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平成の魔王  作者: 雪鐘 ユーリ
第一章 - 引き裂かれる日常
12/75

ナイトメア・パレード - Ⅰ

 腹部に重い衝撃が走り、目が覚める。


「……起きろ、アンドー。話がある」

「んん……、ってウオァ!」


 二度寝したにも関わらず、未だに重い目蓋を開くと、部屋に用意されている寝間着姿のサチュリが僕の身体に馬乗りになっていた。

 サチュリのサイズに合った寝間着がなかったのか、それはかろうじて肌を隠す程度の役割しか担っていないようにみえた。

 いや、僕からの目線だと、それすらも適っていない。掛け布団越しとはいえ、朝から刺激が強すぎる。僕は目をギュッと閉じた。


「騒ぐな。皆が起きてしまう。ここまで這い出てくるのがどれだけ大変だったか……」


 黎に抱き枕にでもされていたのだろう。そんな光景が容易に想像出来た。


「そ、それで話って何でしょうか!」

「もう少し声を下げろ。……そして何故目を瞑っている。私の身体に何か……あ」


 どうやら自身の状態に気がついたようだ。少し惜しく思ってしまったが、ここは抑えるんだ。僕は、まだ、犯罪者じゃない。いや、これからも。

 サチュリはくすりと笑う。


「ほほう……まさか、興味あるのか? 私の身体に……。下心が抑えきれずに溢れているぞ……。この世界の者は、こんな幼くてぴちぴちな身体に発情してしまうのか……」

「否! 断じて違う! 俺はそんな特殊な――」

「見てもいい、と言ってもか?」

「え――」


 その言葉に釣られて、思わず目を開けてしまう。

 その瞬間、僕の側頭部に接触するかしないかのところを、弾丸のような拳が貫いていた。いや、もみあげを数本持っていかれた。早い人は、頭皮の芝刈りが始まっている歳だというのに。髪の毛は大切にしてほしいものだ。

 敷布団は衝撃に耐えきれず裂け、畳の床は少しへこんでいる。当たったら確実に死んでいた。


「……ヴァーカ。さっさと起きろ、ついてこい」

「ま、待ってくれ。身体が動かないんだ。……酷い筋肉痛で」

「筋肉痛? 何だそれは」

「普段運動しない奴がいきなり身体動かすと、痺れるように痛くなるんだよ」


 

 確かに昨日は強引に筋肉を使っていた――否、使われていたからそれが原因なのだろう。

 筋肉痛で動けないのは初めてである。まるで、床に磁石で貼り付けられているような感覚だ。


「……仕方ないな。今日限りだぞ」


 サチュリはため息を吐きながら、こちらに近づき、再び馬乗りになる。そして昨日もしたように、近くで目を合わせ。意識に乱入してきた。


(よし、痛覚を麻痺させた。これで大丈夫だろう)


 頭の中にそんな声が響くと、意識の主導権はすぐに僕の元へ返ってきた。

 サチュリも目を開く。そして、置かれている状況を理解するのに、時間を要した。


 サチュリがこちらに乗り移れば、当然意識を失ったサチュリの本体は、重力に従って落ちてくる。そして、その時僕たちは目を合わせていた。

 その結果、不本意ながらも唇は重なっていた。


 サチュリは目を丸くして、おそらく状況を理解する前に、二発目の鉄拳を反対側の側頭部ギリギリへと打ち込んでいた。

 何処からか鳥が一斉に飛び去って行く。


 今度は敷布団から畳にかけて、握り拳の形をした穴が空いていた。

 唸りながら寝返りを打ちつつも、ダニエルは未だに眠り続けていた。


「……今のは不本意だろうから許す。忘れろ……」


 そう言ってサチュリは、そっぽを向いて歩き出してしまう。顔を赤らめていた気がするけれど、今それを指摘したら本当に殺されかねないので、黙っていることにした。

 というより、僕は大天使であるミヤちゃんと付き合い始めたのだ。

 今後神に誓って、軽率な行動は慎まなければならない。

 携帯を見ると、朝の五時に『起きた?』と連絡が入っていることに気づいた。

 大天使の朝は早い。


『今起きたとこ、ちょっと外の空気浴びてくる』


 そう返信して、サチュリを追った。

 一瞬にして僕の発言に“既読”の文字が付いた事に、僕は気付かなかった。



* ミヤ 視点 *


 部屋の扉が開く音で目を覚ました。

 その音は誰も起こすまいと配慮されてるかのように小さかったが、以前から物音に敏感だった私は気がついてしまった。

 静かに扉を見ると、サチュリちゃんが出て行くところだった。

 呼び止めようと思ったけれど、近くで黎ちゃんやシェミルが寝ていたため、出来なかった。

 安藤君に起きたかどうか聞いてみても返事はないし、もう少し布団の中でゆっくりすることにした。


 どれくらいの時間が経っただろうか。一瞬だけ、建物が大きく揺れた。関東地方は地震が多いらしいし、その類かと思ったけれど、シェミルが飛び起きたことで不安感は余計に増した。

 黎ちゃんは気づかずに眠っていたけど。


「……今のは?」

「おはよぉ、シェミル。地震……かな? びっくりしたなー」


 さも今起きたかのように挨拶をする。

 シェミルも警戒を解いて、挨拶を返してくれたし大したことではないのだろう。

 そう考えた矢先、再び建物に衝撃が走る。一度目よりも強く、それが地震ではないことが分かった。


 携帯を見ると、安藤君から返信が入っていた。私はシェミルと同じように飛び起きて、安藤君を追いかけることにした。


「ぐえっ!」

「あっ、ごめん黎ちゃん! なんか踏んじゃった!」

「……ぐー」


 黎ちゃんは眠ったままだったので、彼女には悪いけれど今は放置して部屋を出た。

 その時シェミルの溜息が聞こえた気がしたけれど、大方それは、黎ちゃんに向けられた物だろう。


 エレベーターは下の階へ向かっている途中だった。きっと安藤君が乗ったんだろう。階段を降りるのも億劫のため、エレベーターを待つことにする。

 時刻は七時を少し過ぎた頃だった。朝食が用意されるため、八時には食堂に行かなければならない。


「あっ……シェミルに朝ごはんあるって言ってないや」


 私は一人でそう呟きながら、エレベーターに乗って早足で安藤君のもとへ向かった。

 フロントにいた女性に挨拶をされ、軽く返して屋外へ出た。

 しかし見渡しても安藤君は見つからない。


 おそらく昨日もいた雑木林にいるのだろう――そう思って建物の裏手に回る。

 そして見つけた。今日は、雑木林の中には入っていなかった。

 予想はしていたけれど、サチュリちゃんも一緒だ。


 何かについて話してるようだった。

 サチュリちゃんの真剣な眼差しに、思わず建物の影に隠れてしまう。

 昨日から、恋人になれたというのに。声の一つもかけれない自分が情けない。


 かといって、踏み出そうとしても足は動かない。

 心の何処かで彼女を恐れていたのかもしれない。私は旅館に戻ろうと(きびす)を返した。


「単刀直入に問う。アンドー……お前何者だ?」


 サチュリちゃんのその言葉で、足を止めてしまう。

 罪悪感を抱きながらも、私は彼女達の会話を盗み聞きしてしまうことになる。



 ***



「――お前、何者だ?」

「へ?」


 真剣な顔でそんなことを問われ、硬直してしまう。この暑い中、屋外へ連れ出され意図の理解出来ない質問をされるこちらの身にもなってほしい。

 建物の日陰になっているため、陽射しが直撃することはないが、蝉は他者へ気遣いもせず喚き散らしてるため、昨日と続いて少々ストレスだ。

 俺達は遊びに来てるんだよ! 違った。合宿に来てるんだよ! 少しゆっくりさせろよ!

 心の中ではそう叫ぶも、目の前にいるのは可憐な幼女なのでどうしても歯止めがかかってしまう。


「何をとぼけてる。……昨日の夢の説明をしろ」

「夢……?」


 少し思考を巡らすと、頭にノイズが走ったような感覚がした。それは些細なもので、少し眉間に皺が寄る程度だったが、その感覚は一瞬だったから全く気にならなかった。

 再び記憶を辿るが、どう考えても昨日僕は夢を見ていない(・・・・・・・)


「……ごめん、何のことかサッパリ」

「ハァ? まさか、あれだけのことをして覚えていないのか?」

「そもそも、俺昨日夢見てないし……」


 サチュリは驚いて目を見開いていたが、すぐに呆れた顔をしてため息をついた。


「……もういい。戻るぞ」

「えぇ……、なんだよ気になるじゃん」

「知らん! バーカ!」


 ひどい言われようである。サチュリは歩幅を広くしながら、ずいずいと歩いて行ってしまった。が、途中何かに気づいて立ち止まる。


「ふんっ」


 それだけ言い放って、行ってしまった。入れ替わるように、ミヤが壁の陰からそっと顔を出す。僕は苦笑いしながら、軽く手を振って挨拶をした。


 二人並んでゆっくりと旅館へ戻る。


「何の話、してたの?」

「ん、あぁ……俺もよくわからん。夢がどうのこうのって……」

「そうなんだ……」


 せっかく付き合いだしたというのに、場には気まずい空気が流れる。話題だ……話題が欲しい。思考を高速で回転させる。


「まだ一日しか経ってないのに、色々あったよね」

「ああ、うん……。本当に、な……」


 未だに、昨日あった出来事の整理は出来ていないし、出来る気もしなかった。よく考えたら、ミヤも魔法使いなのだ。脚の怪我を治した、淡い光を思い返す。時間がある時に聞いてみよう。


 大した会話もしないまま、旅館に戻ってきた。朝食の時間が近いため、僕達は直接食堂に行くことにした。

 外装も、宿泊部屋も和風なのに、食堂だけは洋風のインテリアが揃えられていて、不思議な空間である。朝ではあるが、シャンデリアのような形をした電灯が暖かい光を発している。そこに、私服に着替えた者や、和風の寝間着を着たまま食事に来る者がいるのだから、なかなか混沌とした光景が広がっていた。

 先輩達はちらほらと見受けられたが、ダニエルや黎、そしてシェミルはいなかった。

 そして何故か、サチュリは先輩達のグループに混ざり机を囲んで座っていた。


「何してんだろ、あいつ……」

「さ、さぁ……。って、いけない! 黎ちゃん起こすの忘れてた。ちょっと部屋戻るね」

「あぁ、行ってらー」


 ダニエルをどうしようかと思ったけれど、先見性のあるミヤちゃんならついでに起こしてくれるだろうし、任せておくことにした。

 適当な席に携帯電話を置いて、サチュリの元へ向かう。


「おーい、サチュリー……」

「おお、アンドー。何しに来た」

「いや、お前が何してんだよ……」


 その時、一人の先輩が会話に入ってきた。今回の合宿の責任者で、スマートな風貌の割に声の大きな飯田先輩である。


「あー、おはよう安藤君」

「おはようっす……。……何してるんですか?」


 周囲の先輩は僕達を恨めしそうな目で見ながら、「修羅場きた!」だとか、「リア充だ殺せ」だとか、そんな野次を飛ばしている。その時点で既に嫌な予感しかしなかった。


「いや、今日のスケジュールの確認とかもあるから、早めに朝食にしようと思ったんだけど……。そしたら、この子がいかにも『美味しそう』って目でこちらを見ていて……ね?」


 周りに同意を求め、それに周囲はうんうんと頷く。今まで見たことのないような一体感が感じ取れるほどに。


「なぜか、予約が二人分多くなってたから、ご飯余ってたし、ちょうどいいから一緒に食事をと思って……な?」


 再びうんうんと頷く周囲の者達。なんだこいつら。……とは先輩なので言えない。心の中にそっとしまう。

 予約が二人分多かったのは僕とミヤのせいだろう。それも心の中にしまう。


「そういうことでしたか……。じゃ、ごゆっくり」

「えっ? いいの?」

「えっ?」


 踵を返す僕に意外な問いが投げかけられ、思わず聞き返してしまう。そこで、ミヤ達三人が食堂に入ってきて、僕の携帯を見つけたのか、席に着こうとするのが見えた。


「え、だって安藤君、この子と将来を誓った仲だって聞いたけど?」

「…………」


 それまで、他の宿泊者も混じえて一概にも静かとは言えなかった食堂の空気が、凍りついた。一人だけ、「フッ……」と不敵に笑いながら、食事を続ける悪魔がいたけれど。この先輩、わざと周りに聞こえるように言った。彼のしたり顔が、それを物語っている。

 そして一人、ゆっくりとこちらに近づく音が聞こえた。ゆらゆらと近づく殺意の影。僕はこの時初めて、女の恐ろしさをることになる。


 そして昨日の夕食と同じように、僕達の間には不穏な空気が漂っていた。ダニエルは結局誰にも起こしてもらえず、一○分ほど遅れて席に着いたのだが。


「ありえない! 出会って一日も経たずしてに結婚? おかしいよ!」

「……いや、だからあれは――」

「うるさぁい! 安藤君のばか!」


 そう言いながら足を足で踏み、時には蹴り、そして器用にも食事をとっていた。足による攻撃は、本気ではないのか全く痛くないのだが、心には大きなダメージが蓄積されていく。

 昨日もキスをした時に、あのような事があったし、もう終わりだとも思った。実家のお母さん、僕は大人の階段を転げ落ちるかもしれません。


「まあまあ、ミヤ、少し落ち着いて……」

「そうだよ、あのチクリンもまだガキなんだし許してやりなー?」

「くぅぅー……!」


 シェミルや黎のフォローで、少しずつ落ち着きを取り戻しつつあるのだが、目の前に座っているダニエルは、『今は何も言うな』と言うかのようにアイコンタクトを飛ばしてくる。

 ここまで怒るミヤちゃんを見るのは初めてなのだが、そしてそんなミヤちゃんも可愛いのだが、今はそんなことを考えている状況ではない。


「……安藤君」

「は、はい!」

「誓って。もう二度と、あの子と二人だけで行動しないこと。そしたら許してあげる、今回だけ、だよ」

「わか、わかった! 絶対! 誓います!」


 そう言うと、ミヤは小指で僕の腕をつんつん突ついてきた。机に隠れて、向かい側にいるダニエルや黎には見えないように。それが、何を言わんとしているかは一瞬で理解した。

 ミヤの小さな小指に僕のそれを絡めて、僕はなんとか、彼女の許しを得ることが出来た。


 部屋に戻り、外出する支度をする最中、不意にダニエルが口を開いた。


「……おめでとう」

「何が……」


 突然の淡々とした祝いの言葉に、思わずそう返してしまう。


「無事に恋人になったんだろう。さっきはどうなることかと思ったけどな」

「ああー。うん、サンキュー。これから頑張ります」

「あんまり、僕達の前でイチャイチャしないでくれよ。場が気まずくなるし、勢いで黎に迫られても困る。あいつは、そういう性格だろ」

「確かに……」


 今日は遊園地へ行く予定だ。一緒に行動することになるだろうけど、黎の場合「ダブルデートだ!」とか言いかねない。そして被害を被るのはダニエルだ。


「出来るだけ気をつける」

「……なんで僕がここまで二次元を愛してるか、考えたことあるか?」

「いや、全然。他人の趣味にとやかく言うつもりはないし」


 考えたこともなかったし、僕も二次元に行けると知ったら何も考えず迷わずダイブするだろう。

 しかし話をするダニエルは暗く俯いてるようで、それが単なる趣味ではなく、悩みなのではないかという気がした。


「自分で言うのもアレだが、僕の家は結構裕福なんだ。母国にいた時はそうでもなかったらしいけど。

 父親は結構行動力はある方で、この国に越して、英語が喋れる人材、というだけでなかなか成功してしまったらしい。尊敬出来る親だよ、まったく」

「へぇー、その父さんはなんの仕事してんの?」

「それはよく知らない。家に居てもなかなか会うこともないからな、今は一人暮らしだし」


 しかしそれが、今の会話と何の関係があるんだろうか。


「政略結婚って知ってるか」


 その言葉で、何かが繋がった。でもそれは、漫画やドラマでの話でしか知らないし、実際にあるとは思ってもいない。


「まさか……」

「そのまさか、だよ。両親は、お見合い、と言ってるがな。父親の取引先の娘とくっつけられるらしい。本当に、面倒なもんだ」


 ダニエルは心底だるそうにため息を吐く。金持ちだとはわかっていたけど、まさかそこまでだとは思いもよらなかった。


「写メとかある?」

「あるわけないだろ。好きでもない女の顔写真をなんで持ってなけりゃならん。

 別に顔立ちは整ってるし、美人の部類には入るよ。興味はないがな」

「でも、それが二次元と何の関係が」

「今度、お見合いがあるんだよ。その女とな。その話は中学の時から聞かされていたが……だから僕は嫌われるためにアニメやエロゲの知識を蓄えまくった。お見合いでその話をしまくって、彼女を失望させるために。

 そしたらマジにどハマりしてしまって、このザマだ。笑えるだろ」

「……え? 今の笑い話だったの?」


 かなりシリアスな雰囲気で話すからてっきり悩みを打ち明けられたのかと思った。いや、実際はどうなのだろうか。本当は誰かに聞いて欲しいから話したのではないだろうか。

 しかしその時僕は彼になんて声をかけてやればいいのか、わからなかった。

 そもそも、政略結婚だって何も考えずに行われているわけではないだろう。

 経済的ないしは政治的な立場を得るためにするものなのだから、無関係な僕が口を挟める問題ではないことは明らかである。


「それは……リア充になるんだろうかね」

「んなわけあるか。リア充ってのは、欲求が生んだ言葉だよ。望んでもない婚約なんて、糞食らえだ」


 そんな他愛ない会話でごまかすことしかできなかった。それでもダニエルはいつものように、淡々と自分のなすべき支度をしていた。

 これから向かうのは、日本でも有数のテーマパーク。そう、某夢の国である。いついかなる場合でも誹謗となりえる行動が検知されると返り血で朱く染まったローブを纏った漆黒のハムスターがどこからともなく現れ高らかに笑い……いや、嗤いながら――


「アンドー。話がある」


 部屋の扉を開きながら現れたのはサチュリだった。いい加減話がありすぎなんじゃないだろうか。一回で済ませてほしいものである。

 僕はカウンセラーではない。


「……ここで、いい?」

「ああ、構わん。すぐに済む」


 この子といるとロクなことにならない。さっきだって畳の床に穴を開けるほどの拳を――と思いながら見たそこには、綺麗に並んだ畳と少し散らかった布団が敷いてあるだけで、どこも傷んではいなかった。


「あれ……。ダニエル、床……あれ?」

「床がどうかしたか?」

「いや、なんでも……」


 確かに先程、サチュリは床に穴を開けた。旅館のスタッフが直すにしても早すぎるし、そもそも何も声がかからないのはおかしい。


「どーせ、あの天界(ヘンヘイル)の民が復元したんだろ。悔しいが、彼らの魔術に不可能はない」


 他人事のようにそうやって言い放つサチュリの顔はどこか悲しそうだった。


「全く魔術だのなんだの、事実だとしても信じられないな。はぁ、僕のこの面倒な立場もその魔術とやらで、なんとかしてくれればいいのに」


 そう言ってダニエルは肩をすくめてため息を吐く。彼がそこまで平静で愚痴を漏らせるのは、実際に彼女の行いを目の当たりにしていないからだろう。魔術に関しては、彼女の喉元と耳に白い魔法陣が回転しているのだから、否定のしようがないのだが。


「……その翻訳魔法だかって、まさか昨日からずっと?」

「そうだ。だから侮れんと言ったのだ。奴が眠っても魔術が解けることはなかった。これではもはや魔法の一種だな。ま、便利であることに変わりはないが」


 サチュリは自身の指で喉元の魔法陣に触れようとするが、それは揺らぎながら少し横に避けてしまうだけだった。指を離すと再び元の形に戻る。


「……思ったんだけど、サチュリってシェミルさんのこと嫌ってる?」

「当たり前だ」


 恐る恐る尋ねたものの、返答はストレートに返ってきた。


「私の住む世界とこの世界が全く別の空間だって昨日説明しただろ。それと同じだ。奴の住む世界もまた別の空間だし、本来それが繋がるなんてありえないことだ。

 しかし私の世界は、かつて天界(ヘンヘイル)と大規模な戦争をしていたと歴史に残っている。それも、互いの世界の神が介入する程度のな。私が直接何かされたわけではない。なにせ私の祖母すら生まれてない時の話だ。

 それでも歴史というのは、学べば学ぶほど心に深く根付いてしまうものなんだよ」


 まるで、僕の生きてる世界のことを語っているかのように思えた。どの世界でも、生態そのものが違っても、やはり考え方は似通ってしまうものなんだろうか。

 というかなぜ別の世界の生物が、どちらもこうも人間の姿形にそっくりなのか、僕は疑問に思った。僕達がこの姿になるべくしてなったように、彼らも同じような進化の道を歩んで来たというのだろうか。疑問はさらなる疑問を呼び、頭が混乱しそうになる。

 しかし、やたら達観してはいるが彼女も子供だし、今は心の内にしまっておくことにした。そもそも、自分の整理が追いつかなくなるだろう。


「それで、話って?」

「今日、これから楽しいところへ遊びに行くらしいな? イーダサンから聞いたぞ」

「飯田……ああ。そうだよ」


 サチュリは、『飯田“さん”』までが名前だと勘違いしているようだが、この際それは置いておく。


「で、それが――」

「なぁんで私に言わんのだぁー!」

「ええー……」


 あまりにも真面目な顔で話があるとか言い出すから拍子抜けだった。もちろんどうなるのか考えていなかったわけではない。

 ただ、てっきり勝手についてくるものかと思っていた。

 


 ***



 サチュリを半ば強引に黎に預けて、僕とダニエルは浴場へ来ていた。出発までは一時間ほど時間があったし、昨日どういう訳か眠ってしまって、どうにも気持ちの悪い感覚があったからだ。

 風呂は毎日入るもの。これは母親や姉から刷り込まれた考えだが、悪い事ではないだろう。


「なんか悪いね、ダニエルまで付き合わせて」

「別に構わんよ。というか、結局僕もあのまますぐに寝たからな。どうなることかと思ったけど、元気そうでなによりだ」

「はは……、それより俺が寝てる間、なんかあった? というか、なんで寝たんだ……」

「少なくとも僕が寝てしまうまで、ミヤが付きっきりだったくらいだな」


 それは知らなかった。彼女はこれだけ僕のことを考えてくれているのに、僕はまだ何もしてやれてない。男のくせに情けないという自責の念に苛まれてしまう。


「それより、あの子のことだが……」


 ダニエルは、少し言いにくそうに話を切り出す。広い浴場だが時間が少し遅いのか、他に人はいなく、浴槽に湯が注がれる音が響くだけだった。


「あの子、どうするつもりだ? 兄とか名乗る奴はいなくなってるし、家がわからないなら警察に――」

「それはダメだ!」


 自分でも驚くほどの声が浴場に響く。周りに客がいなくてよかった。ダニエルも珍しく目を見開いて、驚いた様子である。


「……ごめん。あまり他の人に言わないでほしいんだけどさ、あの子ヤバそうな人らに追われてたんだよ。でも、一人でそいつらを返り討ちにしちゃって……」

「返り討ちって……。まさか、人を……? だったらなおさら――」


 確かにそうだ。人殺しを匿っているとわかれば僕も同罪になるかもしれないし、無関係の人を巻き込むかもしれない。しかし何故だろう。彼女を引き渡しては、ならないと本能が告げていた。

 そんなことを言っても、彼には信じてもらえないだろうけど、半ば冗談交じりにそう伝えた。いわば、中二病ってやつだ。


「……ふーん。よくわからんけど、まあ、自分が正しいと思ったことを貫けばいいんじゃないか。僕はあくまで、僕としての意見を述べたまでだからな」


 そう言うと彼は立ち上がり、「もう出るか」と言って湯船から出た。僕もそれに従って、浴場を後にした。

 自分が正しいと思ったことを貫く――。

 それは僕の心に深く残る言葉だったが、今の僕は何が正しいのかわからなかった。ただ一つ、サチュリを含めて周りの者に危害が及ばないようにしなければならない。

 それは確かな事である。

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