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喪失

作者: 河灯 良平

 私がこの世に生を受けて二十一年が経った時、私はインドのバラナシ駅でデリー発コルカタ着の列車を待っていた。

 私は右手で握り締めくしゃくしゃになったトレインチケットを、粗雑に広げ列車の到着時間を確認する。


<TRAIN NO.2334 DATE 15-04-2007 TICKT NO.17874950 NEWDELHI HOWRAH EXP BOARDING VARANASI 15-04-2007 SCHEDULED DEP 18:00>


 DEP 18:00。

 そうか到着時刻ではなく出発時刻か。

 右手で再びチケットを握り潰し、左手首の腕時計に視線を移す。現在時刻23:00。もう一度チケットを広げ到着時刻に視線を落とす。

 当然時刻は変わっていない。

 溜息を吐く。チケットの上部には<HAPPY JOURNY>の文字、何がHAPPY JOURNYだ。とその苛立ちを右手に込め再度チケットを握りつぶす。

もう一度溜息。

 バラナシ駅の壁に架かっているタイムテーブルは、先週のままだ。故障しているのだ。

 このままでは列車の到着する時刻が分からない。立ち上がって列車の時刻を確認しないといけない。

 体に力を入れて一気に立ち上がる。バックパックを持って立ち上がるのは重労働だ。今の私にとってだが。

 今まで気づかなかったが駅のホーム、いや駅の外までもが列車待ちの人たちで溢れかえっている。どうやら複数の列車が遅れている様だ。そして列車の切符売り場には、時刻を確かめる人たちが押し寄せてひどい有様だ。

 私はその群の中に飛び込んでいく。

インド人は並ばない、待っていても意味がないのだ。だからどんな悪態を吐かれようとも人を押しのけて進まなくてはいけない。

 そしてやっとの思い出切符売り場に辿り着き、受付の人との間にある透明の仕切りにチケットを叩き付け

「この列車は何時に到着するのだ!トレインナンバーは2334!いつだ!」

私は叫ぶ。

「一時だ!」

叫び声が返ってくる。1時だと、明日ではないか。

「なぜだ!」

答えは返ってこない。私は知っている、インドの列車は遅れることが少なくないことを。

「なぜなのだ!」

答えは返ってこない。私は知っている、遅れているが必ず列車が来ることを。

 だが、私はなぜだと聞かずにはいられない。なぜだか分からないことが多すぎる。自分自身がよく分からないのだ。だからなぜなんだとしか私は言えないのだ。

「くそっ」

日本語で叫ぶ。数人が一瞬私を見たがすぐに時刻を確かめるべくカウンターに向きなおす。

 所在無い私は、ホームの奥にあるリタイアニングルームへ向かう。リタイアニングルームは列車が待つ人の休息所で一般のトイレよりも少し綺麗なのだ。ということを私は知っている。

 本当に知りたいことは何一つ知り得ていないのに。

 インド式のトイレで用を足す。日本の和式トイレに似ているが、インド式トイレには紙がない。インドでは不浄なる左手で水を使い洗い流す。当初はこの不慣れなトイレに戸惑っていたが、今は難なくこなすことができる。

 手を洗い、鏡を見る。そこにある男の顔は日に焼けて浅黒くシャワーを浴びていない髪はぼさぼさだ。何より瞳に輝きがなくくすんでいる。 もちろんそれは私だが、何も感じない。

 少しリタイアニングルームに座っていたが、外に出る。どうも落ち着かない。

 駅を歩き回り結局駅の外に出る。外には依然として人が溢れ、列車は当分来ないと知った人たちは地面で寝ている。私もこのまま歩いていても埒が明かないので駅正面の階段に腰を下ろす。

 その座った瞬間私は一生ここから立ち上がれないような気がした。

 そうだ、私は疲れているのだ。このバラナシでは、2週間程滞在し体の疲れは取れた。

 しかし精神の疲れは回復してはいなかった。

 ふと服の下に隠した盗難防止の腹巻状のバックを、手で触る。そして中身を周りの人に見られないようにこっそりと確認する。

 中には残りわずかなアメリカドル。これがなくなる前に帰国しなくてはならない。

 そして航空券。デリー空港発関西国際空港着。この航空券は一ヶ月前に期限が切れて使用不可だ。持っている意味があるかどうか分からないが、捨てる理由もないので未だバックの中に収納されている。

 当初、一ヶ月半と予定していた旅行も二ヶ月が過ぎ、もうすぐ三ヶ月目に達しようとしている。旅行するにつれて目新しいものが少なくなり、日数に比例して好奇心たるものが、減少していくのが自分でも感じられた。

 しかし、この様に無感動になったのはバラナシに来てからだ。ろくに観光もせず毎日同じ飯と食べ、部屋に戻るとベッドの上から動かない。なぜだろう。

 考えていると突然インド人男性三人に話しかけられた。見た目からしてカーストが低い人たちだろう。それぐらいは分かるようになった。

それぐらいしか分からないと言った方が正確だろうか。

 たぶん彼らは列車待ちではなく、私が持っているギターに興味を示し話しかけてきたのだろう。しかし彼らはヒンドゥー語しか話せない為、私には理解することができない。

 以前の私なら、バックパックの中にある会話帳をひっくり返してでも取り出し、どうにかコミュニケーションを図ろうとしたことであろうが、今の私には彼らをただただ見ているだけで、する事と言えば時折愛想程度の笑みを浮かべるだけであった。

 それでも彼らは熱心に話しかけてくれているのだが、突然彼らは私の後方を見て顔の笑みが凍りついた。

 何事なのかと振り返ると、私の後ろには大きな体の警官が立っている。そうこうしているうちに彼らは数人の警官に囲まれ、次の瞬間には警官の持つ棍棒が一人の体にめり込んでいた。それが合図だったかのように他の警官も棍棒を振るう。

 あまりにも一方的で暴力的、彼らは抵抗せず、警官は笑みを浮かべる。

 そのとき私は恐怖した。

 暴力的だから、警官が冷笑していたから。いいや違う。何も感じない自分に心底恐怖しているのだ。

 まがいなりにも先程まで会話していた相手が殴られ流血しているのに、何も感じないのだ。思っていた事と言えば、彼らは警察に殴られるような悪人なのか、そうでないのか、インドではやはり警官には逆らえないものなのか、とそのような事だ。

 何も感じなかったのだ。その光景をくすんだ目で冷たく見ていたのだ。

 その事実が恐ろしい。

 彼らは引きずられて連れて行かれる。何も感じないのだ。

 自分が恐ろしい。

 自分の感情に戸惑って呆然としている私に、遠くから様子を窺っていたアメリカ人が私の横に座り、口から言葉を発する。

「彼らは何かしたのかい?」

「私にもわからないさ」

ため息が言葉に変わる。

「そうなのか」

「ひどいものさ」

心では思っていない。

「これがインドってことさ」

彼は温度のない声でそう言った。

 彼もそうなのか。彼も旅行を続けて失ったのか。

 私と目が合い笑みを浮かべるが、目はくすんでいた。そして彼も私と同じ思いに至ったのだろう。互いに沈黙する。

 旅行によって得るものもあるが、失うものもある。少なくとも私はそうだ。そんな事は分かっていた。しかし私は一番失くしてはいけないものを失ってしまった気がした。

 この旅行がいつまで続くか分からないが、果たして落し物を取り戻すことができるのだろうか。

 それとも一度私から離れてしまった<それ>は再び戻ることはないのだろうか。

 分からない。何も感じないのだから。


 列車はまだ来ない。

私が体験したインド旅行を元にして、書いてみました。

実体験ではないですが、旅行中に出会った人などの話を参考に旅人の内なる変化を書いたつもりです。


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― 新着の感想 ―
[一言] 小説というよりは、旅行記のようですね。(っていうか、旅行記ですね^^;) タイトルが「喪失」ということで、心の中の喪失を描いている重いテーマだと思いますが、列車を待つ間だけの短い時間のことし…
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