春の三騒
本編100話記念に投稿させて頂きます。
ある春先の朝、カヤテはヴィダードの悲鳴と抗議の声で目を覚ました。
「……何事だ?」
森渡りの里のシン家にて悲鳴を上げる事態など早々起こり得ない。
叫び声は頻繁だが。
察するに場所はシンカの部屋。
対象がヴィダードという事を考えれば何が起こってもおかしくは無いが、しかし口論の相手がシンカともなれば或いは緊急事態ではと思い直す。
ヴィダードは蜚蠊ですら無感情に指で摘み潰す狂人である。
奴は木についた悍しい見た目の毛虫を指で弾き飛ばし、踏み潰すのだ。
過日より虫に嫌悪感を持つ様になったカヤテはヴィダードを畏怖していた。
その手で触るなよ…と。
しかしやはり尋常な様子では無い為急ぎある程度の身嗜みを整えて騒動の発生地へ向かった。
シンカの部屋の前には既に全員が集まっていた。
「何事だ?」
何処か優雅な姿で壁に寄り掛かり騒動を見遣るリンファに声をかける。
リンファは無言で指を指した。
「信じられないわぁ!本当に気色悪い!」
ヴィダードが大きな声で言う。
素直に驚いた。ヴィダードがシンカの悪口を言うなど考えられなかった。
カヤテは忘れない。
追い回された黒くて速い虫が悪霊の如く飛び立ちヴィダードの額に張り付いた時のことを。
ヴィダードは己の額で奴を潰したのだ。
これはとんでもない喧嘩かもしれない。
そんな事を考えて部屋の中を覗くと、まずシンカの室の隅、床に怪しげな穴が開いており階段が垣間見えたのだった。
ちらと見たナウラが何処か楽しそうな空気を纏っていた。表情は冬の湖面の様に凍てついているが。
シンカは鋭い表情でヴィダードを見ている。
「早く捨てて下さいまし!」
ん?と内心疑問を持った。
捨てる。何を?
シンカの手元を見ると鉢を両手で抱えていた。
植物だ。ただし見たこともない奇妙な植物で、まん丸の人の拳程度の幹に指くらいの太さの短い枝が3本突き出ていた。
「ふざけるな!ムスクアナの荒地で見つけてからずっと大切にしていたのだぞ!」
「私に隠れてこんなものを!?信じられません!ありえないわぁ!」
カヤテにはヴィダードが何を怒っているのか理解できなかった。
それよりも地下室の方が気になる。
「ヴィーは何を怒っているのだ?」
カヤテが割って入るとよくぞ聞いてくれましたとばかりにその背筋凍る狂瞳を3寸の距離まで縮めて来た。
怖い。
「あの様な悍しい物を家に入れるなど!イーヴァルンのヴィダード、決して許す事は出来ません!」
「……悍しい…?」
「まるちゃんを悪く言うな!」
シンカが鉢を抱えて叫んだ。
カヤテにはその植物が悍しいとまでは感じられなかった。奇妙ではあるが。
「まる…ちゃん…?…かわいいなまえだね」
ユタが見当違いの発言をした。
「この子はな、象牙宮という植物だ。塊根植物の一種でこの幹に水を蓄えて」
「そんな事聞いてないわぁ!そんな小鬼の赤子の様なもの植物とは認めない!木とはそんな奇妙な形の物を指さないの!」
騒動の発端を漸く掴むことが出来た。
「はい。解散」
リンファが手を打ち鳴らし背を向けた。まだ早朝である。二度寝だろう。
カヤテはナウラと目線を合わせた。
口論を続けるシンカの背後を移動して穴を覗き込んだ。
長灯石の明かりが目に入る。
「まさかシンカが自室にこの様な隠し部屋を設けていたとはな」
「ええ。行きましょう」
階段を先に降りようとしたナウラの襟首がぬっと現れた手に掴まれた。
「いや何をしている?俺の部屋に勝手に入るな」
シンカの言葉にナウラがひくりと苛ついたのが分かった。
「…何か私に見られて困る物でも?春画ですか?それは興味があります」
「やめんか!」
「なに?!まだ私に何か隠しているのぉ!?」
ヴィダードがぬるりとした動きで地を這いシンカ、カヤテ、ナウラの隙間を抜けて階段を降りて行った。
「まっ!?ヴィー!もどれ!」
シンカがナウラを押し除けて階下に消える。ナウラとカヤテは悠々と後に続いた。
降りた先は長灯石に照らし出された部屋だった。
壁沿いに卓が幾つか置かれ、その上に鉢に入った様々な奇妙な植物が並べられていた。
「いやあああああああああああああああ!悪霊の取り憑いた木よぉ!?早く焼き払って!カヤテ!ナウラ!早く焼き払って!」
「馬鹿者!集めるのに一体どれだけ金を消耗したか!?」
奇妙な植物ばかりであった。捩じくれた幹、赤子の指の様な葉等様々であるが、一様に奇妙という共通点があった。
壁沿いに細い水路が作られておりちょろちょろと水が流れている。
「この植物達は育てるのが大変なのだ。此処は寒いからな。日照時間、気温をムスクアナやグリューネと合わせる必要があるのだ。日照時間は長投石で管理してきた」
「そうですか。私は寝てきます」
つまらなかったのだろう。分かりやすいナウラだった。
カヤテが確認したところによると、最近暖かくなって来たので日光に当てようと隠し部屋から鉢を持って上がった所を同衾しようと企んだヴィダードに目撃されたという経緯の様であった。
「カヤテ。貴女からもシンカ様に伝えなさいな。悪霊は存在させてはならないのです」
ともあれ、自分の手で滅茶苦茶にしないあたりは流石のヴィダードではあるが、カヤテにやらせようとする辺りも流石のヴィダードであった。
しかし本当に珍しい。
恐らくシンカに死ねと言われたら自害するであろうヴィダードが喧嘩をしている事に驚きを感じる。
「まてまて、このまるちゃんの何処が駄目なのだ?確かに奇妙ではあ」
「全てよぉ!」
最後まで喋る事すら出来ない興奮振りである。
「この邪悪な肥えた腹の様な幹」
「色々言いたい事はあるが、こんな者なかなかいないぞ?」
「まるで墓へと誘う様な枝」
「ヴィーにその様な感性があったとは驚きだ」
「お黙りなさいな!早く焼き尽くしなさい!此れは貴女にとっても敵です」
「おい。矛先を私に向けるな!」
結局シンカには怒りきれないのかカヤテには八つ当たりするヴィダードであった。
「早く焼き尽くしなさい。人間を燃やすよりは容易いはずよぉ」
「比較対象が狂っている」
カヤテは天を仰ぐ。岩の天井が広がっていた。
「絶対に許さんからな!この命を賭しても護り抜く!」
「本気か?流石にこれに命を賭けるとは…」
シンカが植物の前に両手を広げて立ち塞がる。
「知らぬのか?夫の趣味物を捨てた夫婦の末路を!」
「僕知ってる!ケンの人形をミーアが棄てたんだ。気持ち悪いって。その日からケンはミーアと夜の営みができなくなっちゃったんだ。ミーアも粗茎はこりご」
「黙らっしゃい!婦女子が猥談とは以ての外!」
ユタははたと首を傾げる。
「ねえ」
上から覗き込みながら声をかける。
「ごはんまだ?」
そんな朝だった。
樹々に萌黄色の若葉が色付き始め、暖かい日差しが続き始めた頃。
またしてもひと騒動が起こった。
朝食を終えて茶を嗜んでいたシンカの前で水を飲んだユタが顔を顰めて頬を押さえた。
ナウラはそんなユタの様子を眺めていた。
シンカはもう一口茶を啜り、ほうと満足気な息を吐いた。
「…いたいよ…これ、なんだろう…怪我?」
頬を摩る。
ユタはもう一口水を飲むと今度は呻いた。
「シンカっ!なんか歯に針刺さってる!抜いてよ!」
「虫歯だろう?」
「むしば?!なにそれ、怖いよ!助けて!ねえ!僕どうなっちゃうの?!」
「虫歯は眼に見えない虫が歯を喰う病だ。うん。確かに右下の奥歯が黒くなっているな」
ユタの可愛らしい口の中をシンカがのぞいている。
「虫歯は進行するとその歯は腐る。何れは顎にまで進み口は開かなくなり食欲も失せる」
「やだああああああああああああああああっ!」
始まった。
騒々しい1日が始まったな、とぼんやり考えた。
日々は常に刺激に満ちている。
周りを見渡せば見慣れた場所でも発見がある。
人と人の付き合いも同じ。
さて、と思案しこの状況をいかに楽しむかナウラは結論を出した。
「大陸を旅し、ユタは貧しい村で歯のない老人を見たことがありませんか?彼等は虫歯により歯を失ったのです。ユタも半年の後にはああなるのですね。若い身空で哀れな事です。同情します」
「何で!?どうして僕が!?やだよ!ごはん食べられなくなるなんてやだよっ!」
見た目はどうでもいいのですか。そうですか。とナウラは内心考える。
「ユタ。それは自業自得という物だぞ。食後は皆布で歯を磨き、楊枝で食べかすを取り除く。その後薬湯で口を濯いでいる。ユタはやっているか?」
「……だって、あのお湯苦いんだもん…」
だってじゃねーよ。何歳だよ。
そんな思いは幸にしてナウラの表情には現れなかった。
カヤテの至極真っ当な諭しにユタは不貞腐れる。
「ユタ。俺は知っているぞ。皆が寝静まった後、時折食べ物を漁っているな?」
「うん。口が寂しくなっちゃうからね」
「虫歯の元となるものは口内の食べかすを元に繁殖する。それをある程度抑えているのが唾液だ。しかし夜寝ている時は唾液の分泌が少なくなる。寝る前に口の中に食べかすがあると…」
「やだやだやだやだやだああああ!僕のごはん!」
ユタは年甲斐もなく床に転がりじたばたして己の不満を余す事なく主張した。
そこでシンカがにやりと笑った。
ナウラは楽しい事が起こりそうだと胸を弾ませる。
「その虫歯、治療することが出来るぞ?」
「えっ!」
食卓にひょこりと顔を覗かせる。
惚けた表情が三白眼を中和しユタの可憐さを引き出している。
「痛いがな。耐えられるか?」
「うんっ!ごはん!」
それがユタの悪夢の始まりであった。
「ねえシンカ」
「何だ?」
「僕、どうして身動きできない様にされてるの?」
ユタの手足に加え肩、腰、首、更には頭までもをシンカは土行法で固定していた。
シンカは痛いと言っていた。
人が傷付く所は見たくないナウラであったが、これは楽しそうだと目を輝かせた。
シンカは最後に口枷でユタの口を閉じられない様にすると鋭い錐を持ち出した。
「はひ?はひふんほお?」
カヤテは学術的な興味からユタの口内を覗き込む。確かに奥歯が黒ずんでいた。
途端にユタが暴れ始めた。何と言っているか分からなかったので口枷を外した。
「酷い!酷いよナウラ!何で僕の口の中見るの!?酷いよ!」
「……申し訳ありません、よくわかりません」
「僕の口の中見ていいのはシンカだけなんだよっ!?」
少し言葉の意味を考え、その裏の感情までを推し量ろうとする。しかし全く意味がわからなかった。
シンカに目線を遣るが彼は首を傾げた。
思い掛けぬ愛らしい仕草にナウラは自分の顔が火照るのを感じた。そしてシンカと触れ合いたいと考える。
しかし今は人目もある為シンカの袖を摘み、手に少し触れるだけで我慢をする。
「よし。やるぞ」
再び口枷を付けられたユタにシンカが近寄る。
ユタが顔を赤らめて怪しい呼吸を始めた。
この女、この状況に発情している。
呆れにナウラの顳顬が僅かにひくついた。
そんなナウラを尻目にシンカは錐をユタの口内に差し込んだ。
「いはい!?」
全身がひくつくユタ。
「いはいほぉ?!」
再度錐を近付ける。
がり、とユタの口の中から歯を削る音がした。
ユタは絶叫を上げてのたうち回った。
拘束されてはいるものの暴れた為、小袖の裾が割れて鹿を連想させる細く長い脚が大きく露出した。
「落ち着け。幹部を削り取るだけだ。神経があるから未知の痛みを感じるだろうがな」
ナウラはシンカの言葉を聞いて夜は歯を掃除し、間食をしないことを誓った。
ナウラの耳にからかりと歯を削る音が聞こえてくる。
暴れようとするユタをシンカは押さえつけて作業を続けた。
「…あ、麻酔をしておけば良かったか?」
「ひほい!」
「いいではありませんか。ユタは痛いのが好みですよね?」
「ひはう!」
悶え苦しむユタを見ていて妙な気分になってしまうナウラだった。
ようやく解放されたユタは汗でぬれそぼり、涙を流していた。
シンカは最後に土行法でユタの歯を削った後の穴に詰め物をして彼女の腹をぽんぽんと叩いた。
始まるな。
ナウラはそんな事を考えて様子を伺う。
「酷いよ!僕痛いって言ったのに!やめてって言ったのに!」
「聞こえなかった」
「そんなの話せない様にしてたからでしょっ!?」
「違う。俺は口を閉じられない様にしただけだ」
「おんなじでしょ!」
ユタが怒るとシンカは口を大きく開けた。
「同じではない。ほら、話せるだろう?」
シンカは舌を器用に使って完璧に発音した。
「ずるいよ!そんなの僕できないのに!」
ユタはシンカに躍りかかって脇腹を擽る。
シンカはぬるりと体位を入れ替えてユタの背後に回り込むと素早く片手でユタの両手首を捕まえて自分の腹の上に仰向けにユタを乗せ、両脚でユタの脚を抑えた。
そして残る右手でユタの脇腹を擽り始めた。
「ああああああああああああああああああああっ!?やだああああああっ!やめ、やめてっ!怒る!あはははははっ!やだああああああ!本当に怒るからっ!あはははははっ!僕本気だからっ!」
一頻り擽るとシンカはユタを解放する。
恐ろしい技であった。
「もうっ!」
ぷんすか怒って部屋を出て行ったユタだったが、すぐ後の昼食でいつも通り幸せそうに口一杯に食べ物を頬張っていた。
恐らく既に忘れているのだろう。
歯の掃除まで忘れていない事を願うばかりである。
春の早朝、日が出て窓越しにやや明るんで来た頃。
シンカは目覚めと共に家に侵入しようとする不届き者の存在を察知した。
時刻は日が出て半刻程度。
侵入者はそんな早朝に己の匂いを消し、限界まで気配を消してシン家の前に迫っていた。
そして森渡りの里においても犯罪である鍵の解錠を行い侵入を果たす。
足音も無く居間から寝室に向けて気配が近付く。
シンカが感知出来る理由は僅かな空気の動きや脚を踏み出し床石に体重をかける事による微量の軋みなどを感じ取っているからである。
どんなに音を立てない様気を付けたとしても膝関節の軋みや岩の床の僅かな撓みは隠す事ができない。
誰もが病的と述べるシンカの感知能力であった。
気配の主はシンカの部屋の扉を開ける。
物音一つなくするりと人影は朝日の中部屋に忍び込む。
そしてシンカの寝転がる寝台に忍び寄り毛布の中に忍び込んだ。
「何してる」
「ひっ!?」
反応に異論はあったが何やら己の服の釦を外そうとしているリンドウの手を掴んだ。
「兄さん!起きてたの?」
「何故起きないと思ったのか」
家に忍び込まれて気づかない森渡りなど居ないとシンカは考えている。
しかし実際は部屋なら兎も角、同じ森渡りが気配を殺して侵入すれば大概は気付かないだろう。
リンドウはこの日の為に兄リンブの部屋に夜な夜な侵入して枕元に女の下着を置くという訓練を行なっていた。
無論リンブは妻のアレタに毎朝鼻骨を粉砕されていた。
訓練の結果、リンドウはシンカの部屋にも忍び込めると考えていた。
母カイナとの綿密な打ち合わせの結果、忍び込み、毛布の中で服を脱ぐ。
此処までたどり着ければ及第点であるが、そこから先に進めるのであればどこまでも突き進む。
「なんでなの?!無音で服を脱ぐ練習までしたのに!」
「馬鹿か。一回り歳下の妹だぞ」
「ファ姉さんだって私と血の濃さは同じ筈よ!?」
掴みかかるリンドウの両手首を握り抑える。
「お前のおしめも変えているんだぞ!?馬鹿か?!」
シンカが叫ぶとリンドウは天を仰ぎ額を抑えた。
「あー、それは駄目ね。私のあられもない姿を見て。これは責任を取ってもらわ無いと」
「何を言っているのか全く分からない」
「乙女の柔肌を視姦しておいてただで済むと思ってるの兄さん!?」
「語弊がすごい」
間違い無くリンドウはカイナの娘だ。
発言が常軌を逸している。
そして案の定というべきか、薄暗い部屋の中、僅かに扉が開きヴィダードがやけに低い位置から顔を覗かせた。目が血走っている。
暗闇に浮かぶ白い顔は中々の迫力である。
「兄さん、教えてあげる。私とファ姉さんの胸は大体同じだし、お尻もそう。顔は私の方がちょっと美人じゃない?それに何より若いし、私は兄さんの事振ったりしないわよ?」
「黙りなさい」
ヴィダードの顔の上に怒りに満ちたリンファの顔が浮かび上がった。
ヴィダード同様目が血走っている。
「俺はこれ以上娶る気はないぞ」
シンカは妹、正確には従姉妹の頭を撫でて寝台から追い出した。
「どうして?私の何処が駄目なの?」
「…お前が生まれた時俺は12だった。俺はカイナのお産を手伝ったのだぞ?湯を沸かし布を消毒する程度だったが。お前の皺くちゃで赤むくれの猿顔を今でも覚えている」
「そんなもの早く忘れて。大体年齢で言ったらナウラ姉さんとあまり変わらないでしょ!?」
「呼びましたか?」
リンファの顔の上にナウラの顔が現れた。
冬にイブル川河口に流れ着く流氷の様に冷たい無表情だったが、内心楽しんでいるのは明らかである。
「…お前……リンブに愛してると言われて受け入れられるか?」
シンカが尋ねるとリンドウはえずき始めた。
シンカには分かる。演技では無い。
リンブの見かけが悪いと言うことは決して無い。
優男のリンレイから遺伝した顔は平均以上であるし、森渡りの例に漏れず鍛えられた肉体に嫌悪感など抱こうはずも無い。
しかし直情的なリンブと女狐然としたリンドウの相性はどう考えても良いはずは無かった。
概ねリンブに際どい悪戯を仕掛けて大きな声量で説教を喰らっていたに違い無かった。
「そ、そんな……兄さんも……私に…吐き気を…?」
「いや、そこまででは無いが」
心神喪失手前の表情で尋ねるリンドウにシンカは冷たい言葉を投げる事は出来なかった。
「なぁんだ。なら良かった。聞いてるわよ?ユタ姉さんも兄さんにずっと拒否されてたって。私も諦めなければ…」
リンドウは一瞬で立ち直った。尋常な精神力では無い。
ナウラの顔の上にユタの顔が現れる。後1人である。
ユタは早朝のため目も口も半開き。口元から涎が溢れ、ナウラの髪に滴る。
ナウラの目元口元がほんのごく僅か、痙攣させた。
「勘弁してくれ。俺の人間性が疑われる。父さんになんと言われるか」
無論義母カイナの心配などしない。
あの大女狐は寧ろ推奨している所だろう。
「いやね。父さんは応援してくれてるわよ?」
シンカは思い出す。そう言う父であったと。
人道に反すること以外には底無し沼の様に大らかな父である。
「大体ファ姉さんが良くて私が駄目なわけがないのよ」
「…まさか5歳の時落ち葉で水着を作り川で全てを失った枯れ葉纏いのリンドウに迫られるとはな。世も末か」
「可愛い子供のお茶目を何時迄も引っ張り出すなんて男が廃るわよ!」
「5歳の子供にしては…その、あれだな。羞恥心も世の理に対する理解力も…随分だな」
カヤテの顔がユタの上に現れて苦言を呈した。
全員揃った。
「酷い!今日の所は失敗したけどまた来るわよ!」
リンドウはびしっと指を突きつけると部屋から出ようとする。
「ちょっと退いてくれる?お姉さん方。今に見てなさいよ!絶対振り向かせるんだから!」
どすどすと足音を立ててリンドウは去った。
一つ目の嵐の終わりである。
無論二つ目の嵐は直ぐにでも始まるだろう。
「それで?」
額に嫌な汗を掻き身構えていたシンカに対し口火を切ったのはカヤテだった。
「俺は悪くない」
端的に自分の所信表明を行う。
「怪しいですね。まず言い訳から入るところがとても怪しい。一体彼女と何を…?」
ナウラがシンカの顔を覗き込む。
「…もう勘弁してくれ。朝っぱらから。誰か俺を助けてくれ…」
絞り出す様に呟くとぬるりと近寄って来たヴィダードがシンカに背後から抱きつき、寝台まで誘われる。
「あなた様ぁ?ヴィーはあなた様の味方よぉ?カヤテ、ナウラ。貴女達はシンカ様の事が信じられないのだから早く何処かに行きなさいな」
「ヴィー!いいとこ取りしようとしても其方には無理だぞ!力量不足だ!」
「そうです。熟女の癖に生意気ですよ」
「じゅ、熟女ぉっ!?」
「おや、失礼。熟してはおりませんね。棒切れ年増と言い直させて頂きます。失礼致しました」
「んああああああああああああああああああああああっ」
奇声を上げてヴィダードがナウラに躍り掛かった。
「うるっさいわね本当に。何してんのよ朝っぱらから」
リンファが呆れた様子でシンカの寝台に腰掛けると脚を組みながら髪を掻き上げた。
「でもこう言うの、久しぶりだね。昔はよくナウラとヴィーはこんな感じで戯れてたけど、最近はヴィーが丸くなってたし、ナウラも飽きて矛先がリンファに向いたのかあんまりなかったもんね」
寝台に座るリンファの太腿にユタが頭を乗せて横になった。
「ちょっと」
「エシナにユタの尻拭きに行ったくらいだろうな。あの辺りでヴィーはユタ、ナウラ、カヤテを家族と認めたのだろう」
シンカも所感を述べる。
「僕は好きだよ。ヴィーだって怒ってはいるけど怪我する様な事しないし、ナウラは…楽しそうだよね」
半分寝ながら話すユタの口角から唾液が滴りリンファの夜着に染みが広がる。
リンファは嫌そうに顔を顰めた。
「しかしナウラの悪癖はどうにかならんのか?」
カヤテがぼやく。
シンカ自身はナウラの揶揄いについて悪い感情は抱いていない。
ナウラが心を許している証だからだ。
「みんな悪いところはあるよ。カヤテだって夜な夜な自分の裸を鏡に写して色んな姿勢を試してる。あれ、気持ち悪いよ?」
「きもっ!?」
それは確かに悪癖だとシンカも思った。
カヤテと旅をする様になり、無駄な筋肉を落とし必要な筋肉のみを鍛える方法を伝授して以来カヤテは腕や脚が細くなり、同時に女性らしさを損なわずに鍛え上げられた己の肢体に執着を持ったらしい。
確かにシンカもカヤテの鍛えられた腹を触るのは好きだったが、夜な夜な裸で鏡の前に立つのは稍常軌を逸している。
「しかし何故ユタはカヤテの奇行を知っている?」
シンカは尋ねる。
「うん。シンカが作ってた乾酪がいい感じだったからカヤテと一緒に食べようとおもっいたたたたたたっ!」
二本の指でユタの鼻を吊り上げた。
「ナウラかユタかどちらの仕業か分からなかったが、自ら白状するとはな。いい度胸だ。ユタ。修行に行くぞ。お前の大好きな修行だ」
「やだああああああああああああああああああっ!僕もうお米を丸く削りたく無い!」
シンカは暴れ逃げようとするユタを肩に担いで顔を赤らめて寝台に頭をぶつけ続けるカヤテを尻目に取っ組み合うナウラとヴィダードの脇を抜け部屋を出る。
「……何でこんなに煩いの…?これで子供が生まれたらこの家はどうなるのよ…?」
そんなリンファの呟きを背に家を出た。
その日ユタが水行法で丸く削らされた米は米酒の材料となり、2月の後に皆で美味しく頂くこととなる。
需要が有れば良いのですが…。