たとえばこんな世界があったとしたら
――平成時代。
少なからず日本では武力による争いがなくなり、人々は平穏な日々を過ごしている。
〝戦争〟という言葉はもはや歴史の遺物となって、記憶は時の砂漠に埋もれつつある。
まさしく泰平を成した時代。国際化社会とはよく言ったもので、街中を何処かの国の観光客が歩いていることなど、もはや日常茶飯事だ。
――もし、仮に。
この平穏な生活が、得体の知れない巨大な力によって与えられているものだとしたらどうだろう。言うなれば人類は、舞台で火の輪をくぐる猛獣であり、今は飴と鞭でいう、飴の時代を生きていて。
全ての人類が何者かに糸を引かれていて、その見知らぬ存在のさじ加減一つで安寧が容易く覆されてしまうものだとしたら。
その舞台の役者たちは、果たして真なる平穏を謳歌していると言えるだろうか。
しかし、演ずる者は脚本通りにしか動けない。キャラクターは、筆を執った者の存在を認識する事すらないまま終を迎える。これもまた一つの事実である。
「なんだこのシナリオ。死ね作者」
登場人物がそう言って、脚本家を殺せる世界があるならば、誰もが恐ろしくなって筆を置いてしまうだろう。
つまりこの事実は、一つの法則として世界に等しく存在する。
人類は、考える力を得たその日からその筆を執る者――その法則を憎んでいる。
漠然と、しかし確かに浮かぶその存在は、やがて〝運命〟と呼ばれるようになり、芸術として形を成すようになっていった。
しかし現代、考える力を持つ人類は、この問いかけにこう答えるだろう。考えるだけ無駄である、と。
もう一つ、仮の話をしよう。
もしも誰かが、先の法則を壊せるような力を手に入れてしまったとしたら。他の役者はどうするのだろうか。
真なる平和を勝ち取る為に手を貸すのか?
それとも均衡の崩壊による破滅を怖れ、全力でそれを阻止するのか?
それがキミの大切な友達だったら?
あるいは貴方にとって憎い隣人だとしたら?
それを、これからお見せしよう。
これは一人の冴えない青年が、世界を真なる平和へと導く大役を演じる物語である――。
――願わくば、これが喜劇であらん事を。