邂逅 - Ⅰ
地震から三日が経っていた。
それと共に隆起した海底火山の活動は活発で、このまま島が形成されると日本の領海が増えるだろう、とニュースでは報道されていた。
幸いなことに、被害も最小限のものだったようで、怪我人は数人で済み、死亡者・行方不明者もいなかったらしい。
時刻は朝の六時を過ぎた頃だった。
今日からサークルの夏期合宿が始まる。おそらく、合宿というのは建前で、実際はただ遊びに行くだけなのだろうが。
三時間しか寝ていない。昼間ずっと寝ていたため、夜に寝付くことが出来なかったのだ。
生活リズムが崩れているせいか、地震があった時から頭は重く気分が悪い。
寝ぼけ眼で支度を済ませ、僕は自転車で駅へ向かった。
車の通りは少なく、坂を下る時に肌に触れる風は夏とは思えない冷たさで心地が良い。
高架下の駐輪場に自転車を止める。
ここには非常にたくさんの自転車、あるいはバイクが止められている。
忘れないように止めた場所を叩き込み、集合場所へ向かった。
集合場所は、駐輪場から歩いて一○分ほどの駅の改札口前だ。……そのはずだ。
「お、安藤ー! こっちこっち!」
集合場所に着くと、自身の名を呼ぶ女の声がした。
朝とはいえ、他にも駅の利用者は多くいるが、そんなものは気にしないと言わんばかりの大きな声。
声のした方に視線を動かすと、既に多くのサークルメンバーが集まっているようだった。
そして声の主は、こちらに手を振り、栗色に染めたポニーテールを揺らしながら飛び跳ねている。朝から元気なものだ。
僕は早歩きでみんなのもとへ向かった。
「うぃっす」
「うぃっす、じゃない! おはよう! でしょ!」
「……うぃっす」
正直なところ、僕はこの女、氷室 黎が苦手だった。決して嫌悪感を抱いている訳ではない。
理由としては至極単純で、僕はおとなしい子のほうが好みだからだ。反して黎は、常日頃から騒がしい。
喋らなければ可愛いのに、と常々思ってしまう。勿論口には出さないが。
名前がロボットアニメの主人公みたいだが一度これを本人に言った時、泣かせてしまった上、殴り飛ばされた事がある。
彼女は強いのだ、物理的に。高校時代はテニス部に所属していたらしい。
「よし、じゃあもっかいね! おはよっ! 安藤!」
「……うぃっす!」
悪戯にそう言ってみると、舌打ちをされた。
額に筋を立てながら、黎は獰猛な眼差しをこちらに向ける。
僅かに日焼けし健康的な肌色を見せていた彼女の拳は、音を立てながら力強く握り締められる。
「す、ストップ! これは俺なりのジョークだ! その拳をおろせ! 争いは何も生まない!」
僕はそう言い彼女の怒りを冷ましていく。これがいつもの流れだ。彼女はやれやれと、溜息をついた。
入学当初は冗談が通じずに死を悟った事が何度かあったが、黎も慣れたのか今となっては彼女の拳は僕を襲ったりはしない。
あ、でも代わりにアイツに飛ぶようになったような……。
――と、とある遅刻魔の事を思い返している時、黎の後頭部から麦わら帽子が現れた。
それは優しく黎の頭に被せられる。
「ん? あぁ、何だミヤか。ビックリするな」
黎の言葉と共に、背後からひょこっと顔を覗かせたのは、舞島 美夜子――ミヤちゃんだ。
「お、おはようっ……! 安藤くん……っ」
彼女は人見知りな性格で、いつも誰かに引っ付いて歩いている。
だが、黎のように慣れ親しんだ人に見せる笑顔は太陽のように輝き、向日葵のように暖かい。まるで天使のようだ。いや、天使だ。
髪を少しだけ茶色に染めウェーブをかけているが、それがなければ中学生に見間違えられそうなほど身長が低い。
空色をした薄手のワンピースから覗かせる繊細な身体は、僕にはあまりにも眩しく直視が出来なかった。
率直に言えば、僕はミヤちゃんに好意を寄せているのである。
僕が大学に入学した当初――「髪を染めるなんてわかっていない、黒髪最高!」だとか友人と議論をしていた時、僕は大学の敷地内で初めて彼女とすれ違った。
バカな――と振り返ると、同時にミヤちゃんもこちらを振り向いており、偶然なのか目が合ってしまった。
その瞬間、僕の主張は一瞬にして砂上の楼閣となり、恋という名の突風は、いとも容易くその楼閣を吹き飛ばした。
「おはよう! ミヤちゃん!」
「いやそこは、……うぃっすって言えよ」
爽快な挨拶を決めると、黎に冷たい眼差しで怒られた。
相変わらず的確なツッコミをくれる。黎のそういうところは嫌いではない。
僕が参加している、ゲーム制作サークル《ワイドグラフ》には、全学年含めて女性はこの二人だけだ。そして大半のメンバーが、交際関係を望んでいるのだから、凄まじい倍率である。
まぁ僕もぶっちゃけ、どちらかから告白をされたら迷わず承諾してしまうだろう。それは妄想の中でしか起こり得ないことだが……。
一年生は、男も二人しか加入していない。黎達と合わせて四人だ。
元々少人数のサークルだが、今年はその中でもダントツで少ないらしい。
「そうだ、あっちで先輩が出席とってるから、行ってきなよ」
「……ん、ああ、了解」
黎に促され、僕は名簿を手にした先輩の元へ向かった。
「……なんかあたしとミヤ子で態度違わない?」
「あは、ははは……そ、そんなことないと思う……よ?」
僕の背を見つめながら、二人はそんな会話をしていた。
***
「おはようっす、飯田さん」
「ほい、おはよう。一年生の安藤君ね。おっけ、チェックしたよ」
飯田先輩は人望があるようで、後輩の僕達にもフレンドリーに接してくれている。皆、彼の事を「飯田さん」と親しみを込めて呼ぶし、本人もそれでいいらしい。
逆に先輩と呼ばれるのは嫌だと言うのだから、少し変わった人だ。
年齢が僅かに違うだけで、隔たりや格差が生まれるのが嫌いだとか。
その点は同意出来るし、彼の志はサークル全体に浸透している。
ゆえにサークル内はインドア派の人間が多い割に、和気藹々としている。
僕が大学で最も尊敬している人物だ。
先輩の持っている出席簿に目をやると、既に一人を除いて全員集まっていることがわかった。
「……やっぱダニエルはまだきてないっすね」
「まぁ、集合時間まで十五分あるし、最悪新幹線の時間に間に合ってくれればいいから!」
「……間に合わないのがあいつですよ。授業だって遅刻しない日のほうが少ないくらいだし……」
苦笑を交えて、そんなやり取りをしていた。
――ダニエル・ブラックフォード。
一年生でこのサークルに加入した一人だ。
僕が大学生活で一番最初に出来た友人でもある。もちろん高校から一緒に進学した友人はいるが。
海外――確かイギリス出身で、外国人特有の自然な金髪に当初はかなり緊張したのを覚えている。
しかしいざ話してみると日本語はペラペラ喋るわ、趣味のゲームが合うわで、すぐに意気投合。
一緒にサークルを見学して回って、加入したという流れだ。
ダニエルは非常に顔立ちがよく、周りの女からモテる。入学した当時は、ネットゲームのモンスターのようにどこからともなく湧いて出た女の子に次々と声をかけられていたが、彼はそれを全て拒絶した。
彼は、訳あってこの世界の人間と恋が出来ないのである。
「お、来た来た」
「うわ、やべえ格好」
先輩達がそう言うので駅の入り口を見ると、こちらに向かって走るダニエルの姿があった。
彼が着ているTシャツには、何かのアニメキャラクターがプリントされている。
彼はそれを堂々と公衆の面前に曝け出し、この場所へと赴いたのである。
――そう、それがダニエルがこの世界の人間と恋愛出来ない理由なのだ。
「ハァ……っ! 間に、合った……!」
「……うっす、ダニエル。今日に限って早いんだな。まだ十一分も時間あるぜ?」
膝に手をつき、肩で息をするダニエルに少し煽りを込めて声をかけた。
彼からは制汗剤の香りが漂っているが、それは別に不快感を与える程のものではない。
「……? あぁ、そうか……。そう、だった。こんな事もあろうかと……はぁっ、……時計の時間をずらしておいたのさ……! 忘れてたけどな!」
ダニエルは、そのままずれた時計の時間を修正し始めた。直さなければいいのに。
「……よし。はい、《ワイドグラフ》の皆さん聞いてくださーい!」
不意に、今回の合宿の仕切り役である飯田先輩が、手にしたガイドブックのようなものを円筒状に丸め、声を張った。
どうやらダニエルの出席確認は、目視で済まされたようだ。
「えー、全員集まったんで時間になったら三十二分の新幹線に乗り込みます! 切符は各自で買ってもらうことになってるから、忘れないように、あと間違えないように買ってくださーい! その際、周りのお客さんに迷惑にならないように! よろしく!」
仕方ないとは思うが、声が大きすぎてそれが周りの迷惑になっていた事は言うまでもない。
一人のおばさんがあからさまに「うるせえよ」と言わんばかりの顔で、道を通って行った。
「……てっきり指定席とってあるのかと思った。ダニエル、切符買いに行こう」
「わかった」
「ちょ、ちょっと待って! あたしらも行く」
四人で外の券売機へ向かった。そっちの方が駅で買うより少し安いのだ。
――高校の時から、だいぶ変わったよな。
趣味がインドアな事に変わりはないが、高校の時は半ば引きこもりで、卒業もギリギリだった事を思い出す。
朝に苛まれていた頭の重さはいつの間にか消えて無くなっていた。
「安藤くん? 行こ!」
「おう」
ミヤちゃんに呼ばれて我に返った。
入学して三ヶ月が経つが、僕達はとても仲が良いと思う。
この仲が大学卒業まで――いや、きっとその後も続く事を心から願っていた。
しかし、この合宿を通じて僕たちの関係――そして運命に、一筋の亀裂が入ってしまうなんて、この時一体誰が予想出来ただろうか。
澄み渡った蒼穹を背に、僕たちを乗せた新幹線は首都・東京に向けて走り出した。