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平成の魔王  作者: 雪鐘 ユーリ
第二章 - 僕達が生きる世界
23/75

堕天 - Ⅰ

 六神による裁判が始まった。

 琥珀金エリオスの宮殿の地下に広がる審判の部屋。

 部屋に入ると直ぐに翼の生えた騎士の像がある。石像が地面に突き立てるようにして持っている剣は恐らく本物なのだろうし、並の代物ではないことは、武器に詳しくないルシフェルでもよくわかった。

 被告の立つ場所は床が透けて、広大な宇宙とその中に浮かぶ天界が望めるようになっている。


『審問官は揃いましたね。では被告、シェミル・オルディーナ・キュピレ。入りなさい』


 ウラノスが先程と同じホログラムの姿でそう告げた。

 すると、入口とは別の扉が勝手に開き、手錠を掛けられたシェミルが、弱々しい足取りで部屋の中央にある被告の席へと進んだ。

 六神の視線が一斉に集中する。


「ほう? 結構な美人だな……」


 ルシフェルの隣に座っていたアレクが呟いた。

 六神の異質なまでの圧力に耐える事が出来たのは、彼女が世界でも有数の戦闘能力を誇る戦士だったからであろう。


『シェミル・オルディーナ・キュピレ。【ミナシオン】のクローエン市街在住、〈アカシア〉管理局の防衛部隊に勤務されている二十二歳の女性――確認ですが、この情報に間違いはありませんね?』

「……ええ」


 ウラノスの問いにシェミルは静かに頷いた。


『続いて罪状の確認です。

 一つ、〈アカシア〉の持つ極秘情報を、外部の者に流した。

 一つ、“魔装(インブレイズ)”を異界で解放し、その力をその地の住人に向けた。

 一つ、異界の者に天の魔術を教え、その力を利用出来るように霊錐体の移植手術を受けさせた――。以上の三つに、誤りはありませんか?』

「……その通りです」


 六神裁判には、懲役などといった制度が無い。多数決により判決が下される。

 既に有罪であることに変わりはないが、シェミルにはたった二つの未来が与えられていた。


『では、被告に対する質疑に移ります。質問のある方、居ましたら挙手を』


 静まり返る部屋。

 大罪人に待つのは死だ。如何にして裁きを受けることになったのかを聞いて仕舞えば、もう彼女に興味を持つ者など、居なかった。


「……やれやれ。あんな美しい顔をしておきながら、異界の者に手をかけるとは――世の中、わからんもんだな」


 再び独り言のようにアレクは呟いた。


「あんたが言うなよ……」


 私語の多い教皇だな、と思いつつルシフェルはそう突っ込んだ。


『誰も居ないようですので、私が六神の一人として質問しましょう――』


 その後、ウラノスの放った言葉に、そこに居る者全員が耳を疑った。


『――“天国”と“地獄”、貴方はどちらへ行きたいですか?』


 今すぐ死ぬか、少し長く生きて苦しんで死ぬか――ウラノスは優しい笑顔で、それを被告であるシェミルに問い掛けた。

 しかし、シェミルは何も答えなかった。

 決して、絶対神に対する恐怖で口が開かなかったわけではない。その選択肢には、答えはない――そう言わんばかりに、シェミルは真っ直ぐにウラノスの顔を見据えていた。


「ほう……」


 その瞳に映る果てのない生への執着に、一人の神が興味を示した。


『……愚問のようでしたね。では、判決に――』

「待て」


 一言だけ言い放ち、静かに手を挙げたのは、神の名を冠するにも関わらず人々から畏怖され、あるいは蔑まれ、“肥溜めの神”とすら呼ばれる男――バルド・ミストルソルだった。

 ルシフェルも彼の声を聞いたのは初めてのことだった。


『あら、バルド。これはごめんなさい、質問をどうぞ』

「…………これから、どうしたい」


 暫しの沈黙の後、放たれた質問にシェミルは目を丸くした。彼女にとっても、想定外の質問だったようだ。

 しかし、シェミルが応える前にアレクが口を挟む。


「おいおい、バルド。その質問こそ愚問じゃないのかい? 結果は二つだ、“天国”か“地獄”。前者の判決が下れば自身が死んだ事に気付くこともなく楽に逝き、 後者になれば地に堕ち、飢餓に苦しみ毒に犯され(・・・)、この世の全てを憎みながら死んでいく――それだけだ。

 好きで肥溜めに住むのは勝手だが、(ルール)くらいは理解してから来てくれよ」

「……掴めばへし折れそうな体躯の癖に、よく言う」

「あァ? 今、なんつった?」


 アレクはここぞとばかりに煽りを込めてバルドに対して指摘をするが、バルド本人は全く気に留めない。

 逆に、煽りに乗ったのはアレクの方だった。

 この時、ルシフェルは気付いた。

 バルドは、地上――“地獄”と呼んでも差し支えのない終焉(おわり)を迎えた旧大陸に住んでいる。

 文献によれば、其処(そこ)は毒素が溢れ、生物の住める環境ではなくなっているはずだし、それは天界の人々にとって当たり前のことである。

 しかし、バルドの肉体は、薄汚れたローブの外側から見ても判るほどに鍛えられている。本来ならば、食い繋ぐのもやっとのはずの“地上世界”で、周囲に病原を伝染させることもなく健康的な風貌で居るのは、どう考えてもおかしいことだ。

 周りの者は、それに気付いていない。あるいは、わかっていて触れていないのかもしれない。


「……答えろ罪人。……貴様がここに来ても尚、生きる事に対して希望を持つ事が出来るのは、何故だ」

「おい、“糞神(クソガミ)”。無視するんじゃねェ……。それとも何だ? てめェが先に死に――」


 アレクはそこまで言って、何者かの手によって一瞬で氷漬けにされた。

 男一人を囲むほどの巨大な氷だというのに、ルシフェルの元に冷気は伝わって来ない。

 氷のように見えるが、これはどちらかと言えば水晶に近いのかもしれない。

 アレクならばこの程度の魔術結界を突破する事は可能のはずだ。しかし、彼はそれをしようともせず、まるで標本にされた蝶のようにピタリとその動きを停止していた。


「……すまないな、ティア」と、バルドは六神の一人――静かに佇む虚ろな目の少女に言った。

「別に……。単に進行の邪魔だと判断しただけ……」、少女はそう答えた。


 そして再び、シェミルの方を向くバルド。シェミルの答えに対して、ルーナも興味を持っていたようだ。


「わ、(わたくし)は……」、シェミルが震えた口を開いた。

「私は、まだ死ぬ気はありませんわ。あなた方を相手に出来るとは到底思えませんが、どのような結果になろうとも、最期まで足掻きます。というより、未だに私には罪人であるという自覚はこれっぽっちもありません。私は何より大切な友を守る為、己の正義を貫き通したまでですし。それが罪だと言うのなら、そんな約定(やくじょう)は糞食らえ、ですわね!」


 シェミルは部屋に響く声で言い放った。不気味なまでに微笑む絶対神を前にである。


「……面白い。かつてここまで吼える罪人が居ただろうか。長生きも、してみる物だな……。……ならば、足掻いてみせろ! 俺はこの罪人を“地獄”へと流す提案をする!」


 バルドは高らかに告げた。その声は獅子の如き威厳を含み、シェミルの脳を響かせる。


『あらあら……。進行を止められたと思ったら今度は勝手に進めちゃって……。では、これより判決へと移りましょう。“天国”か“地獄”か。まずは〝氷結の神〟ティア・グレッシャーよ。判決を……』

「……六神の名に於いて、大罪人を“地獄”送りにすることを提案する」


 その少女は真っ直ぐ罪人の方を向き、そう告げた。だが彼女の眼に光はなく、決められた言葉を発するだけの機械のように、ルシフェルには見えた。


『では〝刃の神〟ルーナ・アズール・シャーロット。判決を……』

「六神の名に於いて、シェミルを“地獄”送りにすることを提案する」


 ルーナは淡々と、そう言い放った。目に映る罪人は、同僚であり友人でもあるというのにである。

 ――いや、だからこそなのかもしれない。どちらにしろ待ち受けるのは死だ。ならば、少しでも長く生きられるよう、気を配ってのことなのかもしれない。

 ルシフェルは考えるも、他者の思考を読み取ることなど出来るはずもない。そのまま、ウラノスと目が合った。


『では〝相剋の神〟ルシフェル・ディーテ。貴方の判決を聞かせて下さい』

「そうね……」


 ルシフェルはウラノスが嫌いだった。というよりも、科学的に説明の付かない事が嫌いだった。本来ならば物事には必ず因果の結び付きが存在している。その結び付きを(ほど)く事こそがルシフェルにとっての科学であった。

 しかし、この世界にはどうしてもそれを見つけ出せない物がある。

 その一つが、全ての根源たる万物霊(エーテル)だ。原初から存在していたにも関わらず、なぜ人々は地上を手放す事になったのか――歴史上の矛盾である。不幸な事に、地上にまつわる文献は大半が消失、もしくはそこに取り残されており、閲覧する事は不可能に近い。

 大方、現在の地球(アース)と同じような暮らしをしていたのだろう、と勝手に予想こそしているものの、科学者にとって根拠の無い迷信は鍍金(めっき)の塗られた石ころに過ぎない。ルシフェルは“全ての生命を地上に還す”といった思想を実らせるのに必要な情報源を全て遮蔽されている状況にあった。

 そして目の前にいた罪人、シェミルを茫然と見て、一筋の淡い光のような可能性を見出した。


「……“地獄”で」


 ルシフェルは簡単にそれだけ答えた。一度思考が走り出すと、他の事が手に付かなくなるのは、例えば恋をする女子学生のように、誰にでもあることだろう。

 その小さな可能性は、シェミルを“地獄”送りにするという判決を下すには十分な力を持っていた。


『……わかりました』と、ウラノスは慎ましく微笑みながら言った。

 彼女のホログラムも、技術力においては極地に至っているとすら言われるルシフェルにも解明出来ていない。ゆえに、ルシフェルはウラノスが嫌いだったし、本能的な(・・・・)嫌悪感すら抱いていた。

 その正体すら分からずに、彼女に対する嫌悪は連鎖していくように募るばかりである。


『この時点で、四人の判決が一致……被告の処遇は決定しました』

 そう言って、アレクの方を見る。順番でいけば、ルシフェルの次に判決を下すのは彼だったからである。ルシフェルもそれに合わせアレクの方を横目で見る。

 多くの者の視線が一点に集中する中、アレクはやはり凍っていた。何処までも強固な結界だ、と皆感心していた。


「……解く?」と、ティアはウラノスに尋ねる。

『そ、そうね……。このまま氷像として飾るわけにもいかないし……』

「……わかった……。音量、注意……」


 ティアが何故かそんな事を言い出した瞬間――。


「――てェのかァ!」


 という、アレクの謎に満ちた叫びが部屋に響いた。


「…………は?」


 多くの者が、絶句していた。ウラノスだけはアレクが何をされていたのか分かっているのか、いつものようにくすくすと笑っていた。

 アレクもこの妙な空気に「なんかあった?」と言わんばかりの視線をルシフェルに投げかける。威勢よく身を乗り出した姿勢で、目だけがルシフェルの方を向いていた。


「て?」と、ルシフェルは一応尋ねる。

「は?」

「てぇって何」

「…………? 何を言っている機械の王。頭のねじでも外れたか」

「それはこっちのセリフよ!」


 ルシフェルはそう言い放ち、溜息を()いた。何を言っても無駄だと判断した。


「答えてくれよ“糞神”様よぉ。ここで、やるか? 五神が六神になるんだから六神が五神になってもおかしくねェよな?」

「…………?」


 会話がまるで噛み合わない。しかし勘の鋭いルシフェルはティアの魔術がどういった物かわかった気がした。

 突然、凍ったように見え停止したアレク――。

 無尽蔵の魔力を持つと言われる魔術師でも解除する事が出来なかった結界魔術――。

 そして、動き出すと同時に先程の口論を再開させた。


「まさか、時間を……止めた?」


 ティアは六神の一人、“水晶の魔法使い(・・・・)”と呼ばれている。氷結系の魔術を使い、自然の摂理を強引に歪ませる程の冷気を操ったことから現六神の座についたとされているが、時間に干渉する力があるなど、どの史書にも記されていない。


 ――ありえない。


 ルシフェルは思った。

 仮に空間の一部の時間の流れを歪ませる事が出来たとする。すると、そことそれ以外の場所では、物理法則の矛盾が生じ、辻褄を合わせるために膨大な力の対流が発生するはずだ。

 仮に氷のように見えた水晶体の中でのみあらゆる運動が停止するというのなら、そこは極寒の空間になるだろうし、光も停止し中は暗黒の空間になるはず。

 そもそも、“時間”という非物質的概念を歪ませるのは、万物霊(エーテル)であっても不可能だ。

 時間を止める――それに近しい事をティアはしただけであって、アレクは単に凍らされていただけだ。ルシフェルは、そう考える事にした。いや、そう考えたかったのかもしれない。


 いくら六神といえど、概念に手を触れるのは、言い換えれば世界そのものを孤軍でひっくり返すようなものである。

 ――そこまで来ているのか、天界の魔術は。

 ルシフェルは戦慄した。虚空を見つめ佇むその小さな少女は、もはや彼女の目には星を吹き飛ばす爆弾のようにしか見えなかった。


『アレク。お気づきでないようだけど、あなたは少しの間眠っていた(・・・・・)わ。既に多数決により、被告の判決は“地獄”送りへと決定しました。これにて閉廷と――』


 その声は、突然の爆発音に掻き消された。爆風はルシフェルの元まで吹き荒ぶ。しかし、光沢に満ちた部屋には傷が一つも付いていない。


「……どこまでも馬鹿にしやがって」


 静かな、しかし憤怒に満ちた声が響く。その殺気は、よもや神聖な教皇が持つべきものではない。金に輝く帯状の魔法陣が三本、交錯するようにアレクを包み廻っている。


「あいつ、魔装を……。こんなとこで!」と、ルーナが言った。

『困りましたねぇ……。こうなる事はまぁ予想してましたが……。ルーナよ、万が一の時は、任せます。貴方の剣技、どれ程の物か今一度お見せ下さい』


 ルーナはウラノスの言葉に頷きながら、腰の剣に手を掛けた。

 アレクの髪は金色(こんじき)に輝き、まるで神話に出てくるような神が顕現したかのようにさえ見えるが、彼を纏う殺気はもはや黒を帯びて、他の者を飲み込もうとしている。

 シェミルは既に気を失っていた。ルシフェルは、恐怖に飲まれその場から動けなかった。神ではなく悪魔が、隣にいた。


「わざわざこんな高ぇ所まで赴いて……多数決で既に俺には用は無い、と――いや、それはもはやどうでもいい……。ティアか、ああそうだそんな気はした。刹那とも形容出来ん極小の一瞬、冷ややかな闇に焼き切られる感覚がしたんだ……。単なる思い込みかと思ったが……くく、くふふふやはりそうか。今、俺は死んでいたんだな……。短い間だが殺されていた――そうだろう? “氷神(ひょうじん)”のクソガキ」


 アレクの殺気はティアに真っ直ぐと伸び、いつでも喰い殺さんと蠢く。

 しかし彼女はそれを物ともせず平然と跳ね除けた。


「……あなたの言う“死ぬ”というのが、万物の停止を意味するのならば、それは正しい。煩いから、黙らせたの。ごめんね」

「……はッ、ああ、悔しいな。お前じゃなければ、考える猶予を与える間も無く殺してたんだが。あいにくお前は不死ときた。悔しいよ全く……けどな――」


 瞬間、アレクは消えた。ティアの首を掴み、床に押し付けていた。


「殺す事は出来なくとも、苦しませる事は出来んだよなァ……! そうだろう? 何故ならそれがお前の唯一、の――」


 そこまで言って、アレクは言葉を止めた。

 ティアが、くすくすと笑っていたからだ。


「……おい、何故笑う?」

「底が、浅いなって思って。……あなた、それで私を苦しませているつもりなのかしら」


 ティアはそう言って、自身の左手の平をアレクに見せた。そこは火傷の痕のように、生々しい色をした皮膚が露わになっている。


「……私はこの十四という年齢のまま、三百年近く生きているけれど。実年齢で十四を迎えた時にね。犯されたのよ。誰かもわからない賊の男たちに、集団でね」

「……それが、手の傷と何の関係がある」

「関係も何もそのまんま。男の一人は私の掌に刃物で穴を開け、この左手を犯したのよ。穴なら何でもよかったんでしょうね。もはや、玩具も同然の扱いを受けていたわ……。ふふ、私は魔力こそ多かったものの、魔術は上手ではなかったから……。反抗する事も出来なかったよ。ただひたすらに、世界を憎んだ。痛み止めはされていたとは言え、眠っている間も犯され、その痛みで目を覚まし、その痛みで気を失う――。そんな日が何日も続いたわ。

 次第に、自分が生きているのか、死んでいるのか、今は昼間なのか、それとも夜なのか、何もかもが認識の外へと薄れていったの。

 そして気が付いた。私はある日、過労で死に、その瞬間からちょうど五日前までを延々と繰り返し生きていたの……。ふふ、自分でも笑ってしまうくらい、何度も何度も繰り返していた……私の中で、時間の概念なんてものはとっくに粉々に砕け散っていたという事……ふふ。うふふふふふふ。

 ……それに比べて、何かしら。今、貴方がしていることは? 私の首に触って(・・・)、苦しめているつもりかしら? ……今の私は、もはや何をされても何も感じない……最低限の思考力を持った人形だと、思った方が、ふふ、いいわよ、ふふふふふふ」

「ふざけるなァ!」


 アレクは怒号を散らし、片手で形成した魔弾を、あらぬ方向へ撃ち放つ。“魔装(インブレイズ)”を解放しているだけあって、その大きさ、魔力、どれを取ってもエレベーターの時の比ではない。

 それは、気を失ったシェミルとウラノスの元へと飛んでいく。

 ――マズい。誰もがそう思った。

 その時、ルシフェルの視界の隅を、銀に光る何かが瞬速で通過した。ルーナである。

 縮地とも言える速度で彼女はシェミル達の前に立ち、手に持った長剣で、魔弾を一刀両断した。魔弾は爆散する事もなく、静かに散った。


 ――刃神に斬れぬものはこの世に存在しない。

 ルーナは、魔弾ではなく、それを構成する魔術そのものを斬った。魔力と分離された万物霊(エーテル)は、そのまま虚空に分散していくのみである。

 彼女の光の糸のような銀髪が、天使の羽のように棚引いている。


「アレク様、落ち着いて下さい。動いたら怪我をさせるかもしれません」


 白銀の騎士となったルーナは、冷静な声でそう言った。


「どけよ刃神(はじん)。いくらお前が天界で最強と言われようが、俺はそこにいる奴を殺す。今殺す」


 金色(こんじき)の魔術師は怒りのままにそう告げる。

 しかしルシフェルには、その怒りの波長のような物が、何処か先程とは違う物のように感じた。

 ルーナも半ば気づいているようだ。アレクが平静さを取り戻してもなお、怒りに震えている事に。


「……アレク。私に何も出来ないと分かったら、弱い者虐め? ……本当に、哀れで、滑稽な神ね」

「うるせえ黙ってろ狂人が」


 だが、アレクはルーナの言う通り迂闊に動く事が出来なかった。言うならば、全身に刃の先が触れている感覚。

 ティアに、任意の空間を凍結させる力があるように、ルーナには任意の空間に触れたら斬れる不可視の刃を形成する力があった。


『……増幅(アンプリク)――硬度強化(コールメタル)


 アレクは魔術を詠唱した。彼を纏う帯状の魔法陣が、一本だけ彼の中に溶け込む。外見に変化は無かったが、ルーナの判断は正確だった。彼は纏った衣服ごと、物質の硬度を増幅させていたのだ。速度はそのままに、刃の壁とも言える空間を突き抜けて、アレクはルーナに殴りかかる。

 何とかそれを見越していたルーナは、長剣から爆風の如き斬撃を発生させ、それを防いだ。斬撃によるダメージは無かったが、その爆風はアレクを大きく吹き飛ばす。


「チッ……さすがに刃神相手となると大魔術の維持をしながらの戦闘は無理があるな……」


 本来のアレクならば、敏捷性、耐久性、攻撃力――あらゆる能力を果ての知れない数値まで引き上げられたのだが、今の彼にはそれが出来ない状態にあった。


「一発だ」と、アレクはルーナに言い放った。

「今から現状出来うる限りの一発をお前に――いや、お前らに放つ。邪魔すんじゃねえぞティア。それがダメなら諦める。自身の弱さを認めざるをえないからな。だが聞け。これから放つ力は、全力の八割だ。刃の神よ、やれるものなら受けてみせろ」


 アレクは答えを聞く間もなく、空に手をかざした。その手を中心に黄金の渦が流れ出し、彼の周囲を回る魔法陣もそれに吸い込まれていく。

 渦の中心には、魔術の球体が形成され、表面に(いかずち)を走らせながら、徐々にその身を大きくしていった。


『はぁ、全く……。ルーナ、止めなさい』

「いえ……」


 ルーナは答えた。


『…………?』

「彼は堂々とした戦いを挑んできました。今の彼は、確固たる意志を持つ一人の戦士に見えます。ならば、横槍を入れずに正面から受け止めるのが、私の騎士道。お任せください。天界最強の名にかけて、あなた達を必ずお守りします」

『ふふ、そうですか。全く、こんなことは初めてですよ』


 先程まで、金色をしていた球体は、今や底の見えない黒い物へと変貌していた。

 ルシフェルは、近くでそれをあんぐりと口を開けて見ているしかなかった。

 ――ああ、早く帰りたい。ルシフェルは心の底からそう思っていた。


「――無限を秘めたる万物霊(エーテル)よ。全てを喰らい闇へと還す黄金の魔獣にその身を捧げ、魔術の糧となりて我が身を無限へと導け。我は無尽蔵の神となる!」


 それは、魔術の詠唱だった。本来ならば省略しても差し支えのない詠唱(トリガー)を、この一瞬の全力のためにアレクは披露した。

 誰もが『こいつは神の器ではない』と思っていた。その考えは、この日少しだけ覆る事になる。

 初めて見せた彼の決意。それは、本来不変であるはずの部屋のそこかしこに、ヒビを入れていた。


「落ちろ――『堕天(フォール・ドミニオン)』――」


 全てを飲み込む巨大な魔弾が、ルーナに向けて落とされた――。



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