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偶然の測り方

作者: 傘木 晴
掲載日:2026/02/15


「傘、持ってますか?」



図書館の閲覧室で、隣の席の人にそう声をかけられた。

急だったので、しばらく何のことかわからなかった。


「え、ああ……持ってないです」


窓の外はいつの間にか雨だった。細かい雨粒がガラスに張りついている。


「困りましたね」


「あなたも?」


「ええ」彼女は窓の外を見た。

「でも私の場合、傘を持っていても忘れて帰る確率が87パーセントなので、同じことです」


「随分と具体的な数字ですね」


「十三回のうち十一回、忘れました」彼女は真顔で言った。


「統計です」


雨は降り続けていた。僕たちは二時間、図書館で雨宿りをした。その間、彼女は一度も僕の方を見なかった。ただ、ときどき独り言のように話した。


「雨粒が地面に落ちる確率は百パーセントですが、特定の雨粒が特定の人の頭に落ちる確率は、ほぼゼロに等しい」


「だから?」


「だから、濡れることを恐れる必要はないんです。濡れるのは運命じゃなくて、ただの偶然ですから。」


「それで傘を忘れるんですか」


「いいえ」彼女は初めて僕を見た。「多分、無意識に置いてくるんです。」


「理由は?」


「傘を差すと、雨の音が聞こえなくなるから。嫌いなんです、それが。」


僕たちは結局、雨の中を走って駅まで行った。彼女は笑っていた。何がそんなに面白いのかはわからなかった。




二度目に会ったのは、一週間後の本屋だった。


「あ」彼女が言った。「雨の人だ」


「雨は降ってませんよ、今日は」


「そうですね」彼女は手に持っていた本を見せた。『偶然の数学』というタイトルだった。


「これ、面白いですよ。偶然というのは、実は偶然じゃないという話です」


「矛盾してませんか」


「矛盾してます。だから面白いんです」


僕たちはコーヒーショップに入った。彼女はブラックコーヒーを三杯も飲んだ。


「あなた、質問に答えるとき、いつも即答しますね」


「考える時間がもったいないから」


「でも、即答って何かずるくないですか?」


「なぜです」


「考えてないみたいに見えるから」


「あなたは統計が好きなんですか」


「嫌いです」彼女は笑った。「でも、使わないと不安なんです。数字がないと、世界が曖昧すぎて」


「曖昧で何が悪いんです」


「悪くはないです。ただ、怖いだけ」

窓の外では、また雨が降り始めていた。





三度目は映画館だった。上映が始まる五分前、僕の隣の席に彼女が座った。


「またですね」僕は言った。


「偶然は三回続くと、もう偶然じゃないらしいです」


「じゃあ何です」


「運命、とか?」彼女は首を傾げた。

「でも私、運命なんて信じてません」


「じゃあこれは?」


「ただの確率です。この街には二十万人住んでいて、映画館は五つ。このスクリーンの席数は百二十。計算すれば、私たちが隣に座る確率は……」


「いくつです?」


「低いけど、ゼロじゃない」


映画が始まった。途中、彼女は二回泣いた。エンドロールが流れるとき、彼女は言った。


「この映画、嘘ばっかりですね」


「どこが」


「運命の出会いとか。計算された脚本の中の出来事を、運命とは言わないでしょう」


「じゃあ僕たちは?」


彼女は少し黙った。



「計算外、かな」





四度目、五度目、六度目。僕たちは会い続けた。いつも偶然で、いつも雨が降っていた。

ある日、彼女が言った。


「私たち、付き合ってるんですか」


「さあ」僕は答えた。「統計を取ってないので」


「そうですね」彼女は笑った。「サンプル数が足りません」


「何回会えば、恋だと言えるんでしょう」


「知りません。でも、会いたいと思う確率が百パーセントになったら、それは何かが変わった証拠です」


「今は?」


「99.7パーセント」


「残りの0.3は?」


「怖いんです」彼女は窓の外を見た。


「確率って、未来を予測するための道具じゃないですか。でも恋って、予測できない方がいいような気がして」


僕は何も言わなかった。





七度目に会ったとき、雨は降っていなかった。


「珍しいですね」彼女が言った。


「何が」


「雨が降ってない」


「そうですね」


僕たちは河原を歩いた。夕暮れが近づいていた。

「ねえ」彼女が立ち止まった。「質問していいですか」


「どうぞ」


「私のこと、好きですか」

僕は即答しなかった。三秒、沈黙があった。

「わかりません」彼女は笑った。


「初めてですね、即答しなかったの」

「答えが見つからなくて」

「いいんです」彼女は歩き始めた。「私も、自分の気持ちが恋なのか、ただの習慣なのか、区別がつきません」

「区別する必要があるんですか」

「ないかもしれません」彼女は空を見上げた。


空が赤く染まっていた。僕たちはしばらく黙って歩いた。


雨が降り始めた。


彼女は立ち止まって、目を閉じた。


「聞こえますか」

「何が」

「雨の音」

「ええ」

「私、この音が好きなんです」彼女は目を閉じたまま言った。

「不規則で、パターンがなくて、予測できない。統計が取れない」


「だから好きなんですか」


「怖いんです、本当は」

 彼女は目を開けた。「でも、聞いていると安心するんです。世界には、数字で測れないものがあるって思えるから」


僕は何も言わなかった。


「あなたも、そうなんです」彼女が続けた。

「僕も?」

「数字で測れない。会う確率を計算しても、好きになる理由を分析しても、わからない。怖いけど、それが……」


彼女は言葉を切った。


「それが?」

「それが、雨の音みたいで」


僕たちは立ち止まったまま、雨に打たれていた。


「これ、恋ですかね」彼女が訊いた。

「統計を取ってないので、わかりません」

「そうですね」


彼女は笑った。僕も笑った。


雨の音だけが、答えのない質問を、静かに洗い流していった。






それから僕たちは会わなくなった。偶然は、七回目で途切れた。

ある日、図書館で『偶然の数学』を見つけた。ページを開くと、しおりが挟まっていた。そこにはこう書いてあった。


「偶然が七回続いたら、それは偶然じゃない。でも、次に雨が降ったら、また教えてください。雨の音を、一緒に聞きたい」


しおりは少し波打っていた。


結局、僕はその本を借りなかった。


今日も、窓の外では、雨が降っている。


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