不穏なる兆し
――夢を見ていた。
天には星が宝石のように散りばめられて煌めいているというのに。
大地は地平の果てまで焼けていた。
そんな地獄のような光景を、僕は空から静かに眺めている。
そして僕の近くに一人の少女が居た。
血のように赤黒い髪を備えた少女は、黒く緻密な文字が描かれた魔法陣の上に静かに佇んでいる。
徐々に彼女を包み込むように眩しい光が集まっていく。
――やめろッ!
助けなければ、と僕は手を伸ばすも、それは届かずすり抜けてしまう――そんな夢。
僕はこの夢を、過去に何度か見た事があった。
夢とは記憶の整理整頓だと言われているし、同じ夢を見るのは別に特別な事ではないだろう。
しかし、漠然とした景色の中にはっきりと映る、疲弊しきってやつれたような彼女の顔は、僕の記憶には存在しない。
結局、その“悪夢”のせいで目が覚めてしまう。
最悪な気分の状態で、一日は始まりを告げたのだった。
……と言っても、すでに半日は過ぎているのだが。
***
大学に進学して、一人暮らしを始めた。
部屋は猫が喜びそうなくらいに狭く、辺りに散らかった様々な衣服、そしてゴミが余計にそれを感じさせる。
もちろん、掃除を怠っているわけではない。
部屋の隅には、先日出しそびれたゴミが、ビニール袋で一纏めに置かれている。
時刻は、十五時を過ぎた頃だった。
遮光カーテンを閉め切った暗い部屋の中、僕は布団の中で若者の間で人気のSNSアプリのタイムラインを眺めているだけだった。
高出力で稼働している冷房機が、心地良い風を部屋に流している。
大学は、夏休みに入っていた。学生ならば、誰もが一日は体験するであろう時間。
――人々はそれを、“暇”と呼ぶ。
休みに入って二週間ほど経過しているが、僕は毎日を暇人として過ごしていた。
アルバイトをしようと、コンビニで求人誌を貰ってきたこともあった。が、今それはゴミとして、床に転がっている。
好きな時に起き、好きな時に寝る。まるで夢のような生活だが、長く続くとなかなか苦しいものがある。
決して、友達がいないわけではない。
新しい友達も出来たし、実家から遠く離れているわけではないので、同じように地元に残った高校時代の友達もいる。後者は、あまり連絡を取らないようになってしまったが。
サークル活動にも積極的に参加している。
僕が参加しているサークルは、PCゲームの制作を中心に活動している。所謂、“オタサー”と言われるものだ。しかし、活動はなかなか本格的で、毎年学内で作品展も実施しているらしい。
そして、そのサークルでは来週から東京での合宿が予定されている。
「一度っきりの、人生の夏休みなんだ。楽しんどけ」
という父の言葉が、なかなかどうして心に刻み込まれてしまい、参加することに決めたのだ。
色々な思い出を残したい。そう心から切に思っていた。
それに、ちょっと気になる女の子もいる。
――しかしそれはあくまで来週の話だ。今は何もすることがない。
布団の中でうつ伏せになって、携帯にインストールされたSNSに、『ひまなう』とか書き込みながら、それを傍観している。
勿論、誰からも反応はない。
それが、僕、安藤 弘樹の現状だった。
***
突然、携帯の画面が切り替わり振動を起こす。
画面には、安藤 恵子、着信、といった文字が表示されている。母親からの電話だ。僕はそれまでしていたことを中断されたことに対して、僅かながら苛立ちを覚えながら、電話に出た。
「……もしもし」
『もしもーし?』
「なんか用?」
『いや、特に。元気ー?』
僕の母親は時折、こうやって用も無いのに電話をかけてくる。実家は自転車で二十分も走れば着く場所にあるというのに。
心配してくれているのならば、それは嬉しく思うのだが、正直なところ、鬱陶しさも感じていた。
『そういえば、夏休み入ってるでしょ? ウチ、帰ってくるの?』
「……んー、来週から合宿あるから、それ終わったら帰るかも。……わかんないけど」
『ふーん、そう。ゴローも待ってるよ』
ゴローとは実家で飼っている猫である。ちなみに、雌だ。雌なのにゴローだ。
僕にとても懐いていると自分でも思う。
実家に住んでいる時は、よく寝ている時に、布団の中に潜り込んでくることもあった。
ああ、恋しい。
いわゆる雑種で、飼い主の見つからなかった子を引き取ったのだが、とても可愛い。猫に対しては僕もデレデレしてしまう。
『ま、金払ってるんだからちゃんと学校通いなさいよ。そんだけ』
「うん……じゃあね」
電話を切った。部屋には再び静寂が訪れる。合宿に必要なものを買わねば、とか考えながらも、結局はしばらくの間、布団の中から出ることはなかった。
「……頭いてぇ」
長い時間寝ていたせいか、頭がうまく働かず、眩暈がする。
あと五分だけ寝よう、そう考えながら目を閉じる。
耳を澄ますと、閉め切った窓の外から、蝉が鳴いている声だけが聞こえた。
***
一日中、このように布団の中で過ごすわけにもいかないため、僕は起き上がり、テレビの電源を入れた。
特に見たい番組があるわけでもなく、夕方から始まるニュースのチャンネルにしておいた。
布団から立ち上がり、食事のために湯を沸かし始めた。
カーテンを開くと、眩しい太陽が部屋を明るく照らした。あまりの眩しさに顔をしかめながら、沸いた湯を朝食……兼、昼食であるカップラーメンに注ぎ込む。
蓋をパソコンのマウスを重りにして塞ぎながら、一度ベッドに座った。
再び、やることがなくなってしまったのだ。テレビではニュースが始まっていたが、芸能人の誰かが、誰かと破局しただとか、全くと言っていいほど興味もなく、どうでもいい内容しか報道していない。
それでも、静寂に溢れた部屋で過ごすのに比べるならば、幾分かはマシであるというものだ。
マウスを重りにしたことから察する通り、普段食事をするのはパソコンのディスプレイが置いてある目の前――パソコンラックの上である。キーボードをディスプレイ側に押し退けて、できた空間に料理を乗せる。
自炊はしていないので、主食はコンビニの弁当、あるいはカップ麺だ。
パソコンの電源を入れ、そのまま椅子に腰掛け、今まさに麺を口に運ぼうとしたその時だった。
「……お、地震だ」
僅かながらに、部屋の至る所が音を立てて揺れた。
僕の暮らす、ここ東海地方では、昔から大地震が来ると言われているが、生まれてから十九年ほど経つ今も大きな地震を体験したことはない。
そのため、地震がある度に「――とうとう来たか……」と半ば幼稚に考えているわけだが、結局いつも、小さな揺れで収まっていく。
今回もその例に漏れない揺れだった。
そもそも一度だけ、ガタン、と振動が起きただけだ。
地震ではなく強風なのではと疑問に思ってしまう程度のものだった。
もちろんそれは、結果として幸いなことに越したことはない。
建物に押し潰されて死んでいくなんて、僕は――いや、誰もが嫌だろう。
人の造った物で、人は簡単に死んでしまう。
この時、非現実的な世界――スリルを求める自分が心の何処かにいることを、僕は自覚していた。
数秒して、テレビの画面の上部に、地震があったことを伝えるテロップが流れた。
同時に、ニュースのキャスターが至って冷静な口調で地震のことを伝えようとするところだった。
そこまで大きな地震だったのだろうか。
そうだとしても、慌てることなくニュースを読み上げるキャスターは、毎回ながら凄いと思う。
『えー、今入ったニュースです。
画面上部でもお伝えしておりますように、小笠原諸島近海にて、震度七を越える地震が観測されました。
念のため津波に警戒して、今後の情報に……』
「……今ので震度七?」
どうやらかなりの範囲で揺れたようだった。
こういった情報は、ニュースよりもSNSのタイムラインを追ったほうが早く手に入る。
しばらくボーっと眺めていたのだが、一つの書き込みが僕の目に留まった。
その発言は、地震を観測・研究している施設の社員によるもので、誰かがそれを拡散して流していた。
『今起きた地震は、自然に発生したものではありません。そもそも震源が地中ではなく、水中だと計測されています。これは水中でとてつもないエネルギーを発生させない限りはあり得ないことです。』
その書き込みに対する反応は、『計器の故障だろ』だとか、『とうとう日本終わったな』だとか、様々である。
後者はともかく、前者は確かに考えられることだろう。研究者が早とちりをしたのだ。
しかし、一人の責任のある社会人がこのような発言をすることに、どこかワクワクしている自分がいたのも事実だった。
だから僕は、他のユーザーが半ば思考を停止してそうするように、その社員の呟きをお気に入りに登録して、拡散しようとした。
しかし、それは出来なかった。
書き込みが削除されていた。
結局、計器の故障かあるいは、社員の勘違いだったということだろう。
少年時代に返ったような、あの心の躍動感は、何処かに沈んでいってしまった。
テレビでは未だに地震のことを報道している。
『はい、えー、繰り返しお伝えします。小笠原諸島近海にて、震度七の……え? これなし?』
「……?」
『……えー、お時間の都合で次のニュースです』
放送事故だろうか。
突然地震の報道を制止され、別のニュースの報道が始まった。
大きな地震であったにも関わらず、画面のどこにも津波警戒情報の地図だとか、そういったものも表示されていない。
明らかにおかしい。揺れは確かにあったのに。
「……変なの」
一人でそう呟きながら、視線をパソコンの画面に戻す。
SNSの他のユーザーが、再び不可解な内容の呟きを拡散してきた。
『地震が起きる瞬間に偶然撮影した物ですが、これは何でしょうか?』
一緒に添付された写真には、海が映っている。
その水は綺麗に透き通っていたが、一つおかしい点があった。
水平線に、縦に真っ直ぐに伸びた光の筋が映っている。そこに、何かが落ちているかのように。
雷のようにも見えるが、ここまで柱のようにまっすぐ落ちる雷は見たことがない。
そもそも、写真の空は晴れ渡っていて、雷が落ちるような状況にでは無かった。
不思議に思って、その画像は保存しておいた。
やはり、再読み込みをするとその内容は削除されている。
どうやら、投稿者は現地に居た人のようで、僕は安否確認も兼ねて当人のユーザーページへジャンプしようとした。
しかし、いくらそのアカウントを検索しても、結果に表示されない。
彼のアカウントそのものが、削除されていた。
――何かが、介入している気がする。
多くの者が、僕と同じように疑問に思っているかもしれない。
しかし、それは時の流れと共に忘れられていくものだ。明日になって、一体何人の人間がそのことを気にするだろうか? おそらく、半数にも満たないだろう。
この日、確かに日本で何かが起きた。
しかし、それは多くの者には関係のないことだった。
時間の経過と共に忘れられて、なかったことになるのだ。
僕の生きるこの世界の人々は、今も、そしてこれからも、そうやって生きていくのだろう。
人間なんて、そんなものだ。