六
「圭吾、帰ったの?」
そう聞くのは、圭吾の実の母である、安原貴子だ。安原家は、圭吾と、この貴子の二人で構成されている。圭吾の父に当たる安原寛は、圭吾が九才。小学三年生の時に亡くなっていた。
「帰ったよ」
圭吾は自室から大きな声で答えた。酒に酔いつぶれた圭吾は、自宅に帰るなり部屋のベッドに倒れこんだ。そしてよく回らない頭で、楽しかった一日の記憶を反芻していた。すると貴子が階段を一歩ずつ上がる音が聞こえてきた。おそらく何か話があるのだろう。そう推測したものの圭吾はだるい身体を起こそうとはしなかった。
案の定貴子はノックもせずに部屋に入ってきた。圭吾はそのことに少しばかりの不快感を覚えたが、特に言及しなかった。
「何か用?」
「何か用じゃないよ。今日はお父さんの命日でしょう。少しくらい挨拶してきなさい」
圭吾は心底面倒臭かった。小さな頃から何よりも宗教的な行事を嫌う圭吾は、死者に挨拶をする意味がよくわからなかったが、母親の手前そんなことを言って口論になるよりは、瞬間的に我慢したほうが得策だろうという理屈で持って、だるい身体を起こして仏壇へと向かった。
圭吾は父が死んだ日のことを克明に覚えていた。何せ、死者となった父の姿を第一に発見したのは圭吾自身だった。学校が終わって家に帰ると、寛は既に命を失っていた。圭吾ははじめ、父が死んでいるという事実に気づきもしなかった。何せ寛は眠るように死んでいた。圭吾はソファに座っている父が死んでいるなどとは思いもせずに、その隣で本を読んでいたというのだ。異変に気付いたのは、圭吾が本を読み終えた二時間後のことであった。いつまで経ってもピクリとも動かない父に、圭吾はさすがに違和感を覚えた。父の手が冷たくなっていることに気づいて、はじめて圭吾は救急車を呼んだ。死因は心不全であった。
圭吾にとって、くだんの事件はトラウマとなった。昨日までピンピンしていた父親が簡単に死んだことを受けて、人はいつ死んでもおかしくないのだと圭吾は常に考えるようになった。
「お父さん、あの時早く気づいてあげられなくてごめん」
死者との対話をあれほど嫌っていた圭吾であったが、思わずこんなことを口にしていた。いや、圭吾にとってこれは独り言のようなものだった。貴子はそんな圭吾の独り言を聞いて、目頭が熱くなるのを必死にこらえようとした。
あの日、貴子は夜遅くまで働いていた。会社に電話がかかってきたのは夜の八時過ぎで、電話の主である圭吾は、感情のこもらない声で父の死を貴子に告げた。貴子は、文字通り目の前が真っ暗になり、その場に崩れ落ちそうになったが、なんとか立て直してすぐさま病院へと向かった。向かう途中、何故か貴子は圭吾のことばかり考えていた。
「圭吾!」
病院に着いてすぐさま貴子は圭吾を抱きしめた。圭吾は体調の悪そうな顔で、「お母さん、ごめんなさい。お母さん、辛いよね」と何度も呟いていた。そんな息子の姿をみて、貴子は泣き崩れた。圭吾には間違いなく寛の血が流れている。問題が起こると全て自分で責任を背負いこもうとする性格も、本当に辛い時ほど、人の心配が出来る優しい性格も。
要するに、圭吾は寛の死を自分のせいだと思っていたのだ。もしかしたら圭吾が帰宅した時には、寛はまだ生きていたのかもしれない。早く気づいていたらなんとかなったのかもしれない。そう考えているであろう圭吾を思って、貴子は泣いた。夫の死を悲しむ暇など自分にはない。この優しい子を立派に育て上げる。その日、貴子はそう誓ったのであった。
そして圭吾は二十三歳にまでなった。一流大学を卒業し、一流企業に勤めている。小さな頃から聡明だとは感じていたものの、まさか自分たちの息子がここまでの器であるとは思っていなかった。
「じゃあ寝るわ」
そう言った圭吾は小さい頃から変わらない屈託のない笑みで母を一瞥し、自室へと戻っていった。
「立派に育ったよ、寛さん」
貴子は仏壇に向かってひっそりと話しかけてから、部屋の電気を消した。