河童の土器(カッパのかわらけ)
朝靄に、煙るような日だった。
シンとした朝を感じて、掛け布団を蹴り上げて、階段を降りた。
ガラッと開け放った玄関を出ると、霧が足首ぐらいの場所で渦巻いている。
近くの小川から、上がって来ているのだ。
本流の大きな川を見に土手に駆け上がると、霧の中に、いつもの川が、滔々(とうとう)と流れていた。
満足して、土手と下の道を繋ぐ、コンクリートの打ちっ放しの階段を降りていると、行きに見なかった赤茶色の土器のような物を拾った。
露を含んで、何だか綺麗に、見えたのだ。
口からホウっと、息を吐くと、白い息が出て、直ぐに消えた。
水蒸気と空気中の塵芥なのは、知っているが、楽しいので、何度も息を吐き出しながら、家に帰った。
霧は、どんどん溶けてでもいるかのように、川の方に退却を始め、帰り着いた時は、張り詰めた朝の空気だけが、家を囲んでいた。
もう一度、布団に入り直すと、暖かなその中で、すっかりと、二度寝を楽しんだ。
独り暮らしを始めてから、こんな風にちょくちょく明け方の散歩をするようになった。
ここは駅にも近く、周りはほとんど一軒家で、独り暮らしでも、なんの不住もない。
昼頃起きてきて、のんびりとシャワーを使う。
朝寝坊がしたいから、今の仕事をしているのだが、朝の空気を吸う散歩は、やめられない。
身支度を整えると、のんびり座れる電車に乗って、街中に向かう。
高級料亭で仲居として働き出して五年。
すっかり古株の仲間入りだ。
最近は、予約制でランチもやってるが、それ用には、若い子が雇われてる。
ランチなんかに来るのは、雑誌やテレビで取り上げられたのを見た、一見さんが多い。
料理と器で、満足して帰ってくれるから、まあ、着物さえ着て、廊下を歩ければ、何とかなる。
今夜は久々に満室だと、さっきメールが来た。
世の中がザワザワしてると、料亭も何とは無しに忙しいのだ。
着く早々、若女将がパタパタ走って来た。
「どうしよう、円さん。
美智子さんが、来られないのよ。
電車が止まっちゃってるんですって。」
あらら、1番の仲居頭さんだ。
「おはようございます。
で、女将さんは。」
「仙台、女将の会で、仙台なのよ。」
そうだった。
東北を盛り立てる女将の会だった。
「お客様へのご挨拶は、若女将の仕事ですから。
美智子さんにメールします。
待っていてくださいね。」
短大を出たばかりで、ここの次男坊に口説き落とされて、新婚3ヶ月目では、右往左往してしまうのは仕方ない。
美智子さんにメールで、お客様への口上を、若女将の携帯に送ってもらう。
その間に、女将にも報告させた。
今日は特に、山下様御一行に、気を配るようにと、返答が来た。
人手も、どうにか確保した。
それからは、若女将と来る客との間で、何が何やら。
たいした粗相も無く終わったのが、嬉しかった。
美智子さんの乗った電車は、駅と駅の間で立ち往生していて、電圧器の故障が見つかったのが、もう夜半で、とうとう店には来られなかった。
最後のお客様をお送りしてから、あろう事かみんなでバンザイ、してしまった。
若女将は、バンザイしながら、泣いてる。
厨房から、声がかかり、仲居みんなで行くと、板長さんが、サッと炙り物と熱燗をつけてくれていた。
「皆さん、ありがとうございました。」
鼻声の若女将の声に、涙腺の弱い真琴さんが、もらい泣きしている。
「さあ、明日は、定休日だしな。
喉を潤して、ご苦労様、だ。」
あと、少し待てば、始発が動く。
あれやこれや話すうちに、遅い早春の夜も白々と明け染出していた。
「おう、寒い。
若女将も暖かくしておかないと、風邪引きますよ。」
板長も、熱燗を進めながら、嬉しそうだ。
みんなで乗り切った充実感と、朝のリンと張り詰めた空気の中を、家に帰った。
電車で、川を越える時、渦巻く靄の中に、人影が見えた。
珍しい事もあるものだ。
まだ、釣りの時期でも無いのに、河原まで降りる物好きは、あまりいない。
すっかり疲れて、家にたどり着いたので、そのまま寝てしまった。
気を張り詰めた接待だったので、起きたのは、夕焼けの中で、時間の観念がおかしくなっていて、携帯で日時を確認したぐらいだ。
まだまだ素人の若女将だったが、それがかえって、山下様のお連れの方には、好印象を与えたらしく、たいそう喜ばれたのは、良かったが、皿が一枚欠けたのが、気がかりだった。
料亭の皿小鉢は、数が揃ってなんぼ、のところがあるからだ。
だが相手は、瀬戸物。
いつかは壊れる。
暗くなっていた部屋に明かりを灯した。
窓辺に、灯りを受けてキラキラ光る物があった。
今朝拾ってきた、土器の欠片だ。
水を含んだような艶やかな照りが綺麗だ。
手に取ってみたが、別段、釉薬をかけてもいない、素焼きなのだが。
霧の中で、キラキラして、目に止まるぐらいだから、ちゃんと器としてあったなら、名器かもしれない。
窓辺に置きなおして、下におりた。
干し魚を炙ったものと、熱燗で頂いてきたが、やっぱりご飯が食べたい。
円は、土鍋でご飯を炊くのが好きだ。
短冊に切った昆布を一枚乗せて、ちょっと少なめの水加減で、硬めに炊く。
その間に、ジャガイモとベーコンと玉葱で、サッパリとグラタンをこしらえた。
オーブンレンジを使うと、時短になるし、鍋を使わないので、楽だ。
作り置きの蓮根のキンピラと、豚肉の治部煮を合わせて、フライパンで炒めた。
汁物が欲しかったが、手間をかけたく無いので、とろろ昆布に鰹節を入れて、湯を注ぎ、ポン酢で味付けした物にした。
後は、大根を細切りにして、胡麻ドレッシングであえた。
そうこうしてる間に、ご飯が炊けた。
さっくりと混ぜた硬めのご飯が、美味しい。
残ったら、おこげと共に、お握りにして、冷凍庫に入れておく。
忙しい時に、ご飯まで炊いていられないからだ。
タップリ食べて、ようやく携帯を見た。
若女将と美智子さんから、メールが来ていた。
それぞれに返事をし、台所を片付けてから、珈琲を持って、居間に行くと、すっかり夜めいていた。
冬の西日が入る居間だったが、さすがに肌寒い。
炬燵の電気を入れて、テレビも入れた。
台所は、火物を扱っていると、寒さを感じないのだが、春とはいえ、夜は寒い。
雪でも降るのかなと、思ったのを、覚えている。
それから料亭の方は、山下様が色んな方々を、連れて見えられて、ご贔屓が増えると言う、嬉しい事が続いた。
花見の季節には、女将と若女将と板長さん共々誘われて、大層な花見の宴を楽しんで来ていた。
いつの間にやら梅雨が明けて、夏の盛りが来た頃、山下様から屋形船のお誘いが来た。
女将の会の回り持ち番が来ていたので、女将はその日、融通が利かなかったので、若女将と美智子さんと板長さんと円が、行く事になった。
若女将が夏場所の新大関なら、美智子さんと板長さんは脇を固める太刀持ちで、円は露払い、と、でもいった顔ぶれに見える。
真琴さんまで、お呼ばれしたので、弓取り式まで、揃ったみたいだと、円は思っていた。
屋形船には、山下様と最近良くご一緒の新海様と池ノ内様の他に、相撲取りが3人も、乗っていたのだ。
女将から借りた浴衣姿で、体裁を整えてはいたが、若女将の若さは群を抜いていた。
山下様がしっかり、既婚者だと、言い含めていなければ、若女将争奪戦の相撲が見られたかもしれない。
若女将がお酌に回ると、それはそれは、殿方達は嬉しそうだった。
真琴さんも中々、艶やかで、色香を香らせていたが、円と美智子さんは、気配りと話術で、頑張るのだった。
屋形船は刺身や煮物、酢の物、椀と、和食のフルコースで、特に目の前で揚げてくれる、天麩羅が、醍醐味だ。
そこは、相撲取り。
10や20の鱚や海老なんて、尻尾の先まで、アッと言う間に消えた。
ここの名物、貝柱入りのかき揚げも、山と、積んだ先から、食べられて行く。
最早、お酒もコップやドンブリで、呑まれる始末。
舟遊びも相撲取りも初だったが、風も気持ち良く、屋形船は、川を下って行った。
それやこれやに見惚れていると、ほろ酔いの山下様が、ちょっと、と、声をかけてきた。
「春に、長皿が1枚欠けた様だったけども、アレ、どうなったかな。」
あ、あれ。
少し思い出すのに時間が掛かった。
「あれは、朝霧の出た日の事でしたが、欠けた端も、取ってあるのですが。
ねぇ、板長さん。」
刺身に伸ばした箸を止めて、板長さんがこっちを向いた。
「あれねぇ〜。
最近は良い金継を探すのも大変でして、あのまま戸棚に入ってる次第です。」
「勿体ないね。
上手く継げば、価値の上がる物も、あるそうじゃないか。
5枚揃っているのかな。」
「いえ、あれは10枚揃いでして。
皿屋敷じゃありませんが、1枚〜足りない〜、て、まるで夏の怪談話ですな、ハハハ。」
刺身を摘み、口に入れると、冷酒でグイッと、流し込む板長さんだった。
皿屋敷に例えたのが、良かったのか悪かったのか、円は話の矛先を、変えたかった。
「そう言えば、その頃、面白いものを拾ったのですよ。
お見せしますね。」
上手く山下の気が、円の手元に向いた。
合わせた胸元の中から、縮緬で、手毬模様の御守袋の様な物が、スルスルと出て来た。
「勿体ぶってるでしょう。
少し、お待ち下さいね。」
固結びを、要とほどくと、中から、あの拾った土器を摘み出したのだった。
相変わらず、濡れた様な艶があった。
「ほう、これは、土器かな。
素焼きの欠片かな。」
山下は、掌に乗せた欠片を、屋形船の明かりに照らして、クリクリ動かし、光らせて見ていた。
池ノ内や新海もそれを見ている。
「次の日、始発で帰ったんですが、あんな寒い時期に、釣りでもないでしょうに、その拾った河原に人影があったんですのよ。
朝靄の中で、影しかわかりませんでしたけど。」
屋形船の御一行の間を、土器は、艶めき、まるで水でも生んでいるかの様に光りながら、回りだしたのだった。
若女将も、不思議がり、裏表と3度もひっくり返して見ている。
「釉薬は、かかってないわよね。
まるで水にでも、浸かってるみたいに、綺麗ね。」
土器は、グルッと回って、相撲取りの手の上に乗った。
円から一番遠い場所に座っていた、ソップ型の力士の手にそれが渡った時だった。
土器を握りしめたその相撲取りが屋形船の中で、グワンと、立った。
勢いが付いていたせいで、船は、ぐらりと揺れた。
若女将と真琴さんの悲鳴が上がった。
お座敷天麩羅の油が、鍋の縁を回り、溢れる事なく中におさまったのを見て、円はホッとした。
「おい、こら。
危ないぞ。
座れ、座れ。」
山下の声には応えず、立ち上がったその力士は、側の窓に、足をかけた。
「娘さん、これは人の世の物ではないのです。
我が一族の家宝、河童の水瓶の欠片なのです。
あの朝、余りの霧で、運ぶ途中で欠けさせてしまったのです。
この通り、水を受けてるかの様にしっとりと光るので、容易く見つかると、高を括っていたのですが。
よもや、懐に、隠されていては、妖力を使っても中々所在がわからなかったのです。
では、返して頂きました。
御免。」
力士は、屋形船の窓から、スルリと抜け出し、着ていた浴衣をその場に捨てると、トプンと、小さな水音を出して、夜の川に身を投げたのだった。
後には、闇夜で鼻を摘まれ、あんぐり口を開けている、山下様御一行が残されたのだった。
その場にいた者たちで、辺りは騒然とした。
水面を全員で探してみたが、あの相撲取りの姿は掻き消えていた。
いっとき、ざわめいてから、円は山下に言われた。
「円さん、えらい物を拾って持ってたものですな。」
当の円は、何が何やらで、あの拾った日の事を、一生懸命に思いだそうしていたが、頭がクラクラしてきて、何の考えもまとまらなかったのだった。
この不思議な屋形船での一夜の話には、尾ひれが付いていた。
翌日、板長が忘れていた、欠けた長皿を取り出してみると、見事な金継が施されていたのだ。
山下の言葉通り、この皿の価値は上がり、残りの9枚も、中々の名品と噂になった。
その後も、山下様、新海様、池ノ内様と、よくこの料亭に足繁く通ったので、若女将がお目当てかと、勘ぐられもした。
飽きる事なく、土器の話をしている事は、料亭内だけの事で、何だか秘密を共有していて、楽しかった様だった。
あの場に居なかった者に話しても、それが何なんだ、と、言われる様な話だ。
それでも若女将や仲居たちを相手に、その話題をする事が、山下たちには、楽しいのだから、しょうがない。
板長までも、声がかかる。
板長も、心得たもので、あの長皿に自慢の料理を盛り付けて、押っ取り刀で、出てくるのだった。
円は、何度考えても、あの日の霧の中の影が、人だったのか、相撲取りだったのか、河童だったのか、思い出せないでいた。
小さな欠片でも、艶めいていた土器だったので、1度きちんとした水瓶の姿で見てみたかったと、思うのだったが、それもあの日の川霧が、渦巻き流れ、持って行ってしまっていたのだ。
水瓶は、たぶん土器の欠片の形に、どこかが金継されている事だろう。
今は、ここまで。