「可愛げがない」は有責事由ではございません――真偽の天秤は王太子殿下の婚約破棄を認めませんでした
「セラフィーナ。ここで、お前との婚約を破棄する」
レオンハルト王太子殿下が、真偽の間の中央で静かに告げた。
セラフィーナと殿下は、王族の国宝である真偽の天秤という古代魔道具の前に立っていた。いや、正しくは三人だ。
もう一人は、アメリア・ローゼンフェルト子爵令嬢。
人形のような大きな青い目と、薄茶の巻き毛を持つ彼女は、その華奢な肩を震わせて、心細げに瞳を揺らしていた。レオンハルトはたまらず、といった表情を浮かべ、彼女の肩を引き寄せる。
アメリアはそっとレオンハルトの胸に頬を寄せ、自身の腹を見下ろした。庇うように、そっとお腹に手を当てる。
それだけで、二人の関係がどこまで進んでいるのかが察せられた。
真偽の間に集められた十数人の関係者がざわつく。
当然だ。王太子が、身重の令嬢を伴って婚約破棄の場へ現れたのだ。静まり返っていられるはずがない。普通なら、こうした場へ妊婦を立たせること自体を避ける。けれどレオンハルトは、今日の自分の正しさを示すことを優先したのだろう。
そこまでするのかと、セラフィーナはかすかに眉を寄せた。
エーヴェルハルト侯爵家は、アメリアが殿下の子を身ごもっていることを、とうに把握していた。
おおっぴらに逢瀬を重ねていた二人が非難されなかったのは、ひとえにレオンハルトが王太子であり、筆頭侯爵令嬢であるセラフィーナが静観の姿勢を見せていたからだ。近しい者たちは気づいていても、沈黙を守るほかなかった。王家が事実を認めぬうちに侯爵家から騒ぎ立てれば、セラフィーナの名もまた傷つくことになる。
婚約したばかりのころ、私にもこんな顔を見せたことがあった。
それを思い出してしまった自分が、少しだけ不快だった。
心の隅に立った小さな波を、セラフィーナは無理やり鎮める。
「政略の、王命による婚約を破棄するためには、それなりの理由が必要でございます。どのような理由なのでしょうか」
レオンハルトは、ふん、と鼻を鳴らした。
「白々しい。お前は、私を立てようとしなかった」
「と、申しますと?」
「そういうところだ!」
きっと眉尻を上げ、レオンハルトは言い募る。
「私を立てるということをしない。政務に口を出す。可愛げがないのだ」
そう言って、アメリアを見下ろし、ふわりと顔を緩めた。
「どうにもならない婚約者に苛立っていた時、私はアメリアに出会った。彼女は違う。私を責めず、励まし、支えてくれた」
アメリアは嬉しそうにレオンハルトを見つめ、頬を染めた。
茶番だわ、とセラフィーナは内心でため息をつく。
立てろというから、立てたつもりだった。殿下がつまずかぬよう、書類に必要な資料を探し、転記し、書式を合わせた。
行きたくないと渋る殿下に頼まれ、孤児院への訪問を名代として引き受けた。
込み入った案件は下案に起こし、判断に必要な資料を添えた。最後に署名し、裁可を下すのは、いつも殿下自身だった。
だからこそ、あれは越権ではない。殿下が放り出した政務を、裁可できるところまで戻していたにすぎない。
毎日朝早くから夜遅くまで、殿下の政務が滞らぬよう下支えした。
もちろん、王太子に代わって裁可したことは一度もない。正式な役職を与えられていたわけではないからだ。だが、殿下の机へ積み上がる案件を見れば、誰かが目を通し、判断できる形に戻さねば回らなかった。
それすら、殿下には自分を無能に見せる行為に映っていたらしい。
私が下支えしてできた時間に、浮気相手と遊び呆け、城内にいない人間へ、いつ愛想を見せろというのだろう。
理不尽な話だった。
レオンハルトは、人前ではそれなりに見栄えがし、受け答えも悪くない。だからこそ、机に向かうと途端にぼろが出る種類の人だった。社交の場では王太子らしくふるまえても、地味で終わりの見えない実務には耐えられない。その弱さを、私が埋めてしまっていた。
私が黙って聞いていることで肯定したと思ったのか、レオンハルトは勝ち誇った顔をして、ざわつく周囲を見回した。この場に集まった文官たちが困惑していることに、気づいていないのだろうか。
「それでは殿下。わたくしのしてきたことは、すべて無用だったと?」
そう問うと、レオンハルトはちらりとこちらを見た。眉をわずかに寄せ、二度、瞬きをする。
ほんの一瞬だった。
「……お前のしたことは、越権行為だ」
ふいと顔を逸らす。
ああ、と思った。
自分に都合の悪いことを押し通そうとするとき、殿下はいつもこうする。二度瞬きをして、それから相手の目を見なくなるのだ。
レオンハルトは、おのれの言い分がこじつけだと、わかっていてやっている。
「越権行為を行ったセラフィーナとは、本日限りで婚約を破棄する。あわせて、次なる婚約者としてアメリア・ローゼンフェルト子爵令嬢をこの場で承認することを要請する」
周囲のざわめきが、一段深まった。
王家には、婚姻関連の正式文書を量る真偽の天秤という古代魔道具がある。婚姻の証書へ虚偽が紛れ込
み、国を傾かせぬために作られたものだと伝えられていた。
とはいえ、現代では複製も修復もかなわず、近年これが実際に働いたという話も聞かない。だから誰もが、ただの儀礼用の国宝だと思っていた。
この儀式は、形式上は仮の手続きにすぎない。だが、真偽の天秤を通った文言は、そのまま王家の正式記録へ採用される。王太子の婚約は本来、陛下の裁可を要する国家案件だが、この場で認められた文言は後の正式手続きの骨子となる。だからこそ、ここで何を記すかが重要となる。
今日、レオンハルトはその天秤へ、セラフィーナとの婚約破棄の証文を載せ、公の手続きを進めるつもりなのだ。それも、陛下たちが外遊で城を開けている間に。
証文は、天秤の片方の皿に広げられた状態で載せられた。もう片方は空のままなのに、天秤は平衡を保っている。薄い紙一枚ゆえのことだと、誰もが思った。
儀式に則り、証文を読み上げるのは、魔導塔に属する国宝魔道具管理長、ヴェルナー・グライフである。
白髪交じりの髪をきっちり撫でつけた管理長は、感情をいっさい表へ出さぬ顔で証文を読み上げていく。
「……以下の理由をもって、婚約を破棄するとする。
一つ、セラフィーナ・エーヴェルハルトは、婚約者であるレオンハルト・ヴァルツェンベルクの政務を独断で進めた。
一つ、レオンハルト・ヴァルツェンベルクの意向を軽んじた。
一つ、セラフィーナ・エーヴェルハルトは、次期王太子妃にふさわしい振る舞いをしなかった。
一つ、セラフィーナ・エーヴェルハルトには華がなく、社交の場でもレオンハルト・ヴァルツェンベルクを引き立てなかった」
読み上げられる内容に、セラフィーナは呆れた。あまりに感情的で、幼い。
先ほどまで不安げな顔をしていたアメリアは、今は少しだけ安心したような、ほのかな笑みを口元へ浮かべている。その歪んだ口端が、近くにいたセラフィーナにはよく見えた。
ヴェルナーが最後の一文を読み上げる。
「……よって、セラフィーナ・エーヴェルハルトを、レオンハルト・ヴァルツェンベルクの婚約者として不適と認め――」
その時だった。
何も載っていないはずの皿が、すうっと下へ沈んだ。
下まで沈み切ると、かたん、と小さな音を立てる。
はっと息を呑む気配がした。
真偽の間の空気が固まる。
皆、異様な傾きを見せる天秤から目を離せないでいた。誰も、天秤が動くとは予想していなかったのだ。
沈黙を破ったのは、ヴェルナーだった。
「真偽の天秤が反応しました」
低く、よく通る声だった。
「この国宝は、王家の婚姻に関わる正式文書へ虚偽が含まれた場合、これを示します」
ざわ、と空気が揺れる。
レオンハルトの顔色が変わった。
「……何だと」
「空の皿が沈むのは、記された文言が事実として釣り合わぬ時です。真実のほうが重い。ゆえに、虚偽を含む文書は均衡を保てない」
「馬鹿な」
レオンハルトが一歩、天秤へ踏み出した。
「私は嘘など言っていない。本当に、こいつは私にふさわしくなかった!」
ヴェルナーは目も伏せず、淡々と告げる。
「殿下がそのようにお感じになったこと自体は否定いたしません」
そこで、ほんのわずかに間を置いた。
「ですが、それは殿下のお気持ちであって、相手の有責を証する事実ではございません」
その言葉に、レオンハルトは言葉を失った。
「王家の正式文書へ記すべきは、感情ではなく事実です。王家の婚姻文書にのみ用いられ、しかも動いた記録はごく少ないため、機能の詳細は管理を預かる者にしか伝わっておりません。記録上、前例がないわけではありませんが、広く知られていないのはそのためです。過去にも、当人の不興や感情を有責事由として記そうとして、天秤に退けられた例がございます」
冷ややかな声だった。
責めているのではない。ただ線を引いている。ここから先は制度の外だと、そう告げている。
レオンハルトの耳まで赤くなった。
「私を立てようとせず、勝手に何もかも進めたのだぞ! 私の政務に口を出し、私の顔を潰した。あれでは、最初から私が不要ではないか!」
その声は、かすかに裏返っていた。
そこでようやく、周囲の者たちが理解する。
ああ、殿下は傷ついていたのだ、と。
だが同時に、その傷を自分で引き受けることができず、相手の罪へ書き換えようとしたのだ、と。
文官たちのあいだから、低い声が漏れた。
「不要、とは……」
「殿下名義で出された決裁案の多くは、彼女が下案を作っていたのに」
「越権ではない。補佐だ」
「放置されていた案件を、どれだけエーヴェルハルト令嬢が動かせる状態にしてくれたことか」
「資料の選び方でわかった。あれは殿下の仕事ではなかった」
ひそやかな声はすぐに止んだが、止んだからこそ重かった。
王太子名義で下りてくる書類へ、下の者が口を挟めるはずもない。誰もが気づいていて、気づかぬふりをしていたにすぎなかったのである。
レオンハルトはその声を聞いたのだろう。唇を引き結び、けれど誰の顔も見られずにいる。
セラフィーナはその横顔を見た。
この人は、最初から私を嫌っていたわけではなかった。
婚約したばかりのころ、私が領地の話や商いの話をした時、面白い、と笑ってくれた。もっと聞かせてほしい、と言ってくれた。その一言が、どれほど嬉しかったことか。
家では、私は飾っておけばよい娘だった。侯爵家の娘らしく、淑やかに微笑んでいればいい。領地経営や商会のことへ口を出すなと、父にも母にもたしなめられてきた。
けれどレオンハルトだけは、私の話を聞いてくれた。
家では私の考えに耳を貸す者がいなかった。殿下だけが最初にそれを面白いと言った。その一言を、私は思っていた以上に長く信じてしまったのだ。
だから私は、甘えたのだ。
この方なら、自分の才を認めてくれるかもしれないと。
この方の役に立てば、ここが私の居場所になるかもしれないと。
その期待ごと、いま目の前で踏みにじられている。
けれど、それだけではない。それは、彼との記憶を思い出したいまだからこそ、気づけたことだった。
私もまた、この人を使っていたのだということを。
「殿下のお言葉は承りました」
静まり返った場に、セラフィーナの声が落ちた。
皆がこちらを見る。
「ですが、わたくしは婚約破棄には同意いたしかねます」
レオンハルトが、はっと顔を上げる。
「何だと」
「有責の一方的な婚約破棄ではなく、婚約解消であれば応じます」
またざわめきが起こった。
セラフィーナはそれを聞き流し、まっすぐ前を向いた。
「これ以上、殿下と関係を続けたいわけではありません。ただ、わたくしだけが罪を負う形で終えるつもりもないのです」
今度こそ、場が止まる。
ヴェルナーでさえ、わずかに目を細めた気がした。
「わたくしにも、非はございました」
「何を……」
レオンハルトが呟く。
セラフィーナはゆっくりと言葉を継いだ。
「罪と呼ぶほどのものではありません。けれど、殿下を支えるという名目で、わたくしもまた、自分の居場所を殿下に求めておりました」
自分の口からそれを言うのは、思った以上に痛かった。
「家では、わたくしの考えに耳を貸す者はおりませんでした。ですから、殿下が話を聞いてくださったことが、嬉しかったのです。役に立てば、ここにいていいのだと、そう思ってしまった」
喉に鉛の塊があるようだ。
それでも、もう止めなかった。
「殿下を支えたつもりで、実のところ、わたくしは自分を証明したかったのです。殿下に必要とされるわたくしでありたかった。そこは、わたくしの甘えでございました」
レオンハルトの目が見開かれる。
その顔を見て、セラフィーナは理解した。
この人は、今まで一度も、私がそんなことを考えていたとは思っていなかったのだ。
思い出してくれているのだろうか。
婚約して間もないころ、私がぽつりと、家に居場所がないのだと漏らしたことを。
領地を少しでも豊かにしたいのだと、勢い込んで話したことを。
その時、彼が「それは良い考えだ。一緒に考えていこう」と笑ったことを。
今さらになって、それを思い出すのだとしても、もう遅い。
もう、袂を分かつほかないのだから。
ヴェルナーが口を開いた。
「殿下。現行の証文は、王家の正式文書として受理できません」
その声音に、迷いはない。
「有責事由を取り下げ、両者の意思による婚約解消として再作成なさるのであれば、手続きは継続可能です」
長い沈黙が落ちた。
レオンハルトはしばらく何も言わなかった。拳を握り締め、歯を食いしばり、目だけを揺らしていた。
やがて、ひどく低い声で言う。
「……書き直せ」
その一言に、文官たちが動いた。
新たな証文が作成されていく。今度の文言は短かった。
両者の認識と意向の相違により、婚約を解消する。
それだけである。
なお、アメリア・ローゼンフェルトに関する扱いは、あらためて王家とローゼンフェルト家とのあいだで協議されることとなった。さすがにこの場で、次の婚約まで認めるわけにはいかなかったのだろう。その一文が読み上げられた瞬間、アメリアの口元から、ようやく笑みが消えた。
書き直された証文は、再び天秤の皿へ載せられた。
空の皿は動かない。
均衡したままだった。
ヴェルナーが最後まで読み上げる。
今度は何も起こらなかった。
「これをもって、婚約解消は正式に受理されました」
厳粛な宣言だった。
誰も歓声を上げなかった。
勝者はいない。
ただ、嘘だけが退けられた。
その日、セラフィーナはエーヴェルハルト侯爵家へ戻った。
父、コンラートは、帰ってきた娘を見てすぐには口を開けなかった。母、エルゼもまた、青ざめた顔で立ち尽くしている。
先に沈黙を破ったのは父だった。
「……王城で使われていた決裁案の下書きや、添付資料のいくつかを見せられた」
低い声だった。
「お前の書き癖が出ていた。否定のしようもない」
セラフィーナは少しだけ目を伏せた。
父は、まさかとは思っていたのだろう。娘がここまで王太子の政務へ関わっていたなどと、考えたくもなかったのかもしれない。
「お前が、そういうことをしたかったのは……知っていた」
苦い声だった。
「だが、王太子妃となることがお前の幸せだと、私は思っていた」
悪意はなかった。
だからこそ、たちが悪い。
娘を思って決めた未来が、娘を見ていなかったのだ。
返す言葉を探しているうちに、母が近づいてきて、黙ったままセラフィーナを抱きしめた。
あたたかかった。
あたたかいことが、少しだけつらい。
セラフィーナはその腕を拒まなかったが、以前のようにそこへ身を預けることもできなかった。
公の場で王太子からふさわしくないと扱われ、婚約を解消された女に、今後まともな縁談が来ることはあるまい。
それでも、不思議と絶望はなかった。
これまで私は、誰かに認められたくて働いてきた。家で、王城で、許される場所を探してきた。
けれどもう、誰かの机へ下案を滑り込ませるような生き方は、終わりにしていいのかもしれない。
窓の外には、夕暮れの空が広がっている。
淡く冷えた春の空気を吸い込みながら、セラフィーナは静かに目を細めた。
縁談はないだろう。
王太子妃に、なれなかった。
女としての価値だけを数える者から見れば、私はもう損なわれた札なのかもしれない。
それでも、私の頭も、手も、何ひとつ失われてはいない。
考え、組み立て、動かす力だけは、まだ私の中にある。
ならば、この力を使うべき場所がある。
そう思ったとき、胸の奥へ、かすかな確信が灯った。
遅すぎることなど、たぶん、ないのだ。
私と同じような思いをしている人はきっといる。
侯爵家の領地にも、王城の片隅にも、声を上げられずにいる者はいるだろう。
そう思った。
今度は、誰かの机へ、誰かの名で仕上げた書類を置くのではない。
私の名で、私の手で、なすべきことを形にしていく。
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