ナージスの王
僕は力が抜けて、膝をついてしまった。
「貴方は……日本語を話せるんですか?」
「はい。もうほとんど忘れてしまいましたが」
老人は苦笑しながら、そう答えた。
それだけでも、どれだけの安心感が芽生えたことだろう。
ニコンと出会った時もそうだったが、言葉も文化も全く知らない異国に放り出されるのは、精神に相当なストレスの掛かることだった。
ククリに拾われて家に転がりこまなければ、僕はとっくに狂人と化していたに違いない。
「教えてください! どうすれば日本に帰れますか! はっきり言ってここには……居たくないんです……」
藁にも縋る思いで、僕は尋ねた。老人が村の重役であることとか、礼儀とかはどうでもよかった。
とにかくすぐにでも、この太陽の昇らない地獄から解放されたかった。
「どうか落ち着いて。……残念ですが、私にはアンドウ君を元の世界に帰すほどの力はありません。ですが、手助け出来ることはあります。ですから、一度きみと話をする機会が欲しかったのです。よろしいですか?」
「わかり……ました……」
僕たちは応接室のような場所に通され、老人と向かいあう形で座った。
僅かな移動にも護衛の者が随伴するところ、よほどの重要人物のようである。
『ご苦労でしたね。貴方は席を外してください』
『危険です。彼は罪人ですよ!』
『それをこれから確かめるのですよ。私がこの者に制圧されることはありません。不服ですか?』
『……いえ』
何やら老人と警備の男がやり取りをして、護衛の男は退室した。
こちらに明確な敵意を残したままに。
「今は苦しい時代ですから……。この国で貴方に与えた数々の無礼をどうかお許しくださいね」
「はあ、まあ……」
腹部に風穴を空けられたのだから、一概に『はい』とは言えなかった。
「改めて自己紹介をしましょう。私の名はナロウ。この風の国『ナージス』にて長を務めております」
「や、やっぱり王様だったんですね……」
「いやはや、辺境のちっぽけなところですから……。強いて言うならば村長の方が近いかもしれません。そう緊張なさらないでね」
このナロウという老夫、この国の民衆と違って一切の緊迫感や、焦燥感が感じられなかった。彼の眼差しは、希望に満ち溢れている。
春のような穏やかさに合わさる絶対的な余裕。その根底にあるのは間違いなく本人の実力や、経験だろう。護衛の者を悠長に遠ざけるくらいなのだから。
「アンドウ君。きみのことは、大方ニコンさんから聞いています。日本から、大いなる力によって転移してきたと。きみに怪我をさせた兵士長のラヴィルくんも、同じ頃合いに同様の現象に巻き込まれ、こちら側に帰還したと報告を受けています」
「大いなる力、ですか……」
僕には転移した当初の記憶がない。
思い出せるのは――大事な人を守れなかった記憶。
そして、他でもない自分の手で見知らぬ人たちを殺戮した赤い感触。
耐えがたい現実に、再び体内が疼きだす。脳裏に焼き付いた光景が、またも再生されようとしている。
「大丈夫ですか?」
透き通ったナロウの声に、僕は我に返った。無尽蔵に湧き出る負の感情が一瞬にして蒸発した。
「何を……。今、何かしましたよね?」
「風は歴史を語ります。きみから吹く風が、あまりにも哀しかったものですから……。見知らぬ世界に来て、心が限界を迎えているようです。よければ私に何があったか話してみませんか。私なら、聞くことぐらいはしてあげられますよ」
その言葉は、破裂の寸前だった僕の心に塞がれた蓋を、いとも容易く引き剥がしてくれた。
ククリが心配そうにこちらを見ている。そんなことはお構いなしに、一体今の僕の表情はどれだけ間抜けで潰れた形をしているだろうか。
「辛かったんですよ。本当に……」
僕はこの世界に来る前からの数奇な出来事を、思い出せる限りナロウに語った。
ナロウは何も質問せず、うんうんと頷きながら、終始それを聞いてくれていた。
「一つ安心したことがあります」
ひとしきり話し終え、僕が落ち着いたところで、ナロウは微笑みながらそう言った。
「安心したこと?」
「貴方が優しい心の持ち主だということです。しっかりと自分のしたことを背負い、悔いている。許されるかどうかは誰が決めることでもありませんが、少なくとも貴方には、反省し、前に進む資格があると思えます」
「ありがとう、ございます……」
「……《灼炎》の契約者だと仰ったときはさすがに警戒を強めましたが、その必要は全くなかった」
「めぎゅらす……サチュリのことですか」
「ええ。多くの方が彼女のことを通名で呼ぶことでしょう。もちろん、契約者たるきみがそうする必要はまったくありませんけどね」
「あいつは……そんなに有名人なんですか……」
誰と話しても、皆が口を揃えて言うことがある。
「最悪の家系、ですからね……。不慮の事故とはいえ、契約者となってしまったことは、気の毒にすら思えてしまいます」
あの日、謎の声に導かれて僕はサチュリと契約を交わした。
それがなければ僕は今も普遍的な大学生活を送っていたのだろうか。後悔がないと言えば、嘘になるだろう。
しかし彼女を責める気にはなれないのは、果たして契約の影響なのだろうか。
今の僕は、自分の本心に向き合っている余裕すらないのだ。
「どうして……そう、呼ばれているんですか。サチュリはそんなに、悪い人間じゃないのに……」
「レクシリア家は単刀直入に言えば、大罪人の家系です。人を殺すことを厭わず、それによって世界で唯一、司法ではなく神によって制裁を受けた。長い歴史の中で、彼らがしてきたことは到底許されることではありません。ですが《灼炎》とその兄が人々に恐れられる理由は他にあります」
「その理由とは?」
「十歳という若さにして《三魔帝》の座を手にしたことです。世界最強の名を冠するには、彼女はあまりにも若すぎる。しかもそれを決するために最後に対決したのが、実の兄だった。勝敗が違えば、彼女の兄であるリュード=レクシリアが《三魔帝》になっていたということです」
この世界の人々は、レクシリア家の力を恐れているのだ。
本来ならば《三魔帝》という肩書きは世界を導く希望の光であるべきであり、それを幼い彼女に背負わせるにはあまりにも重いものだった。
「しかしアンドウ君、きみと契約が行われたことで、状況がまた少し複雑になりました」
「状況……」
「魔界人の契約にはある特性があります。魔力に対する限界量が両者間で均一化されるのです。何かと、心当たりがあるのではないでしょうか?」
「……何もしてないのに体力が増えました」
ナロウは確かめるように頷いた。
「異邦の者との契約でも例外はないようですね。つまり《灼炎》は極度の弱化状態に陥っています」
「……銃弾を受けても、ピンピンしていましたけどね」
「認識が甘いですよ。《三魔帝》ともあろうものが、物理的な攻撃を受けていることが異常なのです」
正直なところ、僕がサチュリの足枷になっているのだろうという自覚は、ずっと前からあった。
罪悪感こそあれど焦った様子を見せない僕を、ナロウは不思議に思ったに違いない。
しかし感覚的に分かることがある。サチュリは遠い場所で、図々しく生活している。契約の影響で互いに通じ合う回路のようなものが出来ているようだ。分かるのは、大まかな方角と、どのような精神状態にあるかだけだが。
「僕はこれから、どうすればいいんでしょうか……」
「すこしでも彼女の助けになりたいと思うならば、修練に励むことですね。きみの魔力の扱いが熟達するほど、彼女も全盛期の力を取り戻していくことになりますから。そのためにはまず、言語の習得からですね。この世界で生きていく力を、つけてもらわなければ」
この世界で、生きていく……。確かに必要なことだろう。
しかし家族に別れも告げないままに姿をくらますなど、願い下げだ。
僕は元の世界に帰るために、この世界のことを知ろう。
緩やかに、ただ着実に、僕の決意は固まっていった。
***
「精神も落ち着いたようですし、そろそろ本題に入りましょうか」
「はい……」
「聖堂での一件についてはもう伺っています。襲撃者の主犯と思われる男を、魔術によって隠匿していますね。まずは彼を解放してください」
僕は言われた通りに、《白窓》を展開してトードルを召喚した。
『うっ……? ここは……?』
『混乱しているところでしょうが、きみはそこに座っていてください』
ナロウが魔界語で何かを促した。
『……っ!』
トードルは暴れることもなく、一度ぶったまげたような表情をして、大人しく指示に従った。なにやら動きがぎこちなく、物凄く緊張しているように見える。
「アンドウ君、私はきみを責めたりはしません。ただ理由が知りたいのです。何故見ず知らずの《狂人》であった男を庇い、助けたのですか?」
「……彼の様子が他の《狂人》と違って見えたからです。なんか、正気を取り戻しているような気がして……。それは、他の人も感じ取っていたはずです」
絶望に打ちひしがれてこの国を襲った《狂人》は皆、ゾンビのように見えた。
何の目的もなく、欲望のままに人を襲う。初めてトードルに遭遇した時もその例に漏れず、まるで同じ人間のようには思えなかった。
しかし聖堂で見たやつれきった彼は、それとは全く別の生物のように見えた。人間性を取り戻していたのだ。
僕は彼の処刑を止める説得をするために続ける。
「これは推測ですが《狂人》はただこの世界に絶望して本能のままに生きようとしているのではなく、誰かに魔術によって操られているのではないでしょうか?」
「そういった説を提唱する学者も、少なくありません」
「じゃあ……!」
「――ですが、それを検証する術がないのです。知っての通り《狂人》はかなり危険であり、身を守るためにそれを殺したとしても罪には問われません。理性を失っているとは言え、魔術を行使する個体もいます。奇襲をしてくる個体だっています。この個体差を、一つの魔術によって支配できるとは……考えにくいです」
「検証……僕だったらできるかもしれません」
その言葉に、ナロウは目を丸くした。
「どうやって?」
「そこにいるトードルが証拠になります。僕が彼を吸い込んで、壁に叩きつけて気を失わせたのちに、彼は兵士に捕まって牢屋に入れられたんですよね。その一連の行動のどこかに《狂人》を正気に戻す手段があるはずじゃないですか」
「ふむ……。きみの魔術、かつて見たことがない形をしていますが……空間定義系の術式であることは何となく分かります。収納魔術に人間を放り込むなど危険極まりない行為ですが……」
「この魔術に吸い込まれている間は、時間が停止します」
「そんなことが……? どうやって調べたのです」
「時計を吸い込んで確認しましたし、中の人が教えてくれました」
「……中の人?」
「異空間の管理人ですけど……」
理解のできないものに出くわしたかのように、口を半開きにしながらナロウは首を傾げる。
魔術に対して理解がないのは僕も変わらないから、僕が何かおかしなことを言っているのは間違いない。
「空間魔術を行使しているのに、その支配権がないということですか?」
「ええと……分からないです。教えてもらったのは、その世界の名前が〝アリュート〟といって――」
「ま、待ってください。異空間の中に世界? あぁいかん、血圧が上がってきた……」
ナロウは頑張って深呼吸しようとしている。老人も大変だ……。
「……大丈夫ですか?」
「レクシリア家の契約者だという話が、なんとなく現実味を帯びてきた気がしますね……」
「これはおかしいことなんですか?」
「空間魔術で保存できる質量は、術者の魔力量に比例するんです。運び屋を生業にしている者でも住居一つを丸ごと仕舞うのが限界でしょう……。異空間に世界を形成しているなど、聞いたこともないし、きみから感じられる魔力の量からも到底考えられません」
「じゃあ僕の能力は、ただ〝なんかすごい世界〟への入り口を開いているだけなのか……?」
空間魔術を開いたら中におっさんがいた。考えてみればおかしな話である。
ロディに急かされながら限界量を調査した時は、まるで終わる気配が見えなかったが、これは単純にあのおっさん――ヴェルガの保有領域を勝手に借りているだけなのかもしれない。
なんだか急に自分の能力がショボいような気がしてきた。
「して、その空間の管理者は誰なのです?」
「勝手に教えていいものか……」
「老い先短い身ですから。私一人くらいに教えたところで罰は当たらないでしょう。それに私は寝てばかりなのでね、恥ずかしながら世間のことを知らないのですよ。ですから、どんな名前が出ようとも驚きませんよ」
そこまで言うなら、と、僕はその名を口にした。
「……ヴェルガっていう、顔がいかつい爺さんです」
「えええええええええええ〜っ!!」
過去一大きな驚愕に、僕の鼓膜は破壊された。




