異界からの迷い人 - Ⅱ
「ちょっと安藤くん! どこにっ……」
「どこだろうな……」
考える前に走り出してしまった。生憎この旅館は、屋上へ行くことが出来ない。
幸いエレベーターは一階に止まっていて、僕達はそれに乗った。
少し気まずい雰囲気ではあったが、ミヤちゃんは抗うこともなく、手を離さずに僕に付いてきた。
とりあえず花火の見える場所を考えたのだが、旅館の廊下は隅に非常用の扉があるだけだ。
確かに花火は見えるけれど、雰囲気は絶望的に合っていない。
今まで恋人なんていなかったけれど、そのくらいはわかる。
「えっ、ここ……」
そんなことを考えていたら、自分が泊まる部屋の入り口まで来ていた。
「ま、まぁ入りなよ!」
ここまで緊張したのはいつ以来だろうか。自分の心音が高鳴っている。
部屋に入ると、窓を通じて花火を見ることが出来た。
少し狭いけれど、各部屋に用意されたベランダに出ることにした。
「ごめんね、ちょい狭くて」
「ううん、全然気にならないよ」
そんなことを話して、一呼吸。
なかなか話を切り出しにくい。メチャクチャ緊張している。
「あと……さっきはごめん…….。
突然のことで、その、告白されたのとか初めてだったしテンパって……どうしていいかわかんなくて……」
「うん、それも気にしてないよ?
わたしもさっきはびっくりしすぎて、あの子もなかなか大胆な事するし……」
あの子とは、サチュリのことだろうか。一体あいつは何をしたのだ。
そして、再び訪れる沈黙。花火の一つ一つだけが時間の流れを告げて、まるで早くしろと言わんばかりに空に音を響かせ続ける。
「そ、そそ、それで、告白の、返事なんだけど……」
「う、うん……」
もう、勢いと雰囲気に任せるしかなかった。
そもそも彼女からしてきた告白だ。
最初から喜んで受け入れていれば、こんなに緊張する事にもならなかったろうに。
雰囲気はバッチリだ。いける。空の花火が僕を後押ししてくれるから――と思ったが、花火が鳴らない。
あれっ。
今の今まであれだけ元気に夜空を照らしていた花火は、最悪タイミングで枯れてしまった。
とうとうこの場は、静寂に包まれてしまう。でも、ここで再び停止してしまう自分を、僕は勇気を振り絞って銃殺した。
返答に詰まっていたためか、ミヤちゃんも半ば諦めた表情で俯いてしまっている。
「そ、その……ホント、俺なんかでいいなら……よ、喜んで……」
その時の、彼女の晴れやかな笑顔を、僕は一生忘れることは無いだろう。
「え……。ほ、ホントっ? ホントに……いいの?」
「二度も言わせないでくれ。むしろ、俺からお願いしたい……というか……」
「や、やった……。わたしてっきり断られるかと……うぅ……。やったよぉ、シェミルぅ……」
彼女は泣いていた。なぜシェミルの名前が出たのか、少し疑問だったが、触れないようにしておいた。
さすがに、抱きしめて頭を優しく撫でてやるといった、漫画ではありきたりなことは出来なかった。
ヘタレな自分は即座に再生していたようだ。
それでも、側にいてあげた。それだけで充分だとも思った。正直、僕は彼女のことをあまりよく知らない。
その逆もしかり――彼女は僕の事を何も知らないはずだ。だから、これから知っていけばいいのだ。
はじめから、全てを知っている人なんていないのだから、これでいい。
空に残された花火の煙は、七月八日の風に吹かれてゆっくりと消えていった。
***
ふと、泣き止んだミヤちゃんが、口を開いた。
「えへへ、わたしたちって、カップルなんだよね?」
「う、うん」
何を言い出すのかと少々焦ったが、おそらく僕の想像上の初々しい男女のように『名前で呼んでいい?』とか、聞いてくるんだろうなぁ――そう思っていると、
「……じゃさ、キス……しよ?」
彼女はそう言った。
僕は硬直した。落ち着きを取り戻しつつあった心臓が、先程以上に高鳴る。
「ちょ、ちょちょちょ待った、ゲホッ! 待って」
混乱のあまり、むせ返ってしまった。
「……待って。早くね? いや、早いよ!」
「そんなことないよ。世の中には一日で最後まで済ませちゃう人もいるって、インターネットで見た」
「誰だそんな事書き込んだ奴ッ!? ダメだって簡単にネットの話信じたら……!」
この日僕は初めてインターネットの恐ろしさ――いや、一部の利用者の恐ろしさを知った。
「知らないよそんなの。しゃがんでよ……届かない」
上目遣いでそんなこと言われて、頭から噴火した。
生まれたての地球のように、所々から汗や蒸気が吹き出す。
思考の整理が追いつかないまま、僕は言う通りに膝を立てた。
彼女は目を瞑り、ゆっくりと顔を近づけてきた。
僕はそれから離れるように後ろに後ずさりした。
彼女は近づいた。そして僕は離れた。
「……逃げないでよ」
「いやね、さすがに、心の準備がね?」
「わかった、十秒だけ待ってあげる」
「いや、待て待て。ミヤちゃんはいいのかよ! いきなりこんなことしちゃって!」
「……うーん」
お、迷っている。そうだ、ミヤちゃんも冷静になれていないのだ。
やはり人間、慌てた時ほど落ち着いて考えようとする姿勢が大切なのだ。
「いいよ!」
「いいのかよ! 意外と大胆だなミヤちゃんって……」
「もう、十秒経ったよ。……逃げないでね」
僕は諦めた。
据え膳食わぬはなんとやら、だ。全く都合のいい言葉である。今ばかりは、この言葉を作った奴を恨みたい。
ミヤちゃんは再び目を瞑り、顔を近づけてきた。恥ずかしいので僕も目を瞑る。
もうすぐ唇が触れるだろう、そんなところで顔に息がかかった。それがスイッチとなり、ミヤちゃんのキスを真横に回避してしまった。
「…………」
「ご、ごめんって! 身体が勝手に動いたの!」
ミヤちゃんは今にも泣き出しそうである。
困った。自分のヘタレぶりが憎い。
「わたしのこと嫌いなのかな……」
「違う、それは違う! 神に誓ってもいい!」
「わかった、じゃあ、安藤くんからしてよ。いつでもいいから」
そういって、ミヤちゃんは目を瞑って顎を少し突き出してきた。いよいよ、逃げ場はなくなった。
「は、はい。では……失礼させていただきます」
僕は、ミヤちゃんの肩に手を置いた。本当に華奢な身体をしている。柔らかくて、人形みたいだった。
手が震えているのは、指摘はされないけどバレバレだろうな。
残念ながら、ファーストキスは潮の味だったが、あの事は忘れよう――そう思いながら、とうとう互いに唇を合わせた。
「ん……」
その時だ。
まず感じたのは、雷が頭のてっぺんに落ちたような衝撃。一瞬だが、意識が飛びかけた。
そして口に伝わったのは、熱。溶かした鉄に口をつけたような感覚だ。
熱い、そう叫んだつもりだったが、それは断末魔の叫びにしかならない。
「えっ……安藤くん? 安藤くん! しっかり――」
――僕は気絶した。
* サチュリ 視点 *
空の祭りが終わり、部屋に戻ろうとした瞬間、断末魔が響いた。それがアンドーのものであることは、すぐにわかった。
私としたことが、迂闊だった。成り行きとはいえ、契約者である彼を一人にするべきではなかった。
声のした方向が、林とは逆の方向だったから、部屋に戻ったということは容易に想像が出来た。
「アンドー!」
私は屋根から飛び降り、アンドーがいるであろう部屋のベランダの柵に手をかける。
自身の身体を持ち上げる勢いのまま、部屋に飛び移った。やけに身体が重いのは、やはり自分が生きてきた世界とは違うからかもしれない。
そこにいたのは、ミヤと呼ばれる女と、気を失ったアンドーだけだった。
「……また貴様か! 今度はアンドーに何をしたッ!」
「ち、違うの! わたしじゃないよ! その……話してたら、倒れちゃって……きゃ!」
私は怒りに任せ、彼女を押し倒す。話してただけだと、叫び声の説明がつかない。何を隠しているのだ。
「話してただけで叫び声をあげたのか、アンドーは! 違うだろ……! 何をした! 天界の犬が!」
言ってから気がついた。私は、この女が嫌いなのだ。彼女が天界の魔術を使うのを見ていなければ、こんな感情は抱かなかったのかもしれない。
彼女は怯えた顔をして、今にも泣き出しそうだ。私としたことが、少し強引すぎたかもしれない。
「うぅ……。き、キス……したの。そしたら、いきなり口を押さえながら後ろに倒れこんで……。わたしじゃ、ないよ……」
「キス……。唇を合わせたのか?」
彼女は泣きながら、首を縦に振る。私は彼女から手を離した。後で謝らねばならない。
これは破約反射……いわば、契約に違反した際に起こる、天罰によるものだった。そういえば、説明する前に離れてしまったのだ。やはり私の失態だ。彼女……ミヤは確かに何もしていない。
「……驚かせてすまない。私の早とちりだ。どうか許してくれ」
「……安藤くん大丈夫なの?」
「気を失ってるだけだ、気にすることはない」
ミヤは、そっと胸を撫で下ろした。おそらく、私は嫌われてしまっただろう。
そして同時に、部屋に彼女の友人達が入ってきた。さすがにこんな声で外で叫べば来るだろう。
ミヤに馬乗りになった私を見て、血相を変えて近づいてきたのは、天界の女……シェミルだった。
「ミヤっ! あなた……ミヤに何を!」
「あぁ、すまないな。少し質問を……ぶへっ」
答えを伝える暇も無く、壁際に突き飛ばされた。まったく気性の荒い天界の民である。
アンドーを部屋に運び込み、事情を話した。
リュードはいない。自身の契約者に会いに行ったようだ。
「まぁ、契約者ですものね……。必死になって問い詰める気持ちはわかります」
「話のわかる奴がいて助かったよ。すまなかったな、ミヤとやら。もう、キスはするな」
そう言ったら、部屋が白けてしまった。当の本人は顔を真っ赤に染めて俯いた。何を恥ずかしがっているのか。
「お、おいミヤ! もうそこまで行ったんか! マジか!」
「う、うん……。そしたらこうなったんだけど……」
黎は、小さな、しかし周りに聞こえてしまう声でそう問いかけた。
「おいチンチクリン! ミヤと安藤はもう恋人なんだよっ! キスがダメなんてダメだろ!」
「なっ、チンチクリン? それは私のことを言っているのか! 失礼な奴だな!」
そして、ミヤとアンドーが恋仲になったということを、この時初めて知った。そうか、アンドーがやけに時間を気にしていたのはこのためだったか。全く、若いな。
「唇を合わせるな、と言っている。また倒れるぞ。するなら頬とか、別の場所にしろ」
「わ、わかった……」
「あと私はチンチクリンではない! サチュリだ! その呼び方、意味はわからぬが馬鹿にしているように聞こえるぞ! これでも私は、貴族だからな! 魔界では、だが……」
「へいへい、貴族ね」
この黎とやら、なかなか度胸がある。アンドーの知り合いじゃなければ、少々痛い目に合わせていたかもしれない。
そういえば、リュードが殺気をこいつらに飛ばした時も、先陣を切っていたのはこいつだった気がする。
タイミングもいい。少し殺気で脅してみようか。
私は一呼吸置いて、部屋全体に向けて、少しだけ殺気を放つ。
「ミヤ……!」
反応したのは、シェミル一人だけだった。すかさずミヤを背に戦う体勢に入っている。なるほど確かになかなかの手練れかもしれない。
他の三人は鈍感なのか、特に何かを感じ取った様子はない。やはり、私の考えすぎだったようだ。
「もうアンドーは朝まで目覚めんだろう。私も何か身体が重くて疲れた……。寝る」
「ちょ、なんで安藤君の横に入ってるの! あなたは、わたしの部屋だよ!」
「あたしも風呂入って寝よ……。チクリン捜索に疲れた。おやすみー」
まさかこの日、天界の民と共に寝ることになるとは思いもよらなかった。
ここは一体、どこなのだ。私達は、帰れるのか?
いや、帰らねばならない。もしも神が、私達を守るためにこの地に送ったのだとしたら、そんなのは願い下げだ。私の魂は、魔界と共にあるのだから……。
* 安藤 視点 *
いつの間にか、夢を見ていた。
そしてこれが夢だという事はすぐに分かった。
自分の身体はハッキリと目に映り、自分の意思で動ける。
明晰夢というものだろうか。見るのは初めてだ。
「ここは……」
見渡す限りの荒野に、僕はいた。風は吹かず、空は血のように赤く、雲ひとつない。
大地が脈打つと共に、血管のように浮き出た物が不気味に明滅を繰り返している。
そして吐き気を催すほどの異臭――。
まるで、巨人の体内にいるようだ。
「……アンドー」
「うおっ!」
振り向くと、木の杭のようなものに磔にされ、破れた衣服を纏うサチュリの姿があった。
「おい、大丈夫か! どうしたんだよこれ……」
「それはこっちのセリフだ。……なぜお前がここにいる」
「ここ? 俺は夢を見ていると思ったんだけど……」
ふと、リュードの言葉が脳裏を過ぎった。
“死を受ける呪い”だ。
「――ここは、死の世界だ」と、サチュリが言った。
「死の世界……」
「そう。私の深層心理に根付いた“死”に対するイメージが、夢の中で具象化されるんだ」
「そんな……。じゃあ、なんで俺はここに――」
――そしてどうして、そこまで辛そうな顔をするんだ。
雑木林で彼女が言っていた事は、単なる強がりだという事か。
「知らん。逃げろ、アンドー」
「逃げるって――」
その時だった。身体中に穴の開いた人間の形をした何かが、地面から不快な音を立てながら這い出てきた。片腕は、肌の色こそ変わらないものの、大型の銃と一体化してるかのように見える。
「早く、走れ!」
言われた時には既に遅かった。
僕は、その人形に胸を撃たれ、力無くその場に倒れ伏す。
たくさんの血が流れて、不気味な荒野に染み込んでいく。
「アンドーッ!」
サチュリの声が聞こえたが、意識は徐々に沈んでいく。
夢の中で殺されるとは、なんて惨めなものだろう。
――死にたくない。痛いのも嫌だ。血も見たくない。
僕は暗くて何も見えない場所で、そう願った。
刹那、意識は夢に戻り、血も痛みも消えていくのがわかった。
この世界を改竄出来るという確信が芽生えた瞬間だった。
「俺は、撃たれてなんかない」
「なっ……」
胸を撃ち抜かれた傷は既に癒えていた。
僕はゆっくりと立ち上がる。
武器が必要だ。なんでも斬れて、力のない俺でも軽々扱える、最強の剣。
念じれば、手の中には一本の剣があった。
子供がクレヨンで適当に描いたような、片手で折れそうな質素な剣だったが、それの一振りで、その人形は粉々に散った。
それどころか大地を抉り、遠くに突き出た岩までもを粉砕した。
「おい……どうなってるんだ、これは」
「これはサチュリにとっては呪いかもしれないが、俺の夢でもあるんだ。しかも、明晰夢。だからこの世界で俺は何でも出来る」
そう言って、サチュリの杭を削除する。サチュリは驚いて目を丸くしたままだが。
「ありえん! これは魔神の呪術だぞ……。
既に多くの年月が経ち効力が薄くなっているのは確かだが……アンドー、貴様は一体……」
「いや……正直俺もこんな事初めてだから推測にしか過ぎないけど……」
すると今度は八体、先程と同じように有機物の塊のような人形が地面から這い出てきた。形状は少しずつ異なり、肩から上がないモノ、体内に水が溜まっていて、それが透けて見えるモノ、身長くらいの高さがある、筋肉のような質感の盾と腕が連結したモノ。血なまぐさい香りが鼻を突く。
「三秒で気化する」
そう設定をしたら、やはりそれらはルールに従って消えていった。
この不気味な景観も塗り替えられるのでは、と思った時。
「アンドー、もしかしたらお前なら私のこの呪いを打ち消せるかもしれん! どうか頼む!」
「ああ……」
僕も同じ事を考えていた。しかし、何事も思い通りになる明晰夢。
ならば一つ試すことがあるだろう、男なら。
健全な、男なら。
「その前に、一つ試したいことがある。いいか?」
僕は息を飲んで彼女に尋ねた。
「な、何だ……。お前、まさか――」
サチュリは、力のない一人の少女である。
そして俺様のことが大好きである。僕は念じた。
「あ、あんどー……。な、なにをする……」
自分の身に起きた変化に戸惑っているのか、サチュリは怯えた瞳をこちらに向けている。
だがこれは夢だ。夢の中でくらい! 夢の中でくらいエンジョイしたっていいだろ!!
……と、心の中で自身に言い聞かせた。
僕はそっと優しく肌を傷つけないように、既にボロボロになったサチュリの衣服に刃を向ける。
――直後、僕の頭に雷が落ちた。
薄れゆく意識の中、ため息混じりで「あんどー……まさかお前バカか……」と罵る悪魔の声が聞こえた気がした。
***
「んん……」
目覚まし時計の音で目を覚ます。ダニエルの物だろうか。一体何個セットしてるんだ。
様々な目覚まし時計が不協和音を響かせる。
それでも起きないダニエル――何者なのだろうか。
目覚ましを止めようと僕は身体を起こそうとした。
しかし身体は動かない。
金縛りというわけではない。腕は動く。腹部から下が動かない。
ゆえに、身体を起こす事が出来ないのだ。そしてこの微妙な痛み。
筋肉痛だ。
サチュリの無茶な操作が原因なのは間違いない。
「……んるさぁい、ねさせろ……」
「よかった、ダニエル。ちょい助けて。動けなくなった」
ダニエルは一つずつ目覚ましを止めている。目を覚ましてくれたようだ。
「すー……すー……」
「ダニエル……?」
彼は寝ていた。
――まさか一連の動作を眠りながらやっていたのか? こいつにとって、目覚まし時計とは一体なんだ?
そんな哲学をしながら、仕方ないので僕も寝ることにした。
合宿、二日目が始まった。




