びだあどのぼうけん 急-逃避
宵闇の中、路を着の身着のままの女達が駆けていた。
イーヴァルンの民、ダゴタの民、リュギル人、クサビナ人、ラクサス人、森渡り。
出自は様々だったが、皆一様に必死に路を辿り、北東を目指していた。
一行はケツァル出身の女達から目を逸らす為、彼女らを家に向かわせた後、ケツァル北の門を突破して、ケツァル郊外を東に進み、北東のバラドゥーラ方面へと急いでいた。
「何で貴女達もついてくるのぉ?」
ヴィダードは憎々しげに白激アクアを睨みつつ聞く。
「結論は出たはず。グレンデーラやエリンドゥイラには向かえない。嫌ならそっちがどっかいって」
逃走にあたり北東を目指したのには理由がある。
人攫いに協力している正規軍は青鈴軍や赤鋼軍では無い。
グレンデル一族やエリンドゥイル一族が関与していないとなると、彼等に知られる事を1番に恐れる筈だ。
内乱を終えた今や二公に逆らえる勢力は存在しない。
彼等に企みがばれれば、黒幕はその一族ごと終焉を迎える事になる。
だからこそ、グレンデーラ及びエリンドゥイラ方面には網を張っていると想定し、グレンデーラに向かう門を破り、北東に進路を取ったのだ。
ヴィダード、ガンレイ、ジュリの3人だけであれば森の中を進む事も出来たが、ヴィダードの弟子3人やその他の同行者は深い森歩きに慣れていない。
イーヴァルンの民達も夜間の移動は難しいだろう。
「キキキキキッキキッ…………だめ。この近くに同胞は居ないみたい。もう少し進まないと」
ガンレイが伝達を行うが返答が帰ってこない。
進むしか無かった。
「師匠!何処まで走るんですか?!」
消耗の激しいオテロを支えながらトゥスが尋ねる。
「ずっと北東よ。途中の村や町にも寄れないわぁ」
致命傷から回復したばかりのオテロは、体力の消耗激しく、また薬の副作用により大量の発汗をしていた。
「……どうして、こんな事になるんだ。糞。俺達はただ穏やかに過ごしたかっただけなのに…」
イグマエアと名乗るファブニル一族の男が嘆いた。
「あんたらの一族が欲に目が眩んで戦争を起こすから国内が荒れてるんでしょ!」
ガンレイが鋭く刺す様に詰る。
「貴女に何がわかるのですか!」
ミラビリスと名乗る女がガンレイに反論する。
「私も参戦したからね。分かるよ。あんたらがグレンデルに戦争を仕掛けた。何か反論は?」
「……皆が参加したくて戦争に参加したと思わないで頂きたいです。私達は上層部が決めた方針には逆らえないのですから」
「ふうん。じゃあ兵士なんて辞めればよかったじゃん」
「私達は、故郷を外国から守る為に兵士になりました。まさか、同じ国の中で戦うとは考えても居ませんでした」
「それは逃げでしょ。あんたらファブニルはグレンデルの事を憎んでるんだから、可能性はあったでしょ?」
「グレンデルとファブニルが争うなんて、建国から千年無かったのですから、想定は難しいです」
「だったらあんたはグレンデルと仲良くできるわけ?」
ガンレイは意地悪く嗤う。
だがミラビリスはガンレイの挑発には乗らなかった。
「ええ。今の私達は、多くの人間を巻き込み、滅びつつあるファブニルこそが憎い…」
「ふうん。じゃあそこの鬼火隊出身のマルギッテは?」
小走りで進みながら後方のマルギッテをガンレイは指差した。
「鬼火隊!?」
強く反応したのはミラビリスではなくディギータだった。
ファブニル一族の中で、鬼火隊の名は悪い意味で名高い。
他領での秘密活動から一族内の粛清まで幅広く暗躍した部隊だ。
恐怖心は根強い筈だ。
「私、戦争の途中で鬼火隊は抜けてグレンデルに亡命したし、入ったばかりで酷い事なんてしてないから恨まれる言われは無いです。まあ正直、身内だったけど、オードラ隊長やベルコーサさん達のやってる事は気持ち悪いなって思ってたから気持ちは分かるよ。配属されたから私も仕方なかったって事は分かって欲しいな」
本人にとってはそれが真実でも、受け入れられない者もいるだろう。
「…私にとっては、鬼火隊だろうと関係ありません。許せないのはファブニルという名を持つ本家筋でしょう。イグマエア様をあれ程傷付けて…」
「ミラ、辞めろ。俺達は戦争や諍いとは離れて生きると決めたんだ。誰かを恨んでいる余裕はない。まぁ、早速巻き込まれている訳だが」
「…私が、貴方達黄迫軍と敵対した黒尽くめでも?」
ガンレイが殺気を撒き散らし始める。
隣でジュリがガンレイの裾を引き諌めているが既に言葉は発されてしまった。
「何だとっ!?」
戦時中、黒尽くめの行兵である森渡り達は黄迫軍を多く殺した。
その中にはイグマエアの部下も多く含まれた。
ガンレイは潜在的な敵対者を今炙り出してしまおうと考えているのだろう。
ヴィダードは様子を注意深く窺う。
いざとなったらガンレイに凶刃が向く前に自分が矢を射る。
1番腕が立つのはイグマエアという男だ。
次いでミラビリスとユーリス。次にオランシス 。
ディギータは純粋な行兵と思われる。
イグマエアの首を振り返り様に射抜き、直ぐに月槌で残る4人を地面と同化させてやれば良い。
だが、イグマエアは剣を抜かなかった。
「ふん。腰抜けか?」
「…いや。禍根は先の戦争で断たれた。もう終わったんだ。そっちだって、死んだんだろ?」
「……」
ガンレイは鼻で短く息を吐き、殺気を収めた。
しかしガンレイが殺気を収めても警戒を解いていない事はヴィダードには分かった。
「それに、そっちの姐さんには助けてもらった。姐さんの許可が無ければ抜かねぇよ」
「では、許可するわぁ」
一見して無責任な対応をする。
ヴィダードもガンレイと考え方は変わり無い。
敵になるなら先に殺すべきだ。
だが、害意が無い者を殺す程道徳心は捨てていなかった。
「いや、辞めろよ…。俺はもう疲れたんだ。やってやられてやり返して、後何人死ぬんだ?やり返した後に、僅かに残った大切なものは、幾つ俺の手元に残ってる?」
「貴方は、大切な物が何か分かっているのねえ」
それが判っているなら、敢えて牙を剥く事は無いだろう。
月が綺麗に浮かんでいた。
後数日もすれば満月になるだろう。
森の中の路を月光が照らしていた。
クサビナ王都ケツァル。
中心部には有名な白亜城が聳え、囲む様に貴族街が広がる。
その一つ、王城南門に程近い豪華絢爛な屋敷に、夜にも関わらず複数の者達が集っていた。
1人はクサビナの大貴族ラタトゥスク侯、ウルフェニ・ラタトゥスク。
1人はその1人息子であるオベサム・ラタトゥスク。
ラタトゥスク家はケツァル、ファブニーラ、エリンドゥイラの丁度中央に領土を持つ大貴族であり、内戦時ファブニル側に付き、中央諸侯と靴輪を並べ、北方諸侯と戦う道を選んだ。
しかしファブニルが大敗した折、グレンデルがファブニーラを攻めると予想し、エリンドゥイラとも近い自領が早々に攻められると考えた事で、いの一番に戦線から軍勢を引き上げ、それにより中央諸侯戦線が崩壊、総崩れとなった経緯を持っている。
内乱を巻き起こした戦犯ファブニル一族と、それに迎合した中央諸侯は大なり小なり処罰を受ける事となる。
処罰は家格や領地の大小で差が出た。
ラタトゥスクは処罰の結果、領土を削られ、資金も多くを失う事となった。
戦争で次男と三男も失っており、ファブニルやヴィゾヴニルの次に没落した家と言えた。
中央諸侯は同じ立場同士で便宜を図り合い、何とか立ち直ろうと日夜励んでいたが、戦線を崩壊させるきっかけを作ったラタトゥスク家は中央諸侯からも爪弾きにされており、家中は混迷を極めていた。
ラタトゥスクには後がなかった。
打開策を設ける必要があった。
ウルフェニ・ラタトゥスクは、以前から付き合いのあった大山公司に目を付けた。
元々大山公司は盗品などを扱う後ろ暗い商いを行なっており、ウルフェニはそれを承知で付き合いをしていた。
大山公司は中央諸侯が内戦で勝利すると疑わず、中小規模の中央諸侯に貸付を行っていた。
その諸侯が戦争で滅びたり、処罰により支払いが滞った為、経営は火の車であった。
会長のランクルスは、傭兵を雇い路で商隊を襲い物品を奪うという犯罪行為に手を染め始めた。
ウルフェニはそれを嗅ぎ付け、その提案を行なった。
それが、人身売買であった。
禁忌だ。
発覚すれば家はその瞬間に滅びる。
しかし、座していても滅びる。
やると決めた。
ウルフェニはケツァルの衛兵隊を統括する立場にあった。
指定の紋章が入った荷馬車を検閲無しで出入りさせる事が出来た。
人攫いの実行役には敗戦により離散した元雨月旅団の兵を雇う事とした。
諸侯軍の敗残兵よりも練度が高く、ルーザース出身の為クサビナ内の貴族や商家に伝手が無い為、情報が漏洩し難い。
身寄りも金も仕事も土地も無い彼等はこの仕事に飛び付いた。
没落した貴族の子女、村や町娘、旅人。
自領他領問わず、美しい女の情報を仕入れては攫う。
そんな活動を始めたのだ。
始めたのは今年の融雪の後から、まだ7ヶ月。
売った人数は20人程。
足が付かぬよう慎重を期したが、雨月旅団も、大山公司も、ウルフェニも要領を掴み始め、秋下月に入ってから規模を拡大した。
人身売買の拠点をケツァルにしたのは、衛兵隊の存在もあるが、ある程度の流通網や都市の規模が無ければ怪しまれる可能性があるからだ。
どこそこの貴族の誰それが自領とは関わりの無い都市に出入りしていれば足が付きやすい。
だが、ケツァルであれば誰しもが訪れる。
人も多く、紛れ易い。
人攫いはケツァル近郊の都市村落から始め、徐々に拡大しようとしていた。
始めたばかりだが、順調だった。
今夜までは。
衛兵2人が哨戒中に、ランクルスの屋敷兼大山公司の本店の入り口扉が破壊されている事に気付いた。
この衛兵は人身売買事業について何も知らなかったが、幸いな事に見られて不味い物を見られる事はなかった。
店舗内に入り、様子を確認した衛兵2人は倒れた店の関係者を目撃する。
衛兵は急ぎ本部に戻り上司に報告。
この上司である中隊長は事業について認識があり、直ぐに関係のある上司に報告する。
そして衛兵団を統括する団長、カラキア・ラタトゥスクの耳に入る。
カラキアはウルフェニの分家筋に当たる男で、直ぐに関係のある兵士を引き連れて現場に乗り込んだ。
自室で倒れているランクルスを叩き起こし、牢の中がもぬけの殻になっている事を確認すると、急ぎウルフェニとの面会を求めた。
部屋にはウルフェニ、長子のオベサム、衛兵団長のカラキアとその部下2人、ラタトゥスク領兵団の団長ラクテア・ラタトゥスク、その右腕、左腕のインゲンスとミルテル、雨月旅団の新団長ジャブダル、副官のサティ。
そしてランクルスと、彼の護衛ウルガリ。
室内は緊迫感で満ちていた。
「奴隷共が何処に逃げたかは判っているのか」
重苦しい声音でウルフェニが口を開く。
「北門を破り、グレンデーラ方面へ逃走したと考え、急ぎ追いましたが路の途中に元々伏せていた実行部隊の元まで人影一つ見ぬまま辿り着きました。グレンデーラへは逃げていないでしょう」
衛兵団長のカラキアが答える。
「奴隷共は、グレンデーラに逃げたと思わせて別の方向にむかったんじゃあ無いですかい?」
「そんな事は分かっている!黙っていろ!」
雨月旅団長ジャブダルに領兵団長のラクテアが強く返す。
ジャブダルは鼻白んで表情を歪めた。
団長があしらわれて気分を害した雨月旅団副官のサティが佩いた剣の柄に手を掛ける。
「西方エリンドゥイラ方面にも向かった気配はありません。恐らくは北東、ファブニーラ方面に向ったものと思われます」
「女だけ、所持物も無くそこまで辿り着けるものか?」
ラクテアにウルフェニは訊ねる。
「地下牢は経を練られなくするという薬煙で満たしていましたが、行法で鉄格子が切断されていました。大山公司に散布された眠り薬と合わせて考えても、外部の者が手引きした事は確実です。旅支度も整えていたでしょう」
「ふむ。なんとしてでもファブニーラに辿り着く前に捕獲せよ。難しい場合は殺して構わん」
「は!」
ラクテアが副官2人を伴い退出していく。
「閣下。万が一があると危険です。我ら衛兵団も足跡を追います」
「関わりのある者だけに留めよ。良いな?」
「は。承知しております」
カラキアも頭を下げて退出する。
部屋に残るのは5人。
ウルフェニ、オベサム、大山公司のランクルス、護衛のウルガリ、雨月旅団のジャブダルとサティ。
「それで?お前はどうするのだ?」
みすみす敵の攻撃を受け、寝こけてしまったランクルスとウルガリは全身から脂汗を流しながら低頭した。
「申し訳ございません!」
余計な言い逃れはせずに謝罪を繰り返すランクルスであったが、内心では避けようの無かった事態だと考えていた。
「謝罪だけでは無く、現地で対応に当たり汚名を返上するべきでは?」
オベサムの言葉にランクルスは慌てて取り繕う。
「は、はいっ!向かいます!」
「ランクルス殿。今回の事、何故奴隷の奪還に至ったのか心当たりは?」
「はい…確認しますが、怪しいのは一月前に拐おうとした亜人の女でしょうか。上玉の女傭兵を見つけたと報告があったので、護衛を依頼して道中で襲撃を仕掛けました。しかし、私の目の前で、亜人の女が襲撃者10人を殺して計画を潰されたのです。たいそう美しい女でしたので、先の2人と合わせて万全を期して再び襲わせました」
「結果は?」
「先の2人は拉致に成功しましたが、亜人の女には全員が返り討ちに、されております…」
ウルフェニが舌打ちをする。
それにランクルスは肩を振るわせ怯えた。
「それは、万全と思っていた事が、そうでは無かったという事ですね」
「はい…申し訳ありません…」
「とすると、相手は手練れか。どんな亜人か分かりますか?」
「ラタトゥスク一族の皆様よりも白い肌、麦穂色の髪。とても、とても美しい容姿です。内戦の前後にグレンデルで交易が始まったという樹妖人と呼ばれる亜人かと」
「樹妖人とやらは何が出来る亜人ですか?」
「さあ…亜人共は経を人より巧みに扱うと言いますから、強い行兵なのではないかと思いますが…」
「そうですか。…こちらは衛兵団が300、領兵団はケツァル近郊に500、グレンデーラとエリンドゥイラ方面に駐屯させている部隊が500。1300名も動員すれば間違いは無いでしょう」
「我等雨月旅団も200名動員できます」
ジャブダルが答える。
合わせれば1500の兵となる。
実際の所、内戦からの没落でラタトゥスクは領兵を抱えるだけの富を失い、軍を大幅に縮小していた。
また、衛兵団自体はもっと数があるが、公に出来ない事情に関わらせられる兵はあまり多く無かった。
「では、行け。この失点を取り返せ」
「畏まりました!」
ランクルスと雨月旅団のジャブダルとサティが退室し、豪奢な室内は父と子の2人となる。
「お前達も、行ってくれるな?」
そんな2人だけの部屋で、ウルフェニは息子以外の何者かに声をかけた。
ウルフェニの背後の壁に亀裂が入り、音も立てずにするりと長方形の穴が開く。
隠し扉だ。
扉の先、隠し部屋から3人の男が現れる。
3人は室内にも関わらず深編笠を被り、黒い革製の引き回し合羽を羽織っていた。
「…承知。痕跡を追います。軍で捉えられない場合のみ、殺せば?」
「それで頼む」
「では…」
簡潔な問答だけで3人は音も立てずに部屋を去った。
ウルフェニもオベサムも、彼等の身の上については知らなかった。
分かる事は、肌の色からモールイド人であると言う事。
知識が豊富で、戦闘能力も高い事。
そして金と権力を欲している事。
「父上。私も現地へ参ります。2つの兵団が協調出来るとは思えません故。また、千を超える行軍となります。グレンデルやエリンドゥイルに咎められた時、言い訳をする人間が必要でしょう」
長子オベサムがウルフェニに向き直り告げた。
ウルフェニにとってオベサムはよく出来た息子だった。
人身売買計画にも当初は反対していたが、説得して協力をさせていた。
ラタトゥスクが生き延びる為には形振り構っている余裕が無い事は明らかだった。
「頼んだ。お前が頼りだ」
オベサムが退室し、部屋にはウルフェニだけとなる。
今回の軍事行動は、王都で衛兵に暴行を働いた不成者の捕縛、殺害と謳い、兵を動かしている。
上手く立ち回る必要があった。
高々数十人に割く労力としては異常だ。
だがそれをせざるを得ない程に危険な状況であった。
「………頼むぞ、オベサム……」
ウルフェニには後がなかった。
ヴィダード一行は北東に向けて移動を続けていた。
ケツァル脱出から2刻で数百の騎馬が近付く音と振動を感じ取り森へ潜んでやり過ごした。
彼等はまさか森に潜んでいるとは思いもしないのか、走り去って行った。
同じ様に何度も慌ただしく数百単位の騎兵が行き来する。
何度も森に逃れる為、移動速度は遅かった。
森渡りだけなら森の中を悠々と進み、ケツァルから距離を離せていただろう。
途中の町村落には寄る事が出来ない。
ヴィダードはガンレイ、ジュリと相談しながら慎重に進んでいた。
「キキキキキッキキキッ」
4日目の昼過ぎ、ガンレイが伝達を行い、漸く同胞との連携に成功した。
多少の時間は掛かるが、救援が来る筈だ。
小さな村落の帰化した森渡り達は、戦力としての協力は難しかったが、ヴィダード達の逃走経路に薬や装備を置いておいてくれるなど、協力をしてくれていた。
一行には旅慣れていない者は少なかったが、森に暫し踏み込む事から、緊張でより疲労が溜まる様で、休憩の頻度も多かった。
特に、黄迫軍出身のオランシスという男の妻は、完全な一般人で、体力も少なくオランシスが背負ったりと逃避行に難儀していた。
オランシスはそんな妻の事を甲斐甲斐しく世話をしており、ヴィダードは自分がシンカに世話を焼かれていた時の事を想起した。
7日目の夜などは、日中から夕刻にかけて雨が降り、日が暮れてから晴れた為、気温が初冬並みに下がった為、オランシスの妻コルダは身体を震わせていた。
痕跡が残る為、火は起こせ無い。
そんなコルダの身体を抱きしめ、身体を擦り、声を掛けて励ましているのを見て、ヴィダードは1人涙を溢した。
シンカに会いたかった。
オテロとトゥスは漸くお互いの気持ちを理解し合えたのか、2人寄り添って座っている。
一行は過酷な逃避行に疲労困憊で、少しでも身体を休めようと努力していた。
そんな中、ひそひそと離れた場所で小声で会話を続ける二人組がいた。
本人達は可能な限り声を落としている為、聴かれているとは考えていないのだろうが、ヴィダードの耳には聴こえていた。
「…ガンレイという女、ジュリという女、それとヴィダードという樹妖人。何者だ」
「分からないわヴァル。でも、とても強い。名付き級の手練れよ。特にヴィダードという女は三英傑に匹敵すると思うわ」
小声で話すヴァルプルガとサンゴという2人組は、何時も一行の背後に位置取り僅かに距離を置いていた。
ヴィダードもガンレイもジュリも、それに気付いていて、気付いていないふりをしながら警戒していた。
「…分からない。俺は、どうすればいい」
「…亡きお父様が守ろうとした国よ。この国が滅びる様な事はあってはいけない」
「ならば、告発に至らない様にするべきか?」
「…でも、この悍ましい犯罪を無かった事にすれば、奴等は味を占めてもっと狡猾にもっと規模を広げていくわ」
「だが、これが明るみに出れば、クサビナは。彼女らが国外に出る様であれば、俺が…」
他の者達には聴こえていないだろう。
だが、森渡り達には聴こえていた。
ちらとガンレイを見遣る。ガンレイも横目でヴィダードを見た。
今争ったり、痕跡を残す事は避けるべきだ。
今はヴィダード達を追う追手を巻く事が先決だった。
翌朝早朝に一行は再び進みだす。
深い朝靄の漂う朝だった。
漸く明るみ始めた周囲。紅葉した樹々の枝葉が彩り鮮やかに広がり、冷えた身体と心に僅かな力を与えてくれた。
鶫の鋭い鳴き声が、静謐な暁色の世界に届く。
「……何か、近づいて来ているわぁ」
気配は無かった。
だが、ヤカが鳴いた。
それだけで十分だ。シンカが信頼したヤカ。最後までシンカが連れ歩いたヤカ。
彼が鳴いた。
「どうして分かるの?」
「ヤカが教えてくれたからあ」
「少し速度を上げましょう」
一行は速度を上げて移動を始めた。
旅慣れない者がいる中で、痕跡を残さず移動する事は難しい。
追手は必ずヴィダード達に追い付くだろう。
飛び回るヤカが静謐な中で目立っている。
「ヤカぁ。戻って来てぇ」
小さく呼びかけるとヤカはヴィダードの元まで飛んで来て、風切羽を広げて頭に降りた。
「アギ」
しずしずと付き従う二尾の黒狐が森に駆け込んで闇に溶ける。
「兄様、義姉様、ファラ。そろそろ来るわぁ。イーナースとガザーラもぉ」
イーヴァルンの民達が無言で頷く。
「そこの人参頭もいいかしらぁ?」
「人参?俺か?…ま、お陰様で修羅場は潜ってる。多少は役に立ってみせる」
イグマエアがその知人達の顔を見回し、お互いに頷きあう。
3人の弟子を見る。
3人とも緊張しているが、しっかりと武器を握っている。
「何?敵?」
「私、これでも鬼火隊に選抜される程には腕が立つのよ。強い子供を産めるわ。あのお方との子なら尚更よ」
アクアとマルギッテの事は無視する。
「…問題無い」
「大丈夫よ。ヴァルも私も自分の身は守れるわ」
口数少なくヴァルプルガが答え、サンゴが妖艶に微笑む。
更に数刻進む。
「…来ているわねぇ」
「私も感知した。3人。手練れね。倒せなくは無いでしょうけど」
「…まだ少し距離があります。あとどれだけいるか分かりません。騎兵にも悟られたく無いです。なるべく進みましょう」
「私が最後尾を進むわぁ」
森渡り同士で確認し、ヴィダードは先頭から最後尾に移動する。
路から左の森に視線を向ける。
樹々の合間の闇にアギの金色の目が光っている。
そして更に1刻。
ヴィダードは彼等の足音が聞こえ始めていた。
完全に追い付かれた。
気付かないふりをして進む。
その時、ヴィダードは何かの軋む音を耳にした。
弓が引かれて軋む音。
そして弦が返る音。
矢が宙を切り裂く音。
ヴィダードの経が瞬時にして展開される。
網目状に広がるそれが、放たれた弓の軌道を読み取る。
狙われたのは、一行の中で最もか弱い者。
オランシス の妻、コルダ。
仲睦まじい夫婦の、その妻に向かっていた。