偶然の測り方
「傘、持ってますか?」
図書館の閲覧室で、隣の席の人にそう声をかけられた。
急だったので、しばらく何のことかわからなかった。
「え、ああ……持ってないです」
窓の外はいつの間にか雨だった。細かい雨粒がガラスに張りついている。
「困りましたね」
「あなたも?」
「ええ」彼女は窓の外を見た。
「でも私の場合、傘を持っていても忘れて帰る確率が87パーセントなので、同じことです」
「随分と具体的な数字ですね」
「十三回のうち十一回、忘れました」彼女は真顔で言った。
「統計です」
雨は降り続けていた。僕たちは二時間、図書館で雨宿りをした。その間、彼女は一度も僕の方を見なかった。ただ、ときどき独り言のように話した。
「雨粒が地面に落ちる確率は百パーセントですが、特定の雨粒が特定の人の頭に落ちる確率は、ほぼゼロに等しい」
「だから?」
「だから、濡れることを恐れる必要はないんです。濡れるのは運命じゃなくて、ただの偶然ですから。」
「それで傘を忘れるんですか」
「いいえ」彼女は初めて僕を見た。「多分、無意識に置いてくるんです。」
「理由は?」
「傘を差すと、雨の音が聞こえなくなるから。嫌いなんです、それが。」
僕たちは結局、雨の中を走って駅まで行った。彼女は笑っていた。何がそんなに面白いのかはわからなかった。
二度目に会ったのは、一週間後の本屋だった。
「あ」彼女が言った。「雨の人だ」
「雨は降ってませんよ、今日は」
「そうですね」彼女は手に持っていた本を見せた。『偶然の数学』というタイトルだった。
「これ、面白いですよ。偶然というのは、実は偶然じゃないという話です」
「矛盾してませんか」
「矛盾してます。だから面白いんです」
僕たちはコーヒーショップに入った。彼女はブラックコーヒーを三杯も飲んだ。
「あなた、質問に答えるとき、いつも即答しますね」
「考える時間がもったいないから」
「でも、即答って何かずるくないですか?」
「なぜです」
「考えてないみたいに見えるから」
「あなたは統計が好きなんですか」
「嫌いです」彼女は笑った。「でも、使わないと不安なんです。数字がないと、世界が曖昧すぎて」
「曖昧で何が悪いんです」
「悪くはないです。ただ、怖いだけ」
窓の外では、また雨が降り始めていた。
三度目は映画館だった。上映が始まる五分前、僕の隣の席に彼女が座った。
「またですね」僕は言った。
「偶然は三回続くと、もう偶然じゃないらしいです」
「じゃあ何です」
「運命、とか?」彼女は首を傾げた。
「でも私、運命なんて信じてません」
「じゃあこれは?」
「ただの確率です。この街には二十万人住んでいて、映画館は五つ。このスクリーンの席数は百二十。計算すれば、私たちが隣に座る確率は……」
「いくつです?」
「低いけど、ゼロじゃない」
映画が始まった。途中、彼女は二回泣いた。エンドロールが流れるとき、彼女は言った。
「この映画、嘘ばっかりですね」
「どこが」
「運命の出会いとか。計算された脚本の中の出来事を、運命とは言わないでしょう」
「じゃあ僕たちは?」
彼女は少し黙った。
「計算外、かな」
四度目、五度目、六度目。僕たちは会い続けた。いつも偶然で、いつも雨が降っていた。
ある日、彼女が言った。
「私たち、付き合ってるんですか」
「さあ」僕は答えた。「統計を取ってないので」
「そうですね」彼女は笑った。「サンプル数が足りません」
「何回会えば、恋だと言えるんでしょう」
「知りません。でも、会いたいと思う確率が百パーセントになったら、それは何かが変わった証拠です」
「今は?」
「99.7パーセント」
「残りの0.3は?」
「怖いんです」彼女は窓の外を見た。
「確率って、未来を予測するための道具じゃないですか。でも恋って、予測できない方がいいような気がして」
僕は何も言わなかった。
七度目に会ったとき、雨は降っていなかった。
「珍しいですね」彼女が言った。
「何が」
「雨が降ってない」
「そうですね」
僕たちは河原を歩いた。夕暮れが近づいていた。
「ねえ」彼女が立ち止まった。「質問していいですか」
「どうぞ」
「私のこと、好きですか」
僕は即答しなかった。三秒、沈黙があった。
「わかりません」彼女は笑った。
「初めてですね、即答しなかったの」
「答えが見つからなくて」
「いいんです」彼女は歩き始めた。「私も、自分の気持ちが恋なのか、ただの習慣なのか、区別がつきません」
「区別する必要があるんですか」
「ないかもしれません」彼女は空を見上げた。
空が赤く染まっていた。僕たちはしばらく黙って歩いた。
雨が降り始めた。
彼女は立ち止まって、目を閉じた。
「聞こえますか」
「何が」
「雨の音」
「ええ」
「私、この音が好きなんです」彼女は目を閉じたまま言った。
「不規則で、パターンがなくて、予測できない。統計が取れない」
「だから好きなんですか」
「怖いんです、本当は」
彼女は目を開けた。「でも、聞いていると安心するんです。世界には、数字で測れないものがあるって思えるから」
僕は何も言わなかった。
「あなたも、そうなんです」彼女が続けた。
「僕も?」
「数字で測れない。会う確率を計算しても、好きになる理由を分析しても、わからない。怖いけど、それが……」
彼女は言葉を切った。
「それが?」
「それが、雨の音みたいで」
僕たちは立ち止まったまま、雨に打たれていた。
「これ、恋ですかね」彼女が訊いた。
「統計を取ってないので、わかりません」
「そうですね」
彼女は笑った。僕も笑った。
雨の音だけが、答えのない質問を、静かに洗い流していった。
それから僕たちは会わなくなった。偶然は、七回目で途切れた。
ある日、図書館で『偶然の数学』を見つけた。ページを開くと、しおりが挟まっていた。そこにはこう書いてあった。
「偶然が七回続いたら、それは偶然じゃない。でも、次に雨が降ったら、また教えてください。雨の音を、一緒に聞きたい」
しおりは少し波打っていた。
結局、僕はその本を借りなかった。
今日も、窓の外では、雨が降っている。




