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「可愛げがない」は有責事由ではございません――真偽の天秤は王太子殿下の婚約破棄を認めませんでした

掲載日:2026/07/18

「セラフィーナ。ここで、お前との婚約を破棄する」


 レオンハルト王太子殿下が、真偽の間の中央で静かに告げた。

 セラフィーナと殿下は、王族の国宝である真偽の天秤という古代魔道具の前に立っていた。いや、正しくは三人だ。


 もう一人は、アメリア・ローゼンフェルト子爵令嬢。


 人形のような大きな青い目と、薄茶の巻き毛を持つ彼女は、その華奢な肩を震わせて、心細げに瞳を揺らしていた。レオンハルトはたまらず、といった表情を浮かべ、彼女の肩を引き寄せる。


 アメリアはそっとレオンハルトの胸に頬を寄せ、自身の腹を見下ろした。庇うように、そっとお腹に手を当てる。

 それだけで、二人の関係がどこまで進んでいるのかが察せられた。


 真偽の間に集められた十数人の関係者がざわつく。

 当然だ。王太子が、身重の令嬢を伴って婚約破棄の場へ現れたのだ。静まり返っていられるはずがない。普通なら、こうした場へ妊婦を立たせること自体を避ける。けれどレオンハルトは、今日の自分の正しさを示すことを優先したのだろう。


 そこまでするのかと、セラフィーナはかすかに眉を寄せた。


 エーヴェルハルト侯爵家は、アメリアが殿下の子を身ごもっていることを、とうに把握していた。


 おおっぴらに逢瀬を重ねていた二人が非難されなかったのは、ひとえにレオンハルトが王太子であり、筆頭侯爵令嬢であるセラフィーナが静観の姿勢を見せていたからだ。近しい者たちは気づいていても、沈黙を守るほかなかった。王家が事実を認めぬうちに侯爵家から騒ぎ立てれば、セラフィーナの名もまた傷つくことになる。


 婚約したばかりのころ、私にもこんな顔を見せたことがあった。

 それを思い出してしまった自分が、少しだけ不快だった。

 心の隅に立った小さな波を、セラフィーナは無理やり鎮める。


「政略の、王命による婚約を破棄するためには、それなりの理由が必要でございます。どのような理由なのでしょうか」


 レオンハルトは、ふん、と鼻を鳴らした。


「白々しい。お前は、私を立てようとしなかった」

「と、申しますと?」

「そういうところだ!」


 きっと眉尻を上げ、レオンハルトは言い募る。


「私を立てるということをしない。政務に口を出す。可愛げがないのだ」


 そう言って、アメリアを見下ろし、ふわりと顔を緩めた。


「どうにもならない婚約者に苛立っていた時、私はアメリアに出会った。彼女は違う。私を責めず、励まし、支えてくれた」


 アメリアは嬉しそうにレオンハルトを見つめ、頬を染めた。

 茶番だわ、とセラフィーナは内心でため息をつく。

 立てろというから、立てたつもりだった。殿下がつまずかぬよう、書類に必要な資料を探し、転記し、書式を合わせた。


 行きたくないと渋る殿下に頼まれ、孤児院への訪問を名代として引き受けた。

 込み入った案件は下案に起こし、判断に必要な資料を添えた。最後に署名し、裁可を下すのは、いつも殿下自身だった。

 だからこそ、あれは越権ではない。殿下が放り出した政務を、裁可できるところまで戻していたにすぎない。


 毎日朝早くから夜遅くまで、殿下の政務が滞らぬよう下支えした。

 もちろん、王太子に代わって裁可したことは一度もない。正式な役職を与えられていたわけではないからだ。だが、殿下の机へ積み上がる案件を見れば、誰かが目を通し、判断できる形に戻さねば回らなかった。


 それすら、殿下には自分を無能に見せる行為に映っていたらしい。

 私が下支えしてできた時間に、浮気相手と遊び呆け、城内にいない人間へ、いつ愛想を見せろというのだろう。


 理不尽な話だった。


 レオンハルトは、人前ではそれなりに見栄えがし、受け答えも悪くない。だからこそ、机に向かうと途端にぼろが出る種類の人だった。社交の場では王太子らしくふるまえても、地味で終わりの見えない実務には耐えられない。その弱さを、私が埋めてしまっていた。


 私が黙って聞いていることで肯定したと思ったのか、レオンハルトは勝ち誇った顔をして、ざわつく周囲を見回した。この場に集まった文官たちが困惑していることに、気づいていないのだろうか。


「それでは殿下。わたくしのしてきたことは、すべて無用だったと?」


 そう問うと、レオンハルトはちらりとこちらを見た。眉をわずかに寄せ、二度、瞬きをする。

 ほんの一瞬だった。


「……お前のしたことは、越権行為だ」


 ふいと顔を逸らす。


 ああ、と思った。


 自分に都合の悪いことを押し通そうとするとき、殿下はいつもこうする。二度瞬きをして、それから相手の目を見なくなるのだ。


 レオンハルトは、おのれの言い分がこじつけだと、わかっていてやっている。


「越権行為を行ったセラフィーナとは、本日限りで婚約を破棄する。あわせて、次なる婚約者としてアメリア・ローゼンフェルト子爵令嬢をこの場で承認することを要請する」


 周囲のざわめきが、一段深まった。


 王家には、婚姻関連の正式文書を量る真偽の天秤という古代魔道具がある。婚姻の証書へ虚偽が紛れ込

み、国を傾かせぬために作られたものだと伝えられていた。


 とはいえ、現代では複製も修復もかなわず、近年これが実際に働いたという話も聞かない。だから誰もが、ただの儀礼用の国宝だと思っていた。


 この儀式は、形式上は仮の手続きにすぎない。だが、真偽の天秤を通った文言は、そのまま王家の正式記録へ採用される。王太子の婚約は本来、陛下の裁可を要する国家案件だが、この場で認められた文言は後の正式手続きの骨子となる。だからこそ、ここで何を記すかが重要となる。


 今日、レオンハルトはその天秤へ、セラフィーナとの婚約破棄の証文を載せ、公の手続きを進めるつもりなのだ。それも、陛下たちが外遊で城を開けている間に。


 証文は、天秤の片方の皿に広げられた状態で載せられた。もう片方は空のままなのに、天秤は平衡を保っている。薄い紙一枚ゆえのことだと、誰もが思った。

 儀式に則り、証文を読み上げるのは、魔導塔に属する国宝魔道具管理長、ヴェルナー・グライフである。

 白髪交じりの髪をきっちり撫でつけた管理長は、感情をいっさい表へ出さぬ顔で証文を読み上げていく。


「……以下の理由をもって、婚約を破棄するとする。

 一つ、セラフィーナ・エーヴェルハルトは、婚約者であるレオンハルト・ヴァルツェンベルクの政務を独断で進めた。

 一つ、レオンハルト・ヴァルツェンベルクの意向を軽んじた。

 一つ、セラフィーナ・エーヴェルハルトは、次期王太子妃にふさわしい振る舞いをしなかった。

 一つ、セラフィーナ・エーヴェルハルトには華がなく、社交の場でもレオンハルト・ヴァルツェンベルクを引き立てなかった」


 読み上げられる内容に、セラフィーナは呆れた。あまりに感情的で、幼い。


 先ほどまで不安げな顔をしていたアメリアは、今は少しだけ安心したような、ほのかな笑みを口元へ浮かべている。その歪んだ口端が、近くにいたセラフィーナにはよく見えた。


 ヴェルナーが最後の一文を読み上げる。


「……よって、セラフィーナ・エーヴェルハルトを、レオンハルト・ヴァルツェンベルクの婚約者として不適と認め――」


 その時だった。


 何も載っていないはずの皿が、すうっと下へ沈んだ。

 下まで沈み切ると、かたん、と小さな音を立てる。

 はっと息を呑む気配がした。

 真偽の間の空気が固まる。

 皆、異様な傾きを見せる天秤から目を離せないでいた。誰も、天秤が動くとは予想していなかったのだ。


 沈黙を破ったのは、ヴェルナーだった。


「真偽の天秤が反応しました」


 低く、よく通る声だった。


「この国宝は、王家の婚姻に関わる正式文書へ虚偽が含まれた場合、これを示します」


 ざわ、と空気が揺れる。


 レオンハルトの顔色が変わった。


「……何だと」

「空の皿が沈むのは、記された文言が事実として釣り合わぬ時です。真実のほうが重い。ゆえに、虚偽を含む文書は均衡を保てない」

「馬鹿な」


 レオンハルトが一歩、天秤へ踏み出した。


「私は嘘など言っていない。本当に、こいつは私にふさわしくなかった!」


 ヴェルナーは目も伏せず、淡々と告げる。


「殿下がそのようにお感じになったこと自体は否定いたしません」


 そこで、ほんのわずかに間を置いた。


「ですが、それは殿下のお気持ちであって、相手の有責を証する事実ではございません」


 その言葉に、レオンハルトは言葉を失った。


「王家の正式文書へ記すべきは、感情ではなく事実です。王家の婚姻文書にのみ用いられ、しかも動いた記録はごく少ないため、機能の詳細は管理を預かる者にしか伝わっておりません。記録上、前例がないわけではありませんが、広く知られていないのはそのためです。過去にも、当人の不興や感情を有責事由として記そうとして、天秤に退けられた例がございます」


 冷ややかな声だった。


 責めているのではない。ただ線を引いている。ここから先は制度の外だと、そう告げている。

 レオンハルトの耳まで赤くなった。


「私を立てようとせず、勝手に何もかも進めたのだぞ! 私の政務に口を出し、私の顔を潰した。あれでは、最初から私が不要ではないか!」


 その声は、かすかに裏返っていた。


 そこでようやく、周囲の者たちが理解する。

 ああ、殿下は傷ついていたのだ、と。

 だが同時に、その傷を自分で引き受けることができず、相手の罪へ書き換えようとしたのだ、と。


 文官たちのあいだから、低い声が漏れた。


「不要、とは……」

「殿下名義で出された決裁案の多くは、彼女が下案を作っていたのに」

「越権ではない。補佐だ」

「放置されていた案件を、どれだけエーヴェルハルト令嬢が動かせる状態にしてくれたことか」

「資料の選び方でわかった。あれは殿下の仕事ではなかった」


 ひそやかな声はすぐに止んだが、止んだからこそ重かった。

 王太子名義で下りてくる書類へ、下の者が口を挟めるはずもない。誰もが気づいていて、気づかぬふりをしていたにすぎなかったのである。


 レオンハルトはその声を聞いたのだろう。唇を引き結び、けれど誰の顔も見られずにいる。

 セラフィーナはその横顔を見た。


 この人は、最初から私を嫌っていたわけではなかった。


 婚約したばかりのころ、私が領地の話や商いの話をした時、面白い、と笑ってくれた。もっと聞かせてほしい、と言ってくれた。その一言が、どれほど嬉しかったことか。

 家では、私は飾っておけばよい娘だった。侯爵家の娘らしく、淑やかに微笑んでいればいい。領地経営や商会のことへ口を出すなと、父にも母にもたしなめられてきた。

 けれどレオンハルトだけは、私の話を聞いてくれた。


 家では私の考えに耳を貸す者がいなかった。殿下だけが最初にそれを面白いと言った。その一言を、私は思っていた以上に長く信じてしまったのだ。


 だから私は、甘えたのだ。


 この方なら、自分の才を認めてくれるかもしれないと。

 この方の役に立てば、ここが私の居場所になるかもしれないと。


 その期待ごと、いま目の前で踏みにじられている。


 けれど、それだけではない。それは、彼との記憶を思い出したいまだからこそ、気づけたことだった。

 私もまた、この人を使っていたのだということを。


「殿下のお言葉は承りました」


 静まり返った場に、セラフィーナの声が落ちた。

 皆がこちらを見る。


「ですが、わたくしは婚約破棄には同意いたしかねます」


 レオンハルトが、はっと顔を上げる。


「何だと」

「有責の一方的な婚約破棄ではなく、婚約解消であれば応じます」


 またざわめきが起こった。

 セラフィーナはそれを聞き流し、まっすぐ前を向いた。


「これ以上、殿下と関係を続けたいわけではありません。ただ、わたくしだけが罪を負う形で終えるつもりもないのです」


 今度こそ、場が止まる。

 ヴェルナーでさえ、わずかに目を細めた気がした。


「わたくしにも、非はございました」

「何を……」


 レオンハルトが呟く。

 セラフィーナはゆっくりと言葉を継いだ。


「罪と呼ぶほどのものではありません。けれど、殿下を支えるという名目で、わたくしもまた、自分の居場所を殿下に求めておりました」


 自分の口からそれを言うのは、思った以上に痛かった。


「家では、わたくしの考えに耳を貸す者はおりませんでした。ですから、殿下が話を聞いてくださったことが、嬉しかったのです。役に立てば、ここにいていいのだと、そう思ってしまった」


 喉に鉛の塊があるようだ。

 それでも、もう止めなかった。


「殿下を支えたつもりで、実のところ、わたくしは自分を証明したかったのです。殿下に必要とされるわたくしでありたかった。そこは、わたくしの甘えでございました」


 レオンハルトの目が見開かれる。

 その顔を見て、セラフィーナは理解した。

 この人は、今まで一度も、私がそんなことを考えていたとは思っていなかったのだ。


 思い出してくれているのだろうか。


 婚約して間もないころ、私がぽつりと、家に居場所がないのだと漏らしたことを。

 領地を少しでも豊かにしたいのだと、勢い込んで話したことを。

 その時、彼が「それは良い考えだ。一緒に考えていこう」と笑ったことを。


 今さらになって、それを思い出すのだとしても、もう遅い。

 もう、袂を分かつほかないのだから。


 ヴェルナーが口を開いた。


「殿下。現行の証文は、王家の正式文書として受理できません」


 その声音に、迷いはない。


「有責事由を取り下げ、両者の意思による婚約解消として再作成なさるのであれば、手続きは継続可能です」


 長い沈黙が落ちた。

 レオンハルトはしばらく何も言わなかった。拳を握り締め、歯を食いしばり、目だけを揺らしていた。

 やがて、ひどく低い声で言う。


「……書き直せ」


 その一言に、文官たちが動いた。

 新たな証文が作成されていく。今度の文言は短かった。

 両者の認識と意向の相違により、婚約を解消する。

 それだけである。


 なお、アメリア・ローゼンフェルトに関する扱いは、あらためて王家とローゼンフェルト家とのあいだで協議されることとなった。さすがにこの場で、次の婚約まで認めるわけにはいかなかったのだろう。その一文が読み上げられた瞬間、アメリアの口元から、ようやく笑みが消えた。


 書き直された証文は、再び天秤の皿へ載せられた。

 空の皿は動かない。

 均衡したままだった。

 ヴェルナーが最後まで読み上げる。

 今度は何も起こらなかった。


「これをもって、婚約解消は正式に受理されました」


 厳粛な宣言だった。

 誰も歓声を上げなかった。

 勝者はいない。

 ただ、嘘だけが退けられた。


 その日、セラフィーナはエーヴェルハルト侯爵家へ戻った。

 父、コンラートは、帰ってきた娘を見てすぐには口を開けなかった。母、エルゼもまた、青ざめた顔で立ち尽くしている。


 先に沈黙を破ったのは父だった。


「……王城で使われていた決裁案の下書きや、添付資料のいくつかを見せられた」


 低い声だった。


「お前の書き癖が出ていた。否定のしようもない」


 セラフィーナは少しだけ目を伏せた。

 父は、まさかとは思っていたのだろう。娘がここまで王太子の政務へ関わっていたなどと、考えたくもなかったのかもしれない。


「お前が、そういうことをしたかったのは……知っていた」


 苦い声だった。


「だが、王太子妃となることがお前の幸せだと、私は思っていた」


 悪意はなかった。

 だからこそ、たちが悪い。

 娘を思って決めた未来が、娘を見ていなかったのだ。

 返す言葉を探しているうちに、母が近づいてきて、黙ったままセラフィーナを抱きしめた。

 あたたかかった。

 あたたかいことが、少しだけつらい。

 セラフィーナはその腕を拒まなかったが、以前のようにそこへ身を預けることもできなかった。


 公の場で王太子からふさわしくないと扱われ、婚約を解消された女に、今後まともな縁談が来ることはあるまい。

 それでも、不思議と絶望はなかった。


 これまで私は、誰かに認められたくて働いてきた。家で、王城で、許される場所を探してきた。

 けれどもう、誰かの机へ下案を滑り込ませるような生き方は、終わりにしていいのかもしれない。


 窓の外には、夕暮れの空が広がっている。


 淡く冷えた春の空気を吸い込みながら、セラフィーナは静かに目を細めた。

 縁談はないだろう。


 王太子妃に、なれなかった。


 女としての価値だけを数える者から見れば、私はもう損なわれた札なのかもしれない。

 それでも、私の頭も、手も、何ひとつ失われてはいない。


 考え、組み立て、動かす力だけは、まだ私の中にある。


 ならば、この力を使うべき場所がある。


 そう思ったとき、胸の奥へ、かすかな確信が灯った。


 遅すぎることなど、たぶん、ないのだ。

 私と同じような思いをしている人はきっといる。

 侯爵家の領地にも、王城の片隅にも、声を上げられずにいる者はいるだろう。


 そう思った。


 今度は、誰かの机へ、誰かの名で仕上げた書類を置くのではない。

 私の名で、私の手で、なすべきことを形にしていく。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。よかったら、評価をお願いします。

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― 新着の感想 ―
婚約者がいる状況でそれを解消する前に他の女性を身重にするようなロクデナシに対して優しすぎ・・・
殿下は「おもれー女」をやるには器も実力も足りなかったんだろうな。
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