ナイトメア・パレード - Ⅱ
支度を済ませ旅館の外に出ると、一台のバスが停車していた。バスの乗車口近くには、飯田先輩がいてサークルメンバーの乗車確認を行っているようだ。
空は昨日に続いて晴天である。風はほとんど感じ取れず、思わず舌を出してしまいそうな暑さの中で、先輩は日光の直撃を受けていた。その近くに一人、三十路は過ぎているであろう男性が同じように直射日光を受けていたが、おそらく観光会社の関係者だろう。
彼は白いシャツの腕を捲って、怠そうにうちわで自身を仰いでいた。
「サークルの合宿に、貸切バスか……。どこからそんな金が……」
「つか、暑すぎ! さっさと乗ろ!」
黎が先陣を切ってバスに乗り込んだ。僕達もそれに続き、先輩のチェックをして車内へ。もちろん、シェミルやサチュリも一緒である。
バスに乗ってまず驚いたことがある。運転席に座っていたのが、女性だったのだ。
昨今、その程度で驚く人はいないだろう。雇用に関する男女の平等化が半ば煩く掲げられている光景は、メディアのニュースでもしばしば目にすることがあったからだ。
僕が――いや、恐らく他の者も――驚いたのは、彼女の髪色である。
運転手の女性は、蒼い髪を後ろで束ねていた。
僕達が生きる地球には、地毛の青い人種なんて、いない。つまり、髪を染めているということになる。
「よ、よろしくお願いします」
「…………」
その女性は返答せずに、こちらにガンを飛ばしただけだった。やはり海外の方なのだろう、瞳は透き通った空の色をしていた。揺るぎない程の美人だが、態度が悪すぎるから第一印象は最悪である。
これまで、僕は髪の毛を染めるという行為が、社会的には良く思われていないことに、甚だ疑問を感じていたのだが、この時初めて痛感した。この運転手が発する不安感は、並のそれではなかったからだ。
シェミルの金髪はともかく、サチュリの白髪も初めは珍しがられていたが、慣れとは恐ろしいものである。彼女は今やサークルのマスコットのような、或いはいわゆるお姫様のような扱いを受けていた。本人も満更でもない様子なので、尚更呆れてしまう。
サチュリはミヤから借りたであろう水色のワンピースを着ていたのだが、身長が近いからか全く違和感を覚えない。
むしろ、似合ってると言えよう。麦わら帽子があれば完璧だった。
まだ出発の予定時刻には二十分ほど猶予があったのだが、その時点でメンバーは全員揃ってしまっていた。インドア――ではなく真面目な人間が多いようで、時間にはキッチリしすぎているようだ。旅館の中が暇なだけかもしれないけれど。
「安藤くん、サッちゃん借りていい?」
唐突に、先輩の一人が声をかけてきた。サチュリは成り行きでか、先輩達と仲良くしている。サッちゃんと呼ばれているのもその由縁だ。
「どうぞー。……何を?」
「ん、一緒にトランプやろうかなーって。そ、そちらの女性の方々もどうですか!」
なんだろう。今僕は踏み台にされたのではないかという気がしてならん。別に気にしないけれど、これは(トランプで)わからせる必要があるようだ。
案の定、サチュリはキョトンとした顔で「とらんぷ?」と訊いていた。
「僕もやります。……というか、サチュリは、そのー……外国の人間なんで、ルールがわからないかも……」
「おっけー、じゃ、無難にババ抜きからやるか」
「ばばぬき……」
こうして、サークル内の大半のメンバーが参加する『ババ抜き』が始まった。先輩が大まかなルールをサチュリに説明して、カードを参加者に配る。しかし参加人数が多すぎて、最初のターンであがってしまう人が二人もいた。しかもバスの構造上、後ろの人は前の人の手札を見放題だったし、まるでゲームにならなかった。
「なるほど、理解した」
サチュリはそう言っていたけれど、これじゃあまり面白くない。
「ほれ、もう一セットトランプあるよ。使う?」
黎はそう言って鞄の中からカードの束を取り出した。その時、車内が一瞬眩く光る。無論、一番驚いているのはサチュリだったが、さほど警戒している様子もない。
光源の方を見ると、いつの間にやら先程バスの外に立っていた観光会社の男性が僕達の様子をカメラで撮影していたのだ。おそらくその場にいる全員が、誰なんだ、と思っていただろう。和気あいあいとしていた空間が微妙に白けてしまった。
そしてタイミングを見計らったかのように、最前席で何か作業をしていた飯田先輩が手を叩きながら声を張り上げる。
「えーとみんな聞いてー! これから少しバスに乗って某夢の国に行きまーす! 何度も言うようだけど、他の人に迷惑をかけないように! 浮かれすぎて、着ぐる……スタッフの方々に中の人はいませんかー? とか訊くなよ! 消されても知らんぞ! ……じゃ、運転手さん、お願いします」
少々危険な注意喚起に、車内は明るい雰囲気を取り戻す。
同時に車は動き出した。先ほどカメラで僕達を撮影した人は、運転席近くにあるマイクを手に取った。
「えー、皆さんはじめまして。本日は当バスをご利用頂きありがとうございます。えー、本日短い間ですが案内を務めさせていただきます、佐伯と申します、短い間ですがよろしくお願いしますー。あ、運転を務めさせていただきますのは、ルーナ=アズール=シャーロットさんです――」
運転手はそれに合わせて警音器を一度鳴らした。
先輩達は「やっぱ外人かー」とか、「結構美人じゃん、てか若くね?」とかそれぞれ感想を述べていた。もちろん運転手本人には聞こえない声量である。それよりも気になったのが、バスガイドの言葉がぎこちなかったことだ。考え過ぎだろうか。
トランプは二手に分かれて再開するらしく、サチュリや僕を踏み台にした先輩とは別のグループになった。後ろに座る黎は助手席を広げてカードを配り始める。
ダニエルは参加しないようで、ゲーム機の中にいる彼女といちゃつきながら、少々不気味に笑っていた。
「シェミル、どうかした? 酔った?」
通路を挟んで隣に座っていたミヤが、その席の窓際に座っていたシェミルに声をかけた。見ると、シェミルの様子がおかしい。虚空を見つめるその顔は、徐々に蒼くなっていく。声にならないほど弱々しく、「なぜ……」と呟いていた。
「ちょっと! シェミル? 大丈夫?」
「え、ええ……」
ミヤの声でシェミルは我に返ったようだが、やはりその手は何かを恐れるように震えている。
「何か、あったんですか?」
「あの運転手――」
シェミルは小さく震えた、何かに対する恐怖心が感じ取れる声で告げる。
「――私の上司です。あちらの世界での……」
それが何を言わんとしているか、僕はわからなかった。だけど彼女の発する異様な怯え方が、只事ではないことだけは理解出来た。
それを聞くとほぼ同時に、自身の携帯電話がメッセージを受信したようで、一度だけ振動を起こした。そのメッセージの差出人は見知らぬ人で、時々無差別に送られてくるスパムメールの一種かと考えながら本文を開く。
『魔人について尋ねたいことがあります。
目的地に到着したら、少し時間をください。 佐伯』
そこにはそう書かれていた。
「ダニエル」
「ん、なんだ?」
「佐伯って誰だっけ……」
「さぁ……。先輩の誰かじゃないか?」
魔人という単語にも、いまいちしっくりこなかったが、恐らくこれはサチュリのことを指しているのだろう。
僕達以外にも、事情を知っている人間がいるのかもしれない。そう考えるだけでも僕の焦燥感を煽るには十分だった。
「うおっ!」
突如、バスに衝撃が走る。それは一瞬のことだったが、何が起きたかは誰もがわかっただろう。何かに、ぶつかった。
「やはりおかしいと思いましたわ……」
「どうしたの? シェミル」
「おそらく――いや、間違いなく。――あの運転手は免許を持っていません……」
「…………え?」
その声は限りなく小さく、トランプで遊びながら騒いでる者らには聞こえなかっただろう。しかし僕達の間で沈黙が生まれ、そしてそれが徐々に恐怖心になっていく。それがシェミルが最初に発していた物と同じかはわからなかったが。
「そ、そそそ、それヤバい! ヤバいでしょ! 止めさせなきゃ!」
始めに沈黙を破ったのは黎だ。しかし彼女は彼女で軽くパニックになっているし、まともな思考が出来ていないように思える。
「で、でもさ、今のところ大きな事故はないし、これから高速道路入るだろうし、大丈夫じゃないかなぁ……」
「いや高速道路って返ってヤバいでしょ! やっぱおかしいと思った、合宿で貸切バスなんて! あの先輩詐欺会社に騙されたんだ!」
黎に対してミヤは冷静だった。状況を容認出来ていないとも取れる。しかしここで止めようとして運転手が開き直って暴走する可能性も考えられる。ここで余計なことをするのは得策とは言えないだろう。
同様のことを考えていたのか、シェミルは黎をなんとかして席に縛り付けた。というか、目と口まで塞がれていた。やり過ぎである。
黎は言葉にならない唸り声をあげていたけど、面白いという理由でしばらく放置される事になる。
バスは高速道路に入り、時折窓の外から海が見える。サチュリはその景色に感動していた。この世界にきて初めて見たらしく、その目は輝きを帯びているように見える。
その様子を再びバスガイドの男に撮影された。それと同時にようやく思い出した。先程のメールの差出人である佐伯が、この人だということを。
そして彼は何度か写真を撮っていたが、確かにサチュリを映すことが多かったかもしれない。この時初めて、僕は危機感を募らせた。それでもバスは止まらずに、目的地へと向かう。
バスは何度か交通法に抵触しかねないことをしつつも、無事に目的地へ着いた。休みということもあり、駐車場には多くの車が止まっていたし、その他の手段で来る人もいるだろうから混み合っていることは明白だった。
「えー、お待たせいたしました。当バスは目的地へ到着いたしました。皆様ごゆっくりと、えーと、お楽しみください」
「はい、ありがとうございます。みんな聞いてー! 帰りは二〇時半までにこのバス集合ね! 二一時過ぎたら出発するので、遅い人は自腹で帰ってきてねー! 以上、解散!」
先輩達は徐々に降りていく。それに続いて僕達も降りる。照りつける太陽が眩しい。
「よーし、じゃあ行きますか! 全部まわるぞ!」
「ごめん、ちょっと佐伯さんと話すことがあるから、先に行ってて。すぐ追いつくけど場所わからなかったら携帯で連絡するから、よろしく」
僕は、誰にもメールのことを話さなかった。誰も巻き込まないと昨日決めたばかりだ。
しかしミヤは僕の手を握って――
「わたしも後から行くね!」
そう告げた。
結局僕はその場で、それを止めることが出来なかった。一番に守らなくてはならない人を、最も危険かと思われる場所に留めてしまった。
「ミヤちゃん、やっぱ皆を追いかけた方がいいかも。もしかしたら危険な目に合うかもしれないし、そうなったら俺はミヤちゃんを守れないと思う」
黎達が園内へ向かう様子を見送りながら、僕は告げた。情けないことを言ったようだがこれは事実だし、無責任に「お前を守る」と言えるほど、愚かではない。
それでも、ミヤが僕の手を握る力が強くなったのがわかって、少し後悔した。やはり、ここに居させるのが間違いだった。
「大丈夫だよ。……わたしが守ってあげる」
「え……」
「あはは、冗談。わたしは、シェミルみたいに戦えないからね」
そう言ってミヤは申し訳なさそうに笑う。この時僕は自分が情けなくて、どうしようもないほど悔しい思いをした。彼女には気づかれないように取り繕ったが、少し気を遣わせてしまったかもしれない。
「暑い。バスの中で待ってよう」
「うん」
そんなやり取りをして、再びバスへ戻る。しかし、運転手も呼び出した本人である佐伯も、バスの中にはいなくて、エンジンだけが掛けっぱなしの状態だった。おかげで車内は涼しかったのだが。
「やー、ごめんごめん! 飲み物買いに行ってたら遅くなっちゃった。ここの自販機すごい高いんだね、びっくりだよ」
佐伯が、そう言いつつうちわで自身を仰ぎながらバスへ乗り込む。今は業務中ではないとでも言いたいのか、ワイシャツの第一ボタンもはずして、なんともだらしない格好であった。これではまるで、顎髭を生やした高校生である。
運転手も一緒だった。こちらも帽子や上着は脱いで、ワイシャツをだらしなく着ている。本当にこの運転手はシェミルと同じ種なんだろうか。どちらかというと、リュードに近い雰囲気を発していた。
ここでまずいことに気がついた。二人は通路を塞ぎ込むように立っている。これではいざという時に逃げられない。後部には非常口があるものの、危険な状態になった場合に開けている余裕はないだろう。
「ん? 二人だけか。彼女? 可愛いね、羨ましい」
「え、あの……、その……」
佐伯の言葉に照れているのか、顔を赤くしてもじもじするミヤ。キッパリ答えればいいのに。
「しつもんにこたえろ」
凄みのある声で、運転手はそう言った。
しかしなんだろう。気のせいだろうか、カンニングペーパーを読み上げてるかのように棒読みな感じがしたのは。
「そうです、ミヤちゃんは僕の恋人ですよ。……それで、話ってなんですか?」
「いやー、そこまで構えなくていいよ。ルーナちゃんは僕の護衛役だから、危害を加えたりはしない。
まぁ話ってのは単刀直入に言うと、昨日海岸であったことを出来るだけ詳しく教えて欲しいんだ。もちろんせっかく遊びに来てるんだ、今じゃなくていい」
この人は何故、昨日僕が海岸にいたことを知っているのだろうか。危害を加えないと言ったことも信用は出来ない。そもそも、あちら側の情報が少なすぎる。
「あなた達は、誰なんですか」
「さきに、しつもんにこたえろ!」
まただ。運転手の言わされているかのような棒読み。シェミルはこの人が上司だと言っていたが、まるでそんな気はしない。人違いではないのだろうか。
「まぁ落ち着いてルーナちゃん。誰、と言われてもねー。正義の味方、と言ったら信じるのかい?」
「いいえ、全く。そもそもなんで僕のことを知っているんですか? メールアドレスも殆ど使っていないのに、どこから――」
「確かに気になるよねぇ……。まぁそれは企業秘密ってことで許してよ。この窮屈な世の中じゃあ、どこにいても全てが監視されている。プライバシーなんてあったもんじゃない。出来るだけ答えは急いで欲しいな。――君達の為にもね」
それは僕のことをどこからでも監視出来ると言っているのだろうか。だとしたら尚更信用出来ない。
「なら、お断りします。得体の知れない人に教える事は何もありません。もう行こう、ミヤちゃん」
ミヤの手を引いて立ち上がる。意外にも佐伯は、「残念だ」と言いながらも通路を開けてくれた。ルーナという運転手の女の子は僕を強く睨みつけていたが、佐伯の一声で渋々と通してもらえた。
「……なんだったんだろうね?」
「さぁ……。正直メチャ怖かった……。行こう」
「ねぇ、しばらく二人でまわろうよ。合流する時間が勿体無いでしょ」
「う、うん。そうだね――」
少し照れながらも、僕達は手を繋いで園内へと向かった。
***
「佐伯さん。よかったんですか、あのまま行かせて」
悲しい声でルーナは佐伯にそう問う。当の佐伯はなんともないと言わんばかりに、うちわで自身を仰ぎ、足を組みながら座席の一つに座っていた。
「まぁ、こうなって当然だろうねー。むしろ、思考はまともなようで安心したよ。しかしどうしたものでしょーかね」
「次に〈アカシア〉の閲覧が出来るのは四日後ですが……」
「はは、もうそんなもの信用ならんよ。全くとんでもないタイミングで事象を歪めてくれたもんだ。とにかく信用を得ないとなー。信用。信用……」
佐伯は腕を組んで考えた。時に天を仰ぎ、時に下を向き唸りながら。そんな様子を、ルーナは黙って見つめている。何か思いつくのを待っているかのように。そして、佐伯は口を開く。
「ルーナちゃんて、いま何歳?」
「先日、十七になりました。しかしなぜ?」
「よし。彼らの通う大学に編入しよう。そして仲良くなる。手を貸してもらえる。みんな幸せ! 決まりだな」
「……でもわたし、バカですよ」
安藤の通う大学は学力は並以上必要な国公立である。これは彼らにとって簡単な調査でわかっていたことだ。しかも、理系。本人の言うように学力では無理だろう。
「……いいかいルーナちゃん。日本の大学には、二つの入口があるんだ。一つは一般的な入試。学力を試されるお馴染みの方法だな」
人差し指を立てながら、佐伯は言った。
「そしてもう一つ……あるんだよ。巷ではそれは、裏口入学と呼ばれている……。これは学力ではなく、財力が試されるんだ……」
自分を正義の味方だと名乗っていた佐伯の顔は、その時は誰が見ても悪人の顔をしていた。思わずルーナはため息を吐く。しかしこれが承諾を意味することは、彼らの中では暗黙の了解だった。
しかし、どこかでそれを楽しみだと思う自分がいることにルーナは気がついていた。
「さて、決まりだな。やることもないし、僕らも息抜きにデートといきますか」
「さ、最終決定は“リーダー”に委ねますから」
「へいへい、エンジン止めとけよー」
***
ミヤと共に行動をしていた僕は、息抜きと昼食を兼ねて、併設されたレストランに来ていた。やはり、混み具合が半端じゃなく、二人じゃなかったら席が取れなかっただろう。
そしてメニューを開くと、料理の高さに驚かされた。佐伯の言う通り、自販機の商品も倍近くの値段で売られていた。それを声に出すことは、僕の中にいた謎のプライドが許さなかったのだが。
「それにしても、驚いたよ。シェミルさんがフリーパス用意してくれてるなんて」
フリーパスを持っていると、優先的にアトラクションを楽しむことが出来る。なかなか値が張るそれをシェミルは二人分用意してくれていたのだ。もしかしたらこれは、彼女自身とミヤの物だったのかもしれない。それでもせっかく与えたくれた厚意だ。ありがたく甘えさせて頂くことにした。
「うん、後でお礼しないとね」
やはり、バスでの出来事が気になってしまうのか、ミヤは先程からあまり元気のない様子だった。店員が料理を運んできたので、食べ始める。
「おいしい」、「マジおいしい」、「すごくおいしい」――。
話題がなさすぎてこればっかり言ってた気がする。こんな時、どんな話をすればいいのかわからない。
改めてカップルって大変だなと思った。
「うーん。飯食ったら、みんなと合流する?」
「えぇ、まだいいよ。二人でまわろ」
「そうか」
彼女も気まずいだろうに、でも二人でいたいと言ってくれたことは嬉しかった。
「安藤君は怖くないの? サチュリちゃんのこと」
「それダニエルにも聞かれた気がするな。あいつは全然怖くないと思うよ」
「それは、本心?」
何を言ってるのかわからなかった。
「俺が誰かに洗脳されてるとでも言いたいのか? これは俺の考え、だよ」
「変わってない?」
徐々にミヤの言葉は、トゲのある物に変わっていく。
「変わってないって――」
「あなたは、誰」
「何言って……」
――あれ。
「俺は安藤弘樹、あなたの彼氏ですよ」
「えへへ、よろしい。よく出来ました」
ミヤちゃんはいつもの明るい雰囲気に戻った。
しかしどうしてだろうか。一瞬、自分の名前が出てこなかった。自分の名前を名乗るのに、記憶の中を探るなんて、痴呆の始まった老人でなければありえないことだ。
この時、どうして僕は気づかなかったのだろう。既に、人間としての自覚を失いつつあることに。
* サチュリ 視点 *
この世界に来て以来、驚くことがたくさんあった。広大な海もその一つだが、この遊園地と呼ばれる物も同じくらい驚かされた。
どんな器用な魔術を使えばこんな歪みきった線路を作れるのか。しかもそれを走る列車は逆さになろうが落下もしない。黎いわく、この恐怖を楽しむらしい。
最初はこれは集団を拷問するための器具かと思い、乗るのを躊躇ったが、他の客の満足そうな表情を見て、ようやくこれが信頼出来る乗り物だとわかった。
ダニエルは半ば強引に連れられて、白目を向いて意識を失っていたが、こういう楽しみ方もあるのだろうか。
「んー、参ったな。ダニエル起きろー」
強引に乗せた張本人に、ダニエルはうちわで顔を叩かれている。シェミルのため息が聞こえた。
アンドーはどうやらミヤと共に行動しているらしい。なるほど確かに、恋人同士で来ると楽しそうな場所ではある。
「んん、お迎えが来たようだ……そろそろ行くブフッ」
ダニエルが混濁した意識で何か呟いていたところを、黎は思い切り引っ叩く。そうしてようやくダニエルは目を覚ました。
「時間も時間だしどっかでご飯食べるかー」
「ダニエルさん、大丈夫ですか?」
「ああ……。なんか頭がぐるぐるする。一体何があったんだ」
そんな会話をしながら、私達は食事を探すことになった。
この世界の空は、蒼い。そして直視出来ないほどの光を放つ星が世界を照らしている。
しかし夜になると空は全く別の顔を見せる。私のいた世界も、かつてはこんな感じだったのだろうか。
「そういやサッちゃんって家に帰らんでいいの?」
食事中に、不意に黎がそんなこと尋ねる。
リュードの姿はいつの間にか消えていた。帰る方法を模索しに行ったのだろう。私もそろそろ行動しなければならない。
「そうだな……。今夜にでも、発つかもしれん」
「どこにですか」
今度はシェミルが尋ねてきた。返す言葉が、見当たらない。
「……さぁな」
おそらく、私が歓迎されていない客であることは、間違いないだろう。
帰っても、異界の者と契約したことが知れれば、異端扱いされ居場所を失うだろう。
とっくに、私に行く場所なんてなくなっていた。それでも私は、私の故郷へ帰りたい。
「帰り方わかんないの? だったらウチに泊まってもいいけどなー」
「泊まるならアンドーの家がいい」
「それは、いろんな意味でやめといた方がいいよ、うん」
やはりミヤだろうか。この世界には面倒な規則が多い。だが破ってもバレなければ罰は下らない。なんて都合のいい世界なんだろう。
でも、そう言ってくれる者がいることが、嬉しかった。私の本性を知ったら、考えを変えてしまうかもしれないけど、その時はその時だ。
「一四時からパレードらしいし、それまでゆっくりしてるか」
「ぱれーど?」
「なんて言えばいいんだろ。見りゃわかる」
この遊園地は、驚きがたくさんある。“オバケヤシキ”では冥界の無害な生物を鑑賞出来たし、“ぜっきょうましん”とやらも、戦士達の恐怖心を取り払い精神力を鍛えるには持ってこいの装置だった。
“ぱれーど”とやらも、楽しみにしておこう。
外を眺めると、人々は何処からか現れ何処かへ消えていく。こうして見ていると、それだけで面白い。親子で居る者もいれば、一人で歩いてる者もいる。種族は違えど、根本的な部分は私達と同じのようだ。
「あれ、偶然だねー」
背後から声がするので振り向くと、サエキと名乗っていた男がいた。隣には運転手もいたが、目を合わせて初めて気付いた事がある。
――こいつ、人間じゃない。
彼女の出す雰囲気が、尋常じゃない。シェミルと似てるが、禍々しさが桁外れだ。彼女の視線はまるで刃物のように鋭く、私達に突き刺さる。
「何の用だ?」
私は少々威圧感を出しながら、彼に問う。
「やだな、ご飯を食べに来ただけだよ」
しかし彼は、それに動じず苦笑しながらそう答えた。シェミルは震えて顔を俯かせていた。おそらくルーナに対する圧倒的な恐怖だろう。
彼らは空いている席に座って私達と同じようにメニューを見て料理を選んでいた。
「おい、シェミル。アレはなんだ」
「……わたくしの上司です」
「あんなのがこの世界に溶け込んでるのか。ここの住人は呑気なものだな」
「あなたも大概でしょうに……」
その時だった。外から悲鳴が聞こえ、人々が何かから逃げるように走り出す。店内にいた者も困惑したようで、窓の外の様子を呆然と見つめている。
「あーあ、もう来ちゃったか」
サエキは外の状況に気づき、険しい顔ではあるものの、驚く様子もなく食事を続けていた。まるで、こうなることを予想していたかのように。
「どうします?」
「色々知りたいことがあるし、このまま様子見で。危害が及びそうだったら、助けてやってよ。さすがに一般人にまで手をかけたりはしないだろ」
外の人々は皆逃げてしまったのか、先程まで賑やかだったそこはあっという間に閑散としてしまった。誰かがその場に捨てたであろうゴミが風に舞っている。
店内にいる客や従業員は、未だに何が起きたのかわかっていないのか、その場を動かない。
「……何か来る」
「サッちゃん……?」
直後、店を囲うように現れたのは、昨日も見かけたようなどこぞの軍隊だった。店内に悲鳴が上がる。しかし、私が感じたのは奴らではない。
微かだが感じたこの気配。
――魔界人がどこかにいる。
* 安藤 視点 *
何が起きたのか理解出来なかった。昨日も見た黒い軍装の部隊が、僕のいる店を囲んで銃口を向けていた。テレビで見るような部隊は、組織名が書かれているものだ。仮に現実でそんな部隊があるとしても、同様に書かれているものだと思った。
しかし彼らにそれは書かれていない。一つ言えるのは、人数が昨日とは比較にならない。おそらく一斉に撃たれたら、人としての形すら残らないだろう。
部隊の一人、リーダーかと思われる人物が武器を構えながら店に入って来る。
エナメル質の靴の音を響かせながら、武装した服の上に黒いコートを纏った強面の男だ。
他の者と違って頭部を守るメットを着用していないが、彼から発せられる雰囲気は尋常じゃない。
まるでリュードやサチュリと同じような――坊主頭に黒いサングラスをかけていて表情は伺えないが、もしかして、魔界人か。
とっさにミヤを背に隠す。ミヤは僕の服の背を掴んで、震えていた。
「なんなんだよ……。今度は!」
その男は何も答えない。厚手の装備の上からでも鍛えていることがわかるほどの体躯をしていた。
「こちら、ナンバー501。目標を発見。確保作戦に移行する」
『了解。油断はするな』
無線機の向こうからは、淡々とした女性の声が聞こえた。大男はこちらへゆっくりと近づいてくる。わかってはいたけれど、目標とはやはり僕のことなのだろう。
相手は銃を持っている。下手に動いたら周りも巻き込んでしまう。それだけは避けたい。
「お、おい! 一体誰だお前!」
「オレか? ここでは言えねえな。お前を迎えに来たとだけ教えてやる。大人しく付いてくるなら危害は加えねえ」
「迎えに――?」
最悪な事に、サチュリが今何処に居るのかはわからない。
僕だけの力で、何とかしてミヤちゃんを守らなければならない。
僕はテーブルにあったナイフを震えた手で構える。
「オイ、馬鹿な真似はやめろ。抵抗する気なら撃つぞ」
男はそう言った。何とかして、時間を稼がなければならない。
どうすればいいか考えるんだ――。
僕は思考を巡らすも、打開できる策が思い浮かぶ事はない。
ミヤちゃんの怯えた手の力が、一層強まる。
守らなければ――その思いは不幸ながらに僕に蛮勇を与えてしまう。
「い、一体何のために――」
「黙れ。今お前に教える事はねェ。それ以上喋れば撃つ。大人しく頭に手を添え投降しろ。時間が無い」
「あのな、せめて用件くらい――」
その時、店内に銃声が響いた。痛みは無い。どこかに流れたのだ。そして悲鳴が響く。ミヤも、例に漏れず泣きながら叫んだ。
まさかミヤに当たってはいないだろうか。心配になり後ろを振り向くが、身体に力が入らず、何だか眠くなってきた。
「あれ……」
いつの間にか、手が真っ赤に染まっていて。
痛覚を遮断していたことを思い出した時には、僕は床に崩れ落ちていた。ミヤが必死に叫ぶ声が聞こえる。
「ミヤちゃ……目、瞑ってて……」
涙が僕の顔に落ちてくる感触を最後に、僕の意識は深い闇へと落ちていった。
* サチュリ 視点 *
部隊の一人が店内に入り、こちらに銃口を向けていた。
『対象の捕獲を完了した。負傷しているが命に別条は無い』
「了解。こちらもすぐに行く」
彼らが不思議な形の電話でやり取りしていた。その言葉を聞いて私は妙な不安感に苛まれる。アンドーは無事だろうか。
私達の前に現れたのは片目が赤い女だった。
私に銃を向け立っているが、その姿には少しの隙も見当たらない。相当な訓練を積んでいるようだ。
「おいおい、何の冗談だこれは!」
そう言いながら一人の客が、隊員に近づく。わずかな殺気を感じるとほぼ同時に、私はその客の前に飛んでいた。
店内に銃声が響く。銃弾は客に届くことはなかった。しかしその場で腰を抜かすので、私はその客を呑気に飯を食っているサエキの方へ蹴飛ばした。
「おいおい。マジ?」
「問題ありません」
想像通り、ルーナが客を受け止めそっと床へ降ろした。
「――ッ!」
流血が止まらない。銃弾は、私の腹部に当たっていた。痛みよりも、借りていた服を汚してしまったことに対する申し訳なさと、こいつが人を撃ったことに対する怒りでいっぱいだった。
「素晴らしい反応速度だ。だがもう動かない方がいい。出血が酷い」
「――貴様ッ! 魔界人だろう! 一体なぜ……」
「ネビュレステル……? 何だそれは」
動かない方がいいとはよく言ってくれたものだ。もはや動こうとしても動けないのだから。
銃弾にこれほどまでに凝縮された威力があるとは、思わなかった。
この世界の魔術は、侮れない。魔力の流れを少しも感じ取れないからだ。
そして、一つ確信出来たことがある。
この世界に適合しかけているのか、契約が原因かはわからない。しかし明らかに、身体能力が落ちていた。あの程度の銃弾だったら、受け止めることくらい出来たはずだ。
「つまらんな、私一人で充分だったのではないか」
「見くびられたものですわね」
「何――」
何かが風を切る音が聞こえた途端、隊員が床に崩れ落ちた。ここで初めて、サエキの驚く顔を見た気がする。
そこにいる多くの者が、驚きのあまり唖然としていただろう。
店内は、眩い翡翠色の光に照らされる。
――その光の中にいたのは、異様な姿をしたシェミルだった。




