新生活②
夜中だった。
リビングの明かりだけが、
静かに部屋を照らしている。
ソファに座る詩は、
ブランケットに包まれたまま、
ぼんやり俯いていた。
熱は38度を超えている。
頬は赤いのに、
指先は冷たい。
昂汰はキッチンから水を持って戻ると、
テーブルに少し強めに置いた。
「なんで言わへんかったん」
低い声。
詩の肩が小さく揺れる。
「昨日からしんどかったんやろ」
返事がない。
「最近ずっとやん」
「顔色悪かった」
「食う量減ってた」
「寝れてへんかったやろ」
一個ずつ並べられるたび、
詩が小さくなっていく。
「……ごめん」
「ごめんちゃうねん」
思ったより強い声が出た。
自分でも分かるくらい、
焦りと苛立ちが混ざっている。
「なんで隠すん」
「また倒れたらどうすんねん」
「この前のこと、もう忘れたんか?」
詩が俯く。
長い前髪の隙間から、
ぽたりと雫が落ちた。
昂汰が止まる。
でも、
もう止められなかった。
「なんで一人で抱え込むん」
「俺そんな頼りないんか」
その瞬間。
詩が、
ぐしゃっと顔を歪めた。
「……違うっ」
掠れた声。
詩は震えながら、
必死に言葉を吐き出した。
「違うの……!」
涙が次々落ちる。
「ちゃんと、やろうとしてるもん……!」
苦しそうに息を吸う。
「頑張ってるもん……っ」
その声で、
昂汰の胸が強く詰まる。
詩は泣きながら、
何度も首を振った。
「迷惑かけないようにって……」
「ちゃんと、できるようにって……」
「いっぱい気をつけてるのに……」
声が崩れる。
「上手くいかない……っ」
昂汰が言葉を失う。
詩は、
子どもみたいに泣いていた。
「昂汰さんの邪魔したくない……」
「ちゃんとしたかった……」
「結婚したからダメになったって、思われたくない……っ」
そこで、
昂汰の中の熱が一気に冷える。
ああ。
そういうことか。
ずっと怖かったんだ。
自分が、
俺の足を引っ張る存在になることが。
昂汰はゆっくり息を吐く。
責めたかったわけじゃない。
怖かっただけだ。
また失うかもしれないのが。
でも、
詩にはそれが
“責められてる”に聞こえた。
頑張ってるのに、
足りないって言われたみたいに。
静かにしゃがみ込む。
泣き続ける詩の前で、
しばらく何も言えなかった。
それから、
熱い額にそっと触れる。
「……ごめん」
今度は、
昂汰の方だった。
詩が小さく肩を震わせる。
昂汰はそのまま、
額を寄せる。
「俺、お前に元気でいてほしくて言うてんねん」
掠れた声。
「でも」
「お前は、“ちゃんとしてたい”んやな」
詩が泣きながら頷く。
昂汰は目を閉じた。
その頑張りを、
否定したかったわけじゃない。
でも。
「……頼むから」
「壊れるまで頑張んなや」
その声は、
怒りじゃなく、
ほとんど懇願だった。
詩はもう、止まらなかった。
声を出して泣くというより、
呼吸が追いつかないまま崩れていく感じだった。
「……っ、う、ぅ……」
しゃくり上げるたびに、
肩が大きく跳ねる。
涙は止まらない。
昂汰は一瞬どうしていいか分からず、
ただ詩の背中に手を置いた。
「……詩、落ち着こ」
声はできるだけ低く、柔らかく。
「ごめんな、俺が悪かった」
背中をゆっくり撫でる。
でも詩は首を振る。
「ごめっ……ごめんなさ……っ」
「謝らんでええって」
即答する。
その瞬間、
詩の呼吸がひっかかった。
「っ、……」
昂汰の手が止まる。
嫌な音。
浅い。
速い。
さっきより軽いはずなのに、
明らかに“崩れ始めてる呼吸”。
「……待って」
昂汰の声が少し変わる。
詩は泣きながら、
必死に息を吸おうとしている。
でもうまくいかない。
「詩」
呼びかけても返事がない。
目が合わない。
呼吸だけが乱れていく。
「おい、落ち着け」
思わず声が強くなる。
その直後、
自分でも気づく。
これ、あかんやつや。
一気に血の気が引く。
「……頼む」
声が掠れる。
「落ち着いてくれ」
詩の肩を支える手が震えている。
「大丈夫や」
「大丈夫やから」
何を根拠に言ってるのか分からないまま、
同じ言葉を繰り返す。
詩は泣き続けている。
呼吸が浅いまま、
途切れ途切れに崩れていく。
やめろ。
やめてくれ。
「詩……っ」
声が少し震える。
「ほんま頼むって」
背中をさすりながら、
必死にリズムを作る。
ゆっくり。
一緒に。
吸って。
吐いて。
「一緒にやろ」
「吸う」
「吐く」
言葉を落とすたびに、
自分の心臓も追いつかない。
詩はまだ泣いている。
でも、
昂汰の声に合わせるように、
ほんの少しだけ呼吸が揺れ始める。
「……そう」
「それでええ」
昂汰の声がかすれる。
「ええから……落ち着こな」
ようやく、
ほんの少しだけ。
詩の呼吸が戻り始める。
それでも涙は止まらない。
そのまま、
背中を撫で続けた。
安心させたいのに、
自分の手が一番震えていた。
泣き続けていた詩は、途中で力が抜けるみたいに呼吸を落とした。
しゃくり上げが小さくなって、
やがて途切れる。
昂汰が名前を呼んでも、もう返事はない。
「……詩?」
肩を軽く揺らす。
反応はない。
少しだけ間を置いて、
やっと気づく。
寝落ちしてる。
一瞬だけ固まってから、
大きく息を吐いた。
「……よかった」
安心と、まだ残ってる緊張が同時に来る。
ゆっくり抱き上げると、
思ったより軽かった。
熱はまだある。
頬は赤いまま。
呼吸は、さっきよりは落ち着いている。
それでも、
離す気にはなれなかった。
ベッドに横たえながら、
そのまま自分の腕の中に残した。
「……寝てるだけやんな」
小さく確認するみたいに呟く。
返事はない。
当然なのに、
それでも何度も見てしまう。
胸に顔があるか。
呼吸はあるか。
肩は動いてるか。
少しでも変わると、
すぐに手が止まる。
「……大丈夫やんな」
誰に言うでもなく、
何度も繰り返す。
夜中。
昂汰は一度目を覚ます。
腕の中が軽い気がして、
反射的に手を動かす。
詩はそこにいる。
でも、
確認する。
ちゃんと呼吸してるか。
ゆっくり、浅く上下している。
「……あかん」
小さく息を吐く。
自分でも笑えるくらい、
落ち着いていない。
もう一度、腕を回す。
少し強く抱き直す。
今度は離れないように。
それでもまた、
数時間後に目が覚める。
今度は汗。
熱のせいか、
少し額が濡れている。
すぐに手を当てる。
熱すぎない。
まだ大丈夫。
「……お前な」
眠っている詩に向かって、
小さく文句みたいに言う。
「心配させんなや」
当然、返事はない。
それでも、
少しだけ呼吸が落ち着いた気がした。
夜が進むたびに、
昂汰は何度も目を覚ます。
そのたびに確認して、
そのたびに安心して、
そのたびにまた不安になる。
でも腕はずっと離さなかった。
離したら、
またどこかへ行ってしまいそうで。
朝が近づく頃。
ようやく少しだけ、
昂汰の目の力が抜ける。
詩はまだそこにいる。
同じ呼吸で、
同じ温度で。
その額に、軽く触れた。
「……もうちょい、寝とけ」
やっと、
少しだけ眠れそうな声だった。
朝の光が、カーテンの隙間から細く差していた。
詩は目を開けて、まず状況を理解するのに数秒かかった。
あったかい。
動けない。
……というか、腕の中。
「……っ」
一気に記憶が戻る。
昨夜の自分。
泣いた。
止まらなかった。
息できなかった。
途中で寝た。
(……最悪)
体の中が一瞬で熱くなる。
そっと腕から抜けようとした瞬間、
背中に軽く力が入った。
「どこ行くん」
起きてる声だった。
昂汰の方が早い。
「……ちょ、ちょっと……」
言葉が弱い。
詩はもう一度抜け出そうとするけど、
今度ははっきり止められる。
「待て待て」
昂汰の手が額に触れる。
そのまま、当たり前みたいに体温を確認される。
「熱……まだちょいあるな」
「え、もう大丈夫です……!」
即答するけど、
声が裏返る。
「大丈夫なわけないやろ」
淡々とした返し。
詩はそこでさらに恥ずかしくなる。
目が重い。
泣いた跡で腫れてるのが分かる。
顔を見られたくない。
「……見ないでください」
小さく言う。
「無理」
即答。
詩の心が折れる。
「なんでですか……」
「体調確認や」
理屈が強い。
詩は言い返せない。
でも恥ずかしさだけが限界で、
腕の中でもぞもぞ動く。
「やだ……ほんとにやだ……」
小声で抗議する。
昂汰はため息をひとつついて、
でも離さない。
「やだって言えるくらいは元気やな」
「それはそうですけど!」
完全に墓穴。
その瞬間、
詩はもう耐えきれなくなる。
顔を隠す場所がない。
腕の中に、
そのまま潜り込む。
「……無理……」
くぐもった声。
その胸の中に、
小さく丸まる。
それを見て昂汰が少しだけ笑う。
「お前…隠れてるつもりかそれ」
詩は返事しない。
でも動かない。
そのまま固まる。
昂汰は背中を軽く撫でる。
「まぁええわ」
「…って言うか、さっきからなんで敬語」
少しだけ間があってから、
「ま、ええか…」
その言い方が、妙に優しかった。
詩は顔を上げないまま、
小さく息を吐く。
まだ恥ずかしい。
でも、
離れたいわけじゃないのも分かってしまって。
結局そのまま、
しばらく腕の中から出られなかった。
詩は、まだ昂汰の腕の中にいた。
顔は隠したまま。
動かない。
でも、さっきよりは呼吸が落ち着いている。
昂汰はその頭を見下ろして、
少しだけ力を抜いた。
(……ほんまに)
朝の光がカーテンの隙間から落ちて、
詩の髪に薄く色をつけている。
腕の中にいるのに、
どこか頼りなくて、
でもちゃんとそこにいる。
逃げへんように抱えてるはずやのに、
逆にこっちが離せなくなってる。
「……なぁ」
小さく声を落とす。
返事はない。
分かってる。
今は出てこれない。
昂汰は少しだけ苦笑した。
(ほんま厄介やな)
思い通りにしたいわけじゃない。
言うこと聞かせたいわけでもない。
ただ——
離れられる方が、無理や。
腕の中の温度が、
やけに現実的で、
やけに柔らかい。
ちょっと力を入れれば、
すぐ壊れそうなくせに、
ちゃんと自分の意思でここにいる。
逃げるときは、
何も言わずに消えるのに。
戻ってきたら、
こんな顔で隠れる。
「……ほんま」
息を吐く。
笑いたいのに、
笑いきれへん。
(可愛すぎんねん)
その一言が、
頭の中だけで重く残る。
詩はまだ動かない。
でも、昂汰の指先に、
ほんの少しだけ反応が返る。
無意識に、
袖をつかんでる。
それだけで、
胸の奥が妙に熱くなる。
(あかんわ、これ)
思い通りにならない。
弱いし、頑固やし、
ちゃんとしようとして勝手に潰れる。
放っておいたら壊れそうやのに、
縛ろうとしたら逃げそうになる。
どっちにもできへん。
けど——
「……離せる気、せん」
小さく呟く。
誰にでもなく。
腕の中の詩にだけ聞こえる声で。
詩は相変わらず顔を上げない。
でも、そのまま、少しだけ肩の力が抜けた。
昂汰はそれを感じて、
また少しだけ苦笑する。
(手ぇかかるわ、ほんま)
でも。
その“手ぇかかる”が、
どうしようもなく愛おしいと思ってしまっている自分に、
今さら気づいてしまう。
離れられる未来より、
一緒に困る未来の方が、
もう普通になっている。
詩を抱え直して、
ゆっくり息を吐いた。
「……まぁええか」
誰にも聞かれへん声で。
「これで」
腕の中の詩は、
まだ小さく隠れたまま。
でももう、
逃がす気はなかった。




