安息はない
ククリと共にナロウの邸宅を後にすると、ニコンが腕を組み、樹木の外壁に寄りかかりながら待機していた。何か考え事をしているのか、静かに目を瞑っている。
「あの……」
恐る恐る声をかけてみたが、反応はない。何か不機嫌そうな様子である。
「にこん?」
ククリが不安げに声をかけると、それが嘘だったかのようにニコンは目を開き、姿勢を正した。
「……やっと起きたのね」
「あ、うん……おかげさまで……」
「トードルは?」
「ナロウさんに預けてきた。明日また来てくれって」
「……そう」
ニコンは僕の顔を刺すような視線で観察している。
「……なに?」
気まずさと重圧感に耐えかねて、僕は尋ねた。
「別に……」
ニコンはそれだけ答えて目を背け、歩き始めた。
僕の勝手な行動で彼女を大聖堂での事件に巻き込んだのだ。不機嫌になるのも当然だろう。
「あのさ……悪かったよ。色々と迷惑かけた」
僕はククリと共に彼女を追いかけながら、正直に謝罪した。しかし彼女は気にする様子も見せず、歩みも止めず、話題を切り替えた。
「体調は大丈夫なわけ?」
「あ、うん……。元気になったよ」
ここを訪ねた時よりもずっと身体が軽いと感じるのは、精神的な不安が解消されたことが大きいだろう。
見渡すだけで吐き気を催す絶景にも、恐れを感じなくなっている。ほのかな薄緑の灯りに照らされ、翡翠色に染まる樹々が、これほどまでに美しいと感じたことはなかった。
しかしそんな僕とは対照的に、ニコンは大きなため息を一つ。
「呆れた……。あんた丸々二週間も寝てたって自覚あるの?」
「えっ……。…………マジ?」
清々しい気分が一瞬にして消し飛ばされた。
確かにククリの家で食事を済ませた時、彼女の両親が過剰なまでに心配する眼差しを向けていた記憶はある。
「あんたが餓死しないようにその子と世話してあげてたんだから、謝る前に感謝しなさいよね」
聞くところによると、液状にした食物をククリの風の力で口から食道に押し込んでくれていたらしい。
少々手荒なように聞こえるが、そのおかげで僕は生きているのである。
それに今僕は、ククリの父親のものであろう衣装を身につけている。つまり着替えの世話までしてもらっていたことになる。
「ええー……。あ、ありがとう……。なんか恥ずいな!」
それにしても二週間か……。
「急に落ち込んで。どうかしたの?」
「夏休みが終わってしまう……」
茫然としながら、あてどなく僕は呟いた。
「はあ? あんたね――」
よもやニコンの呆れボイスは耳に届かない。
娯楽に多忙な大学生にとって二週間のロストは死活問題になる。
「わかってる。そんなことを気にしている状況じゃないって言いたいんだろ」
この世界がどれだけ危機的な状況に置かれているかなど、誰かに言われるまでもなく理解できる。
黒い空の下で生きる人々が僕に向けた眼差しは、未知のものに対する恐怖よりも疲労感に満ち溢れていた。
僕はこれから、少なくともサリエルを見つけるまではこの世界で生きていくことになる。
「それでも、知人や家族に心配はかけたくないんだよ。せめて連絡手段の一つでもあればいいんだけどな……」
自身の携帯電話はバッテリー容量を節約するために『アリュート』に保管してあるが、電波が届いていないことは確認するまでもない。
「無理ね。でも《ノア》の権力である程度は何とかしてくれるんじゃない?」
こちとら混乱に乗じてとはいえ、その《ノア》から逃げ出している身なのだが。
「そもそも今日は何月何日で、今は何時なんだ……」
空を見上げてもずっと星ひとつない真っ暗闇。不気味な赤い魔法陣が世界を照らしているだけ。
ふと気になった。昼も夜もないこの世界の人々は時間をどう認識しているのか。
「その質問はこの世界ではタブーよ。地球と違って暦の数え方に文化や信仰が絡んでるから。少なくとも二月、多くとも二十三月ってところかしら」
「ええ……」
「一年にかかる日数がおおよそ地球と同じなのは覚えやすくて良いでしょ」
妙な偶然もあるものだ。
地球に生命が根付くことが出来たのは、複合的な奇跡の連続によるものだと聞いたことがある。この世界の人類は、似たような環境があったからこそ、僕たちと何ら変わらない姿で生まれてきたのかもしれない。
「ふーん……。ところで、ニコンはどこに向かってるの?」
「ククリの家に決まってるでしょ? ひ・じょ・う・に不服だけど、サリエル様からあなたの護衛を命じられてんのよ……」
心底嫌そうな様子で、ニコンは肩を落としながらそう告げた。
不機嫌な理由がわかった気がした。いつ目覚めるかも定かではない僕のことを、ニコンは守ってくれていたのだ。彼女にも予定があっただろうに。
「そういえば俺も言われてたな……。ニコンを守れって」
「ハァア? 誰に、何のために?」
「さあ……。この様子ならその必要もなさそうだけど」
「言っとくけど、あたし婚約者いるから。余計な期待はしないことね!」
「何の話をしているんだ……」
そんなふうに、特に意味のないやり取りをしているうちに、僕たちはククリの家に帰ってきた。
僕からしたらどの角度で切り取っても同じ景色が続いているようにしか見えないのだが。よく迷わずに行動ができるものだと、些か僕は感心していた。
『それじゃあたしは用事を済ませて宿に戻るわ。ククリはその間そいつをよろしくね』
『うん……』
何らかの指示にククリは頷き、ニコンはどこかへと向かった。
「まだ病み上がりなんだから、あんたはまだしばらくおとなしく寝てなさいよ」
「わかった」
ニコンの背を見届けて、僕たちは家に入った。
言葉のない静寂が迎え入れる。温かみは残っているが、ククリの両親は不在のようだ。
「ただいま。……で、いいのかな」
「…………タダマ」
時折、ククリはこうして僕の日本語を真似ている。その姿は愛くるしく、この世界における唯一の癒しといっても過言ではない。
ククリは僕の手を引いて、寝室に誘導した。
「寝てろとは言われたけど……そんなすぐに寝るべき?」
いろいろなことがあり疲れはしたが、まだ目覚めてから半日も経過していない。
少しくらい、この世界について調べても罰は当たらないだろう。
――という浅ましい考えは、ククリの命令によって打ちのめされた。
「ハヤク・ネロ」
「はい……」
一体どこでそんな言葉を覚えたのか。考えるまでもない。
潔く眠るとしてもだ。僕が今着ているこの国の衣装は厚めの素材で縫われており、少しばかり暑苦しさがある。
気候的には理にかなっているが、温かな布団が一枚あるのだからそれで充分だ。
故に、もう少し身軽な格好になりたいのだが、どうやらククリは僕が寝付くまで見張っているつもりのようである。
「……?」
僕の視線に気付いてはいるものの、意図は汲み取ってもらえておらず。言葉も通じないので行動で示すしかない。
「ちょっと失礼」
僕はククリの両肩に手を置き、そのままぐるっと半周してもらった。
まだ何もわかっていないようなので、念のため部屋から退出してもらった。
これで心置きなく服を脱げる。と思ったが、いかんせん不慣れな構造をしており、粗雑に扱うわけにもいかず、一つ脱ぐにも一苦労である。
ようやくパンイチになり、久方ぶりの開放感を味わう。同時に、部屋の扉が開いた。
「あっ……」
ククリと目が合い、小さな悲鳴と大きな後悔が虚空に響く。
だが彼女は強い。声は漏らしてしまったものの、眠たげな表情は変わっていない。なんとなく、瞳の解像度設定だけ小刻みに変わってるような気がしないでもないが、気のせいのはず。
ぱたん。静かに扉が閉められた。
しかしすぐにまた、きぃと音を立てながら扉がゆっくりと開く。
彼女の姿はない。不審に思い暗い廊下に意識を向ける。すると、これを着ろと言わんばかりの衣服が二点、魔術の風に乗せられながら、豪速球の如き速さで僕の顔面に直撃した。
「また意識が飛びそうだ……」
さすがに冗談ではあるが、ビンタくらいの力はあった。風の力ってすごい!
かくして、僕は安眠を享受できるようになったわけだが、明日から激動の日々が始まろうとしていることは言うまでもない。
はっきり言って全然眠くないので、寝れる気が微塵もしないものの、明日に備えてゆっくり休むことにした。
意思に反して、自分でも驚くほどにすんなりと、僕の意識は穴の底へと落ちていった。
その自覚があるときに、決まって辿り着く黄昏の空。
「ああクソ……またここかよ!」
目の前には雲海に立つ見慣れた老師の姿があった。僕はまた『アリュート』に呼び寄せられたのだ。ヴェルガの小言を聞くために。
「不便だろう」
「……何が」
「言葉や意思の疎通ができんことだ」
「そりゃまあ……」
するとヴェルガは、僕たちがいる真下から何かを引き寄せた。何冊かの書物のようだ。
「――なので、今回は勉学の時間としよう」
神妙な面持ちで、ヴェルガは児童書を僕に見せびらかす。
ウケ狙いでやってるならかなりのセンスだ。
「でも確かに、軽い挨拶くらい教えてくれたら助かるかもしれない。意外と気が効くところがあるんだな」
「全てだ」
「ふぁっ?」
「言語、歴史、文化――必要と思しき教養を全て叩き込んでやる。そのために呼んだのだ」
この世界では時間が止まっている。
それは言い換えれば、いくらでも勉強が出来るということであり――。
そして、彼の許しを得るまで僕に明日は来ないということでもあった。




