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秋雲は遠く棚引き



秋下月の終わり頃。

未だ残暑は続き、旅路は制汗と消臭に気を使う。


シンカ一行は素人2人を含む6人で森を渡り、漸く里の入り口である竹林に到達した。


アクアを置いていく気満々だったシンカ一行であったが、シンカの部屋の前で完全装備で睡眠するという強行手段を取ったアクアに対して打てる手立てが無かった。


同じくマルギッテも置いて行く気であったが、多彩な彼女もシンカの部屋の窓と扉に細い氷の網を張ることで、出立を感知し、漏れなくついてくる事となった。


森の移動は遅かったが、流石に悪意の無い者を死ぬと分かっていて撒く事は出来ず、6人での帰郷とあいなった。


竹林を抜けた先、里の奥に聳える同胞達の居住区、千穴壁。

その威容を見たアクアとマルギッテは、それを見上げて口を開けて暫し凝視していた。


自らの故郷を見た他人が、その風景に感嘆するのは気分の良いものがある。

シンカは故郷を愛している。

ナウラ達のような家族となった者達もそうなってくれればと願ってやまない。


「待って。私はどこに住むの?上の方は嫌なんだけど」


「高い場所に空きが無いか、五老に聞いておいてやる」


「ほんとにやだっっ!」


にやりと嗤い里に足を踏み入れた。


「おおっ、シンカっ!帰ってきたか!」


「あらシンカだわ。ねえ、あたしの子供の事貰ってくれない?」


「私の子にしなさいよ」


「おい!俺の子供を弟子にしてくれないか?」


「おいっ!お前のところの子がいいなら俺の子も弟子にしたいぞ!」


四方から声を掛けられる。

全てを無視して家に向けて歩く。

家族にならば良いが、同胞とはいえ他人に束縛はされたく無い。


壁を見上げる。

知らせが耳に届いたのか、シンリを抱いたリンファ、シンジュを抱いたカヤテ、腹が目立ち始めたユタが此方を見ながら手を振っていた。


リン家を見上げれば、リクファ、カイナ、シャラが同じく手を振っている。


シンカは双方に軽く手を挙げて挨拶をした。


ここには自分の全てがある。


多くを亡くした。


兄代わり、姉代わりの同胞。

師。

幼い頃から可愛がってきた弟妹の様な同胞達。

親友。


家族だけは亡くさなかった。それは運が良かっただけだ。


シンカはこれから先も、最も大切な物を見失う事は無いだろう。


里での生活に想いを馳せるアクアとマルギッテを、居合わせたジュコウに任せて切り出された階段を登って家路を辿った。



その日、ファブニーラを発つ前にリンドウが言った様に、リン家で宴が開かれた。


シンカは妻5人とリンドウを連れてリン家に向かった。


シンカはふと、3年前に11年振りに帰郷し、この家で祝われた日の事を思い出した。

今となっては瑣末な理由で、シンカは里に帰る事を忌避していた。


御告げの魍魎を倒す為に里を出た折り、父と母達から貰った手紙を無くしてしまった事を思い出す。

シンカは家族に愛されていた。

それを疑った事は無いが、強く感じられたのは初めてだった。


子供が出来て、初めて分かった。

親は子を際限なく愛している。


だが、シンカは彼らの実の子では無い。

だから家族になれる様に幼いながら努力をして来たつもりだった。


その努力はきちんと伝わっていた。そうはっきりと理解することができた。

思えば14年前、18歳で里を出た時にはそれを確信する事が出来ていなかった。


仕方のない事だろう。

若く人生経験が足りていなかった。

自分の世界は手の届く周りにあるものが全てで、狭い世界の住人であった。


旅に出て、数多くの出会いと別れを経験し、自分より大切な物を得て、苦悩し、苦労し、苦心して33歳となった。


あの時より、自分の世界は広がった。


ヴィダードの瞳の様に澄んだ空。

棚引く秋の筋雲に、暮れ始めた暁色の日差しが投げかけられて、色付けていた。


心に何の重しも無く空を見上げるのは、果たしてどれくらい振りだろうかと考えた。

失恋の失意、戦争、同胞の死、里の襲撃、災厄。様々な出来事があった。

それこそ、里を出奔する以前以来かも知れない。


いつも通りのただの空。それでも、シンカには美しく見えた。

ただの空を自然に見上げられる事が、幸福の象徴なのかも知れないと思った。


リン家の扉は開き放たれていた。

騒々しい何時もの喧騒が漏れ聞こえてくる。

夏の暮れかけの日差しにかいた汗が、山から吹き下ろす温い風に撫でられて、家族の喧騒を風の吹く先に届けて行く。


扉の取手を撫でる。

昔は高く感じた取手。今はだいぶ低い。

そんな事を改めて感じた。


シンカは先頭で家に入る。


「お帰り」


柔らかい声で、笑顔で、リンレイが真っ先に口にした。


「…ただいま」


久しぶりにこの家に帰ってきた気がして、少し言葉を喉元で溜めおいてから口に出した。


シンカの挨拶を聞いてリンレイは笑みを更に深くした。


一月前に里に帰った時は、蜻蛉返りで同胞奪還のために里を出た。

父と母達に対しては、顔だけ出して碌に話しも出来なかった。


「大変だったね。少しゆっくり出来そうかい?」


シンカを責めるでも無く、リンレイはシンカを気遣う。


「10年寝たきりでも誰にも文句は言わせない程、働いたかな。糧は五老共に賄わせるか」


「はは。ご老体だから程々にね」


シンカの黒い冗談をリンレイはやんわりと流す。


話ながらシンカはリンレイのついた卓にかける。

妻達も同じ卓に陣取った。

リンドウも同じく席につく。


「そうだ。リンドウから聞いたよ。ナウラちゃん、シンカ、おめでとう。何かあったら直ぐに僕らを頼ってくれていいからね」


ナウラの懐胎についてリンドウが祝いの言葉を述べた。


その目尻に僅かに涙が浮いている事をシンカは目敏く見つけた。

何についての涙なのだろう。

懐胎の喜びか、或いはそれ以外か。


半々という気がした。


それからは雑談が続いた。


途中宴の支度かれカイナが抜け出てシンカ達の元までやって来ると、リンドウと視線を合わせて無言で帰っていった。


リンドウの好意について、シンカは気付いている。

それが男女間のものである事も。


襁褓も変えた事のある妹だ。

好意があると分かっていても、どうする事もできない。

しかし、可愛い妹だけに無碍にする事も出来ず、望むがままに連れ歩いていた。

彼女は昔の自分と似ている所がある。出不精なのだ。シンカに着いて様々な経験をする事は彼女の為にもなる。


年少の子供達が騒ぎながら宴の支度の駒遣いで騒々しく駆けずり回っている。


雑談をしている内に、次々とリン本家を出た弟妹、親族達がやって来る。


次々にシンカの所にやって来て、如何にして生き延びたのか尋ねて来る。


話さぬ訳にはいくまいと、宴が始まりいい気分になったら話すと皆に答えた。


そうこうしていると、支度を終えた母達が皆に指示を出して料理や酒を運ばせる。

全ての卓に料理と酒が潤沢に配られるとリンレイが立ち上がった。

皆口を閉じてリンレイを見上げた。


「皆んな、今日は集まってくれて有難う。この家の家長はリンブだけど、今日だけは僕に話させて欲しい。すまないね、リンブ」


穏やかに声を掛けられてリンブが首を振った。


「今日は僕の一番上の息子が無事に帰って来た祝いの席だ。お帰りシンカ。君がとても辛い試練を里の同胞や家族の為に乗り越え、こうして僕達の元に帰って来た事、僕は誇りに思う。お帰りシンカ」


親族達が拍手と共に口々にシンカにお帰りと告げる。


「リュギルでどんな事があったかはもう少し温まってから話して貰うとして、もう一つの慶事を伝えないといけない。シンカのお嫁さんのナウラちゃんが子供を身籠った。おめでとうナウラちゃん」


口々に祝われ、ナウラが慣れないのか眉をごく僅かに寄せながら、一見すると他者を隔絶する様な氷点下の表情で会釈して礼を述べた。


ナウラは生まれ故郷で家族や同胞と温かい関係を築く事が出来なかった。

だが、此処ではそうはならない。


森渡り達は狭量では無い。

富んでいて、他者に目を向ける余裕がある。

ならば、冷たいのは表情だけで、共感能力が高く平均以上の社交性を持つナウラが受け入れられない筈が無い。

まだ慣れなくとも、何れは里を故郷と認識してくれる筈だ。

いや、里が山渡りに襲われて涙を流していたナウラだ。

既に自分の故郷だと思ってくれているだろう。


宴が始まる。

皆勢いよく食事を頬張り、酒を流し込み始めた。


カヤテとリンファも久々の酒を早い調子で飲み始めた。

特にカヤテは妊娠中であった事と、出産後はシンカの訃報を聞き酒どころの精神状態ではなかった為、15月ぶりの飲酒となる。

一杯目を干す頃には既に顔が赤らんでいた。

アガド人特有の白い肌は赤みが目立つ。

子を抱きあやすカヤテを過去の誰が想像出来ただろうか。

今となっては彼女の鍛え上げられたと側からも分かる筋肉は、妊娠期間中になりを潜め、シンカ不在期間の心労が祟ってか、脂肪も落ちてしまい、一見すると色白の細い華奢な女性に代わってしまっていた。


シンジュは黒い髪に翡翠の瞳、肌は透き通る様に白く、アガド人グレンデル一族の特徴しか出ていないが、鼻や口元、目元などはシンカにそっくりだった。


尿を漏らしたシンジュの襁褓を替えようとカヤテが席を立とうとすると、今日はシンカ一家の為の宴だからと、弟妹達が変わってくれる。

よく母達から躾けられている様だ。


カヤテは子供を連れ出せる様になったらグレンデーラに赴き、ミトリアーレや父に顔見せしたいと言っている。


実家の柵から解放されて、伸び伸びと生きるようになったカヤテ。

これまで苦労した分、彼女の伸びやかな生活を守っていきたい。



リンファはカヤテ程ではないが、酒を飲んで酔いが回っている。

リンファの産んだシンリは、生後9ヶ月となり這い回る様になり、家族の食べている物に興味を示す様になった。


寝かし付け、大人だけで団欒していると這ってやって来たりもする。

好奇心が旺盛で誰に似たものかと考える。

母親に似て一言余計な男にならなければよいが。


リンファは当然と言えば当然だが、子供優先の女になった。

彼女は母親になったのだ。

家庭と子を守る一本の柱。

シンカを大黒柱として2本目の柱とでも言うべき2本目の柱の役割を自覚的に熟そうとしている様にも見える。


彼女は大人になったのだ。


自分が一番ではなくなったが、しかしシンカはその変化を寂しくも好ましく思う。

10代で別れて20代の終わりで再開し寄りを戻してから、彼女は10代の少女期の続きを始める様な挙動を取っていた。


それが子供が生まれてから急激に母親へと変わっていったのだ。

立場が人を変えるとはよく言うが、女は一年近くを掛けて妊娠で身体変化し、産みの苦しみと共に否応無く母親になっていくのだろう。


彼女が家に居れば、シンカは里に家族を残してどんな戦いにも赴けるのだ。



時間が過ぎていく。

酒を飲む者達は酔いが進み声が大きくなり、ただでさえ騒々しい家中が隣り同士で会話するのも困難な程に喧しくなっていく。


妊娠中だからか、ユタは口一杯に食べ物を詰め込み、栗鼠の様に膨らんだ口の中から少しづつ咀嚼し嚥下している。


まるで子供の様な食べ方だ。いつになっても変わらない。


本能に忠実で純真な彼女は、子を産んで変わっていくのだろうか。

落ち着いて欲しいと思う反面、彼女らしさを何時迄も見ていたいと思う。


彼女もまた、親族達と同様に御告げの魍魎との戦いがどの様なものであったか聞きたがっていた。

三肢と眼球を失い、また幾人かの同胞を失った戦いだ。

繊細な話題だとは考えないのだろうか。


そういう奔放さもまた彼女らしい。

食事に集中する愛らしい姿を身納めると、シンカは立ち上がった。


場も温まった。

あまり思い出したいとは思わないが、あの場であった出来事を話しておいた方がいいだろう。


人に話すのはこれを最後とし、書に纏めて書館に納めれば後は知りたい者が勝手に読むだろう。

森渡りの義務としても書籍化は必須だ。


そうしてシンカは語り出す。

里を出て、白山脈の中腹を縦走し、クウハンを看取った事。


彼の挺身と家族への愛。


斃れ伏す同胞の亡骸。


痕跡辿り、魍魎の正体を考察し、崖に辿り着く。

巣穴に踏み入り、そして実父母の亡骸を見つけた事。


彼等の遺物の中にシンカの瞳の色の珠が入っていた事。故ヴァルド王朝から伝わる失われた剣を見つけた事。


そして奴がやって来た。


大樹を引き抜きひと薙ぎすれば、全てが吹き飛ばされ、地は捲れ上がり、シンカもただ吹き飛ばされた。


肌は翅すら通さず、同じ場所を何度も斬り、少しずつ傷口を広げてた。


腕を掴まれて握り潰され、脚を吹き飛ばされ、それでも尚抗った孤独な戦い。


妻と子を、親と弟妹を思い心を奮い立たせた事は胸に秘め、シンカは静かに、しかし滔々と語った。


だが、その戦いの壮絶さに年若い弟妹達は青ざめ、中には泣き出す者もいた。


武器を駆使し、破損させながらも傷を積み重ね、残る腕と肺を引き換えに致命傷を負わせた。


だが、隙を突かれて首を掴まれた事。


あわやという所でヤカが鬼の目を潰し、その隙に自身も目や臓器を損傷しながらも鬼に行法を行い逃れた事。


ヤカが死んでしまったと思った事。


そして、光を失いながらも留めを刺した事。


この記憶は未だに痛みや苦しみを伴う。


孤独と恐怖、絶望と苦痛。


若者達が森の恐ろしさを忘れぬ様に伝える。


天を覆う森の枝葉や巨大な樹々の呼気の重さと、立ち塞がる魍魎の強大さが伝わる様に伝えた。


光を失った世界の中に迫る怒涛の地響きと、牛鬼の雄叫び。

ヤカを癒し、シンカは最期まで諦めるものかと這いずり、無我夢中、五里霧中で抗い続け、忘我の先に気付けば1人川べりで倒れていた。

喉は嗄れた声しか出せず、仲間も呼べず、二の腕までしか残らぬ腕に氷の氷の手を生やし、義足を作り、止血をして盲目のまま川下へと向かった事。


商隊と遭遇し、行法が使える事を示して荷台に乗せてもらい、到頭ナウラと再会した事。


そこまでの話しを皆に披露した。


皆を見遣る。


皆口を閉ざし、その壮絶な体験談を脳内で再現し、反芻している様だった。


リンレイは目を閉じ、鼻根を抑えて呻吟していた。


ナウラは静かに涙を流しており、リンファとカヤテは弟妹と同様閉口している。


ユタはまるで英雄を見るかの様に目を輝かせていた。


静けさが広がる広い居間で、ヴィダードだけが穴が開くほど、瞬きすらせずにシンカを見つめていた。

何時もの事だ。しかしその当たり前が、当たり前では無いことをつい最近まで実体験として学んでいた。


後悔の残る選択をしてきた事はない。


それでも失われる時は失われてしまう。


ヴィダードはこれから何を為すのだろう。


思えば彼女は初めて出会ってから随分と真っ当になった。

育った家庭環境には何ら問題の無い割に、偏向的な大人となったのは本人の資質によるものなのか。


人は何時からでも変われるという事実を体現した様に、シンカと出会い、契ってからは次第に性格の角が取れて幾分か丸みを帯びた性格に変わりつつある。


シンカのいぬ間に弟子を取り、短期間といえど育てた事もその最たる成果だ。


数年前のシンカであれば信じなかっただろう。


まだ孕んではいないが、子を産み更に変わるのか。

先行きが楽しみになる変化だった。


男や女、子が出来て変わる者はそれなりに存在する。

ヴィダードもその口だったという事なのだろう。


ナウラが孕み、精霊の民とも子が作れる事が分かった以上、ヴィダードとの間にも直に子が出来るのだろう。


元々シンカは、ヴィダードには子を産む事に執着が無いと思っていたが、シンカが失踪している間にその気持ちも大きく変わった様で、今後の夜の予定もしっかりと押さえられていた。


妻が何人いようと、女が自分との子を望んでくれる事は喜ばしかった。


きっとそうやってヴィダードは変わっていくのだ。


数年後にはあのヴィダードが、他の女達とさして変わらぬ性格に丸く変化して埋没していくのだろう。


それは嬉しくもあり、寂しくもあった。


シンカと目が合ったヴィダードが立ち上がる。


歌を歌うのだろう。


シンカの親族達は皆彼女の歌が好きだ。


ヴィダードは皆の前で椅子に腰掛けたシンカの肩を撫でる。

何を望んでいるかは森渡りで無くとも分かる。


ヴィダードが歌いたい曲は分かっている。


ヴィダードはシンカの隣に立ち、シンカの目を見つめた。


六弦琴を親族に渡される。

シンカは首を振る。

欲しいのは提琴だ。

壁に掛かっている提琴を指差した。


近くにいたリンコウが壁から外して渡してくれる。


立ち上がり、提琴の顎当てで本体を抑え、指板に手を添える。

弓を持ち、音の確認をしながら糸巻きで調節していく。


音程が合うと、ヴィダードの目を見返した。


互いに頷きすらしない。


始まりは同時に。

シンカはヴィダードの声と旋律を妨げぬ様、繊細に弓を動かし始めた。


我が精霊よ 我が叫びの声を聞き給へ 我は祈りし者なり

我が精霊よ 我は悪しき者を滅ぼし (かたき)永久(とこしえ)に絶えて滅ぶ

我が精霊よ 我が魂は去らずあり 我が足は地を踏む

我が愛よ その唇は祈りを紡ぎ その舌は愛を歌う

我が愛よ 祈りの丘で(えにし)を紡ぎ 祝いの歌で愛を寿(ことほ)

我が愛よ 無償の愛よ 我は求める者なり

千の日を超え 分つ事は(がた)

正しさで道を照らし 手を取り歩け

純潔であれ 英明であれ 精強であれ

導かれよ


シンカがヴィダードに向けて作った譜。

そこに彼女が音を当てた歌だ。


静かな繊細に喉を震わせ音を揺らす。

今にも途切れてしまいそうな繊細さと、芯を走る滑らかな張りのある声が混ざった、神聖さすら感じる声音だった。


シンカはヴィダードが作った旋律を支える伴奏を提琴で奏でた。


この歌詞がシンカがヴィダードに向けて作ったものだと知る者が、この中にどれ程居るのだろうか。


意味は分からなかっただろう。


シンカは恥ずかしさを押し殺し、一曲を奏で終えた。


この曲は実質、シンカがヴィダードに向けて彼女への愛を歌ったものだからだ。


ヴィダードが歌い終え、シンカの伴奏が終わると拍手が起こる。


シンカの恐ろしい体験談で冷えていた空気は、この一曲で根こそぎかき消えた。

皆はヴィダードの一挙手一投足一呼吸に注目している。


2曲目だ。


何を歌いたいか、次も分かっている。

ファブニーラで散々聞かされたのだ。シンカの演奏の仕方にまで指摘を受けている。

彼女の歌に対する拘りは強い。


排他的だったヴィダードだが、歌に関してだけは他者に如何に聴こえるかを意識している。

それは歌を愛するイーヴァルンの民としての誇りなのだろう。


次の曲は、森渡りに贈る曲だ。


(わたくし)が皆さんの為に作りました」


親族達が小さく感嘆の声を上げ、響めきが起こった。


シンカは息を吐く。

曲調はファブニーラ北方特有の明るく転調の激しい物で、提琴で奏でる音も、ヴィダードが歌う旋律を先導する昇降の激しい物で技術を要するし、失敗すれば目立ってしまう。


しっかりと提琴を構え直し、再びヴィダードに視線を送った。


合図は無い。


今度はシンカの演奏から始まる曲だ。

弦を抑え、弓を当て、一息に奏で始めた。



遥遠い場所 誰が待つとも知れぬ街


川が流れるように 我等を留める事はできない。


続く道を踏み締め 時に道なき道を歩み 


見留めた記憶を繋ぎ 故郷は色褪せず心に残り続ける


如何なる怯えも彼等を妨げる事はできない


如何なる壁も彼等を留める事はできない


歴史と命を背負い彼等は命の証を刻んでいく



途切れぬ空 待ち構える山々 


季節が駆けるように 我等を留める事はできない


誰も行かぬ道を探し 地図を埋めて歩き続け


幾年を越えて不滅で 友を想う心は幾夜を越えて麗しい


如何なる夢も彼等を堕落させる事はできない


如何なる針も彼等を傷付ける事はできない




ヴィダードは時に陽気に、時に力強く、強い旋律を涼やかな声で歌い終えた。


共に演奏したシンカですら涙ぐんでいた。


彼女の森渡りに対する強い想いが歌声と歌詞を通じて伝わってきた。


森渡りの通念や同胞と里に対する想いが伝わり、これまでの苦労を思い起こさせた。


見遣ると親族達も涙ぐんでいる者が殆どだった。

明るい曲にも関わらず、皆が感極まっていた。


この旋律と歌詞で涙を誘う事の出来るヴィダードの歌唱力に対し、凄絶さを改めて認識した。


遅れて先と比べ激しい拍手が起こった。


ヴィダードは無表情だったが、拍手の激しさに歌に対する矜持が保たれたのか、いつもより薄い胸を張っていた。



3曲目、最後の曲


シンカは六弦琴に持ち替え、調律を始める。


ヴィダードは目を瞑り身体を揺らしている。

歌い方を考えているのだろう。

歌は何時も同じ様に歌えばいいという訳では無い……らしい。


その時の空気。時には聴衆の腹具合まで考えて歌い方を変えなければ心には響かないらしい。


到底真似できるものではない。

シンカも弦楽器の扱いにはそこそこ自信があるが、如何に上手く曲を奏でても人を涙させる事は出来ない。


親族達が揺れるヴィダードの事を静かに見守る。


軈て物音が全く無くなると、ヴィダードは目を開きシンカを見つめた。


三曲目は最近クサビナの大都市で流行っている歌謡と呼ばれる音楽だ。


歌謡は従来の伝統音楽から外れた音楽で、作曲者が思い思いの旋律や歌詞を作り自ら、または歌の上手い者に歌わせる音楽である。


総じて強い主張性が歌詞に含まれており、旋律も耳慣れず目新しく、人気があった。


歌謡に影響を受けてヴィダードが自作した曲。


「聴いてくれるかしらぁ……夕の薄明…」


ヴィダードが曲名を告げ、すっと息を吸う音が聞こえる。

合わせてシンカはとても静かに一音目を鳴らした。




涙の雨に凍える日々 歪な視界に躓く苛立ち

昨日の事も思い出せない 思い出すのはあなたの事ばかり


あなたとの思い出は吹き去った風のよう

掻き消えないよう必死に記憶を辿る


あなたの気配を拭うように春が過ぎ夏が来る

あなたは隣にいないのに私は進まなければいけないの?


支えを探して記憶を手繰り記憶を手繰ってまた傷付く


私の世界は壊れかけで今にも崩れ落ちそう

もう壊れてしまいたい 誰か私を助けて 


記憶は針のようで 触れるたびに傷が増える

風よ、もう吹かないで 記憶が黄昏の雲の様に流れてしまう


私は今きっと息をしてない もう私は息をできない

心は割れた器の様に歪で でも愛はまだ零れ落ちない


夢でもいいから会いに来て 私はまだここにいるから

夢でもいいから会いに来て 私の望みはそれだけ


夢でもいいから会いに行く 何度でも会いに行く

夢でもいいから会いに行く 目覚めるまで離れない


もしもそこにいるなら どうか声をかけて

もしも見守っているなら お願い私に触れて


夢でもいいから会いに来て 私を置いていかないで

夢でもいいから会いに来て あなたの腕の中の夢を見る


夢でもいいから会いに行く つぎはぎだらけの心を埋めに

夢でもいいから会いに行く 温もりを思い出しに



冒頭は静かに。淑やかに降る霧雨の様に。

曲が進むにつれその声音を強くしていく。

雨足が強くなる様に、悲しみが深くなる様に、泣き声が激しくなる様に。


併せてシンカも六弦琴の演奏を激しい物へと変えていく。

ヴィダードの歌声と曲の繊細な旋律を犯さぬ様に、弦を激しく掻き鳴らすのではなく、一音一音に感情を込め、丁寧に強く弾く。


曲の一番の盛り上がりは、普段のヴィダードからは想像できない、張り詰めた、まるで叫ぶ様な声で歌い上げられる。

しかし、透き通った声は声を張る事で艶が出ており耳障りにはならない。

強い感情が透き通り、艶のある声に乗って聴衆の耳から入り込み心を打つ。

凄まじい技術。

自分の声質から、声の震え、張り、音程の切り替え、音階の上げ下げ、仕草までも。

曲のどの場面でどの様な技術を使えば、その歌がより上手く聞こえ、感情が乗るのかヴィダードは知り尽くしているのだ。


男も女もその歌に心を打たれて涙を流していた。

誰もが誰かを失っている。

いなくなった誰かを偲び想う歌だ。

耳に残る旋律と心に刺さる歌詞。


ヴィダードはシンカの肩に手を置いて静かに頭を下げた。


彼女は全身から汗を流し、肩で息をしていた。


文字通り魂を吹き込んだ様だった。


余韻に皆が沈黙し、物音一つ立たない時間が続いた。


決して嫌な沈黙ではない。


ここにいる皆に愛する者がいる。

愛する者を失わぬ様、或いは失って後悔しない様にしなければと強く思わされていた。


その後は静かに宴の時間が過ぎていった。

皆がしっとりと、家族と会話し、同じ時間を歩める奇跡に感謝しながら宴が終わった。


妙な充実感がシンカの胸中に残っていた。


夜が更け始め、子連れの者から宴を辞し始める。

シンカも子持ちで、家族に妊婦もいる。

皆に宴の礼を告げ、宴を辞そうとした。


「シンカ。少し話したい。時間を貰えるかな?」


リンレイに声を掛けられた。

視線を妻達に送ると何人かが頷いてくれる。


先に家に帰って貰い、シンカはリン家の奥に向かうリンレイの後に着いて行った。


家族の多いリン家は千穴壁の奥まで横穴が掘り進められており、暫く歩きリンレイとその妻達の寝室に辿り着いた。


あまりシンカが入った事の無い部屋だ。


ここに最後に入ったのは、いつだったか。カイナがリンドウを産んだ後だったか。

あまり覚えていない。


円形の広い部屋で、6つの寝台が脚を中心に向ける形で均一に並んでいる。


入り口と反対側にもう一つ扉がある。

用途は述べるまでも無い。


6つの寝台の内、5つに人が座っている。

リクファ、センコウ、クウル、カイナ、シャラだ。


これから何を言われるのか。

シンカは胸中で不安に思った。


リンレイが振り向く。


中央の6人がけだが小さめの円卓についた。

左隣の椅子を引き、シンカに勧めた。


シンカは黙って椅子に座る。


リンレイはそんなシンカの様子を隣でじっと見ていた。


「……よく、戻って来てくれたね」


第一声はそんな温かい者だった。


「宴で披露してくれた話。あんな目に遭って、本当に…本当に、よく帰って来てくれたっ」


リンレイは泣いていた。


シンカの肩を抱き、歯を食い縛り、静かに泣いていた。


ああ。またか。


ぼんやりそんな事を思う。


自分の選択が、周囲の人間をどれ程苦しめていたのか。


自己犠牲に酔っていたつもりはない。それでも、苦しめたのだ。


「…シンカ……」


背後からリクファがやって来て、シンカの頭を撫でた。

時折り癖毛が指に引っ掛かり、僅かな痛みを与える。


懐かしい感触。


「辛かったわね」


リクファのその言葉を聞いた瞬間、シンカは咄嗟に顔を伏せた。


目頭が熱い。気付けば涙が溢れていた。


「…夢を見たんだ…。あれは、御告げだった。1人で行かなければ、ならなかったんだっ!…行きたくなかった!俺だって!死にたくないっ!」


「あんたはよくやったよ。本当に、誇りに思うよ。でも、私達からすれば、それであんたが1人で傷付いていい理由にはならないんだよ」


クウルが続ける。

その言葉にシンカはくしゃりと顔を歪めた。


「なんで俺ばかり!これ程苦しむ様な!悪行を行った覚えは無いっ!何故俺なんだ!何故っ」


分かっている。

自分より不幸な目に遭っている者は蟻の数程存在するはず。

自分より多くを失った者も、長く苦痛を味わった者も。


それでも、やはりシンカの数年は過酷であった。

心身共に傷ついて来た。


妻達にも殆ど見せる事の出来なかった泣き言が、両親の前で溢れていた。


リンレイはシンカの血の滲むような苦悶の声を聞き胸を押さえた。


幼少の頃から自立した自我を持ち、己の目標を定め、出来うる限りを自分で行おうとする子供だった。


悔し涙なら幾度も見て来た。


だが、弱さ見せる事は無かったのだ。


一度たりとも無かったのだ。


そのシンカが、リンレイ達に弱みを見せて苦悶の声を上げ、涙を流していた。


どれ程辛かったのか。慮る事はできても、共感する事は出来なかった。


内乱でも、里の襲撃でも率先して矢面に立ち、味方を鼓舞して戦って来たシンカ。

泣き言一つ言わずに家族を、里を守る為に戦って来た彼が、内心どれ程傷付き、苦悩して来たか、シンカを持て囃す里の者達は一度でも考えた事があっただろうか?

リンレイ自身、シンカの苦悩を理解しようとして来ただろうか?


「すまないっ!すまないシンカっ!」


リンレイはシンカを強く抱きしめ、涙を流しながらそう謝罪した。


これ程の後悔を抱いた事は無かった。


今でも思い出す。

御告げの魍魎を倒す為に片手を上げ、背を向けて森の影に吸い込まれる様に消えていくシンカの姿を。

あの時、あの光景はリンレイには二度とシンカが帰って来る事が無いという暗示の様に見て取れてしまっていた。


止める事が出来ない己の不甲斐なさと、任せる事しか出来ない己の不甲斐なさを今も強く覚えている。


今シンカを両の腕で抱く事ができるのは正しく奇跡の賜物でしか無い。


「…大切な、息子なんだっ!ありがとう!ありがとう帰って来てくれて!里を守ってくれて!家族を守ってくれて!君を愛しているんだ!」


シンカは呆けた様にリンレイに抱かれたまま、虚空を見つめていた。


「すまなかったっ!君に全てを背負わせて!君の傷を見ようとしなくて!本当にすまないっ!もう居なくならないでくれっ!」


リンレイの背に手が回される。


優しい子だ。


それがシンカの赦しだとリンレイは理解した。


「…これまで……本当に苦しかったんだ…父さん…」


カイナが寄って来てシンカの背中に手を当てた。


「後悔した事は無いよ。自分で考えて選んで来た道だ。皆が幸せなら、俺はどんなに傷付いてもいいと思っていた。……でも、そうじゃ無い事が分かった。俺が傷付けば、皆も傷付くんだろ?」


「君は頭がいいのに、そんな当たり前な事にやっと気付いたのかい?」


リンレイはシンカの肩を抱いたまま茶化す様に口にした。


「ねえシンカ…僕は、僕達は、ちゃんと君の親をできていたかい?」


リンレイはシンカから否定の言葉が返ってくるとは考えていなかったが、それでも恐る恐るそう口に出した。


シンカは僅かな間の後、未だ目尻に涙を溜めたまま、柔らかく微笑して口を開いた。


「愛してくれてありがとう」




長くなりましたが、外話もこれにて完結です。

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― 新着の感想 ―
[一言] お疲れ様でした。 長く、永く、心に生き続ける物語です。
[良い点] 本当の親子ではないが故の葛藤と遠慮がお互いにあったのかな。 最後の場面でそこが打ち解けていく場面が印象的でした。 登場人物の内面の成長と変化がよく伝わりました。 [一言] お疲れ様です。 …
[一言] お疲れ様でした。長い旅、素晴らしかったです!
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