邂逅 - Ⅲ
それは声というよりも、耳鳴りと言った方が近いのではないかと考える程に儚いものだったが、確かに僕の頭に響いてきた。
「……ミヤちゃん、なんか言った?」
「へ? 何も……言ってないよ?」
隣にいたミヤちゃんはキョトンとした顔で答えた。
「……? 気のせいか」
幻聴だったようだ。
今朝は頭痛もあったし、しばらく家に引きこもっていたせいで、暑さに身体が慣れていないのかもしれない。
「おーい、早くー!」
既に離れた場所まで戻っていた黎が僕達を呼びかけた。
元運動部なだけあって、彼女はこの暑い中でも溌剌としている。
――駅に戻ったら、飲み物でも買うか。
そう考えながら、一歩足を踏み出した時。
(……助けて、お願い!)
「……ッ!」
――まただ。
気のせいではない。誰かが助けを呼んでいる。
透き通るような女性の声が、歪んだ金属音のような耳鳴りと共に僕の頭に響く。
周囲を見渡しても、それらしい姿は無い。
僕達のように、無駄足だったことに気付き悲嘆と共に踵を返していく者ばかりである。
警備員の様子も先程と変わらず、この日差しの中ぼんやりと立っているだけだ。
しかしその声を意識した途端に妙な焦燥感に駆られ、胸の鼓動は高鳴り、不快な汗が僕の首筋を伝う。
「……おい、どうしたんだ安藤」
僕の様子がおかしい事に気が付いたのか、ダニエルが声を掛けた。
「は……? いや、聞こえただろ今! 『助けて』って!」
「はぁ? 何も聞こえんかったぞ」
僕の近くにいたというのに、ミヤちゃんとダニエルにも聞こえていないようだった。
周囲の人々も、何事もないと言わんばかりに歩いている。
――僕だけが、その声を聞いていた。
「……ごめん、幻聴っぽい。疲れてんのかな」
苦笑混じりに言うが、内心は不安で仕方がなかった。
とにかく気味が悪い。
ヘッドホンで音楽を聴いている時の感覚が近いだろうか。
頭の真ん中から声が響くのだ。こんなことは生まれて初めてだった。
もしかして幽霊か? そんな考えが脳裏をよぎる。
オカルトの類は信じていない。――が、恐怖に支配されつつあった僕は、そんな迷信にすら縋り、自身を落ち着かせようとする。
(……助けてってば、早くっ! 走って!)
それでもなお、美しくも不快な声は容赦なく僕の中に響く。
気分が悪くなって、僕はその場に崩れた。
「……ダメだ、ちょいトイレ行ってくる」
「あっ、おい!」
「先に駅まで戻っててくれ!」
僕は荷物をその場に捨て置き、走り出していた。
海の方角へ。まるで、誘い込まれるかのように。
しかしこの時僕は、自身の行動に何の違和感も覚えていなかった。
まるで、こうすることが当たり前だと言わんばかりに。
まるで、誰かが僕の身体を操っているかのように。
僕は警備員の目を盗み、海岸沿いに生えていた樹によじ登り、高い柵を飛び越えた。
「いってぇ……」
柵は、四メートルはあっただろうか。
もちろん体勢は崩れて、肩から落ちた。
飛び降りた先は柔らかい砂浜で、幸いにも怪我はなかった。
そして、立ち上がり海を見渡す。
それはまた、異様な光景だった。
目に映ったのは、白い砂浜に、深い青みを帯びた海――それだけだ。
工事なんて、していない。
ただ、海の向こうに数機のヘリが飛んでいて、何かを捜索しているようだった。
(こっち……)
今度ははっきりと、頭の中に聞こえた。
声は頭の中でするのだが、不思議なことに僕がどこへ向かうべきか、わかったのだ。
波打ち際まで移動して、海岸に沿って走り出す。靴が完全に濡れてしまったが、そんなことは気にしていなかった。
岩肌が目立ち始めた所で、操り糸がぷつりと切れたかのように、僕は我に返った。
「……え?」
目に映ったのは、岩辺に打ち上げられた少女だった。
細く小さな身体を包む黒を基調としたドレス。
そして、海藻が絡み付いた純白色の髪――。
まるでよく出来た西洋人形のようなその姿は、暴力的なまでに美しく。
まるで時が止まってしまったかのように引き延ばされた一瞬の間――僕の視線を、虜にした。
しかし今の状況が、少女の容姿について考察している場合ではないことは、既に混乱しきった自分の頭でもわかることである。
僕は急いで少女を引き上げた。普段、運動などしていないため、その些細な行動ですら息を上げてしまう。
――溺れたのだろうか?
――この格好で?
頭を高速で流れる様々な情報は、徐々に冷静さを取り戻して纏まっていき、やがて一つの結論へと至る。
「救急車……ッ!」
自分に言い聞かせるように呟きながら、携帯を探す。
しかし、いくら探せど見つからない。
そしてすぐに、置いてきた荷物の中にある事を思い出した。
――となれば、自身に出来る事は一つしか残されていない。
「じ、人工呼吸! ……だよな?」
応急処置の講習は何度か受けたことがあるが、実際にそれを誰かに対してした事など、無い。
相手は幼い少女だが、倫理観がどうとか、そんなことを述べている場合ではない。
胸骨を圧迫し、酸素を送り込むために口を重ねた。
「……うッ!?」
その時、心臓がたった一度だけ大きく跳ねた。
全身に電気が流れる感覚。
迸る、身体が灼けるような寒気。
そして同時に、頭が割れるような痛みに襲われる。
見たこともない風景が、映像として一気に流れ込んできた。
そして――
「おえぇぇ……」
僕は足元に嘔吐した。
かろうじて、少女の身体は汚していない。
しかし、酸素はまだ送り込んでいない……はずだった。
「……っ! ゲホッ! ゲホッ! うぅ……」
だがその少女は、息を吹き返し、ゆっくりと自分の力で起き上がる。
これを奇跡と言わずして、何と言うのだろう。
「よかった! 君ここに倒れてたんだけど大丈夫? 今救急車を……」
「……助かったぞ! まさかこんな辺鄙な場所に蘇生術師がいるとはな!」
「……はい?」
思わず声が出た。
確かに、この子が言っていることは理解出来たが、この子は今、日本語を喋っていなかった。
「おい、お前そこで何をしてる!」
不意に背後から、怒声が響く。
見ると、警備員の格好をした男が、こちらへ早足で向かって来ていた。
まずいと思ったが、同時に助かったとも思った。
「救急車呼んでください! この女の子が倒れてたんです!」
「――何だって?」
警備員は、胸ポケットから携帯電話を取り出す。
慌てる様子もないその動作に、違和感を覚えつつも、僕は安堵の息を漏らした。
「……はい。間違いないかと。髪は白いです。学生と思わしき男性が既に発見していたようですが。……ええ。片目だけ、赤い色をしています」
しかし気づいてしまったのだ。
警備員の様子がおかしいことに。
本当に、その電話の先にいるのは、病院の関係者か?
「……わかりました」
警備員は、電話を切る。
そして、おもむろに一丁の拳銃を取り出し、少女の方へ向けた。
「……ごめんなお嬢ちゃん。おじさんな、二十年くらいこの仕事してるけどな、銃で人を撃つのは初めてなんだ。脚を狙えって言われたから、動かないでくれよぉ?」
状況が理解出来なかった。恐怖心だけが僕を支配していて、動くことはおろか声を上げることすら出来ない。
「なんだ、その黒い道具は? 射出系の魔導武器か?」
なぜこの少女は、ここまで平静を保っていられるのだろう。
背筋を伸ばしながら、興味津々にそんなことを尋ねている。銃口を向けられているというのに。
「…………?」
警備員は何も答えない。そもそも、少女の言葉が通じていないのだ。
「に、逃げろッ!」
やっとの思いで僕は声を絞り出した。
それと同時に、警備員は銃の引き金を引く。
誰もいない海岸に、大きな銃声が響いた。
思わず、目を瞑ってしまう。
おそらく、目を開いた先には、目も当てられない光景が広がっているのだ。
「……なるほど! やはり武器だったか! 少しばかり驚いたぞ!」
少女の感心した声が聞こえた。
銃を外したのだろうか。
恐る恐る目を開くと、しゃがみ込み親指と人差し指で銃弾を摘まむように受け止めた、少女の姿があった。
しかし、その指からは血が滴り落ちている。
「……だが、遅いな。私には、止まって見えたぞ?」
そして、瞬く間に警備員の目の前に踏み込み、腹を殴る。
一瞬のうちに、警備員は吹き飛ばされていた。
そして、少女はこちらを見る。
「ひぃぃ……」
僕は腰を抜かし、情けない声をあげるしかなかった。
殺される。この少女は、人間ではない。
――片目が、血のように赤い色をしていた。
「ふふ、そんな恐れることはない! お前は私を助けてくれた恩人だからな! 名は何と言う?」
「あ、安藤……です……」
「アンドーか! 私は、サチュリ=レクシリア。こう見えても誇り高きレクシリア家の当主で、三魔帝の一人だ!」
既に、思考は硬直し、追いつこうともしなかった。
夢なら早く覚めてほしい。
呆然とする僕を余所に、サチュリと名乗る少女は海を見つめながら言葉を紡ぐ。
「いやぁ驚いたな。世界を跨ぐ程の転移魔術が発動したと思ったら、その先は真っ暗な水の底だ。――で、私をこの世界に呼び寄せたのはお前か、アンドー?」
「……い、いや、俺も誰かに呼ばれてここに来たんだ……。君よりも高い女の子の声が頭に響いて――」
「なるほどなるほど! 嘘はついていないのはわかるが、わからないことが多すぎる。質問を変えよう――」
夏だと言うのに、背筋におぞましい程の寒気が走る。
この子は何だ。ヒトの形こそしているが、人間ではないと本能が告げている。
「ここは、どこだ?」
「……どこって、東京だよ……日本の、東京」
「トーキョー……初めて聞く言葉だな……。それにこの景色……やはり異界まで飛ばされたか……?」
またわけのわからない独り言を言い出したと思った矢先、一機のヘリコプターがこちらに近づいてくることに気づく。
機体がものすごい低い位置まで降りてきたと思うと、遠目で見てもわかるような重装備をした者達が何人も降りてきた。
「……なんなんだよ、なんだよ今度は……!」
「アンドーよ、もう一つだけ問おう。……アレ――私達に殺意をむき出して近づく奴らは、お前の仲間か?」
「わかんねえよ! ……わかんねえけど、死にたくないよ!」
これがその時の僕にとっての、精一杯の返答だった。
しかしその意図を、サチュリは汲み取ってくれたようだった。
「……そうかそうか! ならばその岩陰に隠れていろ――」
潮風がサチュリの白い髪を靡かせる。
これから始まる惨劇の、狼煙をあげるかのように。
「――皆殺しだ」
彼女は楽しそうに笑みを浮かべながら、そう呟いた。