晩、2人は体を求め合った。
接吻を繰り返し、絡み合い、2人は1つに混ざり合うかの様に強く抱きしめ合った。
ナウラはシンカの声を、匂いを、体温を、仕草を、吐息を感じ、包まれて充足を得た。
朝目が覚めると隣に夫が横たわっていた。
腕に顔を擦り付けて甘え、顔を上げて顔を見ると焦げ茶の瞳と目が合った。
ナウラには金も無い、地位も無い。
しかしそれらを求めたいとも思わない。
シンカがいればそれでいい。
親の愛も、故郷もいらない。
夫の隣に立って歩き、夜はその腕の中で眠る。
それさえできれば何も要らない。
ずっとわかっていた事だ。
しかしそれを守る事が如何に難しいか。
今まで散々見てきた。
ナウラは隣に横たわるシンカの手を握り、裸身を擦り寄せる。
幾夜も越え迎えた朝、凍えた心が溶かされる。
この手をもう離さない。ナウラは強く誓った。
つづく