婚約破棄されたので黙って隣国へ行ったら、冷徹皇帝だけが私の本心を見抜いていました
夜更けを告げる鐘が、王城の静寂へ溶けていく。
王妃宮の一室だけが、まだ灯りを落としていなかった。
机いっぱいに積まれた書類の中央で、ソフィア・エルフォード侯爵令嬢は、黙々と羽根ペンを走らせている。
静かな部屋に響くのは、紙をなぞる筆先の音だけだった。
「お嬢様」
湯気の立つ紅茶を盆に載せ、侍女のナタリーが困ったように声をかける。
「もう日付が変わっております。どうかお休みください」
ソフィアは手を止めないまま、小さく微笑んだ。
「あと少しだけ。明日の会議で提出する建議書を書き終えたいの」
「ですが、昨日も一昨日も夜更かしなさって……」
「分かってるわ」
ようやくペンを置き、乾き始めた文字へ目を落とす。
表紙には、丁寧な字で『王室支出見直しに関する建議書』と記されていた。
それを見たナタリーは、小さく息をつく。
「また……却下されるかもしれません」
責めるつもりではない。
ただ、お嬢様が傷つく姿を見たくなかった。
ソフィアも、その気持ちは痛いほど分かっている。
ここ数か月、提出した建議書は一冊残らず却下されていた。
それでも書き続ける理由は、一つしかない。
「読んでくださるかもしれないでしょう?」
そう言って笑う横顔は、どこまでも穏やかだった。
ナタリーは返事の代わりに視線を伏せる。
お嬢様は、いつだって人を疑わない。
「……はい」
机の端には、紐で丁寧に綴じられた冊子が何冊も並んでいた。
提出した建議書の控えである。
「また控えをお作りになったのですね」
「ええ」
「どうして毎回……?」
ソフィアは少し考え、照れくさそうに笑った。
「原本がなくなったら困るもの」
「ですが……」
「いつか、誰かが必要としてくれる日が来るかもしれないでしょう?」
その言葉に、ナタリーは何も返せなかった。
◇
翌朝。
王城の大会議室には王族と重臣たちが集まっていた。
国王は病に伏して久しく、近頃は王太子オスカーが政務を代行している。
彼は玉座の隣に設けられた席で、退屈そうに報告を聞き流していた。
「では、次の議題です」
宰相の声に、ソフィアは静かに立ち上がった。
「王室支出の見直しについて、ご提案がございます」
建議書を差し出し、落ち着いた声で説明を始める。
「現在、王家主催の舞踏会は年六回開催されております。しかし、その費用だけで地方の孤児院十七か所、一年間の運営費に相当いたします。そのため舞踏会を年三回へ変更し、浮いた予算を孤児院と治水工事へ充てることをご提案いたします」
広間に小さなどよめきが広がる。
だが、返ってきたのは賛同ではなかった。
「また節約か」
「侯爵令嬢ともあろう方が、夢のない話ですこと」
鈴を転がすような声とともに立ち上がったのは、カトリーナ・アシュベル伯爵令嬢だった。
華やかな金髪を揺らし、扇で口元を隠して微笑む。
「舞踏会は王家の威厳を示すもの。そんなことも分かりませんの?」
「孤児院など後回しでよいではないか」
「貴族には貴族の務めがある」
笑い声が広がる。
ソフィアは感情を押し殺し、もう一枚の資料を広げた。
「こちらをご覧ください。近年の支出増加に対し、税収は伸び悩んでおります。このままでは五年以内に財政赤字へ転落する可能性が――」
「ソフィア」
オスカーが言葉を遮った。
「また数字の話か」
「ですが殿下、これは――」
「君は、そうやって何でも削ろうとする」
机へ肘をつき、ため息をつく。
「結局、君は数字しか見ていない。」
「舞踏会は浪費ではない。王家の威厳を示し、諸外国との関係を築くための外交でもある。」
「君は支出ばかりを見て、国家の格式という目に見えない価値を理解していない。」
オスカーが言葉を発するたび、時間が止まったような錯覚を覚えた。
心臓が強く脈打ち、広間のざわめきが遠くなる。
「……違います」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。
「私は、民の暮らしを――」
「それも君の考えだ」
オスカーは冷たく言い放つ。
「君の価値観を押し付けているだけじゃないか」
その隣で、カトリーナが悲しげに目を伏せた。
「殿下は本当にお優しいですわ。ソフィア様は、ご自分が正しいと信じて疑いませんもの」
少し間を置き、小さく息をつく。
「“民のため”と言えば、どんなことでも正しいことになってしまうなんて……少し怖いですわ」
再び笑い声が広がる。
ソフィアには、もう何も聞こえなかった。
本当に伝えたかったのは、お金の話ではない。
子どもたちが寒さに震えず、農民が飢えずに暮らせる国にしたい。
ただ、その願いを伝えたかっただけだった。
「建議書は置いておいてくれ」
オスカーは興味を失ったように視線を逸らす。
「あとで目を通す」
その言葉を信じたかった。
だからソフィアは何も言わず頭を下げ、建議書を机へ置いた。
◇
会議が終わると、廊下でナタリーが駆け寄ってきた。
「お嬢様!」
差し出された封筒には赤い蝋印が押されている。
嫌な予感を覚えながら封を切ると、中から現れたのは、提出したばかりの建議書だった。
表紙には、赤い判が押されている。
『却下』
提出してから、まだ一時間も経っていない。
あれだけの内容を読み終えられるはずがなかった。
最初から、読むつもりなどなかったのだ。
ソフィアはしばらくその二文字を見つめ、小さく息を吐く。
「……控えがあって良かったわ」
静かに微笑む横顔を見て、ナタリーは唇を噛み締めた。
泣きたいのは、自分の方だった。
◇
エルミナ王国の王城は、春の訪れを祝う夜会で華やいでいた。
磨き上げられた大理石の床には無数の灯りが映り込み、楽団の奏でる優雅な旋律が広間を満たしている。
本来であれば、未来の王と王妃が並び立ち、国の未来を祝福される夜――そのはずだった。
「ソフィア・エルフォード侯爵令嬢。」
高らかに名を呼ばれ、広間が静まり返る。
ソフィアはゆっくりと前へ歩み出た。
王太子オスカーは冷え切った表情で立ち、その隣には深紅のドレスをまといきらびやかな宝石を身につけたカトリーナが寄り添っている。
勝ち誇ったような笑みを見た瞬間、ソフィアは悟った。
これは祝宴ではない。
断罪の場なのだ。
「君との婚約を、本日をもって破棄する。」
広間がどよめく。
それでもソフィアは姿勢を崩さなかった。
「……理由を、お聞かせいただいてもよろしいでしょうか。」
「理由?」
オスカーは小さく笑った。
「まだ分からないのか。」
貴族たちの視線が一斉に集まる。
「君は王太子妃となる立場でありながら、王家の威厳を損なう発言ばかり繰り返した。王室行事の縮小、貴族への補助金削減、舞踏会の回数削減、宝飾品の購入制限……王家の誇りを失わせようとした。」
「違います。」
思わず声が漏れる。
「私は、民の生活を守るため――」
「また『民のため』ですわ。」
カトリーナが困ったように微笑む。
くすくすという笑いが広間に広がった。
「ソフィア様は、ご自分では善意のつもりなのでしょう。でも、その善意を周囲へ押し付けておいでです。」
穏やかな口調だった。
だからこそ、その言葉は自然と人の心へ入り込んでいく。
「善意を盾にして、王家の伝統や格式までも悪いもののように仰るのですね。」
「それでは王家を支えることなどできませんわ。」
オスカーは深く頷いた。
「その通りだ。」
ソフィアは唇を噛む。
違う。そうではない。
「殿下、どうか建議書を――」
「また建議書か。」
オスカーの声が鋭くなる。
「私は何度も言ったはずだ。君の考えを押し付けるな、と。」
「ですが、一度でも最後まで読んでくださいましたか。」
その言葉に、広間は静まり返った。
オスカーの眉が、わずかに動く。
「建議書には、財政予測も、農村の現状も、孤児院の状況も、すべて書いてあります。」
震える声を押さえながら続ける。
「私は、誰かを困らせたくて申し上げたことは、一度もございません。」
広間へ、静寂が落ちる。
しかしオスカーは首を横に振った。
「……それが君の価値観だ。」
そして、静かに言う。
「君は数字ばかりを追い、王家の誇りや伝統を軽んじている。」
「その考えでは王妃は務まらない。」
胸の奥で、何かが崩れ落ちた。
その言葉だけは違う。
誰よりも、あなたにだけは分かってほしかった。
「違います……。」
涙で滲む視界の向こうへ、必死に言葉を届けようとする。
「私は、お金を守りたかったんじゃありません。」
一粒の涙が床へ落ちた。
「子どもたちが飢えないように。病に苦しむ人が薬を諦めなくて済むように。冬を越えられず命を落とす人が、一人でも減るように……。」
そこまで言って、声は途切れた。
もう、言葉にならない。
「もういい。」
オスカーは背を向ける。
「君とは、ここまでだ。」
その一言で、すべてが終わった。
安堵する者。
噂話を始める者。
小さく笑う者。
誰一人として、ソフィアの言葉に耳を傾ける者はいなかった。
ソフィアは静かに頭を下げる。
「……承知いたしました。」
もう説明はしない。
何を言っても届かないことを、ようやく理解してしまったから。
◇
その夜、王太子宮別館の私室には荷造りをする音だけが響いていた。
「お嬢様……。」
ナタリーは涙をこらえながら荷物をまとめている。
ドレスも、装飾品も、王妃教育で贈られた品々も、そのほとんどをソフィアは置いていくことにした。
「王家から頂いたものは、お返しするわ。」
迷いはなかった。
やがて引き出しを開けたナタリーが、小さく息をのむ。
中には何冊もの建議書の控えが、きれいに綴じられていた。
「……これは。」
ソフィアは一冊ずつ胸へ抱き寄せる。
何度も読み返した跡があり、角は少し擦り切れていた。
「これは持っていくわ。」
「思い出だからですか。」
ソフィアは静かに首を振った。
「いいえ。」
窓の外では、王城の灯りが静かに揺れている。
「まだ、どこかで役に立つ日が来るかもしれないから。」
ナタリーの頬を涙が伝う。
「お嬢様は……どうして最後まで、そんなにお優しいのですか。」
ソフィアは少しだけ考え、小さく笑った。
「優しいのかな。」
そして首を横へ振る。
「ただ、諦めきれないだけ。」
民が笑って暮らせる国を。
誰もが安心して明日を迎えられる未来を。
その願いだけは、婚約を失っても消えることはなかった。
◇
翌朝、一台の馬車が静かに城門をくぐる。
見送る者は、誰もいない。
未来の王妃だった令嬢は、まるで最初から存在しなかったかのように王国を去っていく。
その腕に抱かれているのは、宝石でも思い出の品でもなく、布に包まれた建議書の控えだけだった。
王国を離れて三日。
ソフィアは一度も後ろを振り返らなかった。
振り返れば、きっと泣いてしまう。
だから膝の上の建議書へ、そっと指先を添える。
それだけが、自分の歩んできた時間を証明してくれる気がした。
「お嬢様、お顔の色が……」
向かいに座るナタリーが心配そうに身を乗り出す。
「少し疲れただけよ。」
そう笑ってみせるが、その笑顔に力はない。
婚約破棄の日から、ほとんど眠れていなかった。
食事ものどを通らず、張り詰めた心だけで身体を支えてきた。
その糸が切れたのは、ヴァルハイト帝国へ入って間もなくのことだった。
視界が大きく揺れる。
膝の上の建議書が床へ滑り落ちた。
「お嬢様!」
ナタリーの叫び声を最後に、ソフィアの意識は静かに闇へ沈んでいった。
◇
「陛下。」
一人の側近が静かに一礼した。
「旅の令嬢の荷物から、このような冊子が見つかりました。」
差し出された建議書へ目を通したレオンハルトの眉が、わずかに動く。
「……これは。」
一冊だけではない。
治水。税制。孤児院。財政。
どれも驚くほど緻密だった。
「著者は。」
「国境で保護した令嬢でございます。現在も意識は戻っておりません。」
レオンハルトは静かに冊子を閉じた。
「案内しろ。」
◇
病室。
ソフィアが目を覚ますと、一人の男が窓辺に立っていた。
遠くで、人の声がする。
「……まだ目を覚まされません。」
「医師は何と言っている。」
「疲労と栄養不足が重なったのでしょう、と。」
低く落ち着いた声だった。
どこか威圧感がありながら、不思議と耳障りではない。
ソフィアはゆっくりと瞼を開いた。
見慣れない天井が目に映る。
王城ではない。
豪奢ではあるが、どこか重厚な造りの部屋だった。
「……ここは。」
起き上がろうとした途端、身体に力が入らない。
「無理をするな。」
声のした方へ視線を向けると、一人の男性が窓辺に立っていた。
夜空のような黒髪。
鋭く整った灰青色の瞳。
その姿には、一国を背負う者だけが持つ静かな威厳があった。
「私はヴァルハイト帝国皇帝、レオンハルトだ。」
ソフィアは息をのむ。
皇帝自らが、見知らぬ旅人の病室にいるなど考えもしなかった。
「申し遅れました。私はソフィア・エルフォードと申します。」
「知っている。」
短い返答だった。
「エルミナ王国の元王太子妃候補。そして数日前、婚約を破棄された侯爵令嬢。」
その事実を口にされても、不思議と胸は痛まなかった。
もう終わったことなのだと、自分でも受け入れ始めていた。
「私どもの事情をご存じだったのですね。」
「ああ。」
レオンハルトは頷く。
「国境で倒れたと報告を受け、身元を調べさせた。」
それだけ言うと、机の上へ視線を向けた。
そこには、布に包まれていたはずの建議書が積まれている。
ソフィアの顔色が変わった。
「申し訳ありません! 勝手に持ち込んでしまって……」
「謝る必要はない。」
レオンハルトは一冊を手に取る。
「少し読ませてもらった。」
胸が締め付けられる。
まただ。
きっと表紙だけ見て終わったのだろう。
そう思った次の瞬間、レオンハルトは静かにページをめくった。
「王都南部治水計画。」
続けて別の冊子を開く。
「孤児院への補助金増額案。」
さらにもう一冊。
「地方税の徴収方法改善案。」
どれも内容を理解していなければ出てこない言葉だった。
ソフィアは思わず目を見開く。
「……お読みになったのですか。」
「ああ。」
あまりにも自然な返事だった。
「最後まで。」
その一言に、ソフィアは言葉を失う。
最後まで。
その言葉を聞いたのは、初めてだった。
「ですが……量もございますし、お忙しいお立場で……」
「だから何だ。」
レオンハルトは淡々と言う。
「内容のある提案書なら、最後まで読む。統治する者の責務だ。」
「使えるかどうかは、その後に判断すればいい。」
あまりにも当たり前のように告げられたその言葉に、胸の奥で何かが音を立ててほどけていく。
これまで何度も書き続けた建議書。
誰にも読まれないと思っていた。
無駄だったのだと、自分に言い聞かせようとしていた。
それでも、目の前の人は読んでくれた。
一枚一枚、最後まで。
視界が滲む。
「……ありがとうございます。」
こぼれた声は震えていた。
レオンハルトは涙には触れず、静かに冊子を閉じる。
「内容は興味深かった。」
ソフィアはほっと息をつく。
しかし、レオンハルトは続けた。
「もっとも、このまま帝国で実施することはできない。」
ソフィアは静かにうなずく。
「はい。王国と帝国では地形も人口も制度も異なります。同じ政策は通用しません。」
「理解しているなら話は早い。」
レオンハルトは机上の建議書を軽く叩いた。
「もし帝国の財政資料、人口統計、各地方の報告書を渡したら、帝国向けに書き直すにはどれくらいかかる。」
突然の問いに、ソフィアは目を瞬かせた。
「……帝国版を、ですか。」
「ああ。」
レオンハルトはまっすぐソフィアを見つめる。
「私が価値を感じたのは、この国の名や数字ではない。」
「民の暮らしを守るという、お前の考え方だ。」
「ならば必要なのは、王国の政策ではなく、帝国で実行できる政策だ。」
ソフィアは少し考え込んだ。
必要になる資料の量。
地方ごとの産業や人口。
河川の位置、税制、行政制度。
頭の中で一つずつ整理していく。
「まずは首都近郊の治水計画でしたら、一か月で帝国版へまとめられます。」
「その後、現地調査を重ねながら他の地域へ広げていきたいと考えています。」
「一か月か。」
「現地を見ずに机上だけでまとめることはできます。でも、それでは本当に帝国に合った建議書にはなりません。主要な地域を視察し、人々の暮らしを自分の目で見てから書き直したいのです。」
レオンハルトは静かにうなずいた。
「なるほど。」
即答で『できます』とは言わない。
必要な情報を求め、現実を見たうえで判断する。
その姿勢こそが、建議書以上に価値がある。
「分かった。資料も視察も、好きなだけ使え。」
「ありがとうございます。」
ソフィアは深く頭を下げた。
その瞬間、レオンハルトは確信していた。
価値があったのは、一冊の建議書ではない。
その建議書を書いた、この女性自身なのだ。
◇
ソフィアの体調が落ち着いた頃。
レオンハルトは机いっぱいに積まれた資料を示した。
「これが帝国各地の資料だ。まずは目を通してほしい。」
ソフィアは資料の山を見て息をのむ。
「こんなにも……。」
「足りなければ追加で用意する。」
「ありがとうございます。」
◇
一か月後。
帝国版の建議書を書き上げたソフィアは、建議書を抱え、皇帝執務室を訪れた。
「出来上がりました。」
「見せてくれ。」
壁一面に並ぶ書棚。
大きな地図。
机の上には、各地から届いた報告書が山のように積まれている。
レオンハルトは一枚の建議書を机へ広げた。
「この治水計画について聞きたい。」
ソフィアは驚く。
「採用されるかどうかではなく、内容について……ですか。」
「理解できない点があれば聞く。当然だ。」
その返答に、思わず小さく笑みがこぼれた。
ソフィアは地図へ近づき、川の流れを指先でなぞる。
「この地域は毎年氾濫しております。ただ堤防を高くするだけでは解決しません。」
「理由は。」
「上流の流れが速すぎるからです。」
言葉を重ねるたび、自分でも驚くほど自然に説明が続く。
「遊水地を整備すれば、水量を分散できます。費用はかかりますが、十年単位で見れば復旧費用を大幅に削減できます。」
レオンハルトは一度も口を挟まない。
最後まで聞き終えてから、静かに尋ねる。
「根拠は。」
ソフィアは迷わず資料を開いた。
「こちらです。」
数字。地図。実例。
それらを示しながら説明を続ける。
話し終えた頃には、執務室は静まり返っていた。
「……なるほど。」
レオンハルトは短く呟く。
「理にかなっている。」
それだけだった。
大げさに褒めることもない。
だが、一言には十分な重みがあった。
ソフィアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
意見を否定されなかった。
途中で遮られもしなかった。
最後まで聞いたうえで、評価してもらえた。
それだけで、こんなにも救われるのだと初めて知った。
◇
それから数日後。
ソフィアは帝国の政務会議へ招かれていた。
長机を囲むのは、宰相をはじめとする帝国の重臣たちである。
皇帝の隣に座る見慣れない若い女性へ、好奇の視線が集まっていた。
「本日の議題は、治水計画についてだ。」
レオンハルトの一言で会議が始まる。
宰相が静かに口を開いた。
「陛下。この計画は大規模です。成功すれば利益は大きいでしょう。しかし初期費用も決して小さくありません。」
「承知している。」
レオンハルトは一枚の書類を示した。
「これはソフィア・エルフォード侯爵令嬢が、帝国各地の資料を基に新たにまとめた建議書だ。」
会議室にざわめきが広がる。
エルミナ王国で婚約破棄された令嬢。
その噂は帝国にも届いていた。
ある貴族が慎重な口調で尋ねる。
「陛下。その方は、まだ帝国へ来られて間もないと伺っております。」
「ああ。」
「その建議を採用なさるおつもりですか。」
レオンハルトは迷わず答えた。
「内容に問題がない。」
「……ですが陛下。」
一人の重臣が立ち上がる。
「相手は他国の令嬢です。」
「この数字に誤りはないと断言できますか。」
レオンハルトはソフィアへ視線を向けた。
「答えられるか。」
「はい。」
ソフィアは迷わず資料を開く。
「こちらをご覧ください。」
河川流量。
被害額。
復旧費。
予測収支。
一つ一つ数字を示しながら説明していく。
質疑は十分以上続いた。
やがて宰相が静かに口を開く。
「……反論ありません。」
その一言で、会議室は静まり返る。
「身分でも、噂でも、人柄でも判断しない。」
レオンハルトは机上の建議書へ視線を落とした。
「私は内容を見る。」
それ以上の説明はなかった。
だが、その言葉だけで十分だった。
重臣たちは互いに顔を見合わせ、やがて一人、また一人とうなずき始める。
「……異議ありません。」
「私も賛成いたします。」
「数字にも無理はありません。」
こうしてソフィアの最初の建議は、正式に採用された。
ソフィアは驚きのあまり声も出せなかった。
採用されたこと以上に、議論の末に結論へ至ったことが信じられなかった。
建議書とは、本来こうして扱われるものだったのだ。
◇
治水工事はすぐに始まった。
遊水地の整備。
老朽化した堤防の補強。
水路の改修。
ソフィアは何度も現地へ足を運び、技師や役人と意見を交わした。
現場で見つかった問題は、その場で修正する。
机上だけでは分からないことを、一つずつ拾い上げていく。
「侯爵令嬢が泥だらけになるとは。」
現場監督が苦笑すると、ソフィアも少し照れくさそうに笑う。
「図面だけでは、本当に必要なものは見えませんから。」
その姿は少しずつ現場の信頼を集めていった。
数ヶ月後。
雨季が訪れる。
例年であれば氾濫していた川は、大きく水位を上げながらも堤防を越えることはなかった。
農地は守られ、人々は胸をなで下ろす。
「今年は家が流されなかった。」
「ようやく安心して眠れる。」
そんな声が各地から届き始めた。
ソフィアは報告書を閉じ、静かに目を細める。
数字ではなく、人々の笑顔が思い浮かんだ。
◇
治水計画に続き、孤児院への補助制度も見直された。
資金だけを配るのではなく、監査制度を整え、不正を防ぐ仕組みも同時に導入する。
教育を受けた子どもたちが職を得られるよう、職人組合とも連携した。
「施しだけでは続きません。」
会議でソフィアは穏やかに語る。
「自立できる仕組みを作らなければ、同じ問題を繰り返します。」
その考え方は帝国の官僚たちにも新鮮だった。
次々と意見が交わされ、制度はさらに磨かれていく。
誰か一人の案ではなく、多くの知恵を重ねた政策へ変わっていった。
その様子を見つめながら、ソフィアは小さく微笑む。
建議書は、否定されるためにあるのではない。
より良いものへ育てるためにある。
帝国へ来て初めて、その意味を知った。
◇
「陛下。」
会議が終わり、ソフィアはレオンハルトへ頭を下げた。
「ありがとうございました。」
「何に対してだ。」
「私の建議書を信じてくださったことです。」
レオンハルトは首を横に振る。
「違う。」
短く言ってから続ける。
「信じたのではない。」
ソフィアは首をかしげる。
「読んだ。」
その一言に、思わず笑みがこぼれた。
「内容を理解し、必要だと判断した。それだけだ。」
「……はい。」
その”それだけ”が、どれほど難しいことなのか、ソフィアは知っている。
誰かに最後まで話を聞いてもらえること。
内容で評価してもらえること。
それは決して当たり前ではなかった。
だからこそ、その言葉は何よりも温かかった。
◇
一方、エルミナ王国。
王城では財政悪化が少しずつ表面化し始めていた。
「また予算が足りないのか。」
オスカーは不機嫌そうに書類を机へ放り投げる。
「舞踏会の費用が予想以上に……」
「舞踏会は王家の威厳そのものだ。」
重臣たちは息をのむ。
「縮小するわけにはいかない。」
「しかし殿下、このままでは地方の治水工事や孤児院への予算が――」
「必要な財源は別で確保しろ。」
「王家の格式を損なうことだけは許さん。」
重臣たちは誰一人反論できなかった。
そのとき、一人の文官が慌てた様子で会議室へ駆け込んできた。
「ご報告がございます!」
「何だ。」
「ヴァルハイト帝国ですが……近年、治水工事の成功により農作物の収穫量が増え、税収も大きく改善したとのことです。」
オスカーは興味なさそうに聞き流す。
「それで?」
「その政策を立案した人物が判明いたしました。」
「誰だ。」
文官は一度息をのみ、静かに答えた。
「……ソフィア・エルフォード侯爵令嬢でございます。」
会議室から音が消えた。
オスカーの手から、一枚の書類が滑り落ちる。
「……そんなはずがない。」
思わず漏れたその声は、自分自身へ言い聞かせるようでもあった。
◇
「……ソフィアだと?」
オスカーは立ち上がった。
椅子が大きな音を立て、会議室に緊張が走る。
「何かの間違いだ。」
「いえ。」
文官は首を横に振る。
「帝国では治水計画だけでなく、孤児院制度や税制改革も順調に進んでいるとのことです。いずれも、ソフィア様が帝国向けに再構成した建議書をもとに整備されたと報告されています。」
その直後だった。
別の文官が息を切らせながら飛び込んでくる。
「失礼いたします!」
「北部の河川が決壊いたしました!」
「何だと!」
「さらに南部では孤児院三か所が閉鎖、西部では増税への反発から暴動が発生しております!」
会議室が騒然となる。
重臣の一人が苦しそうに口を開いた。
「……いずれも。」
「ソフィア様が建議書で何年も前から警告していた案件です。」
誰も言葉を続けられなかった。
オスカーは強く机を叩く。
「あり得ない!」
その声だけが会議室へ響いた。
「また王太子妃殿下からは、今年も舞踏会開催のご要望が届いております。」
その報告に、オスカーは顔をしかめた。
「今そんなことをしている場合か。」
「ですが『王家の威厳は守らねばならない』とのことです。」
かつて自分が口にした言葉だった。
オスカーは何も返せなかった。
「……建議書を持ってこい。」
静かな声だった。
「私が確認する。」
「かしこまりました。」
文官は深く頭を下げ、資料室へ向かう。
しばらくして戻ってきた彼の表情は、どこか困惑していた。
「殿下……。」
「どうした。」
「提出された建議書ですが……。」
「早く出せ。」
文官は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ございません。」
「……何?」
「却下後、一定期間保管されたのち、規定どおり廃棄されております。」
オスカーは言葉を失った。
「では記録は。」
「却下の記録のみです。」
会議室が静まり返る。
あれほど何度も提出されていた建議書。
その中身を、今さら誰も確認できない。
オスカーの脳裏に、一つの場面がよみがえった。
――『ですが、一度でも最後まで読んでくださいましたか。』
ソフィアの震える声。
あのとき、自分は何と答えた。
いや、答えることすらしなかった。
読まなくても分かる。
そう思い込み、机の端へ置いたまま、判だけを押させた。
胸の奥が、ひどく重く沈む。
「……控えは。」
かすれた声が漏れた。
「ソフィアが作っていた控えならあるはずだ。」
文官は再び頭を下げる。
「お部屋を確認いたしました。」
「それで。」
「ソフィア様は城を発たれる際、ご自身の控えをすべてお持ち出しになられたようです。」
「王城には一冊も残されておりません。」
会議室が静まり返る。
オスカーは眉をひそめた。
「……そうか。」
それだけ言って席へ座る。
胸の奥に小さな引っ掛かりは残った。
だが、その違和感を認めようとはしなかった。
◇
さらに半年後。
ヴァルハイト帝国の発展は、周辺諸国でも大きな話題となっていた。
「以前より交易量が二割以上増えています。」
「治安も改善したそうです。」
「飢饉への備えも整い始めたとか。」
王国の重臣たちは報告書を読みながら驚きを隠せない。
一方で、エルミナ王国では不満が募っていた。
増税への反発。
地方から相次ぐ陳情。
老朽化した治水設備。
それらは、ソフィアが何年も前から建議書で訴え続けてきた問題ばかりだった。
今になって、その意味を理解する者が増え始めていた。
「もし、あの建議を採用していれば……。」
誰かが小さく漏らした一言に、会議室は再び沈黙する。
その”もし”に答えられる者はいなかった。
◇
同じ頃、帝国。
城下町では、新しく整備された水路のそばで子どもたちが笑いながら遊んでいた。
市場には人が集まり、商人たちの威勢の良い声が響く。
その光景を少し離れた場所から眺めていたソフィアは、穏やかに微笑んだ。
「やっと……。」
その声は風に溶けるほど小さい。
「やっと、この景色が見られました。」
隣に立つレオンハルトも町を見つめたまま口を開く。
「これは、お前が望んだ景色か。」
ソフィアは静かにうなずく。
「はい。」
豪華な宮殿でも、称賛の言葉でもない。
人々が安心して笑って暮らしている。
その当たり前の景色こそが、彼女の願いだった。
レオンハルトは横目でソフィアを見る。
功績を誇ることもなく、感謝を求めることもない。
ただ町の人々の笑顔を見つめるその姿に、小さく息をついた。
「……変わった女だ。」
その声には、呆れではなく、わずかな笑みが混じっていた。
ソフィアも照れくさそうに笑う。
「よく言われます。」
穏やかな笑い声が、夕暮れの町へ静かに溶けていった。
◇
その年の秋。
ヴァルハイト帝国で開かれる各国首脳会談に、エルミナ王国も招待された。
使節団の先頭を歩くオスカーは、以前にも増して険しい表情を浮かべている。
帝国へ入ってから目にした景色は、どれも王国とは対照的だった。
整備された街道。
活気あふれる市場。
笑顔で働く人々。
かつては王国より劣ると言われた帝国は、今や誰の目にも繁栄していた。
「本当に……ソフィアが。」
信じたくなかった。
この景色が、何より雄弁な答えだった。
あの日。
最後まで読もうともしなかった建議書。
その先に描かれていた未来が、今まさに目の前へ広がっている。
オスカーは初めて、自分が失ったものの大きさを理解した。
◇
謁見の間。
玉座に座るレオンハルトの隣には、一人の女性が立っていた。淡い青のドレスをまとい、穏やかな微笑みを浮かべている。
その姿を見つめる使節団の後方には、王太子妃カトリーナの姿もあった。
かつて自信に満ちていた笑みは消え、帝国の繁栄とソフィアの堂々とした立ち姿を前に、顔色は青ざめている。
思わず握り締めた扇が、小さく震えていた。
「……ソフィア。」
思わず名を呼ぶ。
ソフィアは静かに一礼した。
「お久しぶりでございます、オスカー殿下。」
その声は変わらない。
だが、その瞳にはもう迷いも悲しみもなかった。
オスカーの胸が締め付けられる。
「元気そうで……安心した。」
「ありがとうございます。」
それだけだった。
以前なら、もっと言葉を重ねてくれた。
笑ってくれた。
今は礼儀として返しているだけだ。
「ソフィア。」
オスカーは一歩前へ出る。
「私は……。」
言葉が続かない。
何を謝ればいいのか。
どこから謝ればいいのか。
ようやく口を開く。
「君の建議書を……読んだ。」
ソフィアは小さく首をかしげた。
「読めなかった。」
自分で訂正する。
「読もうと思った時には、もう残っていなかった。」
苦笑にもならない笑みが漏れる。
「私は、何も見ていなかった。」
ソフィアは静かに話を聞いていた。
責めることもない。
怒ることもない。
その穏やかな眼差しが、かえってオスカーには苦しかった。
「……すまなかった。」
長い沈黙のあと、オスカーはかすれた声で続けた。
「もし許されるなら……王国へ戻ってきてくれないか。」
ソフィアは静かに首を振る。
「それはできません。」
その返事だけで、オスカーはすべてを悟った。
それでも諦めきれず、もう一歩踏み出す。
「なら……せめて君の建議書だけでも貸してくれ。王国は今、財政も治水も限界なんだ。」
「頼む。」
「王国を救えるのは君しかいない。」
「私一人では、もうどうにもならないんだ。もう一度だけ、君の知恵を借りたい。」
カトリーナは扇を強く握り締めた。
俯いたまま、一言も口を開かなかった。
ソフィアは少しだけ目を伏せた。
「申し訳ありません。」
「殿下は以前、私におっしゃいました。私は数字しか見ていない、と。」
オスカーの肩が震える。
「ですが帝国では違いました。」
「皆様は数字だけではなく、その先で暮らす人々まで見てくださいました。だから、この建議書は完成したのです。」
「王国へ、そのままお渡しすることはできません。」
「帝国の皆様と一緒に作り上げたものですから。」
オスカーは何も言えなかった。
そのとき。
「そこまでだ。」
静かな声が謁見の間に響いた。
レオンハルトがゆっくりと前へ出る。
「帝国の政策は帝国の財産。」
「他国へ渡す理由はない。」
「まして、自ら捨てた者へ渡すつもりはない。」
その一言だけで空気が凍り付く。
オスカーは唇を噛んだ。
反論できない。
それは、自分がかつて価値もないと切り捨てたものだったからだ。
レオンハルトはさらに静かに続ける。
「そもそも、お前は一度その機会を持っていた。」
「読まなかったのは、お前自身だ。」
短い言葉だった。
だが、その一言はどんな叱責よりも重かった。
オスカーはゆっくりとうつむく。
「……その通りだ。」
握り締めた拳が震える。
自ら捨てたものは、二度と戻らない。
その事実だけが、胸へ深く突き刺さっていた。
◇
「話は終わったか。」
レオンハルトが静かに口を開く。
「ここは外交の場だ。」
オスカーは姿勢を正した。
「……失礼した。」
レオンハルトはソフィアへ視線を向ける。
「これ以上、不快な思いはしていないか。」
「はい。」
ソフィアは小さくうなずく。
「大丈夫です。」
その返事を聞いてから、レオンハルトはオスカーを見る。
「ソフィアは帝国で働いている。その能力は帝国の財産だ。」
「過去の評価ではなく、今の働きによって遇する。」
「それが帝国の原則だ。」
一拍置き、レオンハルトは静かに続けた。
「もっとも、自国の人材を自ら手放した国へ、帝国が与えるものは何一つない。」
オスカーは唇を強く噛み締めた。何も言い返せなかった。
それこそ、自分が最後までできなかったことだからだ。
◇
会談が終わり、王国の使節団は帰国した。
馬車の窓から帝国の城が遠ざかっていく。
オスカーは最後まで窓の外を見つめていた。
もし、あの日。
建議書を一冊だけでも最後まで読んでいたら。
もし、一度だけでも話を最後まで聞いていたら。
未来は変わっていただろうか。
答えは、もう誰にも分からない。
◇
夕暮れ。
城の庭園には穏やかな風が吹いていた。
花々を眺めるソフィアの隣へ、レオンハルトが歩み寄る。
「一つ聞く。」
「はい。」
「これからも帝国のために力を貸してほしい。」
ソフィアは微笑む。
「もちろんです。」
「では。」
レオンハルトは一拍置いた。
「公ではなく、私個人として頼みがある。」
珍しく言葉を選ぶような様子に、ソフィアは目を瞬かせる。
「私と生涯を共にしてくれないか。」
飾り気のない言葉だった。
それでも、その一言には誠実さが込められていた。
ソフィアは驚き、しばらく言葉を失う。
「私は……。」
胸へ手を当てる。
初めてだった。
自分の言葉を最後まで聞き、理解しようとしてくれた人。
意見ではなく、自分自身を見てくれた人。
自然と涙がこぼれる。
「はい。」
笑顔で答えた。
「喜んで。」
レオンハルトは静かに微笑む。
その笑顔を見たのは、ごく限られた者だけだった。
◇
数年後。
ヴァルハイト帝国は、大陸でも有数の豊かな国として知られるようになっていた。
災害に強い治水。
充実した福祉制度。
安定した財政。
その改革を支えた一人として、ソフィアの名は人々に知られている。
それでも本人は、公の場で自らの功績を語ることはなかった。
「陛下。」
今日も執務室で、一冊の建議書を差し出す。
「新しい提案がまとまりました。」
レオンハルトは受け取り、その場で一ページ目を開く。
「読ませてもらおう。」
その姿を見て、ソフィアは柔らかく笑った。
あの日、誰にも読まれないと思っていた建議書。
それは場所を変え、国を変え、一人の人生を変えた。
想いは、声にするだけでは届かない。
最後まで耳を傾けてくれる誰かがいて、初めて届くものなのだ。
だから今日もソフィアは書き続ける。
誰かの明日が、少しでも良くなることを願って。
その願いを、今度はきちんと読んでくれる人が隣にいるのだから。
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