びだあどのぼうけん 後
ひと騒動を終えたシンカ一行は暁光が細く差す中、死体を乗り越えてファブニーラを目指した。
今回の騒動、後の事は全てグレンデル一族がどうにかするだろう。
これ以上は関わる事すら不愉快な事件には背を向け、里に帰還する前に休息期間を設ける事とした。
内乱のどさくさに紛れて姿を消していたヴァルプルガ・マクロリー卿は、早々に恋人と連れ添ってケツァルへと向かった。
敬愛する亡き父が腐心した、善きクサビナを目指す為に今の王政府に力を貸すのだと、彼は言葉少なく語った。
それが誰の事なのかシンカには分からない。
前王の死と共に早くも腐り落ちようとする様を目の当たりにして、思う所が有ったのだろう。
険しい道になるのだろう。だが彼の隣には彼を支える恋人がいる。
彼女がいる限り、彼は進み続ける事ができるだろう。
イグマエア・ファブルというファブニル一族の男は寂れたファブニーラに定住する事を決めた様だった。
ファブニーラは先の内乱で多くのファブニル一族が戦死し、放棄された家屋が目立った。
領都を含む領地はエリンドゥイル一族が管理をしているが、目は行き届いていない様で、治安の悪さが見て取れた。
イグマエアは一族に声を掛けて組織だった治安維持活動を始めると言う。
イグマエアは命と尊厳を保って貰った礼にと酒宴を催した。
口は悪いが気のいい男だ。
3人も妻を娶るだけの気量はあるということか。
酒宴の席でシンカは彼らの事を詳しく聞いた。
戦場で森渡りと敵対した事。
多くの同胞を失ったのは、グレンデル一族の所為ではなくファブニル上層部の所為と考えている事。
ミラビリスという女が病的にイグマエアを敬愛している事。
ディギータという女は口ではイグマエアを茶化すが、距離感やふとした時分での接触、顔を盗み見る回数からかなりの好意を持っている事。
ユーリスという女は周囲の勘違いでいつの間にかついでで結婚していた事。
酔いが進むにつれ下世話な話しに移行し、最終的にはイグマエアとユーリスの奇妙な枕事情まで及び、一同泥酔して宴は終わった。
ヴィダードの兄カリムとその妻ジャミーラ、イーナース、ガザーラにファラとシラー、ヴィダードの弟子3人はトウリュウ、スイキョウ、ヨウミン達十指の他、森渡り達に連れられて一足先に里を目指す事になった。
カリムはかねてより心待ちにしていた森渡りの書館に漸く赴ける事に興奮しながら旅立っていった。
シンカの脳裏に彼が書館に篭り切り、寝食を疎かにする光景が浮かび離れなかった。
恐らくその通りになるのだろう。
ヴィダードとシンカの義姉の苦労が目に浮かぶ。
最後にシンカはナウラに大切な話があるので2、3日ファブニーラに留まって欲しいと言われ、皆を見送る形となっていた。
シンカ、ナウラ、ヴィダードの3人がファブニーラに留まるにあたり、リンドウはまだしも元黄迫軍鬼火隊のマルギッテと故ヴィティア王国出身の白激アクアまでもがファブニーラに残った。
鬱陶しく絡んでくるマルギッテとシンカに集るアクアにうんざりしていたが、数日の事と目を瞑っていた。
カリム達が旅立った日の晩、シンカ達はイグマエアに紹介して貰った静かな半個室のある酒場で顔を合わせていた。
円卓でシンカの右がヴィダード、左がナウラ。正面にリンドウ。リンドウの右にアクア、左にマルギッテが座っている。
「……シンカ。大事な話があると伝えた筈ですが、何故金の亡者と変質者が居るのですか?」
不機嫌そうに砂粒程眉を寄せてナウラが辛辣に告げた。
「酷い。白眼女に乙女の肌を傷付けられたから責任取って貰ってるだけ」
「でしたらその傷を私が治します。これで今生の別れという事で問題ないでしょうか?」
「…考えたけど、傷を治すよりもこいつに金出させる方が利益が大きいから治さなくていい」
「ナウラ。放っておけ。置いて行けばいい」
「無駄。逃がさない。あ、勘違いしないで。私は女垂らしは嫌いだからその男に興味はない。顔も好みじゃないし」
無礼なアクアの発言を聞き、そろそろ殺そうかシンカが考えていると、敏感に空気を読み取ったアクアがじっとりと汗をかき始めた。
「嘘です御免なさい。食い扶持が無いので養って下さい。できる事ならなんでもします。身体は御免なさい」
「シンカは貴女のような貧相な女に欲情する程飢えていません」
ナウラがそう言うとアクアは下卑た愛想笑いを浮かべつつちらりとヴィダードに視線を送った。
呆れたナウラは閉口して今度はマルギッテに視線を向ける。
「それで?貴女はいつまで私達に纏わりつくのですか?」
「ずっとですナウラ姐様。私はシンカ様に嫁ぐ為に生まれて来たんですから。シンカ様は色々な美しい女性を娶っていますが、私みたいな赤毛の美少女はまだ娶っていないでしょう?如何ですか?」
比較的下衆な発言と共ににこりと可憐に微笑む。
「いや、要ら」
「それにっ!私はアクアさんと違い、シンカ様のご家族とも良好な関係が築けます!それに伺ったお話しですと、赤子や妊婦がご自宅には居られるとか!私、下に弟妹も居ましたのでお世話もお任せ下さい!如何ですか?」
「だから、要ら」
「それにですねっ!私、ご存知の通り腕もそれなりに立ちますっ!この集り屋アクアも追い払って見せましょう!」
「ふむ、それは一考の余地があるな」
「裏切り良く無いっ!彼奴を一緒に探した友人でしょ!」
「シンカっ!巫山戯ないで下さい!」
「はい。御免なさい」
シンカはナウラに怒られる。
右腕に張り付いたヴィダードとリンドウが甲斐甲斐しく料理と酒を楽んでいる。
昨夜は離れていた時間を取り戻すようにヴィダードと過ごした。
ゆっくりと長い時間をかけて身体を求めあい、疲労させて意識を奪う事で漸く握り続けるシンカの切断された腕の骨を没収し、粉砕して捨て去る事に成功した。
骨の代わりにシンカの腕にしがみ付く事は許容しなければならないだろう。
シンカがリュギル王国のケルレスカンからヴィダードに向けて送った譜は、結局彼女には伝わっておらず、シンカは悲しい気持ちになった。
我が精霊よ 我が叫びの声を聞き給へ 我は祈りし者なり
我が精霊よ 我は悪しき者を滅ぼし 敵は永久に絶えて滅ぶ
我が精霊よ 我が魂は去らずあり 我が足は地を踏む
我が愛よ その唇は祈りを紡ぎ その舌は愛を歌う
我が愛よ 祈りの丘で縁を紡ぎ 祝いの歌で愛を寿ぐ
我が愛よ 無償の愛よ 我は求める者なり
千の日を超え 分つ事は難し
正しさで道を照らし 手を取り歩け
純潔であれ 英明であれ 精強であれ
導かれよ
意訳すれば、敵を倒したから帰るよ。里で会おうね。という内容だったのだが、酔った状態で作った為難解になってしまったらしい。
酔っていた為にリンレイを騙って全通を行なってしまったが、問題は無いだろう。
五老の糞爺共には説教を食うかも知れないが、あれだけの個人的な労力と犠牲を払ったのだから、父名義で家族への連絡を行うくらい許されて然るべきだ。
頼んだ飲み物が配膳される。
シンカは何時も通り、初めの一杯は麦酒である。
クサビナは小麦の収穫量が他地方と比較して多い為、麦酒の種類が多い。
ファブニル地方もその例からは漏れず、酒場で提供可能な麦酒の種類が多くシンカは己の体調を鑑みて3杯目までの目算を既に立てていた。
その時、シンカは衝撃的な光景を目にして愕然とした。
知らず目を見開き、口を半開きにしていた。
ナウラが野酸塊の果汁を絞って水で割ったものが入った杯を握っていたのだ。
酒精が含まれていないのは嗅覚で分かる。
「…ナウラ……いや、何者だ?」
ナウラが酒を飲まないなどあり得ない事だ。
であれば目の前の女はナウラの偽物。
「巫山戯ないで下さい」
シンカは目を細め、ナウラを見る。
臭い。体格。仕草。全てが目の前の人物がナウラであると告げていた。
「今日時間を頂いたのはこの話をする為です。……実は、月の道が予定より2周ほど遅れています。既に身体に微細な変化を感じています。なのでお酒も控える事にしたのです」
「…まさか」
シンカはナウラに顔を寄せて匂いを嗅ぐ。
「…下品な真似は辞めてください」
体臭の変化はまだ感じられない。
シンカの頭を押しやったナウラは自身の腹部に手を当てた。
「……そうか………」
右手に握っていた杯を口元に運び、一気に飲み干す。
「………そうかぁ………」
時期からして心当たりはある。
再会を果たし、ケルレスカンでシンカは激しくナウラを抱いた。
時期から考えてその時に受精していても違和感はない。
ナウラやヴィダードとの間に子は出来ないかも知れないと考えていた。
そうでは無かったらしい。
不思議な安堵感と幸福感がシンカの胸中に去来した。
遅れて嬉しさが込み上げてくる。
ナウラはシンカを伺う様な素振りはない。
彼女は精霊の民。その中でも生涯1人の伴侶を定めて連れ添う特殊な生態を持つエンディラの民だ。
伴侶との間に出来た子供が拒絶されるなど、思い付きもしないのだろう。
シンカはナウラの頭を左手で撫でる。
「これから忙しくなるが、家族で乗り越えよう」
口にする。
「…うっ、シンカ様…笑うと、男前…」
「…まあ…ちょっとはいい男?かも?」
「兄さん、おめでとうございます。義姉さんも。里に帰ったら実家で色々とお祝いをしてもらいましょう!」
和やかな空気の中、シンカは右側に視線を向けないように努めていた。
ヴィダードが穴が開くほどシンカに視線を送っている事が分かっていたからだ。
「ヴィー。お先に失礼します」
そんなヴィダードをナウラが挑発した。
いや、一見そう捉えられるが、違うのだろう。
ナウラは他人には判別が付かない程度で微笑していた。
自分が大丈夫だったのだから、ヴィダードも大丈夫。
そう伝えたかったに違いない。
「貴方さまぁ?」
「……はい、何でしょうか?」
「行きましょお?」
「……はい」
空の杯片手に、女に連れ去られる男の姿がそこあった。
この男が、多くの魍魎を率いて大陸全土に殺戮の災禍を齎し、人類を滅ぼす筈であった三千余年を生きた朱顔鋼鬼を単独で討ち果たした、人類の英雄であると看破出来る者は、誰1人として存在しなかったであろう。




