『主人公は臆病だねぇ。』
不幸はナイフのようなものだ。 ナイフの刃をつかむと手を切るが、とってをつかめば役に立つ。――メルヴィル――
愚かさこそが人類最狂の武器。
「生きてる。」
藤樹は生まれてこの方感じたことのないほどの生命力を噛み締めていた。
ほんの一瞬、あの時少しでも横に飛ぶのが遅かったら間違いなく藤樹は死んでいただろう。
そんな経験は二十七歳まで生きて初めてだった。
もちろん、藤樹だって死にそうになったことが全くないというわけではない。
小学生の頃に車に何度も轢かれそうになっていたのはよく覚えている。
ただ、実際に事故に遭うことはなく全て未然で済んでいたことなので危なかったとか、次からは気をつけようとか、運が良かったとか、その程度の感想を抱くばかりで、まさか自分が死ぬだろうとは全く思わなかったのである。
車に轢かれたら最悪死ぬことはあるとは分かっていても、その生に縋り付くほどまでの危機はなかったのだ。
別にそれは死ぬことが怖くないとか、そんな常識はずれに心に疾患を持っているような思考があったからではなく、単純に自分が交通事故で死ぬといった想像が思い浮かばなかっただけで、自分の世界とは死はあまりにも離れているものだと無意識に考えていたからである。
それに車に轢かれそうになった時も別に藤樹自身からその危険を回避しようとして助かったわけではない。
云わば偶然や、もしくは運転手側が避けてくれたからゆえに危険から逃れられた。
自ずから、少なくとも必至でその危険を回避しようとした経験はなかったのである。
だから、今こうして藤樹は生きているという充足感を胸の鼓動やほんの数秒前の過去を思い出して実感しているのであった。
『いつまでそんなことを続けているんだい?いい加減目の前の現実と向き合って行動を起こしなよ。』
「――っ!!」
殆ど心此処にあらずであった藤樹の意識を呼び戻したのは藤樹を先ほどの生きるか死ぬかの境界線に立たせた大もとの原因である“真理ちゃん”の声であった。
いや、声ではないだろう。
コイツ、頭の中に直接響いてきやがる、という状態なので恐らくは超自然的な、少なくとも人類には早すぎる何かを使って藤樹へと話しかけているのだろう。
「話しているというよりは、命令だよな。」
藤樹ゆっくりと目を開けた。
瞼を閉じて虚の暗闇になれれば辺りが見渡せるかも知れない。
藤樹は頭の片隅でそんな打算的なことを考えて目をつむっていたわけでもある。
しかし、結果として藤樹の考えは無為に終わった。
「……明るい?なんだこのぼんやりとした灯は?」
虚の内部は不思議な光が灯されていた。
それは決して強い光ではない。むしろか細くて弱々しい光である。
藤樹は停電した時につけたロウソクの灯火のようだと例えた。
淡い光ではあるが、頼りになる心強い灯火である。
「奥から漏れているのか。……少し向かってみるか。」
その光源を探してみるとどうやら入口とは逆側の虚の奥からもれているものらしい。
もしかしたらあの光のところには何か危険な動物や化物がいるのではないかと、疑心暗鬼に駆られてためらいながらも、それでも火に集まる蛾のように、人という獣の本能からか光のある方へと進む欲求を抑えられずに藤樹は歩き出した。
歩き出すと藤樹は自分の体が如何にボロボロになっているのかを再確認した。
当たり前だ。社会人になってから殆ど運動らしい運動していなかったのだから。最近になってお腹周りの筋肉が衰え、階段で息を切らすことが増え、危機感を感じて毎朝ジョギングを五キロぐらい走るようになったものの、流石に激しい運動にも耐えていた最前期である中学・高校時代と同じ体力はなかった。
また、体力の面を除いても外傷は多数ある。
骨を折ったり、脱臼したり、また命に関わるほどの重傷は幸いにして負わなかったものの、擦過傷をはじめとして体中のいたるところにある痣の痕や打撲・打ち身の鈍痛が痛覚を刺激している。
本音を言えば泣きそうなぐらいには痛いのだが、動けないほどではない軽傷なので、激痛に顔を顰めながらも千鳥足でどうにか虚の奥へと進んでいる。
「――此処が最奥か?」
時間にして五分ほど、距離にして十メートル足らず。
しかし、満身創痍とはいかないものの怪我だらけの藤樹にとっては一キロ移動したにも等しい疲労感があった。
虚の内部が腐り落ちて、もしくは根っこが成長したことにより空いた空間、今まで藤樹が歩いてきた空間もそれなりに大きかったのだが、此処はその三倍――日本の平均的な平屋の家屋ならば二つほど入りそうなほどに大きいスペースがあり、その空間の真ん中に苔むして自然に侵食されていはいるが人工的にでも設置されたような平っべったい岩がテーブルのように居座っており、その岩のテーブルの上に、淡い光の光源は置かれていた。
デスクワークで視力がめっきり衰えてしまった藤樹はその光源を正確に確認しようと近づいてみる。
「紙――いや羊皮紙かな?それと指輪。あとは、箱?なんだろうこの小さい箱、材質は木じゃないし、大理石でもない。鉄や金属類でもないな。」
はっきり言ってみたこともない。藤樹が別に世界にあるすべての物質の性質を知っていたわけではないが、この箱の材料は全く分からなかった。
七色どころか、白くも黒くも色が変化する物質など見たことどころか、伝説上の物質にだって聞いたこともなかった。
だがそれでも、ひとつだけ不確かではあるが分かっている事があった。
これらのものは全てあの世界の真理からのものだということに。
何故だか、不思議とそう感じたのである。
「特に、この圧倒されるようなオーラはアイツと似ている。間違いなく……“真理ちゃん”のものだろうな。」
名前を呼ぶことに些か抵抗がある藤樹だった。
ひとまず、辺りを見渡して危険がないことを確認してから、岩のテーブルに置かれているそれらのものを手にとって調べてみようと心の中で結論づけた。
まずは一番無害そうに見える羊皮紙らしき紙から手を伸ばす。
しかし、藤樹はその紙に触れる寸前で伸ばした手を止める。
「……これってあの“真理ちゃん”が置いていったものだとしたらそこはかとなく危ないものな気が――。」
『何を臆病風に吹かれて鶏くんなっているんだい?男は度胸、女は愛嬌と強かさとはよく言いったものだぜ。そんなんだからもといた世界でも童貞を捨てられないんだよ、┐(´д`)┌ヤレヤレ。』
「うっせぇ!!童貞関係ないでしょう!!」
思わず丁寧語を使うところに何とも言えない社畜感を感じるところである。
藤樹その紙に手を触れた瞬間、唐突にして変化が起こった。
カメラのフラッシュでもたいたように強烈な閃光が藤樹の視界を覆い尽くしたかと思うと、すわ爆発かと勝手な妄想で恐怖している藤樹が瞼を閉じ切るよりも早くその閃光は消え去り、辺はまたぼんやりと淡い光だけが包み込む空間に戻った。
「何だったんだ、今のは?」
チカチカする目をこすりながらも突然光だした紙へと目を向けるとそこにはあの羊皮紙に似た紙は存在しておらず、代わりに藤樹もよく見たことのある物体へと変わっていた。
「これって、スマホ?」
『ウィ。正確にはご主人様が地球の日本で使用していたGALAPAGOSモデルのアレンジ版です。』
「へ?」
唐突な返事。
まさか、答えが返ってくるとは思いもしなかった。
いや、もしかしたら“真理ちゃん”が答えてくれるかもしれないという抱くには余りにも望み薄な期待はあったが、先ほどの返答は声質が違っていた。
そして、そのこえは人間や動物が上げる声でもない。
藤樹はかじる程度ではあったが電子音の音楽文化にも触れていた。
いわゆる、Vocaloidである。
その声質で藤樹へと語りかけてきたのだ。
どこから、それは明白である。
目の前にある電子機器、そう、スマートフォン――ガラパゴスモデルからだ。
高校生の時バイト代を稼いで契約した初期モデル。
残念ながら機器本来の寿命から、五年と少しで解約してしまったが、最も愛用した機体。
好みだった黒色、スマホにしては厚みのあるボディ、そして何よりも気に入っていたスライドすると飛び出る簡易的なキーボード。
使い勝手が最高に良かったというわけではないが、ユーザーとして藤樹は満足していたモデルである。
それと色形全てにおいて同じ機器が置いてあるだけでも驚きだというのに、そこから藤樹の質問に対する返答が殆ど時間もおかずに流れてきたのだ。
よく見ると、縦に広い画面には一人の少女が映っていた。
少女といっても、17~19歳の外見をしている。
藤樹の主観としては成人していないと思われる年齢に見えた。
しかし年齢は別に問題ではない。
外見が異様だったのだ。
というか、実写じゃない。
髪は透き通るように白く、目は青を通り越して深い藍いろで、耳の代わりにヘッドホンのような無線系統らしき耳当てをしている。
ゲームのようだ。
藤樹は率直にそう思った。
ゲームに出てくる電脳世界で暮らす少女。
電脳人格。
乏しい知識ながらも、そんな言葉が思い浮かんだ。
そういえば最近そんな少女が出てくるアニメがあったような気がするが、ひとまずそれは置いておく。
「君は一体何者ですか?」
悲しいかな、日本人特有の初対面での敬語。
『それは君がチキンなだけだろう。藤樹くん。』
“真理ちゃん”の嫌味が図星であるために藤樹は少し凹んだ。
『アンシャンテ。我がマスター、ムッシュ.トウキ・フジノ――もとい藤野藤樹様。私は“真理ちゃん”様よりマスターの異世界案内人兼神託者を任せられました、自律式電脳人格人工生命体――モデル【カラミティ】、No.404-666、柵と申します。これより、マスターの主に知識面でのサポートを務めさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。』
「えー……。」
藤樹はただ漠然と戸惑うばかりであった。
次回投稿は明後日となります。