琥珀金の宮殿 - Ⅰ
『ニヴェルヘイム』の艦内に、全てが機械で出来た無機質な部屋がある。神楽が造った自分が最も落ち着くことが出来る部屋――機械操舵室である。
機械操舵室と言っても、艦体の操縦は全てコンピューターが制御しており、神楽は単純な指示をシステムに送るだけだ。制御異常時に備えて幾つかの操縦席が用意されてはいるものの、そこは単なる荷物置き場になっており、自身の席は寝床になっていた。必要だと思った機能はその都度実装するという彼女の性格上、そのシステムが完成することは永遠にないだろう。
神楽は一服を終え白衣のポケットに煙草の箱を突っ込みながら、虹彩認証の扉を潜り誰もいない自室に戻ってきた。自動的に照らされる白い電灯。機械の駆動音だけがその部屋には響いている。それは、神楽にとってはいつものことだ。
『おかえり! ルシフェルちゃん!』
その部屋には確かに神楽以外には誰もいない。しかし"それ"はまるで主人の帰りを待っていた飼い犬のように、嬉しそうな声色で喋った。
自身の席にどっかりと腰を掛け、足を組みながら"それ"に返事をするのは、やはり神楽だった。
「はいはい、ただいま。今日も異常はない?」
『ウン! けど、カグラちゃんから電話が来てたよ!』
「いい加減学習しなさいよ。今は私が黒崎神楽で、あっちにいるのがルシフェル・ディーテ。あんたそれでも人工知能?」
神楽の言葉通り、彼女が話している相手は実体を持たない、紛れもない"人工知能"だった。
始めはただ単に、艦体を自動制御するためのシステムだった。神楽自身も、自身の持つ機械技術の最小限を艦体に実装するつもりだったのだ。
しかし神楽の開発者――あるいは、設計者としての本能はそれで満足することが出来ず、「まぁ、これくらいなら……」と少しずつ拡張機能を追加していってしまう。
その結果、制御システムは学習機能を持ち始める。一枚のディスクに収まるような容量の実行ファイルを、既存のシステムに落とし込むだけで、勝手に使い方を学習し、そのプログラムの仕様を理解してしまう――コンピュータウイルスのようなAIを作り上げてしまった。
例えば、あるネットゲームを実行する際にそのAIを落とし込む。するとそのAIはヒトよりも早いうちにそのゲームの操作方法を熟知し、レベリングを始め、他のプレイヤーと会話や取引をする。
――神楽が創ったのは、電脳世界にのみ居住できる“生命体”だった。
神楽にとってその技術は既に身に付けた物だったし、そこまで驚くことではなかったが新たな発見はその先にあった。
ある日突然、制御システムが日本語で話しかけてきたのだ。どこでその言語を学習したのかはわからない。それまで、設定された音声ファイルしか再生出来なかったシステムが、自分の言葉で声を発した。『こんにちは、神楽ちゃん!』と――。
「……それで、あの子から電話なんて珍しいわね。何かメッセージは残してた?」
『うん! あるよ!』
「…………」
『…………』
その後、静まる部屋。神楽は嫌な予感しかしなかった。
「……メッセージは?」
『ごめん! 忘れた!』
人工知能は、その学習能力の高さゆえ、忘却や慢心までもを憶えるまでになっていた。
はじめはその事実ですら神楽にとっては斬新で、関心の的にすらなっていたと言える。が、今やそれは単に神楽を苛立たせる原因の一つに過ぎない。
「……あのね。あんた、一応人工知能なんだけど? 忘れたって何よ。そのうち艦体の制御も忘れて私達を海の藻屑にでもするつもり?」
『えへへ、ごめんって! 今、あっちのカグラちゃんに電話かけるね!』
そう言ってわざとらしく電話の呼び鈴の音を部屋に響かせる人工知能。その効果音すら神楽には実装した覚えがない。第三者がそういった情報を与えているという痕跡もない。コンピューターが何処からか能動的に情報を得ているのだ。
『もしもしー……』
向こう側にいるもう一人のカグラが、恐る恐るといった声音で電話に出た。
「もしもし、私よ。久し振りね。さっき連絡があったみたいだけど、何か用かしら?」
神楽の手元に受話器はない。その場で発した声はデスクに搭載されたマイクを介して相手に伝わるからだ。目の前の大きなディスプレイには“通話中”という文字が表示されていた。
『あ、うん……。あの、なんかこっちのほうで手紙が届いたんだけど……文面の意味がよくわかんなくて……』
向こう側――天界にいるもう一人のカグラは、その言葉を習得しきっていない。手紙と辞書を見比べて必死に解読している映像が神楽の脳裏に浮かび上がった。
「手紙……? 大まかでもいいからなんて書いてあるかわかる?」
『えっとー……明後日に、金の宮殿? 六人の神様の裁判? が――』
そこまで聞いて、神楽は立ち上がった。まさか、と思いながらも向こう側のカグラの言葉を切って、尋ねる。
「それ……差出人、誰?」
『え……っと、あれ? これ聞いたことある言葉だ。差出人は“ウラノス”さんって人だよ。招集がかかってるみたいなんだけど、どうすればいいかな……』
「――参ったわね。この忙しい状況に“全天”からお呼び出しか……。
とりあえず、一時間後にまた連絡するわ。一時的に互いに戻ることになる可能性があるから、そのつもりでよろしく」
『わかった! じゃあね』
人工知能は会話を聞いていたのか、自動で通話を切断した。
「……あなた、まさかとは思うけどどっかに情報流したりしてないでしょうね。あまり危険だと感じたら拡張プログラムを全部消去するわよ」
『問題ないよ! 私はルシフェルちゃんしか話相手がいないからね。ネットワークだって艦内のみのローカルエリアしか繋がってないでしょ! むしろ盗聴の監視だってしてるんだから感謝してほしいよねー』
人工知能はそう言いながら自身を構築するソースコードを机上のディスプレイに表示させ、該当部分を点滅させる。もはや神楽に突っ込みを入れる余力はなかった。
「……来たばかりだけど急用ができたから少し席を外すわ。しっかりと留守番よろしく」
『いってらっしゃい!』
神楽は再び虹彩認証の扉を潜り、機械操舵室を後にした。
その後隣接した司令室に入り、艦内放送を使って二人の人物を呼び出した。商業区の代表者――ステレコスと、管理区ネットワーク班のリーダー『ウォーロック』だ。
一人は気怠そうにしながらも、呼び出された二人は迅速に招集に応じた。
「来たわね」
「いきなり呼び出すなんて珍しいな、なんかあったのか?」と、ステレコスは尋ねる。
『ウォーロック』は黙っていたが、右に同じと言わんばかりの視線を神楽に投げかけていた。
しかし二人はすぐに気づく。目の前にいる神楽が“艦体の司令官ごっこ”ではなく、“機械の国を統べる王”――あるところでは“相剋の神”とすら呼ばれる者の眼差しをしていたことに。外観が何か変わったわけでもない。しかし彼女を纏う雰囲気は、常軌を逸していた。
「私は一度、天界に戻るわ。『琥珀金の宮殿』で六神の裁判が開かれるらしいの。その間、二人にはこの艦を任せたい。やってくれるかしら?」
「はッ! お任せ下さい!」
二人は“六神の裁判”と聞いて驚きを隠せない様子だったが、家臣としての礼儀を弁え、その頼みを承った。『ウォーロック』の作法は不慣れなのかぎこちなかったが、神楽にとっては気にするほどのことでもなかった。これが暴慢な王だったら話は違ったかもしれない。
しかし彼女は、それどころではなかった。
普段は殆ど会うこともない“神”の称号を持つ、世界で唯一の六人が、一堂に集結する。
それが楽しみで仕方がなかった。
「私が出発するのは次の着陸日だけど。万が一、反旗を翻すような行動を起こす者が現れたら、それが誰であっても手段は問わないわ。殺しなさい」
神楽は二人にそう言い残し「ふふ、うふふふ」と不気味に笑いながらその場から去った。
家臣の二人は久し振りに目の当たりにした“相剋の神”の雰囲気の恐ろしさに、思考はままならず二人で茫然と顔を合わせるしかなかった。
神楽が次に向かったのは、艦内の地下いっぱいに広がる格納庫だ。大量の武器や小型戦闘機が収容されており、戦闘部隊の離発着が行われる場所でもある。
その中の一室――艦の搭乗員が利用出来るトレーニングルームに、神楽の目的であるウィリアムは居た。
百キログラムはあろうバーベルを、その強靭な体躯を用いて上下している。
「ウィリアム、少し良いかしら」
神楽がそう呼び掛けると、ウィリアムはバーベルを静かに降ろし、立ち上がった。
「おう、なんだ?」
「土曜になったら少しこの艦から居なくなるのよ。もしかしたら離陸日にも間に合わないかもしれない。
あなたも休日だし帰ると思うけど、私が留守の間は『ウォーロック』に臨時的な司令官を務めさせるわ。で、あなたにお願い。万が一、『ウォーロック』が余計なことをしでかそうとしたら、殴ってでも止めてほしい」
「なんだ、そんくらいのことなら別に頼まれなくてもやるぜ?」
「頼もしいわね。特に注意してほしいのは機械操舵室よ。彼ならあの程度のセキュリティは簡単に破れるだろうから。もし入ろうとする素振りを見せたら、殺しても構わないわ」
「はは! 俺の本業は生け捕りだぜ? 任せとけよ、殺さずとも縛り付けることくらい出来るさ」
「ありがと、それじゃ私はこれで」
神楽はその場を後にした。
ウィリアムは何を気にすることもなく、再びトレーニングに専念していた。
これで神楽の部下達は互いを警戒し、行動を牽制し合うことになる。結果的に反逆的な行為には至らず、平穏に時間は過ぎていく――それが彼女の考えだった。
彼女は己の部下を信用している。それが一国の家臣だとしても、かつて戦争をしていた異次元世界の存在であるとしても、である。
ゆえに、神楽の行動には慢心が生まれてしまった。天界人でなければ、魔界人でもない――第三者からの干渉に対して、防衛線を張っていなかったのだ。
そもそも、それはあり得ないことだ。《ノア》の戦艦には、誰の目にも機体が映らない機能がある。
神楽のその過信と、今までがそうであったという“偽りの常識”が、ニヴェルヘイムに惨劇を招くことになる。
* 安藤 視点 *
《ノア》の一員になってから、四日が過ぎた。とは言ったものの、この四日間は身体を治すのが仕事だとウィリアムから言われ、秋夢の部屋で半ばニート状態になっていた。
四日で傷が治るとは思えなかったが、三日目に差し掛かった頃には傷口は癒えて殆ど素肌と同化していた。縫合した跡こそ消えはしないが、自身が既に人間では無いことを否が応でも自覚してしまう。
この時になって初めて、ミヤちゃんの言っていた『違う者になるな』という約束の意味がわかった気がする。彼女のその言葉は僕にとっての御守りになっている。もしこうなることをミヤちゃんが予測していたと言うのなら、それこそ彼女の先見性には驚かされる一方である。
これじゃまるで、未来を視ているようではないか。
まぁ、今はそれを気にしている場合ではないのだが――。
***
《ノア》は国際規模で結成された極秘の組織だ。そのため、関係者以外のあらゆる者の目からあらゆる情報を隠さなければならない。
それなのに各国の公的機関をいとも簡単に動かせるのは、各機関の要人が《ノア》と繋がっているかららしい。一体どんな手品を使っているのかはわからないが、説明をする神楽の横にいた『ウォーロック』はにやけていたし、ネットワークを駆使して弱みを握ったのだと思われる。
そして僕が気になったのが、この巨大な機体を如何にして他者から隠すのかということだ。
――その答えが、毎週用意された戦艦着陸日に関与しているのだ。
「私の設計した戦艦だけどね、外部を強度光学迷彩システムが保護してんのよ」
神楽は僕の問いに対して隠す事など無いと言わんばかりに答え始めた。そこまで僕を信用しているのだとしたら、この日逃走を試みようとしている自分に対して少しばかり罪悪感がある。
その度、もしかしたらそれこそが彼らの狙いなのだ、と自分に言い聞かせ、邪念を払拭するのだが……。
神楽は説明を続けた。
「改良を重ねて周囲の背景に九割九分は同化出来るようになってんだけどねー。どうしてもその中にいると放射線を規定量以上浴びちゃうわけ。まぁ人体に甚大な影響を及ぼすほどでは無いけどね、どうしても怖がる人いるだろうから土曜日に着陸して物資補給を兼ねた休日にしてんのよ。別に、艦内にいても良いけれど、なーんにもないわよ」
神楽の言った通り、今この戦艦『ニヴェルヘイム』は、日本国内にあると思われるどこぞの山奥の航空基地にすっぽりと収まっていた。着陸後艦隊は地下に移動し、地上は人工的に作られた樹林で覆われる。これでは野生動物の一匹にも見つからない。
「日曜日の二十三時に離陸予定だから。それまでには帰ってきてちょうだい。あ、あとこれ」
神楽は僕の首に手をまわし、そこに何かを装着した。触れてみてわかったが、これは金属の首輪だ。
「なんですか……これ?」
「気にしないでいいわ。ただの位置情報送信端末よ。恥ずかしかったら首を隠す服を着ればいいし」
「このクソ暑い中でか……」
何はともあれ、これでミヤちゃん達と合流が出来る。それだけで安堵から涙を流しそうだ。
僕は東京駅まで送迎してもらえるという大型のバスに乗り込んだ。見た目は他者を欺くためか、ありきたりな貸し切りバスだった。
「あれ……」
後ろの方の席の窓際に、一人見知った人物がいた。
秋夢だ。靴を脱いで膝を抱きかかえて顔を伏せている。僕は恐る恐る近づき、ぎこちなく「やぁ」と声を掛けた。彼女は返事をしない。
「隣、座るよ」
そう言って僕は秋夢の隣に座った。そして気づく。彼女がすすり泣いていることに。
正直言って、かなり気まずい。大学入る以前、殆ど女の子と喋ったこともなかった自分に、何が出来るというのか。
彼女の首には僕と同じような金属の首輪がされている。
「あれ……秋夢ちゃんって、もうお仕事終わりなんじゃ……」
とりあえず話しかけてみたものの、返事はない。一体何があったんだろうか?
結局会話はなく、バスはどこまで続くかもわからない地下トンネルを走り出した。
周りに話す人もいなかったため、僕は少し眠ることにした。
「……あたしは……操り人形じゃない……」
眠りに落ちる意識の中で、そんな声を聞いた気がした。
***
煙草を咥えてバスを見送りながら神楽は、
「――戻ってくると思う?」と、ウィリアムに尋ねた。
「安藤君か? そら戻って来るしかないだろうよ、だって――」
「違う。ニコン達よ。任務ばかりに気を取られて、命を捨ててでも追いかねないでしょ、あの子達なら。二人掛かりで捕獲すらできない、圧倒的力で心神喪失……。今回の対象はどれだけ強いの?」
手元のディスプレイに映し出されたリュードと坂下の写真を眺めながら、神楽は独り言のように呟く。
「レクシリア家なー。かなり有名な家系だよ。俺は名前だけしか知らないけどな。歴史上最も野蛮で残酷な一族、“悪魔の末裔”と呼ばれてるんだ。苦戦は強いられると思ったが、まさかここまでとはな……」
ウィリアムは溜息を吐いて、肩を落とした。周囲では状況を知らぬ輸送班達が艦内に物資を運び入れている。
「やっぱ……俺が行くか?」
意を決したように、ウィリアムは神楽に提案をする。それはつまり『ニヴェルヘイム』内で何かしらのアクシデントが生じた時、武力での抑制が出来ないことを意味する。神楽にとってもそれは避けたい事態だった。
「……まぁ、様子を見ましょう。明日になれば、あなたの契約者も含めて何人か戻って来るだろうし、来月にはロディが『ドヴェルグヘイム』から帰って来るしね」
「あー……そうか」
その名を聞いて、ウィリアムはさらにげんなりした態度を見せた。
キャッスルナンバーズのエース――〈断鉄拳〉という我流の武術で闘う戦闘部隊の問題児――ロディアス・ヘイレンが、日本に帰ってくる。そう考えただけでも、ウィリアムの落ちた肩が戻ってくる事はなかった。
「さて、と。私は支度のために操舵室に戻るわ。ウィリアムも帰る前に格納庫の鍵の管理はしっかりよろしく」
「おう」
神楽が操舵室に戻ると、いつものように人工知能が声を掛けてきた。
『ルシフェル! おかえりー!』
「はいはいただいま。悪いけど今日からしばらく留守にするから、艦体の管理任せたわよ。厳重にロックを掛けておくけど、万が一部屋に誰か入ってきても喋ったりしないでね」
『ええええ! この土日、暇じゃん! どうすれば!』
「ホントだったらあなたに“暇”なんて概念はないのよ。我慢して艦体の保守につとめてちょうだい」
『はーい……』
まるで人工知能は母にあやされた子供のように静かになった。
神楽は自身のデスクに埋め込まれたディスプレイを操作する。すると地響きのような音と共に壁に一本の通路が現れた。
『……いってらっしゃい!』
「ええ。出来るだけすぐに戻るわ」
暗い通路の先には、二畳ほどの狭い部屋があった。部屋の隅には一台のコンピュータが、床には部屋いっぱいに魔方陣が敷かれており、白く淡い光がゆっくりと明滅していた。
神楽はコンピュータを操作し、部屋の隠し通路を再び埋める。完全な密室になった部屋で、神楽はコンピュータにインストールされたファイルを実行する。
魔方陣の光が、一本のコードを伝ってコンピュータに流れ込む。ジェット機のエンジンのような轟音が鳴り響き、部屋はディスプレイから放たれた眩い白光に包まれた。
神楽は跡形もなく部屋から消え、天界へと転移した。
***
目を開くと、彼女はこれまでと同じように一台のコンピュータと、一つの魔方陣があるだけの狭い部屋にいた。しかし、そこが地球上に存在する場所ではないことは嫌でも理解が出来る。
気温がまるで違うのだ。
天界は滅びた大地の摩天楼の上部を繋ぎ合わせ人工的な足場を造り、その上部で発展を遂げた世界である。ゆえに、単純に気温は低いのだし、こちらの世界では現在は冬だ。
足場は簡単に凍るし、制服に白衣だけではどう考えても寒いだろう。
一度深呼吸をして、コンピュータを操作し隠し通路を開く。
通路は途中から階段になっており、そこを上った先には操舵室のように暗く散らかった部屋がある――はずだった。
「……あら?」
思わず声を出してしまった。通路の向こう側から、暖かい色をした電灯の光が彼女の顔を照らした。
そして、一人の覗き込む影――自分だった。
「お、おかえり。神楽……ちゃん」
「……見ないうちに、だいぶ変わってるわね……」
部屋は綺麗に整頓されていた。しかし随所に設置された自慢の機械は、動かした形跡はなく、かといって埃を被っているわけでもなかった。
ルシフェルは紫色の装飾が施された黒いドレス――自身のお気に入りである――を身に着けているが、おどおどした雰囲気は風貌に全く似合っていない。
「……う、うん。帰って来るって言ってたし、過ごしやすいように掃除しておいたよ」
「…………」
それが嘘なのは簡単にわかった。まるで洪水のように私物の散らかっていた部屋を、一日でここまで綺麗に掃除することは不可能だ。まるで部屋中が新築の家のように煌びやかに輝いているようにも見えた。
「……まぁ、それは置いておいて“城”での生活はどう? 変わったことはないかしら」
「うん! 執事の人も優しくていい人だし、今はメイドさん達に料理を教わってるよ」
「そう……。電話で言った通りなんだけど、しばらく元の身体に戻る必要があるのよ。いいかしらね」
「もちろんだよ。 お仕事かな? 頑張ってね。
……あと、ありがとう」
突然に礼を言われて、神楽は困惑した。何に対しての礼を言ったのかはすぐに把握したが、彼女は自身の目的のためだけに人格を入れ替えているのだ。礼を言われる筋合いはなかった。
それでも、悪い気はしなかった。
「……利害が一致しただけよ。用が済んだらまたチェンジよ」
「うん! チェンジ!」
二人はその言葉を最後に、互いがコードで繋がったヘッドギアを装着し、向かい合って両手を繋ぎ合わせた。
――神楽は魔法が嫌いだった。天界人は、魔法の研究をしすぎた結果、大地を失った。
その大地は今、“地獄”と呼ばれる、人を捨てるためのゴミ箱と化している。両親は大罪を犯したわけではない。しかし、そこに捨てられた。
父親はただ単に、演説をしただけだ。『捨てるだけでなく、人々がそこに還れるよう、毒素を崩壊させる技術の研究をするべきだ。万物霊に別れを告げ、魔法の存在しない真っ当な世界を作り直すべきだ』と。
人々は自由な思想を持つことが出来る。それは世界のルールだ。
自分の中には自分だけの世界のルールがあってもいいはずだった。
神楽は自身の父が抱えるその夢を、世界を、思想を、きっと正しいものだと信じていたし、賛同をする者も多くいた。
――しかしある日、父親は殺された。母親はそれを追うように自殺した。
天界には火葬という概念はない。天国へ行けるようにと祈りながら、大罪人とは別の入口から“地獄”に捨てられるだけだ。
誰が殺したかはわからない。しかし、部屋で眠るように死んでいた父親に外傷はなかった。
何らかの魔術によって、殺されたのだ。
その日から、神楽は世界を憎んだ。復讐のために、魔術の学問を捨て、ただひたすらに機械を創った。
その発明品で、“裁き”と称して自身の手を汚すこともなく罪人を殺した。
その発明品で、魔術の戦争を吹っかけてきた隣国を、誰の許可も取らずに滅ぼした。
魔術が全てを支える世界で、それを消滅させるがために抗い続ける者――人々はまだ正体を明かしていなかった彼女のことを“相剋の技師”と呼ぶようになる。
『精神転移――起動!』
神楽の呼び声と同時に、頭部のギアは起動をした。脈拍の音がずれ始め、ぐるりと回転しだす世界――目を瞑っていなければ多くの者は吐瀉物を撒き散らしながら失神するだろう。
脳の出す電気信号をまるごと交換するのだ。本来の身体の持ち主である神楽には黙っていたが、途中でアクシデントでも発生したら後遺症待った無しの危険な装置である。
起動から数秒して、神楽が神楽の手を握る力が強まった。どうやら我慢の限界のようだった。
装置も完全ではなく、稀に脳信号に付着した記憶が映像としてフラッシュバックされることがある。
他者の記憶を強引に思い出させられるような感覚。壮絶な過去があるルシフェルの記憶は、神楽の精神には耐え難い苦痛となって降り注ぐのだ。
加えてこの精神交換装置、起動してから一瞬で目的を達成してくれるわけではない。こういった記憶の残滓の処理に数秒の時間を要するのだ。
その間、精神は強力な電波に揺さぶられる。秒間に何百回転もするコーヒーカップに、縛り付けて乗せられるようなものだ。
『ぐ……交換!』
二人は同時に床に倒れ込む。
精神の交換が完了した。しかし何度やっても耐えられないほどの疲れが押し寄せるのだ。
「はっ……はぁ、はぁ……これ、は……まだ……改良の、余地があるわね……はぁ……」
ルシフェルは床に突っ伏しながら、そう呟く。神楽からの反応がないので気になって見てみると、彼女は気を失っていた。
「……まぁ……無理も、ないか……よっと」
ルシフェルは力なく倒れ伏す神楽をなんとか抱え、寝室に運び込んだ。普段から運動とは縁のない彼女には、なかなか骨の折れる作業だった。
「任意の場所から勝手に布団に運ぶシステムが必要ね……」
そう呟きながら、ルシフェルは未だ気怠い身体で自室の扉を開く。
巨大なガラス窓の外に広がる摩天楼が、自身が天界に帰ってきたことを実感させる。廊下を吹き抜ける風は冷たく、彼女は一度くしゃみをしてから自室に戻り、その日は眠ることにした。
寝室に戻ると神楽が気持ちよさそうに涎を垂らしながら眠っている。
ベッドは大きいため、もう一人寝るだけのスペースは空いていたが、さすがに二人並んで寝るのは気恥ずかしいため、リビングルームのソファで眠ることにした。
床には先ほどまで二人が被っていたヘッドギアが、無造作に散らかっていた。




